霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第二章 信仰の堕落

インフォメーション
題名:第2章 信仰の堕落 著者:出口王仁三郎
ページ:134 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B121801c22
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正6年2月1日号(第44号) > 信仰の堕落
   (一)
 基督(きりすと)教は、現時、欧米各国五億五千万人の精神を支配する宗教である。過去二千年来の惰カ(だりよく)で、人心の根底に深く浸潤し、牢乎(ろうこ)として抜くべからざる(がい)がある。無論、今の西洋文明には希臘(ぎりしや)羅馬(ろうま)の思想が余程加味されて居るが、基督教の影響は更に有力で、更に深遠である。法律も、政治も、風俗も、習慣も、文芸美術も、(その)他社会万般の事々物々、一として(これ)と没交渉なる事は出来ない。
 近世に()ける国家と教会との関係は、余程薄らいだように見受けられるが、それでも帝王の即位式には、(その)王冠をば誰が捧げるかと言えば、基督教の僧侶が行うではないか。ラファエルの絵画、ダンテの『神曲(しんきよく)』、ミルトンの『失楽園(しつらくえん)』等は、世界を動かすに足る美術文芸ではあるが、基督教の精神を会得(えとく)せざる者には、其趣味を充分理会(りかい)翫味(がんみ)する事が出来ないではないか。(また)何の為めの安息日(あんそくび)か、何の為めのクリスマスか、何の為めの復活祭か、基督教を知らぬ者には、到底欧米の風俗習慣を理会する事は出来まい。やれ赤十字、やれ宗教戦争、やれ新旧二派の(あらそ)()督教を知らぬ者には、欧米の歴史は何の事やら分らない。(しか)(しこう)して、(この)基督教の本源は(いず)れに()るかと言えば、他でもない猶太教である。
 イスラエル民族は、由来憫(ゆらいあわれ)むべき民族で、団結力の鞏固(きようこ)ならざる十二支族より成り、しぱしば分裂瓦解し、軍隊は国の独立を保つ(あた)わず、法律は国の平和を保つ能わず、(その)結果、神に(すが)って保護を求め、救済を願った。其惨状は実に目も当てられざるものであったので、(したが)って宗教意識も非常に強烈を極めた。これが猶太(ゆだや)教の出来た根本理由である。()お其前後の状況を考うるに、当時猶太(ゆだや)民族は、バビロン、エジプト、ギリシャ等の諸国の為めに取り囲まれて居たのであるが、是等(これら)の諸国は、皆多神教を奉じて居た。多神教徒は種々雑多の神々に奉事(ほうじ)する結果、其信仰は概して動揺不安定に流れ、一心不乱の堅固なる信仰に入る事が出来ない。かかる周囲の状態の(もと)にありて、モーゼがシナイ山頂でエホバの神から一神教的の訓戒を受けたと言って、(これ)を其同族に伝えたのは、民族自衛の点から極めて必要の事であったに相違ない。(この)信仰は周囲の圧迫が激烈なるに()れて(ますます)々強烈に(おもむ)いた。神の(くだ)したと称する戒律が峻刻(しゆんこく)を極めたものであった事が、これが(また)他面に於て信仰を強烈ならしむるのに(あずか)つて(おおい)に力あった。其戒律中にば()ういう事が言うてある。
汝我面(なんじわが)前に、我の(ほか)何物をも神とすべからず」。
「汝、自己の為めに何の偶像をも(きざ)むべからず」。
「又(かみ)は天にあるもの、(しも)は地にあるもの、ならびに地の下の水の中にあるもの、何の形状をも作るべからず。(これ)(おが)むべからず。之に(つか)うべからず。われエホバ、(なんじ)の神は(ねた)む神なれば、我をにくむものに向いては、父の罪を児にむくいて三、四(だい)に及ぼし、我を愛し我が(いましめ)を守る者には、(めぐみ)を施して十代に至らんなり」。
一寸(ちよつと)考うれば、中々面白い。真の神は宇宙に只一柱(ただひとはしら)より(ほか)に無いという一面の真理だけは、よく表われて居る。又モーゼは、独り此戒(このいましめ)(その)同族に示したばかりでなく、世界人類一般に示したものの(よう)である。(しか)(なが)ら、(ここ)に出る所の「神諭」は、全大宇宙主宰の神の神示としては、余りに偏狭に傾いて居るように見受けられる。
 「エホバ」と唱える名称は、いかなる神を指すのか。一部の人士には分りにくく、中には単に外国の神のように思って、余所事(よそごと)に聞き流すもあろうが、「エホバ」というはヘブルー語で、昔も()り、今も在り、又将来も在る所の根本の神、「宇宙の本体」という意義である。して見れば、取りも(なお)さず日本民族が、太古に於て天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とたたえた神を()すに(ほか)ならぬので、我等が為めには、極めて大切な国祖である事が(わか)るのである。只此神の神徳の説き方が、甚だ人為的で不備偏狭を免れぬという欠点があるのである。
   (二)
 前段()ぶるが如く、我が天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)のことを、アブラハムも、モーゼも、(その)他すべてのイスラエル人も、エホバと(あが)(とな)えたらしいが、天御中主神は、全霊界統治の神であると同時に、全現界統治の神である。独りイスラエル民族が専有すべき神でなく、実に又、我日本統治の神であり、各個人の保護の神である。かかるが(ゆえ)に、かの神の(くだ)したと称する戒律は、よしや人為的、偏狭不備の臭味を脱せぬにしても、其裡(そのうち)には、幾分神意の伏在するものが無いではない。吾々(われわれ)とても、単に異邦の事、シナイ山嶺(さんれい)の事と聞き流す(わけ)には行かない。神の誠の声の一部が、幾分吾々の耳底(じてい)にも響く感がするのである。
 わが『古事記』には、宇宙開闢(かいびやく)の第一の神様として、天御中主神の御名を出してあるが、其広大無辺の神徳、その全智全能の神性をば、(ごう)も録して無いから、誰一人として(この)神の明瞭(めいりよう)なる観念を()たなかった。(もつと)も此神の神徳は余りに大きく、到底筆舌を(もつ)て言い尽し得ぬものであるから、神典にも、単に御名(みな)(たた)えたに(とど)めたのであろう。わざと書かぬのでなく、書き得なかったのである。
 天御中主神の神徳は、空間的に()れば広大無辺である。時間的に()れば永劫不滅(えいごうふめつ)である。其神性は不変不易(ふえき)であると共に、其神業は千変万化して窮極がない。其まします所は、極めて近くして、又極めて遠く、とても人心小智の窺知(きち)すべき限りでない。
 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、第一着手として、理想世界を造営せらるるが為めに、第二位の神と成って顕現された。これが霊系の祖神高皇産霊神である。この理想世界は即ち神霊界で、無論凡眼の観る能わざる所、凡智の察する能わざる所である。ただ霊眼、霊智を以て(これ)にのぞめば、天分に応じて程度の大小高下はあるが、(その)一端を窺知(きち)せしめられる。次ぎに天御中主神は、第三位の神となって顕現し、物質世界を造営された。これが体系の祖神神皇産霊神(かみむすびのかみ)である。『創世記』には、神を称するに単に「エホバ」とのみは言わず、「エロヒム」の語を用いて居る。エロヒムは即ち神々という事で、根源は一神だが、幾種にも顕現するから、この複数の語が必要なのである。
   (三)
 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、三種の顕現を以て、先ず其神徳を発揮されたが、無限の神徳は、無論このような簡単な事で顕わし切れるものでない。そこで此大天地鎔造の神は、ミタマを分けて、随所随時に顕現して、次第に複雑完備の域に進ましめられたが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の時に至って理想世界は完成した。次ぎに、此理想世界の姿を、地上に写し(いだ)すが為めに、天孫瓊々岐命(てんそんににぎのみこと)を日本国に(くだ)して地上の主宰者の地位を確定し、同時に神子神孫を世界万国に降して、(これ)を経営せしめられた。
 往時の偏狭固陋(ころう)な国学者などは、、此日本ばかりが神国のように考えて居た。これはイスラエル民族どもが、自分ばかりが神の選民であると思惟(しい)し、エホバの神はイスラエルばかりを守護するように考えたのと同じような僻見(へきけん)と言わねばならぬ。そういう片贔負(かたひいき)をする神様ならば、(すべか)らく世界の戸籍から除名して仕舞うべきである。『古事記』には、「神皇産霊(かみむすびの)神が少彦名命(すくなひこなのみこと)(つか)わして、常世の国を経営せしめた」と記載されて居るではないか。常世国(とこよのくに)は外国である。神の眼からは、日本もない、外国もない。只各国をして、其天賦(そのてんぷ)の職責性能を発揮せしめんとせらるるのみである。
 (この)世界経営の神業は、今日とても依然として継続されて居る。この後とても(その)通りだ。であるから、天御中主神の神徳を知ろうと思えば、日本神代史(じんだいし)の研究は勿論(もちろん)の事、希臘(ぎりしや)羅馬(ろうま)の神話も、基督(きりすと)教も、回々(ふいふい)教も、婆羅門(ばらもん)教も、支那(しな)(どう)教も、(じゆ)教も、西洋の諸学術も、(ことごと)調(しら)べて見て、そして造化の宝蔵(ほうぞう)(たた)いて見ねばならぬ。無論これは、一人や十人では出来ない。一宗派、一専門の士では不足だ。(いやし)くも霊智霊能あるもの、誠心誠意あるものの全部が、総懸(そうがか)りで取懸(とりかか)らねばならぬ問題である。それ(だけ)努力討究しても、()(わずか)に神の大業の百千万億分の一を想見する事しか出来ぬのである。
   (四)
 (しか)るに、現代の日本国民の、神霊に()いての知識及び信仰の程度は如何(いかん)。神代史の知識を全然欠如し、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の神徳を知らぬものの多きは勿論、第二流、第三流の神さまさえさしおきて、種々雑多の低級の神々ばかり拝んで居るものが多い。これでは、日本は浅ましい迷信教国と言われても仕方がない。さもなければ、浅薄愚劣な無神論に()して、半可通(はんかつう)の新知識を振りまわして居る。どちらにしても困り者である。
 ギリシヤの信仰なども、随分堕落して居た。ギリシヤの神々は、森の中や、山の上や、谷や、野原に於て、よく血を流して闘ったり、(しのぎ)を削って争ったりした様であるが、敵を殺したり、欺いたりするという事は、神の神たる所以(ゆえん)の尊厳を汚すもの、遂に(いくさ)に敗北して仕舞って、敵に降参するに至っては、誠にもって言語道断である。神話と軍談とを取違えて、「希臘(ぎりしや)の神話は詩趣が饒多(じようた)である」などというは、誠に片腹痛き癡人(ちじん)寝語(ねごと)である。
 日本も余り大きな顔は出来ない。地方に行って見ると、あちらにもこちらにも、()稲荷(いなり)(ほこら)があるが、其所(そこ)には(きつね)が祭ってある。何故(なぜ)狐を祭るかというに、「稲荷は『ミケツカミ』である。『ミケツカミ』は三狐神である。(ゆえ)に狐を此処(ここ)に祭るのだ」というに至っては、信仰の堕落の極点で、折角の宗教は道徳性を失い、(かえつ)て不道徳の道具となって仕舞う。赤飯をたいて、油揚をあげて、余計な鳥居をいくつも建てて、それで御利益(ごりやく)の強要をする。近来は、地方ばかりでなく、東京のお膝元まで其風(そのふう)蔓延(まんえん)し、相場師、投機商、少し山気(やまけ)のある商人は、よく羽田の穴守(あなもり)稲荷などへ出掛ける。わけて芸者、芸人などという連中の所謂(いわゆる)信心は、すさまじいものだ。「其目的は那辺にあるか」ときいて見ると、狐の魔術的保護によりて、客をたらかし、相手を(だま)すためだという。誠に噴飯の至りである。
 実を言えば、稲荷の神は「飯成(いいなり)の神」という事で、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)である。(すなわ)ちこの神は、豊受神(とようけのかみ)で、五穀の生育を(つかさど)り、万民の食物の源を養う神様であるから、又の名を「御膳津神(みけつかみ)」というのである。とりも直さず、豊受神は、造化の第三位の神から(つか)わされた物質世界の神なのである。天照大神(あまてらすおおかみ)は造化の第二位の神から(つかわ)された理想世界の統治の神である。豊受神は物質世界の住民に食物を恵みて、そして天照大神の神業を助くるのである。さればこそ、この二柱の姫神は、内外(ないがい)両宮に祭られて、万民の信仰の中心となって居る。
 日本の「創世記」によれば、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)はエホバであるが、(その)神徳は隠れて見えない。樹木に(たと)うれば、地中に隠れたる根の如きものである。この根はやがて地上に顕現して、第二位、第三位の神と成った。第二位の神は即ち(みき)である、枝であるから、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の事を「高木(たかぎ)の神」と()い、又「カンロギの(みこと)」という。次ぎに第三位の神は花である、実であるから、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の事を又「カンロミの(みこと)」という。又「産霊(むすび)」ということは、即ち「ムスブ」の義である。第二位の神は理想を結んで、(これ)天照大神(あまてらすおおかみ)(ゆだ)ね、第三位の神は物質を結んで、之を豊受大神(とようけおおかみ)(たく)したのである。
 かの万有神教というのは、物質的有形庶物(しよぶつ)を祭る所の宗教である。動物、植物、鉱物、山川、森林等を、そのまま神として祭る所の宗教である。かく「自然の個物」を崇拝すると、勢い肉欲的、物質的に堕落する。又かの偶像崇拝というのは、「抽象的概念」を神として拝むものである。抽象的概念には形が無いから、勢い之を現すに偶像を用いる。仁王(におう)や、帝釈天(たいしやくてん)や、毘沙門天(びしやもんてん)や、比々(ひひ)として(みな)抽象的概念の具象的表現である。近代の科学に用うる名称とて、外形こそ異なれ、其真相に(おい)ては(あえ)て変りはない。エネルギー、エーテル、引力、潜在意識等、偶像ではないが、気のきいた偶像の代理である。かかるものは人間の作ったもので、(ひとつ)の心理作用に(ほか)ならぬから、到底信仰をつなぐ力はない。
 吾々(われわれ)は、どうあっても(この)国民信仰の堕落を(すく)わねばならぬ。健全なる信仰を復活せしめ、やがて世界の宗教統一を実現すべき使命は、どうあっても、(わが)日本に()らねばならぬ。目下は(まさ)にその(とき)である。最早(もはや)一日を延べる事は出来ぬ。世の有識者の奮起を望む。
(「神霊界」大正六年二月号)

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