霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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久の結婚

インフォメーション
題名:03 久の結婚 著者:出口和明
ページ:99 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B138904c03
0001 八木は山陰道の宿場町で、0002亀岡盆地の北部がややくびれ、0003その北側につづく小盆地の中心地である。0004亀岡と園部の中間に位し、0005文化をその両町に吸収されたいわば不遇な町である。0006前夜から小ぬか雨が降りつづくある朝のことだ。0007桝屋の泊まり客の注文で、0008久は宿の名を大書した番傘をさしながら、0009本町六丁目、0010桝屋と同じ町内の車屋帳場(人力車の寄せ場、0011たんに帳場ともいう)まで使いした。
0012 当時の本町六丁目は商業地で、0013綿屋・油屋・豆腐屋・こうじ屋、0014旅館は桝屋と八木屋、0015下酒屋・あめ屋・松屋菓子舖・石屋・馬車の停留場・人力帳場などがあり、0016大堰川にかかる大橋のたもとには川崎の宿・餅屋・横田屋という表具師、0017郡ざかいには休息屋あり、0018松並木は郡ざかいより馬車屋のあたりまで立ち並んで、0019とても風流な町なみであったという(八木町誌より)。
0020 八木では全部で人力車が十台ばかり、0021車夫も車の数だけは抱えられていた。0022京都・園部間に汽車が走る明治三十二年八月まで、0023人力車は早くて便利な文化的乗り物として大いに繁盛した。
0024 桝屋の客は常連なので、0025「車夫は、0026寅之助はんにしてや」と名指しであった。0027これまでも客の注文で、0028久は幾度か車屋帳場まで使い走りしたが、0029気むずかしげな福島寅之助にあまり好感は持っていなかった。
0030 寅之助は、0031この帳場では随一の健脚であった。0032いつもぴかぴか車を磨き立てていて、0033やたら誰にでも車に乗せんという自負を持っているとか、0034一本気で喧嘩早いとか……その一風変わったところがまた常連客に人気があるらしいのだが、0035「つまりひねくれとってんや」と久は思っていた。
0036 久が番傘をすぼめて帳場に入ると、0037この地方では珍しい洋服姿の先客があった。0038紳士は並んでいる数台の人力車を見渡し、0039自分の車に念入りに磨きをかけている寅之助の背に声をかけた。
0040「おう、0041この車に乗ってやろう。0042急いで園部まで行けい」
0043 寅之助はふり向いたが、0044金鎖をかけて胸をそらし、0045尊大に構えた紳士をじろりと見るなり、0046ぷいと面をそらし、0047聞こえなかったように車の手入れをつづけている。
0048「おい、0049行くのか、0050行かんのか……返事をせんか」と紳士は威嚇するように洋傘でとんと地を突いた。
0051「よう行かんのう」と寅之助はこの地方のもったりした訛で答える。
0052「それでは先客があるのか」
0053「いんや、0054見ての通りひまでかなわんが、0055なんやお前はんを乗せるのん、0056気がすすまんのじゃ」
0057「ぶ、0058無礼者。0059それが客に向かっていう言葉か」
0060「客やてか?……へえ、0061けったいなこと吐かすのう。0062乗せてこそ客やが、0063そやなかったら客もくそもあるけえ。0064わしの客になりたかったら、0065『乗せてんか』と言い直したらどやい。0066ほしたらわしかて、0067『おおきに、0068乗っとくれやす』となるのが人情や。0069それでこそ客と車夫で、0070この足はほっといても走り出すわい。0071まあ、0072ほかの車に乗ったりいな」
0073「しゃ、0074しゃ、0075車夫のくせに客のより好みして……ここの親父を呼べ、0076親父を……」と紳士が朱色になってわめいた。
0077 だが怒ってはみたものの、0078紳士の頭には、0079車夫は昔の雲助と変わらぬという固定観念があり、0080下層民に対する得体の知れぬ恐怖から一刻も早くこの場を逃げ出したいのが本心だった。0081だから年輩の車夫が寄ってきて、0082「旦那、0083こいつはちょっと変人やさけ、0084言い出したらききまへんねん。0085どうぞわしの車に乗っとくれやす。0086きばって走らせてもらいまっさ」と言ったとき、0087救われたような気持ちになったのもむりはない。0088紳士は泥をはね上げた薄汚れた車にそそくさと乗ると、0089わざと寅之助を無視してふんぞり返り、0090赤銅色の首筋のひび割れた車夫に「早う行け」と体面をかろうじて保ちながら命じた。
0091 紳士とその体面を乗せた車が見えなくなると、0092久は寅之助の前に進み出た。0093寅之助の理屈っぽさが、0094お株をうばわれたようで気にくわなかった。0095もしこの変人が桝屋の客の名指しをことわったら、0096堂々と理屈で対抗してギャフンといわせる気構えであった。
0097「桝屋のお客さんが、0098どうでも寅之助さんに走ってもらいたい言うてなはります。0099行ってもらえますか」と久は切り口上で言い、0100意気込んで寅之助を見た。
0101「へい、0102おおきに……」
0103 寅之助は気軽に立ち上がり、0104黒光りしている車の梶棒を取った。0105久は急に誇らしい気持ちになり、0106なぜか顔がかっとほてった。
0107 風が加わり強くなった雨あしの中を、0108久は桝屋へ向かった。0109乱れる裾を押さえ、0110傘を少しすぼめて前方に傾けねばならなかった。0111だが幾らも歩かぬうち石につまずいてのめり、0112下駄の鼻緒を切らした。
0113「おい、0114乗れや」
0115 下駄を片手にふり返ると、0116まんじゅう傘と雨がっぱから雨滴をしたたらせた寅之助が久の横に車を止め、0117手拭いをつき出している。0118久はどぎまぎして言った。
0119「わたし、0120はだしで走ります」
0121「どうせ、0122桝屋へ行く空車や。0123早う乗んな」
0124「でも足が……車がよごれます」
0125「汚れたら拭いたらええ」
0126 あたり前のことだ。0127久はかちんときた。
0128「わたしは別に乗りとうございまへん」
0129「けど下駄が……」
0130「かまいまへん。0131それともなんですか。0132あんたはんはわたしに、0133ただで乗ってほしいんですか」
0134「まあ……見かねるさかい……」
0135「そんなら、0136『乗れ』ということはござへんやろ。0137『乗っとくれやす』とお頼みになるのが道理やござへんか」
0138「何と理屈っぽい女じゃのう」
0139「どうぞお先に……」と久はつんとして言った。
0140「そう言わんと乗っていな」
0141 寅之助は真っ白い歯を出して笑った。
0142 あんがい親切な男なのだと久は急に恥ずかしくなり、0143あわてて手拭いを受けとり、0144泥に汚れた足を拭いた。
0145 生まれて初めて乗る人力車だった。0146車輪はゴムタイヤにかわる明治末年まで鉄の輪であり、0147がらがらと大きな音をたて、0148決して乗り心地のいいものではなかったが、0149それでも雲上人になったようにうっとりとした。0150初めて高級外車に乗った人の心境でもあろうか。
0151 この当時の人力車の値段は、0152京都市で、0153「――一人乗り一里六銭まで。0154夜分風雪難路は三銭以下増、0155二人乗り五割以下増、0156待合い一時間につき昼三銭、0157夜五銭以下増」というから、0158八木辺でもこれに準じたものであろう。
0159 幌の中から見ると、0160とぼとぼとぬかるみに足をとられている人々がなんと低く、0161みすぼらしく見えることか。0162金持はいつもこんな高い所から世の中を見てるのやなと、0163久は感嘆した。0164体を前に倒して車をひく寅之助の、0165笠の下からのぞく襟首が、0166日に焼けていても清潔であることも発見した。
0167 わずかな道のりがあっけなく終わった時、0168寅之助が令嬢にでもするように手をさしのべ、0169車から降ろしてくれた。0170笠の内側の寅之助の眼がやさしく久を見つめ、0171力強く握った手は、0172雨にぬれていながら包むように温かかった。0173今日まで久を追いまわし、0174すきさえあれば肌に触れたがった他の男たちとは、0175どこか違っていた。
0176「働き者の手やのう、0177良い手やのう」
0178 地上に降り立った久の耳もとで、0179ふいに寅之助は言った。
0180 久はぬけるように白いうなじにまで紅を散らし、0181恐いものにでも触れたように手を引っこめた。0182あかぎれで倍ほどにふくれた手を久は恥じ、0183人知れず苦にしていたのだ。0184からかわれたのかと思って見返したが、0185汚れた蹴込みをしきりに拭く寅之助の眉の濃い、0186あごの角ばった横顔には、0187そういう色はみじんも浮かんでいなかった。
0188 この雨の日以来、0189寅之助は、0190久の心に住む人になった。0191こと改めて会うことはなかったが、0192久は客の使いにはいそいそと帳場に出かけ、0193指名がなくてもいつでも寅之助の車を探すようになっていた。
0194 梅雨が明け、0195蛍のとびかう候になっていた。0196久は無性に綾部を恋うた。0197仲に立って縁談をすすめてくれる人も数あったが、0198どれも久の心をつなぎとめてはくれなかった。0199「あまり選り好みばっかりしとってやで、0200いかず(婚かず)になるわな」と陰口をきく者さえあった。
0201 別に選り好みしているわけではない。
0202 ――まじめで堅い人を見つけ、0203筋の通った結婚をして、0204母さんに喜んでもらおう。
0205 母が道楽な父を持ったばかりにどれだけ苦難の日々を送らねばならなかったか、0206子供の時から身にしみて知っている久であった。0207父のような男だけは夫にすまいと、0208久は心に誓っていた。0209久の求める夫の資格は、0210父と正反対でなければならない。0211それだけのことなのだ。
0212 久は桝屋の主人に宿下がりを申し出て許しを得、0213八木の町をあとにした。0214二十歳の春、0215父が死んでから故郷を出て二年余、0216久はわき目もふらず働いた。0217男たちの誘いを拒み、0218ただ、0219かたくまじめに勤めてきた。0220母のためにと必死で給金も蓄えてきた。0221わずかではあったが……。0222それなのに、0223むなしい思いが久をとらえ、0224理屈では割りきれぬ淋しさが心を揺さぶる。0225母に会って、0226心のやすらぎを得たかった。
0227 土ほこりにまみれた素足を見つめ、0228綾部に向かって歩き続ける久の背に声がとんだ。0229声は二度三度、0230久の背に追い縋った。
0231 ぼんやり顔を上げると、0232汗をしたたらせ、0233息をはずませた寅之助であった。0234彼は腰の手拭いで汗をぬぐい、0235久の行く手に立ちふさがって、0236どもりどもり言った。
0237「あんたを追ってきたのや。0238綾部へ帰るって聞いたさかいなあ。0239わし、0240あんたに言うておきたいことがある」
0241 寅之助は自分の言葉に興奮して、0242思わず久の両肩をつかんでいた。
0243「わしと結婚してくれい。0244わし、0245お前が好きじゃ」
0246 街道の真ん中であった。0247荷馬車が二人をかすめて通った。0248寅之助は、0249白昼夢を見ているような久の手をひいて、0250街道からはずれた土手に坐らせ、0251一気に自分のことを語った。
0252 寅之助は福島八右衛門・鹿の三男。0253古来より、0254八木村では、0255八木・秋田・福島・波部・小西を五苗と称し、0256福島姓はその一。0257寅之助の家は同じ株内で、0258代々、0259八木の西町で油屋を業としていたが、0260父八右衛門の代に米屋に転業した。0261寅之助の少年の頃に父が病歿。
0262 長兄徳三郎・次兄小三郎が道楽者で、0263怖い者がないのをいいことに賭博にふけり、0264負けては母に泣きついた。0265子に甘い鹿は、0266いやな顔もよう見せず商品の米を持ち出させたので、0267たちまち資金ぐりに困り、0268店をしめねばならなくなる。0269この始末にあわてて二人の兄は逐電し、0270三男の寅之助が裸一貫で稼げる人力車夫となって、0271残された母と五つ下の妹ちかを養っている――。
0272 これが寅之助の口から聞かされた本人の身上話であった。
0273 久もかくさず家の事情を打ち明けた。0274家が貧乏なこと、0275嫁入り道具は何一つできないなど、0276当面久がもっとも心にかかっていることを正直に語った。0277だが寅之助はひるまず、0278熱心に求婚した。
0279 寅之助に連れられて久はそのまま八木までとって返し、0280丸屋という料理旅館に行った。0281ここは車夫仲間が常時利用している気やすい店だった。0282お女将のお貞は、0283彼らの良い相談相手でもあった。0284世話好きのお貞は大乗り気でさっそく桝屋の主人福島良助を訪れ、0285仲人を依頼した。0286働き者の女中と律儀な車夫の人柄に好意を持つ良助は、0287すぐに快諾してくれた。
0288 寅之助の母鹿は相手が貧民の娘というのでこの結婚を喜ばなかったが、0289寅之助に食わせてもらっている現状では積極的な反対もできず、0290しぶしぶ承諾した。0291使いは綾部に吉報をもたらせ、0292直を喜ばせた。
0293 明治二十二年八月二十四日、0294寅之助と久は桝屋の広間で結婚式をあげた。0295寅之助は二十五歳、0296久二十二歳。0297福島家からは母と妹、0298出口家からは、0299王子にいる姉栗山琴だけが参列したが、0300こちこちに緊張し四角ばった寅之助と丸い頬を上気させた久は、0301誰の眼にも似合いの一対に映った。
0302 結婚を機に寅之助は分家して一本立ちになり、0303自分で人力車を持ち、0304八木町の本町六丁目、0305石屋の裏手に八畳・六畳に帳場のついた新居を構えた。0306没落したとはいえ、0307古い家柄の福島家には、0308まだこの程度の家を新築し周囲にわずかの畑地を買うぐらいの金は残っていた。
0309 これより少し前、0310次男の小三郎が帰ってきて家を継ぎ、0311マンガン鉱を始めたので、0312寅之助の母と妹ちかは西町の元の家にそのまま住んだ。0313義理固い寅之助は、0314落ち着くと久をつれて綾部まで出かけ、0315義母となる直に挨拶した。0316娘の晴れの挙式にも行ってやれず、0317気に病んでいただけに、0318直は婿殿の突然の来訪に心から恐縮し、0319一方、0320思いがけない喜びにおろおろした。
0321「夫婦で力を合わせて働き、0322うんと金を貯めて、0323世間からさげすまれぬ人間になりたい」と、0324若い二人は自分らの夢をこもごも語った。
0325 直はすまなさそうに、0326「久には六つの年から、0327あも(あん餅)の臼どりまでさしましてなあ。0328ちんこい子が、0329臼によじのぼるようにして餅まぜしとりましたわな。0330なにしろ貧乏の悲しさを骨身にこびりつけさせましたさかい……」と言い、0331「それでも、0332お金だけで人間の値打ちが決まるものではござりません。0333金持ちになるだけが目あてでは、0334淋しゅうなる時がきっとござります。0335いずれわかる時が来ますじゃろうが……」と深いまなざしで新夫婦を見つめるのだった。0336金持になるだけではという直の心には、0337大槻夫婦、0338義母の出口ゆりや親戚などの、0339金にとりつかれた妄執を思うのであろうか。
0340「お久の上には三人の兄姉がありますのやが、0341みな早くから外へ出てしもうてなあ。0342お久がその分、0343小さい肩に背負うて、0344饅頭売りから父や兄の看病、0345幼い妹らの世話と遊ぶ間ものう働いてくれました。0346奉公に出てからもちょくちょく奉公先まで前借りたのみに行く親ですさかい、0347お久にすまぬと思わぬ日はござりませなんだ。0348これからはどうぞ、0349二人して幸せになっておくれなされや」とも、0350直はしみじみ言った。
0351 寅之助が中座したとき、0352直は娘に詫びた。
0353「金だけで人間の値打ちが決まるもんやないなどとえらそうなこと言うてしもたが、0354甲斐性がないばかりにお前たちに親らしいこと何一つしてやれなんだわたしをどうぞ許しておくれ。0355さぞ肩身の狭い思いをしておろうなあ」
0356「いんえ、0357かましまへん。0358あの人はほんまにやさしゅうしてくれはりますさかい……」と久はにっこり笑ってのろけた。
0359 寅之助は独立した車夫として骨身惜しまず働いたし、0360久はせっせと畑を耕し、0361農繁期には他家へ手伝いに出たりして家計を支え、0362貯蓄という目的に向かって邁進した。0363衣食を極端に節し、0364夫婦心を合わせてちびちび貯めた預金がいつか積もって、0365わずかの月日で銀行にちょっとした信用を得るまでになっていた。
0366 日ごとに増える預金通帳の金額を眺めることは、0367貧乏にしいたげられた久にとって、0368愛の睦言以上の喜びであった。0369久は心から幸福であった。
0370 二度の奉公も、0371澄の天真爛漫さをそこねてはいなかった。0372いな、0373むしろブレーキをかける姉龍がそばにいないまま、0374羽目をはずしかけると止まらなくなる。0375一人留守居の毎日を、0376澄は底抜けに遊びほうけた。
0377 上町に布袋屋という古道具屋があった。0378いつもは薄暗い店内にかびくさい古道具類が雑然と積んである。0379だがこの日だけは一つ一つ埃をはらわれ、0380白日下に傲然と道を占領し、0381せり市と書いた赤いのぼりが風にはためいている。0382そして禿茶瓶を天日に光らせ、0383出目で赤ら顔の店主が大声をはり上げて客を呼んでいた。
0384 店先にしゃがんで、0385澄はあかず眺めていた。0386もったいぶって陳列された骨董品より、0387金歯をむき出し威勢よくまくしたてる店主を眺めた。0388無価値に思える品物が、0389店主の舌端にかかるとたちまち立派に見えるのが不思議であった。0390澄は店主に畏敬の念すらおぼえた。
0391 家に帰った澄は、0392台所の鍋・釜・土瓶・膳・ざる・欠け茶碗・掃除道具……手あたり次第に外に運んだ。0393それでも足らず押し入れの奥までかきまわし、0394がらくたを探し出しては道に並べた。0395こまごました暮らしの道具を洗いざらい持ち出すと、0396貧乏所帯とはいえ、0397家の前から研屋の前を通して牛田の家の向こうまで、0398間隔をあけてズラリと並んだ。
0399 ゴロの梅子がとんできて、0400引っ越しとでも勘違いしたのか、0401目の色をかえて澄の袖をつかんだ。
0402「これから古道具の市をひらくんじゃ」と澄が説明するが、0403梅子はきょとんと目を見はったままである。
0404「せり市ごっこや。0405お梅さんも手伝ってえな。0406おもろいでよ」
0407 そういううちにも、0408数人の子が寄ってきて、0409がらくたの行列を呆れて眺めた。
0410 澄は陳列品にはたきをかけながら、0411唇にしめりをくれて、0412近所中にひびき渡るような大声を張り上げた。
0413「市じゃ、0414市じゃ、0415せり市じゃ。0416みんな寄ってこんかあ」
0417 梅子が恥ずかしくなって、0418澄の背にかくれ、0419袖をひいて「やめろ」と合図する。0420が、0421かえってそれが拍車をかけたようである。
0422「さあ、0423いらんかな。0424掘り出しもんがえっとあるでえ。0425鍋に釜に柄杓にお膳、0426まだまだあるある、0427買わにゃ損だよ。0428安いでよ」
0429「なんや、0430銭もっとらんのかい、0431あかんがきやのう。0432なんじゃったら、0433そこらの石ころでも草の葉でもだんないで、0434銭のかわりに持ってこい」
0435 石ころを握った女の子が決断したように澄の前にそっと手をひらくと、0436
0437「ほい、0438五厘玉か、0439五厘ではろくな物はないが、0440口あけじゃさかい、0441大まけにまけてこの土瓶ならどうじゃ。0442さかさにしたら、0443布袋屋のはげちょ(はげ頭)とそっくりや、0444おままごとに使いな」
0445 女の子が嬉しげに小さな土瓶をかかえて走り去る。0446聞きつけて、0447手に手に木の葉や小石を持った子供たちが寄ってくる。0448物見高い大人の姿もちらほらまじる。0449澄はすっかり興奮し、0450おじけづいてしきりに袖ひく梅子にかまわず、0451はたきを振り上げた。
0452「いらはい、0453いらはい、0454この鍋を見とくれ、0455ちっと穴はあいとるが、0456物は使いよう。0457ほれ、0458こうかぶってみや、0459石合戦の時の冑になる。0460誰ぞ勇気を出して値えつけてみんか」
0461「十銭――」と鼻をすすりながら、0462男の子が叫ぶ。
0463「五十銭――」と負けずに、0464その横の子が叫ぶ。
0465「よっしゃ、0466売った」
0467「お澄さん、0468茶碗おくれ、0469箸もおくれ」
0470「これ、0471なんぼえ」
0472「うわあ、0473それ、0474わしにおっけえ」
0475「はい、0476椿の葉七枚」
0477 てんでに叫び、0478どの子も頬を燃やして大騒ぎ。0479仲間になりたげにうろうろしている桶屋の息子にも、0480澄の声がとぶ。
0481「おい、0482桶屋、0483さっきから見とるだけやが、0484ひやかしか。0485おしんぼ(しわんぼ)やさかい、0486よう買わんのじゃろ」
0487「よう買うで」
0488「そんならスパッと値えつけさらせ。0489ちょっと待て、0490よいもんがあるで」
0491 梅子にむりやり店番を押しつけ、0492澄は家の中へ走りこむ。0493神棚の横に大切に飾ってある縮緬の旗と法螺貝を持ち出すと、0494すぐに戻って、0495力一杯、0496法螺貝を吹いた。0497ボウーオーと低いしみ入るような音が響くと、0498子供たちは、0499歓声を上げて手を出した。
0500「どうじゃ、0501桶屋、0502鼻たれ大将が法螺貝ぐらい持たんでどうする。0503さあ、0504なんぼや」
0505「五十銭――」
0506「あかん、0507あかん、0508もう一声――」
0509「一円――」
0510「よっしゃ、0511売った」
0512 桶屋の息子が、0513後手にかくしていた大きな八つ手の葉と引きかえに法螺貝をつかみ、0514とび上がりとび上がり、0515走り去って行く。
0516「さ、0517おあとはどうじゃ」
0518 澄は、0519近所の官員さん夫婦がにこにこ笑いながら眺めているのに気がついた。0520この頃、0521月給とりのことを、0522おしなべて官員さんと呼んでいた。0523官員さん夫婦がおもしろそうにしている気配は、0524いっそう澄を鼓舞した。
0525 ますます調子にのって、0526片はしから何もかもくれてしまう。0527品物がなくなると、0528びんの底に少し残った醤油や味噌のかたまりや梅干しまで持ち出し、0529日暮れ頃にはほとんど陳列品はなくなった。
0530「ぼつぼつ店じまいするか。0531これ、0532いくらたかっとっても、0533もう売る物はないで。0534帰った、0535帰った」と澄は子供たちを追いやり、0536残ったどうにもならぬ屑物をあつめながら、0537
0538「よう売れたなあ、0539たんと儲かったわいな」
0540 梅子が木の葉や石ころの山を指さし、0541妙な声を上げて笑うと、0542澄もふき出して、0543
0544「市ごっこじゃで、0545ほんまの銭とられへん」
0546 夜、0547家に帰った直は竈に肥松をたき、0548そのほの明かりに照らされた台所の様子が淋しいのに首をかしげた。
0549「お澄や、0550いま帰ったで」と直はうたた寝している澄を揺り起こし、0551
0552「どうしたんじゃろ、0553鍋も釜もないが……」
0554 澄は眠りの世界からやっと戻ってきた顔であたりを見廻したが、0555急にうろたえ、0556小声で言った。
0557「そうや、0558せり市ごっこしてなあ、0559みんな売ってしもうたんじゃった」
0560「売ったって……銭もろうたんかい」と直はどきんとして聞き返す。
0561「うん、0562石ころや木の葉の銭やけど……あとで返してもらうつもりで、0563すっかり忘れて寝てしもた。0564すんまへん」
0565 直は思わず吹き出し、0566
0567「お澄はへんなとこ、0568父さんにそっくりじゃなあ。0569父さんが生きてじゃったら、0570父娘で家の中が空っぽになるまで持ち出して、0571市ごっこに夢中になりなさったやろ」
0572 それから、0573ほっと溜息をつき、0574
0575「これではご飯もたけんなあ。0576誰になに渡したか言うてみな」
0577 澄は持ち出した品物の名をあげたが、0578あまり多いので記憶は混乱していた。0579神棚の横から引き出した縮緬の旗と法螺貝のことを言うと、0580直は顔を曇らせて、0581
0582「これはどもならんなあ。0583あの縮緬の旗と貝は御先祖さまから伝わった大切なものやのに。0584なかには人にくれてよい物もあるが、0585台所の道具とそれだけは今夜のうちに返してもらわんならん。0586夕飯が遅うなっても、0587罰やさかい辛抱しなされよ」
0588 母が人の軒先を廻って屑物を買い集めているというのに、0589わが娘は遊びに景気よく品物をくれてやる。0590どんなに貧乏しても心まで貧乏すまいという直の日頃の覚悟が娘に反映しているかと思うと、0591きつい叱りようもできなかったが、0592現実にはどうにも困った。0593直は詫びを言い、0594頭を下げながら、0595品物を探して歩くのだった。
0596 山々の紅葉も散り、0597木枯しの吹く頃になると、0598龍も奉公先から帰ってきた。0599梅子をまじえた三人は、0600毎日連れ立って山へ登った。0601天王平の奥山や若宮さんの山、0602また質山へも柴刈りに出かけた。
0603 柴刈りも度重ねて行くうち工夫がついて、0604ただ下枝を拾い集めるだけではなく、0605竹の先に鎌をしばりつけ、0606大きな枯れ枝をみつけては刈ってまわり、0607手早く柴を集めるようになった。
0608 七、0609八つの子が、0610山ほど柴を負って帰るのを見て、0611「へえ、0612遊びほうけとってんかと思えば十五、0613六の子のやるような仕事もしてじゃなあ」と近所の衆が感心した。
0614 日が暮れてあたりが暗くなると、0615淋しくてたまらなくなる。0616すると梅子が、0617表の戸をコツコツたたく。0618澄はすぐ立って戸をあけ、0619母が背に荷を負う姿をし、0620まだ帰ってこないジェスチャーをする。0621梅子も同じように自分の母の姿をまね、0622かなわんなあというように泣きまねしてみせる。0623澄は梅子を中に入れ、0624三人は山から拾ってきた柴を竈でこっそり焚いてあたる。0625金助さんにでも見つかれば、0626また大目玉だからである。
0627 朴葉も拾った。0628大きな楕円形の木の葉で、0629軽くて、0630焚きつけによかった。0631しかし澄は桧葉が一番好きであった。0632ぱちぱちと音をたててはぜながら、0633淡紫にけぶる、0634ほろ甘い、0635少し渋味がかった空気の味わい――。
0636 澄の家には梅子の家のような囲炉裏はなかったが、0637吹雪の夜など、0638母がよく火鉢に桧葉をたいてフウフウと吹いてくれ、0639燃え上がる火の色に眼のあたりを赤く染めながら、0640かたまって手をかざすのだ。0641冬の日のその団欒を思えば、0642柴刈りや落ち葉拾いの苦しさなど、0643なんでもなかった。
0644 明治二十三(一八九〇)年、0645第一回帝国議会を召集、0646続いて教育勅語発布、0647また府県制・郡制が公布され、0648明治憲法体制がほぼ完成した。
0649 この春のひと頃、0650直はよく山家へ向けて仕事に出かけた。0651山家には麦で作った餡のうまい名物饅頭があり、0652子煩悩な直は子供たちに食べさしてやりたくてならず、0653「いっぺん山家饅頭、0654土産に買うてくるでな」と約束していたのだ。
0655 ある日、0656直は商いがうまくいったので、0657大奮発して一つ二文の饅頭十個、0658二銭がとこも買って、0659子供らの喜ぶ姿をおもい、0660胸をわくわくさせながら家路についた。
0661 荷物を上がり框に置き、0662草鞋をぬぐまがもどかしく、0663待ちくたびれて眠っている子供の枕辺まで、0664膝で畳の上を這って進んだ。
0665「お龍や、0666お澄や、0667早う起きな。0668ほれ、0669約束の山家饅頭じゃ、0670山家饅頭を十も買うて来たで」
0671 揺り起こされた龍と澄は、0672竹の皮にのった十個の饅頭を寝ぼけまなこで見定め、0673歓声を上げて手をのばした。
0674「どうや、0675おいしいかい?……」と幾度もたずねる母に、0676二人は答えるまも惜しそうに、0677
0678「うまい」
0679「おいしいで」とうなずきながらアッというまに平らげ、0680口もとの餡をぬぐいもせず、0681ぶっ倒れるように眠りこけた。
0682 翌朝、0683目ざめた子らに、0684「ゆうべの山家饅頭うまかったじゃろ」と直がにこにこ顔で聞くと、0685二人はきょとんとして、0686「すこい、0687お龍はん、0688一人で食うたな」
0689「あれ、0690わし、0691もろとれせん。0692お澄こそ一人で食べたんやろ」と泣きべそをかく。
0693 この時の印象がよほど強かったらしく、0694直は後々までそのことを思い出しては、0695「あんなつまらんこと、0696ございまへなんだ」と、0697一口話にしたものだが、0698龍や澄も絵にかいた餅を食わされたようで、0699「ほんにつまらなんだ」と嘆くのだった。
0700 茶摘みどきになると、0701龍はまた子守奉公に出て行って、0702澄は昼間、0703上町のひょうじさんという茶の製造元へ臨時働きに出た。0704子供でもできる茶選りをさせてもらって、0705日が暮れると、0706わずかの日当を手に家へ帰った。
0707 直は屑買いから夜遅く帰ってくると、0708澄に手伝わせて屑物の仕分けをし、0709それを背負い直して由松の建場へ売りに行く。0710澄はいつもついて行ったが、0711それは一日で一番楽しい時間であった。0712建場で屑物を金に代えたあと、0713あいた背中を、0714母はひょいと澄にさし向けるのだ。
0715 貧しい人たちほど子に対して不憫がつのり、0716情愛が深まるものだろうか。0717直が子に対して示した愛情は、0718それはこまやかなものであった。0719母一人、0720子一人の二人暮らしのこの間、0721澄はその愛情を独占して、0722うんと甘えた。0723星のまたたく夜道をおぶわれながら、0724高野屋という米屋へ寄る。
0725 二合ばかりの米や麦を買うと、0726米屋のおかみは呆れ顔で笑う。
0727「どうやいな、0728男八兵衛はん、0729赤ちゃんに逆もどりかいな」
0730 直は恥ずかしげに弁解する。
0731「昼は茶選りにやらせますさかい、0732かもうてやれるのは夜さりだけですのや。0733それでもこんなねんねが、0734昨年は福知で子守りしておりましたんですわな」
0735 母の背や髪は、0736懐かしいその匂いとぬくみと共に、0737終生忘れ得ぬ思い出となっていく。
0738 この夏も、0739直は栗柄へ糸引きに行き、0740澄は北西町の大槻家へ預けられた。0741澄一人の預け賃は一日米三合、0742別におかず代三銭のわりで支払う約束であった。
0743 朝早く起きて、0744澄は一人でよく一瀬山に柴刈りに出かけた。0745ある日、0746柴を負っての帰り道、0747のどが乾いてならず、0748近くに池があったのを思い出した。0749人気のない山の池の面には菱がいっぱいに葉を広げ、0750その間から白い小さな花がのぞいている。0751山の冷たい清水をたたえて、0752池は青く澄んでいた。
0753 澄はひざまずいて浮いている藻やごみを手で分け、0754水面に乾いた唇を近づけようとしたが、0755背にある重い柴が邪魔になる。0756思わず片足をかたわらの樋にかけたとたん、0757ゴトンと樋が動いて、0758ざんぶと池に投げこまれた。
0759 手足にからみつく藻、0760のしかかり胸をしめつける柴、0761足を吸いこむ水流……無我夢中でもがいているうち、0762指は固い物にふれ……はなれ……またつかむ。0763ゆらめく青い水――。
0764 池の水が激しい音をたて下の田に流れ落ちた。0765折よく田の草とりをしていた百姓が驚いてかけ上り、0766慌ててはずれた樋をかけ直し、0767ずぶ濡れになって土堤にうつぶしている少女を抱き起こした。
0768 ジーンと蝉の声が耳につき、0769澄はハッと我に返った。
0770 百姓が、0771澄の背から柴をはずしてやりながら聞いた。
0772「お前、0773この池から一人で這い上がったんかい」
0774 澄は起き直ってあたりを見廻した。0775景色は前と同じで、0776ただ百姓が一人ふえただけだった。
0777「どうやって上がったんか……よう覚えておらんのや」
0778「なんと小さい体して、0779運の強い子じゃのう」
0780 きかん気な澄の顔をまじまじと覗きこんで、0781百姓は呆れた声を出した。
0782「この樋がはずれると池の水がどっと下の田に落ちこむのや。0783二年ほど前にも男が一人はまったが、0784水に吸いこまれてお陀仏じゃった。0785こりゃまた誰かやられたわいと思うて走ってきたんやでよ」
0786 澄は今さらぞっとし、0787深い淵をのぞきこんだ。0788小さな両手を広げてみると、0789十本の指の爪の半分どころまで土がささり、0790どれほど必死に岸に縋りつこうとしたかを物語っていた。
0791 その夜は爪がずきずき疼いて眠ることができなかった。0792大槻家に預けられて母と会えない淋しさの上に、0793今日の出来事が重なって、0794母を恋うる思いは、0795いやましにつのるのだった。
0796 翌朝、0797澄はそっと北西町を抜け出し、0798新宮の家を見に走った。0799無人の家は雨戸がしまって、0800入りこむ隙はなかった。0801それでも家のまわりをぐるぐる廻って、0802あかず楽しんだ。0803褪せた紅殻格子にも、0804ひび割れた壁にも、0805母や龍の匂いがしみこんでいた。
0806 小さな裏の畑には雑草がはびこっていた。0807母の丹精こめた南瓜畑である。0808そっと大きな葉をどけてみると、0809思いがけない見事な南瓜がごろりとあって、0810澄は声を上げた。0811痛い指でまわりの草を引き抜き、0812深緑色の南瓜の肌を幾度も撫でさすった。0813母は南瓜やニドイモ(馬鈴薯)を作ることが上手で、0814いつもよい収穫をあげて近所の人を驚かしていたのだ。
0815 畑のぐるりには、0816母の植えたナンバ(唐黍)が背高くのびていた。0817風の吹く度に、0818ナンバの大きな葉と葉がすれ違ってサヤサヤと鳴り、0819青い皮のある実が揺れた。
0820 澄はナンバのやわらかい茶色の毛をむしりとって両手にはさみ、0821「毛が生えた、0822毛が生えた」と大声で叫びながら、0823町を走った。0824道行く人はおもしろがって眺める。0825その道化にかえって澄の悲しみは鋭くなるのに、0826何故かそうせねばおれぬのだった。
0827 爪の傷もいえたある雨の日、0828澄は兄の伝吉から糸つむぎを習った。0829はじめは神妙に坐っていた澄の膝小僧が次第にくずれ、0830しまいに太股まで見せて足を投げ出してしまう。0831でも小さな指は熱心に糸を離さなかった。0832遠い栗柄で糸ひきしている母に負けぬぐらい、0833うまくなりたかった。0834木綿を縒るのはむずかしく根気のいる仕事だったが、0835母がこれを知ったらどんなに喜ぼうと思うと胸がときめく。0836暴れん坊の澄が、0837時にはおとなしく女らしい仕事に打ちこんで、0838母を待つのであった。
0839 明治二十三(一八九〇)年七月二十一日、0840直の身内の出口もとが、0841二十二歳の若さで狂死した。
0842 その陰鬱な通夜に参列してきた直は、0843いつまでも寝つけなかった。0844まさか、0845まさかと打ち消してはみても、0846叔母ゆりの怨霊がいまだに地獄の底をさまよいながら、0847関係者の子孫に次々と乗りうつり、0848その怨念を果たそうとしているとしか思えぬ。
0849「あいつら、0850どぶ壺にはめちゃる。0851黒焦げにしちゃる。0852思い知らしちゃるわいな」
0853 凄まじいゆりの最後の絶叫が、0854いまだに直の耳の底に尾を曳いて木霊する。0855それは直十九歳の秋の出来事であったから、0856もはや三十六年の時が流れようというのに。
0857 ゆりをいじめて狂気の自殺にまで追いつめた「あいつら」とは、0858本家の出口儀助・分家の出口佐兵衛・ゆりの兄出口喜兵衛だ。
0859 出口儀助家は「クキ屋」と号する貸金御用達をし、0860当主は代々小兵衛を襲名した。0861安政元(一八五四)年のゆり死後、0862「クキ屋」の家運は急速に傾き、0863明治六(一八七三)年に儀助、0864明治十年にその妻が死ぬ。0865儀助夫婦には三人の子がいたが、0866二人は子供のうちに死に、0867小兵衛だけが成長した。0868だがなかなか嫁の来てがなく、0869明治七年二十九歳でようやく本宮村の出口ときを女房にもらうが、0870ときはその時点で四十五歳だから、0871女の方が十六歳も年上である。0872二人の間に子がなく、0873出口喜兵衛の孫政吉を養子にもらったが、0874今年十四歳になる政吉も病弱と聞く。
0875 出口佐兵衛家も不幸続きで、0876文久二(一八六二)年には佐兵衛の妻が、0877明治三(一八七〇)年には佐兵衛が、0878それぞれ労咳にかかって死ぬ。0879息子の常七が跡を継ぐがこれも病気勝ちで、0880まったく逼塞した状態が続いている。
0881 けれどもっとも悲惨を極めているのは、0882ゆりを虐げた首謀者といえる出口喜兵衛家だ。0883ゆりの死後まもなく一町をまるごと黒焦げにする大火の火元となり、0884身一つで逃れはしたものの喜兵衛夫婦は今日でいう胃癌におかされ悶死する。0885その息子が喜兵衛を襲名して妻常との間に四人の子を生むが、0886昨年、0887長男の太吉が十九歳で死に、0888今日また長女もとの狂死である。
0889 もとの死も、0890眼には見えぬ幻しい強力な意志が粘っこく操っているかである。
0891 ゆりの死後、0892一時、0893直が単身綾部に来て叔母の霊を祀っていた時のこと、0894叔母の「出口家の大切な宝は研屋の兵平に預けてあるから、0895万一のことがあれば受け取ってほしい」という言葉を思い出し、0896研屋を訪ねた。0897ところが兵平夫婦は「そんなもの預かっていない」と白を切り、0898しかも生前仲が良く、0899信頼しきっていた叔母の悪口を並べ立てたものである。0900その二年後には女房が死に、0901四方兵平家は次第に没落、0902後妻は元治二(一八六五)年、0903兵平は慶応四(一八六八)年に失意のうちに死ぬ。
0904 兵平には松と喜一郎というまだ小さい二人の子が残された。0905兵平の死によって喜一郎がわずか九歳で相続、0906二歳年上の松が親代わりに弟の面倒を見た。0907喜一郎は成長すると博奕と放蕩に身を持ちくずして、0908かつては小金をためこんでいると言われた四方家を潰してしまう。0909松は他家に転々と奉公するが、0910弟一人の住む荒廃した生家には寄りつこうとはせぬ。0911その喜一郎ともとが熱烈な恋仲になった。
0912 父喜兵衛がそんな恋を許すはずがない。0913喜一郎は評判の極道息子、0914しかももとより九歳も上だ。0915喜兵衛は強引に二人を引き裂こうとするが、0916もとは「どんなことがあろうと離れぬ」と言い張る。0917そのうち喜一郎の子を宿し、0918喜兵衛は怒って娘を勘当する。
0919 喜一郎は身重のもとを連れこんで同棲し、0920明治二十二年九月十六日に入籍する。0921その二か月後の十一月十二日、0922もとは小一郎を出産する。0923けれど産後の肥立ちが悪く、0924長患いの床につく。
0925 その後の喜一郎のとった行為は鬼畜にもひとしい。0926もとの病気が回復の見込みがないと見きわめると、0927喜一郎は重病のもとを喜兵衛家にかつぎこみ、0928十一月二十八日にさっさと役場へ離婚届けを出している。0929熱烈な恋愛の末、0930もとは勘当されてまで喜一郎と夫婦になり、0931子までなしながら、0932病気になると捨てられる。0933もとはついに狂い、0934喜一郎を恨み呪いながら死んでいく。0935もとの戸籍上の妻の座はわずか七十四日――。
0936 娘を死なせた喜兵衛は、0937憎い喜一郎の血を継ぐ小一郎の引き取りを拒絶した。0938残された乳飲み子を抱え、0939喜一郎は当惑する。0940赤ん坊を火の消えた炬燵に濡れたおしめのまま寝かせ、0941砂糖湯をこしらえて傍に置き、0942戸を閉めて遊びに出る。0943赤ん坊が一人で砂糖湯を飲めるわけはなく、0944ほんの気休めに過ぎぬのだが……。
0945 ある日、0946喜一郎は大槻鹿蔵の博奕場に何日も居続けた。0947さっぱり芽が出ず、0948質に置く物がなくなるまで負け、0949さりとて自殺もできずしょんぼり家へ帰ってきた。0950厄介な小一郎はとっくに死んだものと思いのぞいて見ると、0951ぱっちり眼をあけ、0952息だけしていた。0953強靱な生命力である。
0954 その噂を聞いた出口小兵衛が小一郎を引き取り、0955こしらえ乳でどうにか育てている。0956小兵衛の家にはすでに喜兵衛の孫政吉が養子に来ており、0957喜兵衛の血縁が二人揃ったことになる。
0958 喜一郎の姉の四方松も薄幸の女性だ。0959本宮町の士族大槻藤内の家に女中奉公していた時、0960藤内の長男熊吉に思いをかけられ、0961松も熊吉が好きになる。0962大槻家では主人の息子と女中の仲を許すわけがなく、0963明治八年春、0964二人は手に手をとって駆け落ちした。0965熊吉十九歳、0966松十八歳であった。0967京都で熊吉は時計屋に奉公し、0968松は別の家に女中奉公して、0969苦労しながら逢瀬を楽しんでいた。0970やがて熊吉は博奕に熱中、0971あることで傷害事件を起こして七、0972八年の懲役刑をくらった。
0973 その間、0974松は熊吉を待って一人で歯を食いしばって生きる。
0975 熊吉の刑が終って二人は再会したものの、0976前途はまっ暗、0977都会で生きて行く自信が揺らぎ、0978綾部へ逃げ帰ることにした。0979ところが二人は無一文、0980京都から綾部までの二十六里、0981珍妙な道中となった。0982熊吉がわけのわからぬことをわめいて煮売り屋にとびこみ、0983並べてある物を手づかみで食う。0984見はからって松が走りこみ、0985「この人は気が狂うてますさかい、0986許してやっとくれなはれ。0987それでお代はいかほど……」と詫びながら、0988財布を出しかける。0989熊吉が大声でわめいて外へ走り出す。0990店の者があきれていると、0991松は狂人をつかまえるふりをして熊吉の後を追う。0992次に役割を交替し、0993松が狂女の真似をして饅頭屋にとびこむ。0994こんなことをくり返しながら、0995綾部まで辿りついた。
0996 大槻藤内家では、0997他家へ養子に行っていた熊吉の弟吉蔵が戻ってきて家を継いでいたし、0998四方家の家屋敷は喜一郎が売り払っていた。0999二人は通称「裏町」(現・綾部市若竹町)に一間を借りた。1000松が料理屋の仲居などをして働き、1001前科のある熊吉は女房の稼ぎにおんぶして定職を持たず、1002最近では大槻鹿蔵の賭場に入りびたりという。
1003 もとの通夜には、1004出口喜兵衛、1005政吉と、1006がりぼしに痩せた小一郎・小兵衛夫婦・常七夫婦・大槻熊吉と四方松・大槻鹿蔵夫婦と親戚が顔を揃えていた。1007が、1008いずれもみすぼらしくて暗い翳りを引きずっており、1009かつての出口一族の面影はない。
1010「おもとさんが狂うちゃった時、1011ひどう脅えておゆりさんの名を呼ばわり続けとったげな。1012近所でもっぱらの噂やでよ」と熊吉が喜兵衛に聞く。1013喜兵衛は聞こえぬふりで、1014ぷいと立った。1015松が膝をつねるのもかまわず、1016熊吉は言った。
1017「けんど変ななあ。1018おもとさんはおゆりさんが死んで二十年も後に生まれた子やそうなげなで、1019知っとってんはずがないのに……」
1020 一同が蒼ざめた顔を見合わせて黙りこくった。1021出口家一族の中では、1022ゆりの名は禁句らしい。
1023 因果応報の相関図を目のあたりに、1024直は居たたまれぬ思いがしたものである。
1025 ――これが叔母さんの祟りじゃとしたら、1026あまりにむごい。
1027「ゆり叔母さん、1028どうぞよいころかげんに許したげとくれなはれ」と直は口に出して呟く。
1029 チャボが時を告げた。1030明日は早くから葬儀の手伝いをせねばならぬというのに、1031寝苦しい夜を直は転々ともだえる。
   
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