霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
目 次設 定
設定
印刷用画面を開く [?]プリント専用のシンプルな画面が開きます。文章の途中から印刷したい場合は、文頭にしたい位置のアンカーをクリックしてから開いて下さい。[×閉じる]
テキストのタイプ [?]ルビを表示させたまま文字列を選択してコピー&ペーストすると、ブラウザによってはルビも一緒にコピーされてしまい、ブログ等に引用するのに手間がかかります。そんな時には「コピー用のテキスト」に変更して下さい。ルビも脚注もない、ベタなテキストが表示され、きれいにコピーできます。[×閉じる]

文字サイズ
フォント

ルビの表示



アンカーの表示 [?]本文中に挿入している3~4桁の数字がアンカーです。原則として句読点ごとに付けており、標準設定では本文の左端に表示させています。クリックするとその位置から表示されます(URLの#の後ろに付ける場合は数字の頭に「a」を付けて下さい)。長いテキストをスクロールさせながら読んでいると、どこまで読んだのか分からなくなってしまう時がありますが、読んでいる位置を知るための目安にして下さい。目障りな場合は「表示しない」設定にして下さい。[×閉じる]


宣伝歌 [?]宣伝歌など七五調の歌は、底本ではたいてい二段組でレイアウトされています。しかしブラウザで読む場合には、二段組だと読みづらいので、標準設定では一段組に変更して(ただし二段目は分かるように一文字下げて)表示しています。お好みよって二段組に変更して下さい。[×閉じる]
脚注 [?][※]や[#]で括られている文字は当サイトで独自に付けた脚注です。まだ少ししか付いていませんが、目障りな場合は「表示しない」設定に変えて下さい。ただし[#]は重要な注記なので表示を消すことは出来ません。[×閉じる]


文字の色
背景の色
ルビの色
傍点の色 [?]底本で傍点(圏点)が付いている文字は、『霊界物語ネット』では太字で表示されますが、その色を変えます。[×閉じる]
外字1の色 [?]この設定は現在使われておりません。[×閉じる]
外字2の色 [?]文字がフォントに存在せず、画像を使っている場合がありますが、その画像の周囲の色を変えます。[×閉じる]

  

表示がおかしくなったらリロードしたり、クッキーを削除してみて下さい。


マーキングパネル
設定パネルで「全てのアンカーを表示」させてアンカーをクリックして下さい。

【引数の設定例】 &mky=a010-a021a034  アンカー010から021と、034を、イエローでマーキング。

          

第二章 伊都能売

インフォメーション
題名:第二章 伊都能売 著者:出口王仁三郎
ページ:392 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2017-07-21 15:42:12 OBC :B121801c48
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]
  1. 『神の国』昭和2年1月号
  2. 『神の国』昭和2年2月号
  3. 『神の国』昭和2年3月号
  4. 『神の国』昭和2年4月号
  5. 『神の国』昭和2年5月号
  6. 『神の国』大正15年10月号
  7. 『神の国』大正15年12月号
  8. 『神の国』大正15年7月号
  9. 『神の国』大正15年9月号
   (一)
 吾々大本人の唱導する、伊都能売の御魂とは、如何なる神格を具有する神であるかと云ふに、古来仏教家の間に唱へて来た、観昔に等しきものである。神道にては、木の花姫命と称へて居る神の事である。
 観音の性質を調べると、報身の観音あり、法身の観音あり、応身の観音あり、或は蔵通別教の観音あり、円教の観音あり、理想の観音あり、事相の観晋あり、分身の観昔あり、本体の観音があつて、その一々の意味が、幾分づゝ違つて居る如くに、木の花姫命の性質叉は御活動の点に於ても、幾分の違いがあるのである。
 扨て茲に読明せんとする、観音即木の花姫なる伊都能売神は、右のやうな狭い意味の者では無く、色合の付いた木の花姫でも無い。仏祖の言葉をかりて云へば報、法、応三身一体の観音、即ち木の花姫神であつて、絶対的の一実法如の観音、木の花姫をいふのである。
 木の花姫榊は、本有無作の一実体神であつて、決して世界の森羅萬象の存在より推理せる所の、運命上の唯一神論的の神でも無く、又単に自然界の因果律を見て宗教化した、酬因感果上の一神格でも無い。木の花姫神は、無始本有妙覚円満の神であって、天地宇宙に遍満し一切の時、一切の処を悉く照覧する処の神である。仏家の所謂、無所不至の宇宙の一大生命である。大本尊である。然も体の上に於ては、本然として衆生と一如なる神格を有し玉ふ神であって、所謂汎神的一神観上の、或は一神的汎神観上の神格が、即ち伊都能売神で、又の名は木の花姫神、仏称聖観音である。
 信仰の上から見れば、世界一切教化の現象とも云ふべきものは、悉く、観音即木の花姫神の活動であつて、天地八百萬の神も、仏教の諸々の仏も、諸宗教の神々も、世界一切の教典も、一切の教化的人格部ち釈迦も、孔子も、基督も、皆悉く木の花姫神、観音の顕現である。世界一切宗教の本尊神は、悉く木の花姫神 即 観晋即伊都能売神の活現であつて、世界を創造せりと云ふ基督教の神や、婆羅門教の大自在天大梵天、ウラル教の盤古神王の如きも、木の花姫神即観音の一顕現として見らるゝのである。厳の御魂、瑞の御魂の神も、亦た伊都能売神の分身的活現であります。
(大正一五、七号 神の国)
   (二)
 伊都能売神は慈愛の本源であつて、如何なる罪悪者をも救済して、一人も漏さない絶対無限の慈悲の神である。精神界は勿論、現界に於ける人間一切の苦悩を払ひ清めて、天国に導き玉ふ愛善神であつて、その愛善たるや絶対無限である。故に既成宗教の唱ふる如き、審判的思想は全然無いのである。善悪を超越し且つ審判思想を打破する、大愛大善大慈悲神であつて、一人と雖も蒼生の滅亡するのを忍ぶことの出来ぬ愛の生神である。而して霊肉の調和に就ても、難行苦行の修行を経過せず、信仰と歓喜との内に実現せしめんとする、真の絶対愛に住する神である。
 悪人を悪人として罰し、善人を善人として賞するは、是現実界即ち自然界の人為的法則であつて、愛善そのものとは非常に遠いものである。罪悪に苦しみ、痛み、憂苦に沈んでゐる蒼生は、宜しく大本大神即伊都能売の神を信仰すれば、優窕しき慈顔を向け、温かき御手に、罪を負つて救つて呉れる神である、
 伊都能売神はまた智慧の源泉であるから.人々が悔悟して此の神を念願し、至誠心よりの信仰が、胸中に紅潮して来たなれば、如何なる愚痴の涯境も、転じて聖智聖慧に到逹せしめ、転迷悔悟の花の光明を授けたまふ、大智の神である。吾人蒼生の信仰心も、要するに伊都能売神の本智本能の廻向である。
 又伊都能売は勇猛なる道義の本源であつて、精神上は勿論、現界の諸種の戦争の中に於ても、如何なる震天動地の畏怖の中に於ても、此の神を信念する力に依つて、悠然として、其の苦しき境涯を脱せしめ玉ふ、大威力神である。即ち心内心外の怨敵と雖も、悉く断滅せしめ、安心立命せしむる大勇猛神である。
 王仁が先年自晋太拉(パインタラ)に於ける、銃殺場に曳き出だされたる時、泰然自若として少しも怖畏せざりしも、又伊都能売の神の守りである。
 光明遍照十方世界の神徳完全に備はりて、斯謂真如の日月にましまし、至大無外、至小無内、若無所在、若無不所在、無遠近無大小、無広狭無明暗、過現未の三世を通じて守り賜はぬは無く、透見したまはざるはなき独一真神である。一名天之御中主神と称ヘ奉り、天地創造の大元霊神であつて、天地修斎の為に人体と現じ、爰に萬世不動の松の神代を創立し、蒼生を安養浄土に救ひ玉ふ神である。
 伊都能売神は、吾人と如何なる関係にあるかと云ふに、凡てのものゝ真実の父母である。本有無作、宇宙普遍、応現自在にして、其体に於て其神性に於て、吾人々類と寸毫も差のなき所の本体である。伊都能売神と人類その他一切は一如であり、二而不二である。相用上から見れば差違はあるが、而も絶対不離の関係であつて、宗教上から云ふなれば、親子の間柄である。
 斯の天地宇宙は、伊都能売神が活動の舞台であつて、一切の蒼生、一切の萬物は、この智慧の本体、慈悲の本体、道義の本体なる、この神の生域化育し玉ふ所である。
 伊都能売神は、その大清浄の大願力の上に、暉き来れる神であると共に、宇宙開発進化の大根源である。伊都能売紳は、仏者の所謂観音と同一神であつて、又の御名を木の花姫神と称え奉つてゐる。
 荘厳経に曰く、観自在菩薩は、其の眼中より日月を出し、額中より大自在天を出し、肩より梵天王を出し、心より邦羅延天を出し、身より弁財天を出し、口より風天を出し、臍より地天を出し、股より水天を出し、観自在身斯の如きの諸天を出すと。かく神話的に説かれてあるのを見ても、観音即伊都能売神の神格は、推知されるのである。又観音は虚室大身大地を以て座となし、境涯及び有情皆之より出でざるは無しとある。要するに天地宇宙一切が、観音即伊都能売の活顕であつて、一として斯の神の圏内を脱しては、存在するものでない事を現はしてゐる。
 実に吾々人類は、伊都能売神の天地に生活し、長養せられつゝあるのである。又伊都能売神は、吾人精紳界の大地であつて、吾々はこの大地を離れては、一刻も安住することの出来ない、活ける一箇の常磐木である菩提樹である。
 又伊都能売は、宇宙精神界の太陽である。光明遍照十方世界の神徳に浴さずには、一時間と雖も存在する事の出来ぬ菩提樹である。又宇宙の大能力であり、無量無凝の慈悲、愛善、智慧、証覚、道義の大円霊体であつて、この大円霊体こそ、吾々人類の真の親である事は当然である。
 某々宗教の所談の如く、一切の衆生なるものは、神の命令に由りて、忽然として創造されしもので無くして、凡ては皆斯の、伊都能売神の懐から出生したもので、木の花姫そのものゝ顕現である。即ち一体不二、親子の関係を保つて居る。
 観音経にある五観五音なるものは、一切衆生と親子一如の意義を表現するもので、五音とは、妙音、観世音、梵音、海潮音、勝彼世間音のことであり、五観とは真観、清浄観、広大智慧観、悲観慈観のことである、
 今之を神道の神名に対照すれば、
   五音
    妙音     市杵嶋姫命
    観世音    木花咲耶姫命
観音        梵音     多紀理姫命    瑞の御魂
即 木の花姫神   海潮音    玉依姫命
一名 伊都能売神  勝波世間音  多紀津姫命
   五観
   豊   国常立尊    天神の祖
豊受大神                   厳の御魂
   受   天照大神    地神の祖
真観     正哉我勝々速日天忍穂耳命
厳之御魂  清浄観    天之菩日命
広大智慧観  天忍穂耳命
悲観     天津彦根命
慈観     活津彦根命
 厳の御魂五柱、瑞の御魂三柱(又は五柱)活動力を総称して、伊都能売の御魂と奉称するのである。而して伊都能売は即ち、観音にして木の花姫の顕現である。天地宇宙の間に、斯の神より外に何ものも無いと云つても良い位である。或る時は天神となり、地神と現じ、八百萬の天使と変じ、千変萬化五六七の活動を為し玉ひ、宇内を光被し、開発し、整理し、天国霊国に日月神と化現し玉ふは、皆伊都能売神の大神格の活動である。
(大正一五、九号 神の国)
   (三)
『神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の司宰者なり。神人合一して(ここ)に無限の権威を発揮す』とは、是れ真如が入道の最初に当り、伊都能売(いづのめの)聖霊(せいれい)より教示されたる大本(おほもと)の標語である。
 (そもそ)も人間の身心は、神の分体分霊であつて、実に大切なもので、()つ大責任と大使命を有する霊物である。故に(いやし)くも大本(おほもと)信者(しんじや)たるものは、吾人の本体たる伊都能売(いづのめ)の神を本尊としてゐるのである。(いな)大本(おほもと)信者(しんじや)に限らず、(すべ)ての神道信者も、仏教信者も、基督(キリスト)信者其の他の宗教信者と未信者を問はず総て自己の本霊本体なる、伊都能売(いづのめ)の神の縁に(つな)がれて居るのである。
 称号は阿弥陀(あみだ)(ぶつ)観音(くわんのん)(ぶつ)大日如来(だいにちによらい)釈迦(しゃか)基督(キリスト)などと種々に区別はあれども、畢竟(ひつきゃう)するに伊都能売(いづのあめ)の神の別称である。
 伊都能売(いづのめ)の神は、一切の衆生(しうじゃう)を自己の神格に合致させねば()まぬと云ふ、大慈悲心を(もつ)て、天地(てんち)開闢(かいびゃく)久遠(くをん)の昔から大救済運動を起し、瞬時と(いへど)も、休止し玉ふた事は無いのである。(かく)の如き大御親心を本尊とする各宗教徒や、人類は、単に未来の楽土を欣求(ごんぐ)するとか、天国の住民たる事を祈願するとか、又は物質上の利益に(あづか)るとか云ふやうな事を目的として、尊敬礼拝するなどは、決して伊都能売(いづのめの)神子(しんし)たる人類の本分では無いのである。
 (しん)の忠臣、(しん)孝子(かうし)は、飽く迄も君のため、親の為に忠孝を(つく)すのであつて、決して自己の名誉や利益を目的として、忠孝を励むのではない。身体(しんたい)髪膚(はつぷ)これを天地の神明に受け、父母に(やしな)はる、(あへ)毀傷(きしゃう)せざるは孝の始め。と云つた聖者もある。この二種の親々の名を汚さぬ様に気を()けるのは、神子(しんし)の本分であらねばならぬ。利益や報酬を目的として孝行すると云ふのは、(しん)の孝行では無い。(かく)の如き心事(しんじ)でおれば、一歩誤つた時は、(たちま)ち大不孝者に成つて(しま)ふ。
 又忠臣は其の君の為に身命を犠牲に(きよう)し、(かばね)を原野に晒すとも、決して()ゆる事は無い。名誉や勲功(くんこう)の如きは、(もと)より微塵も眼中に無いのである。自分の身を尊重するのも、皆君主の為にするのである。世の中には功名手柄の為に、(あるひ)は勲章や恩給を目的にして、忠勤を励む者もあるであらうが、それは(しん)の忠臣、(しん)の愛国者では無い。自分の(たい)は自分の(たい)とせず、主君の(たい)として、一挙手一投足(おろそ)かにせないのが(しん)の忠臣である。
 (いやし)くもこの大慈悲、大智慧、大能力、大道義の大元霊たる、観音即ち伊都能売(いづのめ)の神を信じ、()つ其の神子(しんし)たることを信ずる信徒は、本尊神の心を(もつ)て心と()なければならぬ。
 要するに人間は何所(どこ)までも、伊都能売(いづのめ)の神と成らねばならぬのである。この神と一体不離にして、初めて(ここ)親子(しんし)(によ)たる、()きたる大信念を具体化せなければならぬ。(これ)大本(おほもと)信徒(しんと)(しん)の大目的大修行である。大本(おほもと)信徒(しんと)の処生法、大本(おほもと)教徒(けうと)の覚悟、大本(おほもと)教徒(けうと)が生活の理想である。(大正一五、一〇号、神の国)
   (四)
 全体、神が地上に、宗教を樹立し玉ふたのは、死せるが如き人生を(あはれ)んで、溌溂(はつらつ)たる生気を賦与せんが為に、慈悲の御心より湧出(ゆうしゆつ)したもので、(あだか)も水気の失せた人生に、瑞気(ずゐき)を与ふる霊の水を(そそ)ぎ、復活せしめんとして、天極(てんごく)至微宮(しびきう)より法爾(はふじ)として降し玉ふたものである。罪悪の(ふち)に沈淪し、五欲の痛手に煩悶苦悩する所の、人生を救ひ(きよ)め、種々雑多の境遇から、悲惨の幕に包まれて居る可憐の衆生を撫恤(いたは)()つ慰め激励して、一大光明界に向上安住せしめんために、神々の久遠(くをん)劫来(がうらい)からの御経綸である。神の無限無極の大慈悲より、湧発(ゆうはつ)せられたものである。さすれば宗教なるものは、人事と決して没交渉なる無用の長物でも、玩弄物(ぐわんろうぶつ)でもないのみならず、実に宗教は人生の光明であり、人生の生命であり、人生活動の大原動力である。
 昔の印度(いんど)婆羅門教(あらもんけう)が、儀式や呪詛(まじない)や苦業一遍に流れ、()つ一方には哲学の如くになつて、煩瑣的(はんさてき)研究(けんきう)に流れて(しま)ひ、人生の活問題とは何等の接触もなく、婆羅門(ばらもん)は実にお祭りの役人の様なものになり、全然宗教的生命を失つて(しま)つた時に、仏陀(ぶつだ)の実際的、実力的宗教は起つたのである。この事を思ひ起す度毎(たびこと)に、今日の日本宗教の(うち)に、特に真言(しのごん)天台(てんだい)(あるひ)は神道宗教等の中に(おい)て、煩雑(はんざつ)(きは)まる儀式や、理由の分らぬ呪文を空誦(くうしよう)したり、(また)訓詁的(くんこてき)注釈(ちうしゃく)や、古めかしい研究に囚はれて居るものが極めて多いが、実に歯痒(はがゆ)き次第である。一日も早く()の種の外道が現社会より亡失しなくては、いつまでも世は妖邪の気に包まれ、衆生は迷朦(めいまう)(ふち)に沈淪し煩悶せなくてはならないのである。
 大八洲彦命(おほやしまひこのみこと)の化身なる釈迦は、その時に(おい)て衆生済度のために、極めて清新(せいしん)なる直載的(ちよくさいてき)なる宗教を開始したのであつた。その絶大(ぜつだい)無遍(むへん)なる如来的、神的人格に()つて、()印度(いんど)の民衆を、新しき()きたる仏教に風靡(ふうび)せしめた。これが為に当時の印度人(いんどじん)は真の生命を得、現身が光明中に常住するの世界に復活し、悦楽したのである。
 (しか)るに仏滅後(ぶつめつご)(ここ)に二千五百年、仏の説いた実際的宗教は、(いたづら)に戒律主義や学問的に流れて(しま)ひ、その涅槃(ねはん)(くわん)の如きも、厭身(ゑしん)滅智(めつち)の外道的邪見に堕落し、貴重なる人生を空しく終り、人事を厭忌(えんき)し始めたのである。
 そこで諸法(しよはふ)実相(じつさう)、人事即仏法の大楽天主義の大乗(だいじゃう)仏教(ぶつけう)が、(やうや)興隆(こうりう)し始めたのである。法華経(ほけきやう)勝鬘経(しようまんきゃう)唯摩経(ゆいまきゃう)観音経(くわんのんきゃう)などを見ても、驚く(ばか)りに、(その)教理(けうり)を説いてゐるのである。この目的は人事一切の行事を挙げて仏事となさんが為に起つたものである。
 (そもそ)も宗教なるものは、一切の人事を理想化し、清浄化し、天国化し、一(にん)()、一国世界全体を向上せしめ、安穏ならしめ、強盛(きゃうせい)ならしむ()きもので無くてはならぬのである。もし宗教にして、右の主旨に反するならば、何程その教理が深遠でも、高妙でも、()まり無宗教も同然である。所謂(いはゆる)無用(むよう)の長物、害世(がいせい)醜教(しうけう)となつて(しま)ふのである。
 そこで昔の高僧は、娑婆(しゃば)(にち)化益(けやく)は、未来永劫の極楽に(まさ)ると云つたが、世に面白い観察であると思ふ。宗教は飽くまでも人生活動の源泉となり、生命となり、活力となるものでなくてはならぬ。故に宗教の信者は、この信念を覚悟とを(もつ)て宗教を味ひ、これを人生行動の生命と()さなければならぬ。
 ()釈迦(しゃか)が八万四千の法門を開顕(かいけん)したのも、畢竟(ひつきゃう)ずるに人生を向上せしめ、清浄ならしめ、安息活躍せしめて光明世界に導き、健全活発なる理想の天国を建設せんが為であつた。現代の宗教の堕落を救ひ、人生をして楽天、向上、清潔、統一主義実行の大理想国に進展せんが為に、天祖神明の(ちよく)を奉じて伊都能売(いづのめ)の神と現じ、三五(あななひ)真教(しんけう)を開始された所以である。
 伊都能売(いづのめ)(かみ)(そく)観音(くわんのん)の救世の目的は、昔は釈迦(しゃか)()つて現はれ、今日は厳瑞(げんずゐ)(れい)の慈願に依つて(あら)はれたものである。三十三身(みずみたま)応現(おうげん)の大主意は、(まつた)く人生救済の目的に(ほか)ならないのである。神と現じ、仏と(あら)はれ、基督(キリスト)となりて、(ここ)伊都能売(いづのめ)の神は、渾身(こんしん)世界(せかい)衆生(しじやう)の救済に思念を(くだ)ひて居らるるのである。
 今この三十三身(みずみたま)応現(おうげん)の大御心を少しく述ぶるならば、即ち伊都能売(いづのめ)(かみ)(そく)観音(くわんのん)久遠(くゑん)の太古から、三(どく)の中に沈溺(ちんでき)してゐる所の一切の衆生を救はんが為に、一大悲願力を(ふる)ひ起し、常住妙楽の霊界を()でて()の地上に(きた)り万有を救助し活躍せしめんとしたまふ大御心に(もとづ)いて、(ここ)に前代未聞の神教(しんけう)三五教(あななひけう)開顕(かいけん)し玉ふたのであつた。大本(おほもと)経緯(けいゐ)の神書は、(みな)()伊都能売神(いづのめのかみ)御聖慮(ごせいりよ)()でて成りたるもので、末代不朽の神宝であり、如意(によい)宝珠(ほつしゆ)である。世の救ひの綱であるのである。
(大正一五、一二号 神の国)
   (五)
 伊都能売(いづのめ)主義(しゆぎ)(しん)の救世主義であつて、観音の三十三(しん)応現(おうげん)の大精神、弥勒(みろく)の五十六億七千万変化の世相(じつさう)である。神は常住(じやうぢう)妙楽(めうらく)の天国浄土に親臨(しんりん)し玉ふのみを(もつ)て足れりと()し玉はず、大慈大愛の大御心を以て、(この)現実(げんじつ)世界(せかい)に預言者を降し、その御代身(ごだいしん)として(これ)に内流し、地上に天国を樹立せんため千座の置戸を負はしめ、以て犠牲的活動を為し玉ふのであります。(また)蒼生(さうせい)の苦痛や煩悶を以て伊都能売神(いづのめのかみ)自身(じしん)の苦悩と(くわん)じ、以て蒼生の苦に代り、解脱(げだつ)の生命と幸福と平和を与えんが為に、厳瑞(げんずゐ)(れい)を通じて、現幽両界に千変万化の活動を開始し玉ふのであります。()れ即ち三十三(しん)応現(おうげん)の主義であり、五六七(みろく)の活動であります。観音経には慈眼(じがん)衆生(しゆじやう)(みそなは)し、福寿の(うみ)無量(むりやう)なりと出てゐる意味を考へ見れば、更に救世主義の意味が、明白になるのであります。
 伊都能売神(いづのめのかみ)の救世の主義は、第一に慈眼(じがん)()が身を反省して、罪悪の(ふち)に自身を沈没せしめぬ事。次には慈眼我が一家を(かへり)みて、(もつ)て常に平和と幸福を増進せしむる事、次には慈眼我が一国を愛して、国利民福の大精神を発揮し実行せしむる事、次には慈眼宇宙人類を愛善して、内外東西洋の別無く、福利せしめんとするの大精神を発揮する事、次には慈眼一切の蒼生(さうせい)万類(ばんるゐ)を見て、現世の汚濁を脱却せしめ永遠無窮に大光明界に入らしめ玉ふ事、次には天神の愛善と信真とを理解せしめて、不老不死なる天国又は霊国に安住し復活せんと焦慮する事であつて、是即ち慈眼衆生を(みそなは)所以(ゆゑん)のものであつて、この心を体得し得念した上は、人生は実に実に福寿無量にして、歓喜悦楽の妙境に安住し()るものであります。  伊都能売(いづのめ)主義(しゆぎ)なるものは、要するに人生即ち現実の世界を、中心として教ゆる所の神教であつて、この現世に即して永遠無世の天国生活の真諦(しんたい)を味はしむるもので、幽玄(ゆうげん)微妙(びめう)不可言(ふかげん)なる真理に住する秘奥(ひあう)を、現生命に即して、永遠の真生命を実得せしむる聖教である。飽くまでも現世をして、妙楽の光明世界と()すの大楽天主義であつて、厭世的(えんせいてき)隠遁的(いんとんてき)趣味(しゆみ)は、伊都能売(いづのめ)主義(しゆぎ)には断じて絶無なのであります。
 観音経の『光明(くわうみやう)(あまね)く世界を照らし、慈眼(じがん)衆生(しゆじやう)(みそなは)して、化益(けやく)()を漏すこと無し』とあるは、(これ)(すなは)伊都能売(いづのめ)主義(しゆぎ)にして、この信仰は非常なる楽天主義で、観音(くわんのん)(そく)伊都能売神(いづのめのかみ)眼底(がんてい)は実に光明ばかりで、一箇の地獄的思想も包んで居ない。(また)この教義には、恐ろしいとか、(いと)ふべき事とか、(いま)はしきものは、寸毫も包含(はうがん)してゐないのである。()の既成宗教には実に(いと)ふべき一種の脅嚇(けふくわく)があり、方便があり虚構があり、誘惑的言句が現はれてゐる。佛教、耶蘇教などは、勿論(もちろん)脅嚇(けうくわく)宗教(しうけう)と言つても(あへ)て過言では無いと思ふ。今日(こんにち)までの宗教は総て人間を恐怖せしめ、至粹(しすゐ)至醉(しじゆん)なる天成の大和魂を軟化し、立派なる男子の睾丸(かうぐわん)を抜取し、女子を罪穢(ざいえ)権化(ごんげ)の如く蔑視(べつし)し、人間の勇猛心を挫折せしめ、弱国弱兵の原動力となつたもの(ばか)りである。
 (しか)るに伊都能売(いづのめ)信仰(しんかう)(おい)ては、現幽共に大光明境(だいくわうみやうきやう)に住し、化益(かやく)()を漏らすこと無く、触るる(ところ)()く所、見る所聞く所、一(さい)悉皆(しつかい)伊都能売神(いづのめのかみ)法悦(はふえつ)と、救ひの網の中に()り収めて(しま)ふと云ふ、真の信仰であるが故に、楽天であり大安心であり、憂苦する所無く恐怖する所無く、愛善の徳と信真の光に依つて、固められたる難攻(なんこう)不落(ふらく)堅城(けんじやう)鉄壁(てつぺき)であり、人生一切の後盾(うしろだて)であり、現界に()ながらにして一大光明世界に化住する真の救世教である。
(昭和二、一号 神の国)
   (六)
伊都能売(いづのめ)のまことの神は人々の罪あやまちを(さば)き玉はず
千早ふる神の仕組は人皆を天津(あまつ)神国(みくに)に導かんため
よきを褒めあしきを罪する神ならばまことの愛の神におはさず
今迄の神や(ほとけ)の御教へは人の心に()でし枉言(まがごと)
世の中のすべての人をおびやかし醜の曲人(まがひと)道をひろめぬ
皇神(すめかみ)は愛の善徳にましませば罪ある人も憎み玉はず
人の罪憎ませ玉ふことあらばまことの愛の神にはあらじ
人は(みな)霊肉(れいにく)脱離(だつり)其後(そののち)天津(あまつ)神国(みくに)にゆくものぞかし
草も木も天に向つて延びる(ごと)(ひと)霊魂(みたま)も天国に()
わくらはに根底の国にゆく(たま)は神を背にせし(むく)ひなりけり
ことさらに神は地獄はつくらねどおのが造りておのが()くなり
愛善の徳に充ちたる(たま)なれば皆天国に籍を置くなり
真信の光りに住める(たま)なれば死後霊国のエンゼルとなる
悪と虚偽好む霊魂(みたま)(たちま)ちに地獄つくりてひとり落ちゆく
皇神(すめかみ)は人を地獄に落さじと(うづ)の教をひらき玉ひぬ
今の世の神の取次(とりつぎ)僧侶(かみなが)()の世ながらに地獄に籍置く
地獄てふ(しこ)めき国は僧侶(かみなが)(しこ)神司(つかさ)常住(じやうぢう)底本は「住」ではなく「任」。誤字と思われる。の宿
今の世の神の取次(とりつぎ)僧侶(かみなが)は天国地獄のあるさへ知らず
人の世の悲哀の極み待ちくらす(しこ)僧侶(かみなが)の心きたなき
み仏の法を伝ふる道忘れさかしま事を待つ坊主かな
人の世は死ぬにましたる憂ひなしともらひのみ待つ坊主のきたなさ
今の世の坊主の所作は俗人にまさりて(しこ)のわざのみぞする
末法の世の有様は()のあたり親子訴訟の生仏(いきぼとけ)見れば
今の世の神の取次おほかたは(みな)枉神(まがかみ)権化(ごんげ)なりけり
偽りの神の教は人々の恋てふものを罪とするなり
神を()ひ人を()ふるは惟神(かむながら)神の授けし心なりけり
世の中に(こひ)てふものを捨て去れば人は岩木と変らざるらん
人の世に(こひ)てふもののあればこそ世はおだやかに進みゆくなり
(とり)(けもの)(むし)けらまでも惟神(かむながら)恋を語らぬものは世になし
鳥唄ひ蝶舞ひ虫の諸声も恋てふもののあらはれなりけり
偽りをつきかためたる曲法(まがのり)は恋をきたなきものと云ふなり
人々の心の陽気ふき払ひ陰気に沈むる(しこ)曲法(まがのり)
国人の日本魂(やまとだましひ)ぬきとりて骨なしにする既成宗教
男の子てふものの勇気を抜き去りて骨無しとする(たこ)坊主かな
極楽へ導くといふ僧侶(かみなが)が地獄つくりて父子訴訟する
久方の雲に(そび)ゆる大伽藍(だいがらん)建てて火の海降らす宗教
おのが身の仕末に困る坊主らが導き()べきいかで浄土へ
凡俗も今の坊主の醜業(しこわざ)を見て鼻つまみせぬものはなし
銅臭(どうしう)嗅々(ふんぷん)(にほ)ひ鼻もちのならぬ曲津は糞坊主かな
観音(くわんのん)阿弥陀(あみだ)釈迦(しゃか)もそつちのけ(かか)は観音金は弥陀(みだ)よと
金やれば阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)にいやまして醜人(しこびと)までも拝む僧かな
宗教の名のみ残りて今の世は(たぬき)坊主や(きつね)の取次
虎よりも狼よりも恐ろしき曲鬼と云へば糞坊主なる
キリストを表にかざし信徒(まめひと)(ふところ)ねらふ(しこ)牧師(ぼくし)()
釈迦(しゃか)阿弥陀(あみだ)真向(まっかう)にかざして(くそ)坊主(ばうず)高野(かうや)の中まで(けが)しけるかな
鐘叩き拍子木を打ち経を読む八人芸の狸坊主め
(わか)後家(ごけ)の家をめがけて蛸坊主いとながながと経を読むかな
宗教はすべてを支配するものを俗吏(ぞくり)に監督さるるはかなさ
教育や政治芸術一切を指導するこそ(しん)の宗教
今の世は(しん)の宗教滅び失せ死神死仏の教へはびこる
(昭和二年一月二十七日 昭和二、二号 神の国)
   (七)
信教の(しん)の自由は伊都能売(いづのめ)の教をおきて()に自由なし
ヤレ五戒ヤレ十戒と()つかしく人の心を縛る曲教(まがのり)
何一つ(とどこほ)りなく信仰に生くるは伊都能売(いづのめ)おしへなりけり
いづのめの神の仰せは人類に差別(けじめ)をつけぬ教なりけり
バタ臭きミルクの世をば(たて)かへて弥勒世(みろくよ)()つる伊都能売(いづのめ)(のり)
天地(あめつち)を包むむら(くも)()()けて世を澄み渡す伊都能売(いづのめ)の神
三千年(みちとせ)を忍びたまひし親神の光りは(ここ)伊都能売(いづのめ)の神
(いづ)(みづ)陰と陽との神徳を世に照らします伊都能売(いづのめ)の神
伊都能売(いづのめ)の神の心は人皆を神国(みくに)に渡し玉ふにありけり
一脈の清き流れを注ぎつつ世を洗ひます伊都能売(いづのめ)の神
水濁り(ちり)にまぶるる浪花潟(なにわがた)よしもあしきも澄ます伊都能売(いづのめ)
諸々の鬼の昼行く末の世を神世に救ふ伊都能売(いづのめ)の神
利に走り名にあこがれて諸人の(すさ)暗世(やみよ)を照らす伊都能売(いづのめ)
世を挙げて利己一偏に傾むける汚濁を救ひ洗ふ伊都能売(いづのめ)
千万(ちよろづ)の苦しみ重ねて胆気(たんき)()り世にあらはれし伊都能売(いづのめ)の神
愛の善信の(しん)をば(つちか)へと教へ開きし伊都能売(いづのめ)の神
一管の筆に曲津(まがつ)牙城(がじゃう)をば(くだ)きたまひし伊都能売(いづのめ)の神
伊都能売(いづのめ)の高き光りは天地(あめつち)(やみ)を照らして道を明けたり
いづのめの神の(よさ)しのこの(のり)常夜(とこよ)を照らす光りなりけり
(おに)大蛇(おろち)(とら)(おほかみ)も何かあらん伊都能売(いづのめ)の神守る身なれば
千歳(ちとせ)()し松の根本に伊都能売(いづのめ)の清き神姿(みすがた)現れましにけり
千万(ちよろづ)のなやみをうけて現世(うつしよ)伊都能売神(いづのめかみ)(いさを)尊とし
打ち仰ぐ高き岩根に座をしめて慈眼(じがん)(きよ)けく照らす伊都能売(いづのめ)
瑞々(みづみづ)伊都能売神(いづのめかみ)御姿(おんすがた)おろがみまつりて涙こぼしぬ
千年の昔を語る銀杏(ぎんなん)と共に名高き伊都能売(いづのめ)の像
山は裂け海あする共伊都能売(いづのめ)の神ゐます限り()の世は()せじ
大空の月の姿を地の上にあらはし玉ひし伊都能売(いづのめ)の神
釈迦(しゃか)となりキリストとなり()の花の姫とあれます伊都能売(いづのめ)の神
厳瑞(いづみづ)(うづ)誓約(うけあひ)()れましし五男三女は伊都能売(いづのめ)の神
(うつ)し世の肉の宮居(みやゐ)天降(あも)りして世を澄み渡す伊都能売(いづのめ)の神
伊都能売(いづのめ)の神の慈顔(じがん)を拝す時心の岩戸あけ渡りゆく
限り知らぬ億万劫の昔より世を守らせし伊都能売(いづのめ)の神
地の上の青人草を隔てなく慈光(じくわう)に包む伊都能売(いづのめ)の神
諸人の清き心にうつろひて身を照らします伊都能売(いづのめ)の神
限り無く清き(たふと)御霊(おんたま)伊都能売(いづのめ)(かみ)()きて()に無し
三五(あななひ)御教(みのり)をあまねく地の上に照らし玉ひし伊都能売(いづのめ)の神
天教(てんけう)の山に清けく天降(あも)りして()花姫(はなひめ)()れし伊都能売(いづのめ)
春霞(はるかすみ)棚引(たなび)()めし心地かな()花咲耶姫(はなさくやひめ)御前(みまへ)
非時(ときじく)に花咲き匂ふ心地すれ伊都能売神(いづのめかみ)に守らるる身は
千年の松の木陰(こかげ)永久(とこしへ)に鎮まりゐます伊都能売(いづのめ)の神
千年の(よはひ)寿(ことぶ)き舞ひ降る鶴亀山(つるかめやま)にゐます伊都能売(いづのめ)
(かん)ばしき(かほ)御身(みま)より伊都能売(いづのめ)御顔(おんかんばせ)の親しくもあるかな
(たけ)り雨降り(すさ)ぶ真夜中も人の詣ずる伊都能売(いづのめ)の神
風早(かぜはや)亀山高台(かめやまたかだい)永久(とこしへ)慈眼(じがん)輝く伊都能売(いづのめ)の神
高熊の山に()き世を(なげ)きてし(たま)にかかりて伊都能売(いづのめ)の神
預言者に(よろづ)のなやみ与えつつ(たま)を鍛へし伊都能売(いづのめ)の神
神柱(かむばしら)あまねく地上にまくばりて世を清めます伊都能売(いづのめ)の神
人の世にあまねく自由を与へんと心をくだかす伊都能売(いづのめ)の神
光り(やみ)()()()き世の有様に慈眼(じがん)射照(いて)らす伊都能売(いづのめ)の神
神となり仏ともなり鬼となり世を()かしゆく伊都能売(いづのめ)の神
村雲の天地を包む世の中を祓ひ清むる伊都能売(いづのめ)の神
地の上に()ふる人皆もらさじと救ひの綱をのぶる伊都能売(いづのめ)
伊都能売(いづのめ)が三十三相に身を変じみろくの御世(みよ)を開かせ玉ひぬ
神によし仏にもよし伊都能売(いづのめ)の神の慈顔(じがん)(たぐ)ひなければ
伊都能売(いづのめ)の神の御前(みまへ)にある時は春の弥生(やよひ)の心地こそすれ
伊都能売(いづのめ)の神の恵みをまつぶさに説きさとしゆく三五(あななひ)の道
神柱(かむばしら)(あや)高天原(たかま)にいでしより世に輝きし伊都能売(いづのめ)の神
須弥山(しゅみせん)の山の尾の()に立ち玉ひ宇宙を()ぶる伊都能売(いづのめ)の神
天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)の本体は瑞伊都能売(みづいづのめ)の神にましけり
八百万神(やほよろづかみ)ゐませども伊都能売(いづのめ)の神の(わか)ちし霊魂(みたま)なりけり
春の花秋の錦も伊都能売(いづのめ)の神の織ります御機(みはた)なりけり
大空に澄みきる(もち)の月見れば仰がるるかな伊都能売(いづのめ)の神
日の御神(みかみ)(あづま)の空に伊都能売(いづのめ)の光りは神の姿なりけり
穴かしこ穴太(あなを)の寺にあれませる聖観音(せいくわんのん)伊都能売(いづのめ)の神
村肝の心の(やみ)も晴れにけり世に伊都能売(いづのめ)の神に詣でて
弥勒(みろく)と云ひキリストと云ふも伊都能売(いづのめ)御働(おんはたら)きの一つなりけり
伊都能売(いづのめ)の神の御稜威(みいづ)天地(あめつち)百々(もも)の神達()べ守るなり
(昭和二、三号 神の国)
   八
伊都能売(いづのめ)の神のこの世に居まさずば花咲く春も淋しかるらむ
冬の雪木枯(こがらし)さへも笑顔して松下(しようか)にゐます伊都能売(いづのめ)の神
大空を()()く鳥も(はばか)るか伊都能売(いづのめ)居ます辺り通はず
国人の身よ永久(とこしへ)(やす)かれと雪の蒙古(もうこ)伊都能売(いづのめ)(たま)
住み馴れし国の妻子(つまこ)や教え子に心残して伊都能売(いづのめ)(たま)
千早振(ちはやふる)神代(かみよ)も聞かぬ壮挙(さうきよ)をばなして世人を救ふ伊都能売(いづのめ)
海山を諸々越しの雪の空に伊都能売(いづのめ)の神世を救ふため
機関銃前に立ちつつ悠然と御代(みよ)を祈りし伊都能売(いづのめ)(たま)
数万騎(すうまんき)の敵の陣屋へ(ただ)()進み伊都能売神(いづのめかみ)ぞ雄々しき
打ちねらふ機関銃さへ(こわ)れたる伊都能力(いづのちから)の雄々しかりける
万民の悩み苦しみ身に負ひて()ませ玉へる伊都能売(いづのめ)の神
春来れば花と()れまし秋されば紅葉と照ります伊都能売(いづのめ)の神
伊都能売(いづのめ)の神の御出(みで)まし無かりせば弥生(やよひ)の春の花も咲かまじ
末の世の(とど)めの神と伊都能売(いづのめ)の神の綾威(みいづ)も高し綾部(あやべ)花明山(くわめやま)
地の上の高天原に伊都能売(いづのめ)の神の光の(あまね)御代(みよ)かな
経緯(たてよこ)(たま)を合はせて伊都能売(いづのめ)のいさほは高し桶伏(をけふせ)の山
伊都能売(いづのめ)の神の御魂(みたま)のいさほしは外国(とつくに)までも照り渡るかな
かりごもの乱れたる世に伊都能売(いづのめ)の柱とあれし(たま)ぞたふとき
天は裂け地はやぶるとも伊都能売(いづのめ)()ます限りは心やすけし
いたづきて枕苦しき真夜中に心に浮かぶ伊都能売(いづのめ)の神
伊都能売(いづのめ)の神の御身は神直霊(かむなほひ)大直霊(おほなほひ)なる御魂(みたま)なりけり
三柱の女神(めがみ)男神(をがみ)五ツ柱月日の誓約(うけひ)伊都能売(いづのめ)(たま)
敷島(しきしま)の道辿る身は伊都能売(いづのめ)の神にし祈らば詠歌(えいか)安けし
月もなく星も隠るる闇の夜も道を()かして伊都能売(いづのめ)の神
百種(ももくさ)のしいたげ悩みうけ(なが)真道(まみち)(ひろ)むる伊都能売(いづのめ)(たま)
(やみ)の世を(いづ)伊吹(いぶき)に清めんと天降(あも)り玉ひし伊都能売(いづのめ)の神
地の上に所を得ざる人々の無きまで(のり)伊都能売(いづのめ)の神
天も地も(すべ)ての物は伊都能売(いづのめ)の神のちからに()らざるば無し
現身(うつそみ)下津岩根(したついはね)(くだ)しつつ世を救ひ()伊都能売(いづのめ)の神
雨となり(あられ)底本では漢字は「霧」となっているが振り仮名は「あられ」とも降り雪と化し御代(みよ)を清むる伊都能売(いづのめ)の神
天地(あめつち)伊都能売(いづのめ)の神ゐまさずば世は永久(とこしへ)に闇となるべし
西東(にしひがし)神都(しんと)を遠く(あま)かけり国かけりつつ(おし)伊都能売(いづのめ)
三界の神の(あるじ)()れまして森羅万象(しんらばんしやう)()かす伊都能売(いづのめ)
遠近(をちこち)(うづ)の聖地を定めつつ御代(みよ)を守らす伊都能売(いづのめ)の神
伊都能売(いづのめ)の神のいさほは天地(あめつち)の神と人とに生命(いのち)(たま)ひぬ
ある時は人と()れまし()る時は(まが)()ります伊都能売(いづのめ)の神
世の中の(もも)の出来事おしなべて伊都能売(いづのめ)の神の守らぬは無し
上下の差別も付けず平等に世を救ひます伊都能売(いづのめ)の神
地の上に建てる宗教(ことごと)伊都能売(いづのめ)の神守りますかも
山川も百も樹草(きぐさ)禽獣(きんじう)も恵みに(よく)せる伊都能売(いづのめ)の神
肉体のなやみは(さら)なりたましいのいたづき癒し玉ふ伊都能売(いづのめ)
宗教や政治文学芸術に産業(なりはひ)(さきは)伊都能売(いづのめ)の神
天震ひ地は鳴り響く災厄(わざはひ)(ただ)一声(ひとこゑ)に止むる伊都能売(いづのめ)
渇きたる(のり)真清水(ましみづ)あたへつつ死神(ししん)死仏(しぶつ)を生かす伊都能売(いづのめ)
国は富み世人栄ゆる神の代を開かせ玉ふは伊都能売(いづのめ)の神
伊都能売(いづのめ)の神の()でまし寿(ことほ)ぎてあなたこなたに万年青(おもと)はやれる
天も地も皆伊都能売(いづのめ)のいさほしに安く治まる御代近づきぬ
もろもろの(ひじり)(のり)は多けれど伊都能売(いづのめ)(のり)(まさ)れるは無し
うつし世は言ふも(かしこ)(かく)り世も守らせ玉ふ伊都能売(いづのめ)の神
白妙(しろたへ)の衣の袖は濡れにけり伊都能売(いづのめ)の神の(うづ)慈眼(じがん)
地の上のあらむ限りの生き物を子とし恵ます伊都能売(いづのめ)の神
釈迦孔子(さかくじ)()の他の(ひじり)伊都能売(いづのめ)の神のいさほの分れなりけり
広き世に広き教を開きつつ狭き宗教(おしへ)(ただ)伊都能売(いづのめ)
山川もなびき伏すらん伊都能売(いづのめ)の神の表に()でます御代(みよ)
人皆の心の(ちり)伊都能売(いづのめ)の神の伊吹に(はら)御代(みよ)かな
世の中の柱ともなり塩となり花ともなりて伊都能売(いづのめ)の神
乱れたる世を正さんと伊都能売(いづのめ)の神は御空(みそら)(くだ)り玉へり
キリストの再臨弥勒の下生とは伊都能売(いづのめ)の神の顕現なりけり
ないぶるの強き(たけ)びも伊都能売(いづのめ)をまつる聖地は心(やす)けし
村肝(むらぎも)の心も空も晴れにけり伊都能売神(いづのめかみ)聖姿(せいし)拝みて
鳥唄ひ蝶舞ふ春の長閑(のどけ)さも伊都能売神(いづのめかみ)の手振りなりけり
万木(よろづぎ)の花に(さきが)け咲き匂ふ梅は伊都能売神(いづのめかみ)御姿(みすがた)
八百万神(やほよろづかみ)(つかさ)()れませし伊都能売(いづのめ)御魂(みたま)大本(おほもと)の神
天地(あめつち)のまことの親を尋ぬれば世に伊都能売(いづのめ)の神にましけり
伊都能売(いづのめ)の神の恵みを白雲の外国(とつくに)までも開く大本(おほもと)
(昭和二、四号 神の国)
   (九)
真善美愛の極致は伊都能売(いづのめ)(いづ)御霊(みたま)の鏡なりけり
愛善の神徳()たし信真の光り(あま)ねき伊都能売神(いづのめのかみ)
久方の天津御空に照る月は伊都能売神(いづのめかみ)の瞳なりけり
和田の原千尋(ちひろ)の底も伊都能売(いづのめ)の神の恵みの至らぬ(くま)なし
全宇宙守らせ玉ふ御光(みひか)りは伊都能売神(いづのめかみ)御眼(みめ)の輝き
春秋の移り変りも伊都能売(いづのめ)の神の力の現はれなりけり
天も地もみな伊都能売(いづのめ)の大神の御懐(おんふところ)にありとこそ知れ
不老不死尽きぬ命を(たま)ひたる誠の親は伊都能売(いづのめ)の神
伊都能売(いづのめ)の神のでぐちの御教(みおしへ)()の世を渡す神船(みふね)なりけり
久方の天王平(てんわうたいら)奥津城(おくつき)に鎮まり給ふ伊都能売(いづのめ)(たま)
もろもろの(なや)み一度に(きた)るとも伊都能売(いづのめ)ゐませば如何(いか)で恐れん
光り(やみ)善事(よごと)曲事(まがこと)()(かは)る世を守ります伊都能売(いづのめ)の神
(たま)きはる人の命の源となり()でませる伊都能売神(いづのめのかみ)
伊都能売(いづのめ)伊都(いづ)御霊(みたま)のゐます限り(うつ)し世幽世(かくりよ)亡ぶことなし
地の上に()ひ立つ人の(ことごと)はみな伊都能売(いづのめ)御息(みいき)より()
春の花秋の紅葉も伊都能売(いづのめ)の神の織ります御機(みはた)なりけり
天高く大地は広く海清く守りますかも伊都能売(いづのめ)の神
(おに)大蛇(おろち)(しこ)曲霊(まがひ)(たけ)びをも(はら)はせ玉ふ伊都能売神(いづのめのかみ)
朝夕の命の糧も伊都能売(いづのめ)の神のなさけの御賜物(みたまもの)なり
目はよく見口(みくち)は物云ひ鼻は嗅ぎ耳聞ゆるも伊都能売(いづのめ)の徳
災ひの多き此世(このよ)安々(やすやす)と人の生くるも伊都能売(いづのめ)の徳
伊都能売(いづのめ)の神の守りに外れたる物は天地に一(もつ)もなし
大空を自由にかける百鳥も伊都能売神(いづのめかみ)の守りなりけり
大宇宙(だいうちう)森羅万象(しんらばんしやう)ことごとく(いだ)き守らす伊都能売(いづのめ)の神
伊都能売(いづのめ)の神の恵を知らずして世を渡り()く人の(あは)れさ
うつそ身の(まか)れる(のち)伊都能売(いづのめ)の神に(いだ)かれ生き通すなり
幾万劫遠き昔の神代より(もだ)して守る伊都能売神(いづのめのかみ)
無始無終無限の宇宙も伊都能売(いづのめ)の神の守りに開け()くなり
我魂(わがたま)(まこと)の親は天地(あめつち)をうしはぎゐます伊都能売神(いづのめのかみ)
鳥獣虫けらの(はし)にいたるまで()らさで守る伊都能売神(いづのめのかみ)
国と人種々(いろいろ)変はれど伊都能売(いづのめ)の神の守りに差別(けぢめ)なきかな
(たま)(ちは)伊都能売神(いづのめかみ)御息(おんいき)に森羅万象栄え()くなり
伊都能売神(いづのめのかみ)御教(みのり)にまつろひて世に栄え()く人ぞ賢き
数万年歴史に記せる出来事も伊都能売神(いづのめのかみ)の仕組なりけり
天地(あめつち)の雲を払ひて伊都能売(いづのめ)の光り輝やく時は来たれり
釈迦(さか)孔子(くじ)基督(キリスト)となり地の上に現はれませし伊都能売(いづのめ)の神
大空の海の底ひも隔てなく厚く守らす伊都能売神(いづのめのかみ)
世の中のすべての物は伊都能売(いづのめ)の神の恵みに洩れたるはなし
月を踏み星をいただき百姓(みたから)の野に安けきも伊都能売(いづのめ)の徳
三界の導師となりて地に降り世人教ふる伊都能売(いづのめ)の神
人の世の隙間を(ねら)ふ死の神も()ぢて逃げ()伊都能売(いづのめ)の神
もろもろの死神死仏に生命を与へて()かす伊都能売(いづのめ)の神
伊都能売(いづのめ)の神の守りの無かりせば人は此世(このよ)に生きん(すべ)なし
雨となり雪霜(ゆきしも)となり風となり世をうるほはす伊都能売(いづのめ)の神
神霊魂(かむみたま)伊都(いづ)千別(ちわき)に千別きまし物皆活かす伊都能売(いづのめ)の神
一投手一投足の働きも伊都能売神(いづのめのかみ)の守りなりけり
言霊(ことたま)天照(あまて)り生くる神国は伊都能売神(いづのめがみ)の宝座なりけり
八百万神(やほよろづかみ)()せども伊都能売(いづのめ)(まこと)の神の御使(みつかひ)なりけり
天清く山野は青く永久(とこしへ)に栄ゆる御代は伊都能売(いづのめ)の徳
やがて今伊都能売神(いづのめがみ)の顕現に眼を覚ますらん四方(よも)の国人
日の守り夜の守りと人みなを(はぐ)くみ玉ふ伊都能売神(いづのめのかみ)
天国に日の神となり霊国に月と輝やく伊都能売神(いづのめのかみ)
探女(さぐめ)醜女(しこめ)影失(かげう)せにけり伊都能売(いづのめ)此世(このよ)に近く(くだ)ります世は
神殿(みあらか)を取りこぼちたる曲神も笑みてとがめぬ伊都能売神(いづのめのかみ)
蓮華台千代の乳房と定めつつ世人を恵ます伊都能売神(いづのめのかみ)
ヨルダンの清き流れの瀬々らぎは伊都能売(いづのめ)の神の御息(みいき)なるらん
踏まれても失せずほほ笑む草花は伊都能売神(いづのめかみ)の露に咲くなり
伊都能売(いづのめ)の恵みの露を受け(なが)露白雲(つゆしらくも)(たま)ぞうたてき
繰り返し繰り返し見よ伊都能売(いづのめ)(いづ)御教(みのり)を記されし(ふみ)
野も山も大海原(おほうなばら)もおしなべて(いづ)御魂(みたま)の光り輝やく
現身(うつそみ)は朝日に露と消ゆるとも(みたま)永久(とは)に活かす伊都能売(いづのめ)
天国も中有界も根底国(ねそこのくに)も皆一様に照らす伊都能売(いづのめ)
須弥山(しゆみせん)の山に腰掛け永久(とこしへ)天地(てんち)六合(りくがふ)守る伊都能売(いづのめ)
春の野に若菜を摘める乙女子(おとめご)の袖にも薫る伊都能売神(いづのめかみ)
(昭和二、四、二一夜 昭和二、五号 神の国)
   厳霊瑞霊
 『天主一霊四魂を(もつ)(こころ)(つく)り、(これ)活物(くわつぶっ)に賦与す、地主(ちしゆ)(げん)(りき)(もつ)(たい)(つく)り、(これ)万物(ばんぶつ)(あた)ふ。(ゆゑ)()(たま)(まも)るものは()の体、()の体を(まも)るものは()の霊なり、他神(たしん)()りて(これ)(まも)るに(あら)ず。()(すなは)ち上帝の命、永遠(ゑいゑん)不易(ふゑき)』とは(みち)の大原の教ふるところにして、又大本の霊学観なり。(しか)して一(れい)とは直霊(なほひ)なり。四魂とは、荒魂(あらみたま)和魂(にぎみたま)奇魂(くしみたま)幸魂(さちみたま)なり。荒魂(あらみたま)は真勇なり。和魂(にぎみたま)真親(しんしん)なり。所謂(いはゆる)経魂(けいこん)にして厳魂(いづのみたま)なれば、一々(いちいち)万々(ばんばん)確固(かつこ)不易(ふゑき)の霊能あり。奇魂(くしみたま)は真智なり。幸魂(さちみたま)は真愛なり。所謂(いはゆる)緯魂(ゐこん)にして瑞魂(みづのみたま)なり。操縦与奪自在(じざい)の霊能あり。(しか)して天下(てんか)一般(いつぱん)の活物、皆()の四魂を多少(たせう)なりとも具備せざるは無し。荒和(あらにぎ)二魂の活動(くわつどう)完全(くわんぜん)なる霊魂(れいこん)(しよう)して(いづ)の魂と()ひ、奇幸(くしさち)二魂の活動(くわつどう)完全(くわんぜん)なる霊魂(れいこん)(しよう)して(みづ)の魂と()ふ。(しか)して直霊()く四魂を主宰し、完全(くわんぜん)なる活動(くわつどう)()さしむる場合(ばあひ)(しよう)して、伊都能売(いづのめ)霊魂(みたま)()ふ。大本祝詞(のりと)(いは)く『直霊魂(なほひのみたま)をして益々(ますます)(うる)はしき伊都能売霊魂(みたま)()さしめ玉へ』とあるは、各人四魂を(みが)き、(かみ)(ひと)しき活動(くわつどう)()すべき、伊都能売の御魂(みたま)とならむ(こと)を祈るに()り。()れば(いづ)御魂(みたま)は教祖に限定し、(みづ)御魂(みたま)は教主輔に限定せるが(ごと)く思考するは、(おほゐ)なる誤解(ごかい)なり。各人皆(すす)んで(いづ)の魂、(みづ)(みたま)(おろ)か、伊都能売(いづのめの)御魂(みたま)の活用が出来(でき)る所まで、磨き()げて神業(しんげう)を補佐されむ(こと)を希望する次第(しだい)なり。
   
オニド関連サイト最新更新情報
4/18【霊界物語ネット】山吹の花」(吉野山神業の記録)を掲載しました。
4/8【霊界物語ネット】民謡 波の上』と『民謡 月の都』(王仁三郎の歌集)を掲載しました。