霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第三章 人類愛善の真義

インフォメーション
題名:第三章 人類愛善の真義 著者:出口王仁三郎
ページ:432 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2016-12-16 20:49:07 OBC :B121801c49
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]『神の国』大正15年5月号
 人類愛善会という会を起し、名称を附しましたに就て、人類愛善と云う意味が未だ徹底せず、浅く考えて居る人があるように思います。又解って居る人もあろうと思いますが、一寸(ちよつと)それを説明して置きます。
 一寸(ちよつと)聞くと人類愛善会というのは、総ての人間を人間が愛するように聞こえて居ります。総ての人類は同じ神の子であるから、総て愛せねばならぬという意味になって居りますが、それはそれに違いないけれども、人類という字を使ったのは、下に「愛善」がありますから、上の「人類」の意味が変って来る。単に「人類」と丈謂(だけい)えば世界一般の人類或は人間の事であり、色々の人種を総称して人類というのである。(しか)し日本の言霊(ことたま)の上から()えば、「(じん)」は「ヒト」と読みて、ヒは()であり、トは(とどま)るという事である。そうして「(ひと)」という宇は左を上に右を下にして、霊主体従、陰と陽とが一つになって居る。神というものは無形のものであるが、併し神様が地上に降って総ての経綸を地上の人類に伝える時には、(とど)まる処の肉体が必要であります。それで神の直接内流を受る処の予言者とか総てそういう機関が必要なのでありまして、()()(神)の(とどま)まるのが(ひと)(ヒト)である。それは神の顕現・神の表現として釈迦とかキリストとか、そういう聖人が現われて来て居る。人間というものは、善悪混淆した普通のものであるが、(ひと)というと神の止まる者、神の代表者である。それに類するというのであるから、それに(なら)うのである。
 神は善と愛としかない。理性も理智もない。愛という事にかかったら、理性も理智も何もなく、どれ程極道息子でも愛の方から謂えば、只可愛い一方である。天国の神の世界には、愛と善とより外にはない。愛は即ち善であり、善は即ち愛である。
 神の愛善は()ういうものであるかというと、総ての脅喝的ー今の既成宗教のように戒律とか云うもので脅喝しない。今は戒律で人間を怖がらし、天国とか地獄とかを拵え、善を為せば天国へ行く、悪を為せば冥官(めいかん)(いか)めしい顔をして裁くというように、今の教は脅喝的に出来て居る。(しか)し神には脅喝というものはない。只愛する一方です。泥棒のようなものでも、又どんな悪人でも、こちらから親切にしむけて行くと、其の人は恩を覚えて居り、どんな善人でもあまりこちらから(きつ)う行くと恨んで来る。(しか)しそれはお互に同じ人間の事であるが、神の愛というと、敵でも何でも本当に心の中から憎いという心が起って来ない。其処が本当に純なる神の愛なのです。今日の人間の作った不完全な現行刑法でも、親が泥棒をしたとか、親が罪を犯したとかいうて、其の息子なり孫なり妻君までを懲役に引っ張って行って刑を科するというような事はないのです。
 ()して至仁至愛の神様が、先祖が罪を造ったから其の子孫を罰する、それを(ゆる)して貰うというような事は、今日の不完全な法律よりも徹底しない教であって、決して神の伝えた教ではないのであります。
 神は、善人であるから愛するとか、悪人であるから罰するというような事はない。総て愛と善とで向われる。此の愛と善とを取って了ったならば、神の神格というものが無くなる。
 人間も愛と善とが無かったら、人間でない。形は人間でも、矢張(やは)り獣になって了う。神様も其の通りであります。神様は色々の方法を用いて、総ての機関をお造りになり、そして神の意志を、地上の愛する処の人間一般にお伝えになる。(これ)は昔から時代々々に依って色々の神のお使いが現われて、世の中に伝達して居りますが、(しか)しそれを聞く人が皆間違って居って、本当の神の意志をよう取って居らぬ(だけ)のものである。それが為に今日の既成宗教というものが、輪郭丈(りんかくだ)けは(ごく)立派にありますし、また言うて居る事もなかなか立派にある。善悪正邪に因果応報だとか、其の区別とかいう事は立派にありまするが、実行は出来ない。そういう戒律づくめで、愛と善との徹底しない宗教を信仰して居ると、信仰すれば信仰する程不安の念が漂うて来る。
 信仰しなければ何ともないものが、信仰した為に、今日までああいう悪があった、こういう事があったと、臆病風が起って来る。神は愛と善とが本体である以上は、一切の悪は(ゆる)して呉れる。又元より恕す恕さぬというような事もない。恕される恕されないというような事は、自分の(みたま)の持方一つによって、いろいろと感じられるだけの事である。
 一体人類愛善というものは、神の聖霊に充された処の予言者、或は伝達者に類する処の心になり、そうして愛善を行う。善人だから愛する、悪人だから憎むというような事ならば、それは本当の愛ではないのであります。
 愛という事になって来れば、善悪正邪の判断がつかないものである。つくものならば愛というものは、千里程向うに行って了って居る。又神様が罰するとか戒めるとかいうような事があれば、神其のものの御神格というものは、千里程向うに脱出して了っているのである。
 此の世の中は愛と善とで固まって居る世の中でありますから、何事も総て愛善の神様に任して、そうして取り越し苦労をしないよう、過ぎこし苦労をしないよう──過ぎこし苦労というものは、済んで了ってからの事である。彼奴(あいつ)はああいう事を言いよったとか、彼奴(あいつ)(かたき)をとらんならんとか、ああせなんだら、今まで大分財産も出来て居ったのにというような事で、又取り越し苦労をして、明日の事を、明日は()うしようかと考えて居っても仕方がない。千里の路を行くのにも、左の足から右の足という風に出して行けばよい。行く処は東京なら東京と決めて置いて、一足々々を注意して行く。積極的刹那心を以て進んで行く。そうすれば、影が形に伴う如く、愛善の心が起って来る。取り越し苦労と過ぎ越し苦労を忘れて来たら、一切の慾も起って来ぬ。怨恨も忘れて来る。又妙な慾望もなくなる。大本の方から()うと、それが惟神(かむながら)の精神である。
 大本の方は神様の神勅によって宣伝使を拵えて居りますが、愛善会の方は宣伝使というものはありませんけれども、自然に愛善の徳が出来て来たら、其の人の身体から光明が出て来る。そうすると、独りでに其の人の光明に照されて、世界が愛善になる。愛善を売りに歩いても、売りに行ったものは効果がない。又自分が愛善をやって居るとか、自分が善をやって居るとかいうような時には、自己愛が其の中に這入(はい)って居って、本当の愛善になって居らない。世の為め社会の為と皆考えて居りますが、其考えがある間はなって居らぬ。(すべ)て何も彼もなく、無になって了う。無になった時に、愛善が身体に這入(はい)って来る。愛善会には、あまり小六(こむつ)()い演説もなければ話も出来ない。
 私は初めの時に愛と善との事を謂うて置きましたが、あまり細かく分析して謂う事は出来ない。愛善というようなものは、非常に大きなものであって、()うに()われず説くに説かれず、丁度(ちようど)ボタ餅が()ういう味であるかという事を説明して見ようというても、食ってみなければわからぬ。各自に食って見て初めて其のうまさが解るので、愛善もそれと同じことで、到底人間の力で分析して説く事は出来ない。
 それは其の人の徳相応の光明に依って味われるものであると思います。
(「神の国」、大正十五年五月号)
   ○
 人類愛善会第一同総会の開かれた十八日は、午後からそぼふる春雨の日で、四角ばつた会でなく、皆が心からうちくつろいだまことに気持のよい会であつた。
 坐談にうつつてから、臨席された出口王仁三郎聖師をとりかこんで、歓談笑声の中に時のうつるのを知らなかつた。左に聖師の坐談の断片を御紹介しよう。文中に(質)とあるはその席の人々の質問、(答)とあるは聖師の解答である。
  坐談談片
    幸福は与へられるが満足は与へられぬ
 何ぼ愛善会でも、総ての人に幸福を与へられても。満足は与へられない。何故かといへば、総ての物質は有限的であるから、人間の無限の欲望を満足さす事は出来ない。例へば十万円の財産が出来ると百万円の財産家になり度くなり、百万円出来たら千万円になり度い、一億円になり度いと云ふやうに、満足というものは与へられるものではない。幸福といふものは与へられる。誰も彼も身魂相当に幸福といふものは与へる事が出来る。味はう事も出来る。(しか)し満足(だけ)は与へられない。満足といふ奴は一寸(ちよつと)無理な奴です。宗教なるものは平和と幸福を与へる為であつて満足を与へる為めではない。霊界物語にも天国もあり、地獄も説いてある。それは人の精神状態をああいふ風に説いてあるけれども、愛善の道に大悟(だいご)徹底(てつてい)すれば地獄も八衢(やちまた)もない。徹底しないからさういふものが出来て来るのである。
 今までの宗教は総て日本男児の睾丸を割去して去勢する道具だ。睾丸を抜いて了つて卑屈な人間にして(しま)ふ。睾丸を抜くと牛の暴れる奴も暴れない。人を突き殺さない。(その)代り活動が鈍い。そのやうに人間も活動が鈍くなる。それは信仰の堕落である。総て脅喝文句が多いから恐怖心を(すぐ)に養ふ。信仰するのは安心立命の為であつて、恐怖を起す為に信仰するのではない。
 少し私の考へは脱線して居るか知らんが、社会に害を与へぬ限り、何をしても神は罰する事はないと思ふ。 又元より罰する気づかいはないのだから、害毒を与へると社会から憎まれて罰せられるけれども、神其物(そのもの)からは罰は与へない。
祓ひ玉へ、清め玉への意味 神道では、(はらひ)玉へ清め玉へといふが、声といふのは心の()、心の思ふて居る処を出す。(しやく)でも()が無ければ使へない。心の言霊をつづめると『こ』となる。魂の発動によつて無茶苦茶なことをやる。この悪行為を(はらひ)玉へといつて、心の進むままに()つた事を(はらひ)落すのだ。『玉へ』といふ言霊は大本(おほもと)の『神言(かみごと)』にも使つてあるが、『………し玉へ』といふやうな昔の祝詞の言葉とは違ふ。大本(おほもと)のは『玉の()(はら)へ、玉の()清め』といふ事であるが、玉へを先に言つては語呂が悪いから止むを得ずああ言つてあるのだ。玉といふのは人の魂の約言(つまり)である。自分の不知不識(しらずしらず)の間に行つた事が悪いと気が附いたら、そいつを直(すぐ)に祓つたら良いのだ。掛取(かけとり)でも祓ふたらもう来ないものだ。つまらぬ(うち)につまつて居るのは掛取(かけとり)さんだ。何事も初めは誰も皆悪いと思つて()るものは無い。皆良いと思つて()るのだから。泥棒でも三分の理屈があるといつて何でも理屈を附けりや附くものだ。
  質疑応答
   智慧証覚は何処から来る?
問『智慧証覚といふのは何処から出るのですか』
答『それは皆愛善から出るのだ。善を放れた真の智慧はない』
問『神の善を愛するとは、()んな事で御座いますか』
答『神様の意志其物(そのもの)を愛するのだ』
問『さうすると智慧証覚といふものがないと、神様の意志は解らないわけですか』
答『愛も善にならないと、智慧証覚は出て来ない。外分的な欲望のために世人の一般は(うま)く智慧を働かすやうなれども、愛を放れ善に背いた行ひは(すぐ)に後から剥げて来る。それは本当の智慧ではない。智慧も証覚も総て愛から出て来るのだ』
   地獄極楽はあるのか無いのか?
問『それに欠陥があつた場合には、根の国底の国といふやうな状態が現はれるのですか現はされるのですか、又造るのですか』
答『現界のやうに監獄を(こしら)へて罪人を待つて居るやうな処はない』
問『さうすると現界と霊界を分けて考へる時には堕落になるのですか』
答『だから現世に居る間に天国に籍を置いて居らねば駄目だ。皆みろくの世は何時来るといつて期待してゐるが、私には昔から来て居るのだ。何ぼ五六七(みろく)の世五六七(みろく)の世といつても、来ぬ人には何時まで経つても来ない』
   懺悔生活などは出来るものでない
問『神様の愛が解つたら、懺悔するといふ事は無意味な事ですか』
答『何も自分が神の分身分体であり、神の一部分である以上は、自分の心の中で祓つて(しま)へば良いのだ。それを他の人々に暴露して、ざんげしたと思ふのは、神を(はづかし)め、自己を(はづかし)めるものだ。実際懺悔の生活といふものは出来るものでない。懺悔するといふ事は、世間へ対して君子らしく飾る為に懺悔を装つて居るので、肝腎の心の底は決して懺悔の出来るものではない。(いづ)れも限定的の懺悔だ………。半分位懺悔するのなら一層のことせない方が良い。黙つて心の中で立直して忘れてしまつたら良いのだ。今までは下手(ばか)りして損をしたなどと返らぬことは思はん方が良い。済んだ事は()う思つたつて駄目だ。過ぎ越し苦労だ。清盛(きよもり)平相国(へいしやうこく)はお日様を招き戻したといふ話があるが、人間として一秒時間()きの事は()うする事も出来ぬ。今の()の瞬間()け自分の心の自由………何を行ふと何を思はうと自由だ、瞬間より(ほか)に自分の自由になるものはない。一分間先は頓死(とんし)するやら()うなるやら分らない。()きの事を思つた処でそれは徒労だ。取越し苦労だ。刹那々々の瞬間に、善を思ひ善を行ひ善を言ひ、そして愛善の心になつて()けばそれが一番安楽だ。
 さうすると時間といふやうな観念も無くなり、自分がもう何歳になつた。(ああ)もう五十歳になつた。
 百まで生た処で後五十年だといふやうな考へが起つて来ない。』
   刹那主義楽観主義で行け!!
 自分は蒙古に行つて感心した事がある。『お前の年齢(とし)はいくつだ』と質問したら、『自分の歳を考へたり覚えてゐるやうな馬鹿があるか。歳を知つて何の効がある。そんな事をしてゐたら長生が出来ない。自分の子の歳も親の歳も知らぬ』と答へた。日本人もそうなれば初めて天国が降つて来るのだ。(しか)(なが)ら月末が来たり節期が来ると思ひ出さずに居られないけれども、其時丈(そのときだけ)思ひ出して後は忘れて(しま)ふのだ。私は毎月普請をして何万円の支払ひをしてゐるが、二三日の後に三万円払はねばならぬ際に百円よりない。そうすると係りの人が青い顔して心配して居る。『払うのは何時だ』『(きた)る三十日です』『それなら三十日になつて出来なければ一寸(ちよつと)位心配をしたら良い。自分は三十年間に(わた)りて経験をして来た。一度も間違つた事はない。九分九厘行つた所で甘く落着するものだ。そういふ風に世の中は神が造つて居るのだ。必要の物は屹度(きつと)与へられる。こつちから慌て騒がんでも良い。(あはて)たり騒いだりして、向いて来る運を自らこはして(しま)ふのだ。(すべ)て金ばかりでなく、世の中の万事は皆自分からこはして(しま)ふのだ』私は其話(そのはなし)をすると『貴方と同じように()かぬ。私等(わたくしら)はさういふわけに()かない』といふ人があるけれども、それが違ふてゐる。全部がさうなつたら()くのだ。あなたと一緒には我々は()かない(など)と拒む人があるが、それが違つて居るのだ。()れでは人類ではない。人の類ではない、刹那心と無責任、放任とは違ふ
   律法の必要はないか?
問『忘れて(しま)ふといふのは、(かへりみ)る、(はぢ)る、悔い改める、天地を(おそ)れる………の必要は………』
答『八衢(やちまた)に居る間は省る耻る………も必要だ』
   宗教と倫理とを間違へてはならぬ
問『良いと思ふ方に向つてドシドシ進みさへすれば良いのですか』
答『人間として自分の言行に対しては、良いか悪い位は皆解つてゐる筈だ。猫が鰹節を盗つた時には隠して()ふ。鼠を捕つた時は、主人の前に持つて来て褒めて貰ふて食ふ。犬でも猪を捕つた時は、主人の前に持つて来て手柄顔して尾を振つてゐるが、鶏を盗つた時には(やぶ)の中にすつ込んで食ふ。人間に盗む(なか)れ、(いか)(なか)れ、姦淫(かんいん)する(なか)(など)と戒律を拵へるのは人間を動物以下に扱つてゐるのだ。それは学校の倫理科で教へてゐる。それを世帯を持つた一人前の人間が、説教を聞いて随喜してゐるのは可笑(おか)しい。宗教と倫理とを間違へてゐるのだ。宗教の目的は、平和と幸福を万人に与ふる為である。要は総て安心立命の為である。アダム、イブが神様の禁じた果実(このみ)を採りて食つたから、其罰(そのばつ)で子孫が何時までも地獄の火に焼かれて苦しみを受けねばならない。それが可愛想なから現在(および)未来に()けるキリストを信ずる者の為に、十字架に(かか)つて下さつた救世主だと言つて信仰するが、そんな下らない理屈はない。(あだか)も自分の先祖が(かり)もしない証文に利子を附けて返してあやまつてゐるやうなものである。今日の法律でも、親が()つた犯罪に対して子は刑を受けないではないか。()して公平無私至仁至愛なるべき神に、そんな矛盾があらう筈がない。万々一そんな神があるとすれば皆悪魔だ。それを文明人が一生懸命に涙を流して信仰してゐるのは解らない。そんな教理を研究するより、刑法を読んだ方が何程理論が合ふかしれない。(かり)もせぬ証文に利子を附けてまだあやまつてゐるやうなものである。先祖が悪い事をしたか()うか知らぬ子孫まで、罰をあてるやうな分らぬ神はない筈だ。キリスト教はそんなものではないが後の者が(こしら)へて(しま)つたのだ。仏教でも律宗の如きは戒律計り(こしら)へてある。律宗の云ふ通り実行せんとすれば、世の中に足一つ踏み込むわけに()かぬ様になつて(しま)ふではないか。
   大乗の教と小乗の教
問『(これ)までは因果が子に(むく)うて来て先祖伝来の罪があるから………といふやうな事を聞きましたが、罪といふやうなものではなくて、因果といふものはあるので御座いませうか』
答『それは小乗部の教である。それでなくてはいかぬ人間に持つて()く為だ。今私は大乗部を説いてゐるのだ………釈迦(しやか)も四十年未顕真実といふて四十年間うそ計り言ふて居つたのだから、大本(おほもと)うそ計り言つてるかも知れぬ。四十年経つたら本当の事を言ふかも知れぬ。それでも安心して良い方に向いて来たらそれで結構なんだ。本当の事を()つたら皆引つくり覆つて(しま)ふ。大本(おほもと)の信者に今()ふやうな事を初めからきかせたら、異端邪説だと排斥して逃げて了ふ。私の家内と私は何時も意見が合はぬ、家内は小乗だから私の言ふことを危ながつて居る位だ。()の代り私の話は取り違ひするとどえらい危ない事になつて来る』
   大乗の教を小さい心で応用すると危ふい
問『小さい心で応用して(しま)つたら、ひどく神様の名を汚す事が出来ますね』
答『神の眼から見れば、善いとか悪いとかいふことは()へるけれども、人間から善いとか悪いとかいふ事はいへない。日本では一夫一婦で、第二第三の夫人を持つて居ると、社会から品行の悪い奴だといはれる。(しか)蒙古(もうこ)()くと、男子は大部分坊主になつて(しま)ふので、一夫が七婦位持たねばならぬ割合になつて居る。向ふで一夫一婦できばつて居ると、不道徳となつて、彼奴(あいつ)は我よしだといはれる。人間の決めた善悪は時と場合で変る。徹底的の善もなければ徹底的の悪もない、そんな事はわからない。人を殺すのは大罪に違ひないけれども、戦争に行つて人を殺したら勲章を貰ふのだ。一方には酒の害を説いて居る。煙草の害を説いて居る。一(ぱう)税務(ぜいむ)官吏(くわんり)は高い煙草をのんで()れる奴がよい。高い酒を飲んで呉れる奴は善人だ。同じ政府の下にあつてさへそんなに矛盾のある世の中だ』
(大正一五、四、一八、五月号 神の国)
   
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