霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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座敷牢

インフォメーション
題名:09 座敷牢 著者:出口和明
ページ:345 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B138904c09
0001 明治二十六年四月十九日夜半、0002せんだ町の材木商・森守蔵家から火の手が上がった。0003原因不明の不審火であった。0004せんだ町という町名、0005正式には存在しない。0006田町と西本町の境界の小溝に石橋があり、0007その手前、0008田町を東に入る小路を俗にそう呼んだ。
0009 この年は正月からしばしば火事があった。0010いずれも不審火であり、0011放火の嫌疑が濃厚であったが、0012何人の仕業かわからない。0013無気味な火の跋扈は町民を恐怖にまきこみ、0014神経をとがらせずにはおかなかった。0015寄るとさわると火事の噂。0016森家の火事はさいわい類焼をまぬがれたが、0017警察の無能ぶりが不信感を招き、0018また消火施設の不備が町民の不安と不満をつのらせていった。
0019 明治二十六年時点における綾部町の消火設備はまことにお粗末。0020たとえば防火用水池にしても、0021西福院前に二ヵ所、0022本宮に一ヵ所あるほかは、0023上町・南西町・広小路角の水だまり、0024そして田町の清水井を引いたものがあるだけだった。0025組織的な民間消防はまだなかったから、0026一度火災を出せば人々はただ右往左往するばかり。0027てんでに桶水を抱えて走り、0028燃えさかる炎のまわりにジャッとぶちまけてはまた釣瓶をくる――。0029少し風でもあれば、0030藁ぶきの屋根に散る火の紛はわけなく炎と化す。0031十軒や二十軒焼けることも当然という、0032なんとも情けない原始的消火法であった。
0033 翌二十七年になってようやく本町に初めての消防組が組織されたが、0034それとて江戸時代さながらの姿であった。0035器具はポンプ一・纏一・高張提燈二・はしご二・鎖鉤つき麻縄一・鳶二〇・水汲桶一〇・水肩担桶二・ただしポンプ調整までは当分のうち応竜水(古風な和製ポンプ、0036竜吐水のことか)をもって代用す――といった具合なのである。
0037 さて、0038警察は、0039犯人探索に躍起であった。0040というのはほかでもない。0041これまでの庁舎は広小路の民家(百九十七坪)を借りていたのだが、0042ようやく本宮二番地に新庁舎を建設中であったからだ。0043落成式は五月、0044もう目前に迫っている。0045二百十六坪、0046七棟という威容を誇る新庁舎の威信にかけても、0047どうでも犯人をお縄にして面目を保たねばならない。
0048 森家が全焼した翌夜、0049安藤金助の家でも、0050ご多分にもれず同じ話題がくり返されていた。
0051「それでもかなわんでよう。0052なんでこんなに火事が続くのやろ。0053つけ火やげなが警察は何しとるんかいな。0054いばっとるのもよいけど、0055まず犯人を召し捕ってからにしてほしいわな」
0056 機を織る手を止めて、0057お初が義憤の口をとがらせる。0058女房の言葉にいつも同感の意を惜しまぬのは金助である。
0059「ふんとやでよう、0060物騒なこっちゃ」
0061「向かいの婆さんかて、0062何しでかすかわからへん。0063何とかしてもらわな、0064かなんこっちゃない」
0065「そうや。0066なんちゅうても気違いじゃでなあ」
0067 金助が夜なべの草履作りの手を中断してひょいと黒砂糖を口にほうりこんだ時、0068こたえるように向いから直の叫び声がはね返ってきた。
0069 囲炉裏に肥松をちびちびくべて明かりをとっていた眼の見えぬ婆さんが、0070歯のない口であくびしながら、0071やおら腰をおこした。
0072「やれやれ、0073もうお直はんがわめき出してん時刻かいな。0074こりゃだいぶ遅いで。0075あまり根つめんと、0076もう休ましてもらおいな」
0077 機をしまいかけながら、0078お初が言う。
0079「わしとこでも気いつけな、0080狐つきやら狸つきはようつけ火して喜ぶいうこっちゃで」
0081 直の大声が、0082表戸を通してはっきり聞こえた。
0083「世界に大きなことや変わりたことが出てくるのは、0084みな金神の渡る橋であるから、0085世界の出来事を考えたら、0086神の仕組がわかりて、0087誠の改心がでけるぞよ。0088善き目ざましもあるぞよ、0089また悪しき目ざましもあるから、0090世界のことをみて改心いたさねば、0091どこへ飛び火がいたそうも知れんぞよ」
0092 飛び火ときいて、0093婆さんが「しっ」と口を押える。0094金助もお初も後片づけの手をとめて、0095一言も聞きもらすまいと息を殺した。
0096 直の声が続いた。
0097「改心、0098改心と神が一点ばりに知らすなれど、0099まだ敵とうてくる者はかわいそうなぞよ。0100せんだ町の森どのがよいみせしめであるぞよ」
0101 ぎょっとして、0102三人は顔を見合わせた。0103お初は金助とうなずきあい、0104裏口から抜け出て、0105夜道を組頭の四方源之助の家へと走った。
0106 四月二十一日朝、0107国谷刑事は、0108まだ外装の終わらぬ新庁舎の刑事部屋で新米巡査の入れてくれたぬるい番茶を一口すすると、0109コツコツと皮靴のかかとを響かせ、0110木の香の匂う署内を胸をはって見廻った。0111そろそろ移転が始まっていて、0112署員たちも張りきって書類などを運びこんでいる。0113庁舎の真正面上方には菊の御紋章がいかめしくはめこまれている。0114実に満足であった。
0115 部屋に戻って煙草をくゆらした。0116建物が立派になれば、0117中に住まう自分まで急に立派に感じるのは人情というものである。0118そろそろ髭でもたくわえねばならんわいと思ったが、0119髭の薄い署長の松井深造警部がいつもむきたての玉子のようにつるつるそっているので、0120ちょっと不都合であった。
0121 新米巡査が顔を出して面会者の来訪を告げた。0122国谷はゆったり椅子にかけたまま鷹揚にうなずく。0123だが入って来たのが四方源之助と見るや慌てて飛び上がり、0124この町の名士に恐縮して椅子をすすめた。
0125 話が終わって源之助を鄭重に送り出してから、0126国谷は勇んで新庁舎を出た。0127南へ二筋目の道を西ヘ向かって初めての四つ角。0128同じ本宮村である。0129距離にしていくらもない。0130格子や板壁にぬった紅殻がまだらにはげて、0131夜鷹の起き抜け面のような家である。
0132 そのすべりの悪い表戸をあけると、0133予期していたように出口直が板の間に端座していた。
0134 国谷は神妙に頭を下げ、0135
0136「お直さん、0137つかぬことを聞くが、0138あんたは金神さんを信仰しとるげななあ」
0139「はい、0140しとります。0141艮の金神さまはまことの神さまでござりますさかい……」
0142「そんな偉い神様さまなら、0143どんなことでもできてじゃなあ」
0144「わたしは、0145そう信じとります」
0146「そこでじゃ、0147どえらい大病人ができたさかい、0148ちょこっと来て、0149その金神さまに伺うてほしいんじゃな」
0150「いやでござります。0151わたし、0152気がすすみまへん」
0153「人を助けるのが神さまの勤めやないかいな。0154そんな薄情なこと言わんと、0155ちょっと来とくれ」
0156「よう行きません。0157この敷居から一歩も出まへんさかい、0158ほんまに伺うてほしいんじゃったら、0159ここまで連れて来なされ。0160世界のことなら、0161すぐ伺うてあげます」
0162「それでは連れて来るでなあ、0163どこへも行かんと待っとるんじゃでよ」
0164 一人では無理と見きわめると、0165国谷刑事はさっそく警察ヘとって返し、0166応援の巡査二名を連れてきた。0167面倒とみたのか、0168今度は無造作に直の手首をつかみ「さあ、0169婆さん、0170警察へ行こう」と引っぱるが、0171骨皮ばかりの小躯が、0172なんとしたことか板の間に根を張ったようにびくとも動かぬ。
0173「こら、0174立たんか、0175強情な婆ぁめ」と国谷があきれて言うのへ、0176凛とした声がはね返る。
0177「警察へは、0178わたしが行きたがっておるのか、0179お前さまたちが来てほしいのか、0180どっちですいな」
0181「それはまあ、0182取調べの筋があるによって、0183警察が来てほしいのじゃわい。0184素直に立たんかい」
0185「それならそうと、0186始めから正直に言いなさればよい。0187それでも、0188わたしの用事で行くならわたしの足で歩いても行きましょうが、0189どうでも来いと言うのなら、0190警察の力で連れて行くのが道理じゃ。0191わたしは誰にも逆らいはしませぬ。0192行った先がわが家でござる」
0193「お上が連れて行くなら、0194おとなしくついて来ると申すのかい」
0195「はい。0196……じゃが、0197わたしの体は神さまと二人分でござるさかい、0198ちょっと重いかも知れませぬぞや」
0199「よし、0200神妙にしろ」
0201 国谷は巡査に手伝わせ直をかつぎ上げようとしたが、0202どういうものか重くて持ち上がらない。
0203「痩せているのに、0204なんとも重い婆さんじゃわい。0205誰か畚を借りてこいや」
0206 巡査の一人が近所から畚を借りて来て、0207ようやく三人がかりで直をそれに移した。0208直はされるがままに楽しげな面持ちで眺めている。
0209 前後に廻った巡査が、0210担い棒を肩にかけ、0211茹で蛸みたいに顔を真っ赤にしてかつぎ上げるが、0212まるで鉛のかたまりを持ち上げたよう。0213足がもつれて、0214酔いどれみたいに千鳥足である。0215これでは警察の威信もぐらぐらだと、0216あわてて国谷が横から支える。0217ひょろひょろと、0218遅々と、0219畚のお駕篭が前へ進む。0220足が畚の外へ出てぴんと上がると、0221直は叫ぶ。
0222「お足が上がるぞよ。0223用意をなされよ。0224足元から鳥が立つぞよ。0225この世はおあし(銭)では治まらぬぞよ」
0226 集まって来た近所の衆が、0227あきれてこの珍妙な道中を見送った。
0228 広小路の旧庁舎まで運びこむのは無理とみて、0229ともかくすぐそこの新庁舎へと、0230三人は畚を引きずるようにして歩いた。0231警察の屋根の見える所まで来ると、0232国谷はたまりかねて叫んだ。
0233「おうい、0234誰か加勢に来てくれいや」
0235 が、0236聞こえぬのか、0237誰も出てこない。
0238 三人の汗で地を湿らせるほどに体内の水分をしぼりきり、0239ようやく署内に運びこみ、0240縁にかつぎ上げた。
0241 直は肩で息をする彼らを涼しげに笑ってねぎらった。
0242「やれやれ、0243御苦労でござった」
0244 巡査が署長を呼びに行く。0245やがて松井警部があらわれ、0246大きな机を前にどっかと腰を下ろした。0247直は立ち上がって、0248みずからその横の椅子に腰かける。0249署長は直をじろりと見やった。0250たいていそれで容疑者は縮み上がるのだ。
0251「出口直というのはお前か」
0252「はい。0253話が遠い、0254もっとお前さんの傍まで行きましょう」
0255 直は腰かけたまま、0256椅子を署長の前までずり寄せた。0257その瞬間、0258何か強い力が向かってくるようで署長は思わず身をそらしたが、0259かろうじて威厳をつくろい、0260訊問にかかった。
0261「せんだ町の森守蔵の家を焼いたのはお前じゃな」
0262「この金神さまは、0263よその家を焼くような悪戯する神ではござりませぬ」
0264「ちゃんと訴人があるから、0265しらを切ってもあかんわい。0266かねてから森殿に意趣でもあるのじゃろう」
0267「何も意趣などござりません。0268金神さまが焼かいでも、0269神の中には悪神もござります。0270どんな悪戯しとるやらわかりません故、0271よく吟味しておきますわいな」
0272「黙れ、0273本官をなめちょるのか」
0274 署長は机を叩いて威嚇してみたが、0275直は平気な顔で、0276物珍しそうに署内を眺めまわしている。0277あとは何を聞いても答えない。0278ついに手をやいて、0279国谷に命じた。
0280「しぶとい婆さんじゃ。0281明日ゆっくり泥をはかしてやるぞ。0282とにかく今夜は留置場へ拘留しとけ」
0283 直はまだ一人として入ったことのない青畳の留置場へ入れられて、0284すこぶる機嫌がよかった。
0285「これは有難いことでござりますなあ。0286ここは牢というけれど、0287なかなか結構なお神床でござる」とにこにこ笑いながら、0288留置場の壁にもたれて目をつむった。0289安息した気分になっていた。
0290 何時問たったろう。0291のどの乾きをおぼえて格子の間からのぞくと、0292ちょうど三男の大槻伝吉が、0293こわごわ様子を見にあらわれた所であった。
0294「伝吉や、0295すまぬが水おくれ」
0296「へい、0297すぐ持ってくるでなあ」
0298 伝吉は警察で借りた青い土瓶に素焼きの茶碗を持ってきたが、0299直は首を横に振って拒絶した。
0300「わたしの体は神さまのお社じゃ。0301そんな穢れた茶碗では飲まれませぬ」
0302「母さん、0303ここは警察やで……」
0304 伝吉が困ってなだめかけると、0305巡査は聞きとがめてからかった。
0306「それはそれは御大層な御身分で……そんなら雪のような白い茶碗を持って参じますかな」
0307「おう、0308穢れのない、0309雪のような白い茶碗を持って参れ」
0310 特別に借りてきた白い茶碗で、0311直はさもうまそうに水を飲みほすのだった。
0312 その夜の食事は四方源之助が差し入れた。0313運んだのは、0314四方家へ奉公中の直の四女龍である。
0315「お龍、0316うちも連れて行って」
0317 源之助の長女文が裏に廻って、0318龍の後からそっとついて行った。
0319 晩年、0320文はこう語っていた。
0321「何しろ八十年も昔のことですさかい、0322あらかた忘れてしまいましたがええ、0323食事を運んだお皿の絵柄だけは、0324どういうものか今でもはっきり目に浮かびます。0325安物の瀬戸皿に、0326青い色で菊の花模様がありましたわな。0327その皿の上に三角おにぎりが三つ、0328そして胡麻がふりかけてあったのを覚えております」
0329 薄い蒲団にくるまって小半時、0330直はぐっすり眠り、0331目をさました。0332同じ署内の宿直室では宿直の署員が二人、0333いつものように素焼きの茶碗に満たした冷酒を飲みながら、0334世間話に興じていた。
0335 ふいに大声がおこった。
0336 動転した署員の手からその茶碗が滑り落ち、0337床に砕け散った。
0338「な、0339なんじゃろう、0340あの声は……」
0341 その声が、0342まるで耳元に口を寄せて叫ぶかのようにがんがん響く。
0343「人民の番人が茶碗酒のみくろうていて、0344番人の役が勤まると思うのか。0345穢れた茶碗と申しておいたであろうがな。0346今日稼いで親や子を養わねばならぬ者から税をとり、0347税がおくれたというて三銭の罰金を取り立てて、0348それで酒を飲んでうまいのか。0349この世は上に立つ者ほど乱れておるぞよ」
0350「あの婆あじゃ。0351ちえっ、0352見えもせんのに、0353困ったことをぬかしよるわい」
0354「あんなこと叫ぶ気違いは早う釈放せんと、0355署長の耳に入ったら大事やでよ」
0356 二人の囁きに呼応するごとく、0357頭の芯がしびれるばかりの声がとどろき渡る。
0358「改心せぬと、0359早う出てくれいと頼まれても、0360三年たとうがここ動かぬぞよ」
0361 二人は首をすくめ、0362
0363「なんとけったいな婆あじゃ。0364わしらの声が聞こえるのかなあ、0365まるでどちらが監視しとるかわからんわや」
0366 直は叫ぶ。
0367「千里先でも聞こえるぞよ、0368千里先でも見えるぞよ」
0369 宿直員は酔いもさめはて、0370しらけきった顔で酒をかくし、0371ちらばった茶碗の破片をかたづけるのだった。
0372 明方、0373神が去ると、0374直は一昨年の出来事を思い出した。
0375 ある日、0376町役場の上納係で、0377ひらわさんという爺さんが税金の督促にやって来た。0378当時の綾部町役場の吏員は誰も洋服を着ていず、0379みな着物に袴という姿だった。
0380 今日の米にも困っている時に税金のはらえるはずがない。0381直は奥に行き、0382押し入れの中をかき廻してみたが、0383どう思案しても金にかえる物はなかった。0384税金が町やお国のために役立つのだと聞いていればこそ、0385何としても払わねばすまぬ思いであったのに――。
0386 消え入りたそうに、0387直はひらわさんの前に手をついて頼んだ。
0388「いまはできません。0389できたらすぐにお届けしますさかい、0390今日のところは堪忍しておくれなされ」
0391 ひらわさんはさんざん毒づいて帰ったが、0392澄が小さな体で母をかばうように立ちはだかり、0393上納係をにらみつけていた光景も忘れられない。
0394 明治二十二年の町制実施当時、0395綾部町会で町費条例が定められたが、0396その中の徴収督促条例によると、0397
0398 ――納期後五日以内に督促し、0399督促後五日を過ぎてまだ納税しない時は、0400再督足する。0401再督促を受けても完納しない時は、0402滞納処分法により徴収する。0403督促一回受けた者は金一銭、0404再督促受けた者はさらに二銭、0405計三銭の督促料を払わねばならない。
0406「税がおくれたというて三銭の罰金云々……」と叫んだのは、0407このことを指すのであろう。
0408 当時の直は役場の人たちが飲んだくれて町を通るのを再三見かけても、0409税金さえ満足に払えぬ身を恥じ、0410いつも面を伏せてすれ違ったものである。0411それから二年後の今、0412直の心は、0413かかる社会のひずみに湧き上がる怒りを知るようになった。0414なんたる変化であろう。0415神の叫びにあらがいつつ、0416いつからか染み入り同化していく我に驚く思いであった。
0417 署員の姿がちらほら見えだすと、0418また直は発動して、0419牢の中から叫び出した。
0420「あまりこの世に運否があるので、0421神が見ておれぬから改心いたして、0422よき世といたすぞよ。0423世が変わりて、0424下が上になるぞよ。0425いまの人民、0426見えず聞こえぬ者ばかり、0427神が見ておれば、0428井戸のふちに茶碗をおいたように、0429あぶのうて見ておれんぞよ。0430神がくどう気をつけるぞよ」
0431 正常な人間なら打ち叩いても黙らせることもできようが、0432相手が気違いでは手のほどこしようがない。0433折から登庁した署長と国谷は顔を見合わせ、0434「なんじゃい、0435あの婆さんは。0436えらい者をひきずりこんだわい」と溜息つくばかり。
0437 疲れも知らず、0438直は叫び続ける。
0439「これだけ呼ばりても、0440目がさめぬか。0441そなたらがこの世に食い倒しに来ておるから、0442この世は行けんようになるぞよ。0443用意をなされよ、0444足元から鳥が立つぞよ」
0445 昼近く、0446あわただしく国谷刑事が帰って来て、0447松井署長に耳うちした。
0448「うーむ、0449そりゃ間違いないな。0450するとあの牢の婆さんは……」
0451 国谷はてれた顔になり、0452
0453「は、0454無罪放免というわけで……」
0455 真の放火犯人は田町の大工の幸七で、0456今朝がた大工小屋に放火している現場で逮捕され、0457旧庁舎で調べた結果ついに自白したという報告であった。
0458 警祭という所は、0459罪ある者には興味を示すが、0460そうでない者にはまるで関心がない。0461ましてうるさい直に手こずっていた矢先だけに、0462やれやれと署長は釈放の手続きを命じた。0463だがこの荒れようでは、0464保護者なしでつき放すわけにはいかない。0465それで親戚代表として、0466北西町の大槻鹿蔵が呼び出された。
0467「お前、0468この婆さんを連れ帰って、0469なんとか守りしてやれいや」
0470 署長の命令に鹿蔵は上目づかいになり、0471「いん鹿」の本領を発揮して居直った。
0472「へんちくりんなこと言うてやなあ。0473あんたらが罪のない婆さんの手とり足とり三人がかりで畚で運んじゃったげなが、0474一言でもわしにことわり言うてくれたかい」
0475「何をいうか、0476容疑者つれてくるのに、0477いちいちお前にことわるかい」
0478「そうですかい。0479そんならよろしいがな。0480わしにことわりなしに、0481どうぞ放したっておくれなはれ。0482ただしこの婆さん……どえらい者が憑いとるで、0483暴れ出して騒ぎおこしても、0484わしの知ったこっちゃないでよ」
0485「そうごねんと、0486頼むで連れていんでくれ」
0487「ほんなら手かせ足かせ貸してくれなはるか」
0488「罪のない者に、0489まさか手錠ははめられんわい」
0490「そんなら、0491どないせいと言うんじゃいな」
0492「しゃあないわな。0493座敷牢でも作って入れとかな」
0494「へえ、0495座敷牢……ほなもちろん、0496警察で作ってくれてやろなあ」
0497 署長はつるんとしたあごをなで、0498
0499「無茶いいないな。0500公費でそういうことはでけるかい。0501それでも治安維持のために必要とあらば、0502ま、0503四方はんにでも相談してみるかのう」
0504 鹿蔵はにやっと笑った。
0505「もともと婆さんを入れたんは組の訴人ちゅうことじゃで、0506組でもそれぐらいの面倒みる責任はあるわな。0507座敷牢できたら呼んどくれ。0508その時はまた迎えに来ますで」
0509 これで座敷牢作る銭は儲けたと鹿蔵はほくそ笑み、0510ゲタを組に頂けて北西町へ帰って行った。
0511 警察からの依頼で、0512四方源之助はすぐ町内の主だった者を集め、0513相談にかかった。0514しかしこの頃になって直の金神の力は町内の者たちに恐れられ出したと見え、0515どの大工もいやがって座敷牢作りの引受け手がない。0516それを聞いた本宮の桶屋が仕事を買って出た。0517組内の者も手伝い、0518出口家の屋敷の艮の隅にばたばたと一坪ほどの座敷牢を作り上げた。
0519 その夕、0520直を迎えに来たのは、0521大槻鹿蔵、0522山田善太夫の二人である。0523山田は元足軽で同じ組内、0524三代続いた四方家の子方であった。
0525 直はおとなしく警察を出て、0526二人についていった。0527夕靄せまる出口家の前には人だかりがしていて、0528梅原おきが梅子の手をひき、0529蒼ざめて直を見ていた。
0530 露地を通って裏にまわると急造の堀立小屋の一面に荒格子が組んである。0531入口に冷たく光る南京錠。0532夜具のほかはぽつんとそれだけ置かれた便器が、0533直の胸をついた。
0534「さあ、0535母さん、0536ここに入んな」と鹿蔵はあごで牢の入口をさす。
0537 発動の去った直は恥ずかしさに身を固くして、0538
0539「あんまりやで、0540鹿蔵。0541わしはこんな中に入るのはいやじゃで」
0542「なあに、0543四、0544五日でよいんじゃ。0545そういう条件で警察から出してもろたんやさかい、0546真似事にでも入ってもらわんならん」
0547「そうや、0548鹿蔵はんの言うちゃった通りやでよ。0549おとなしゅうせなんだら、0550また警察ヘ逆戻りせんなんわい」と善太夫も口をそえるので、0551直は観念して自分から座敷牢に入った。0552錠のかかる金属音が響く。
0553 ゴロの梅子が奇声を上げて牢格子にすがったが、0554鹿蔵につきのけられて後ずさった。0555鹿蔵は近所の子供たちにおどすようにいった。
0556「ここに近寄ることはならんぞ。0557そばへ寄って怖い憑き物がお前らの背中にのりうつっても、0558わしゃ知らんでよ。0559よう言うとくぞ」
0560 こうして直の幽閉生活が始まった。0561食事は大槻家から毎朝、0562木の椀の底に半杯ほどのうすい粥が運ばれた。0563大槻伝吉がその粥を運んだ。0564それきりで、0565昼食も夜食もなかった。
0566 ――狂った米のほかに、0567このわたしまで抱えては大槻家の所帯はどんなにか苦しかろう。0568一椀の粥とて露命をつなぐことはできる、0569と直は押しいただいて食べた。0570しかし日頃から食の細い直でも、0571さすがに空腹にたまりかねる夜があった。0572すると神の声がある。
0573「……直よ、0574掌をねぶれ。0575掌をねぶっておれば、0576力がつくぞよ」
0577 ふっとおのが掌に唇をつけると、0578かすかに甘く香気があった。0579思わずねぶった。0580不思議にひもじさが遠のき、0581気力が湧いてくるのだった。
0582 伝吉のほかに毎朝きまって訪れる男は、0583森下岩之助という直の屑買い仲間である。0584もと川合の大地主だったが、0585無類の酒好きのため一代で家屋敷をのみつぶし、0586いまは飲み代稼ぎに屑買いしている変人であった。
0587 訪れるといっても、0588岩之助のやり方は独特であった。0589仕事に出る前に、0590きまって牢のわきの道を行ったり来たりする。0591小窓の下に立って腕組みして空をあおぎ、0592「へえーっと……」と大きな声を出して思案のふりをする。0593すると姿は見えぬが、0594直の声だけ返ってくる。
0595「岩さんかい。0596今日は北の方へ行きな、0597たんと商いがあるで」
0598 岩之助は、0599間違ったら承知せんぞというように念を押す。
0600「きっとか」
0601「きっとあるで」
0602 にやっとして岩之助は右肩をそびやかし、0603北の方ヘ曲がって行く。0604時にはためしに反対の方角へ行った日もあったが、0605さんざんな目にあった。0606彼にとって、0607直の指示は商売繁盛の秘訣であった。
0608 義務のようにときどき見廻りにくるのが四方源之助である。0609直は源之助の顔さえ見れば叫び出す。
0610「四方殿、0611この本宮に大地の金神の社を建てるぞよ。0612もとの神屋敷にかえすぞよ。0613そなたの家売りて下されよ。0614家持って立ちのいて下されよ」
0615「やれ、0616まだ狂うとってじゃわい」
0617 源之助は苦い顔になって戻って行く。
0618 しかし、0619孤独な直にも楽しみが一つあった。0620帰神が去ると、0621耳をすまして表を行きかう足音を聞く。0622その中から、0623露地を曲がってしのんでくる小さな龍の足音を待つのである。
0624 龍の身柄は、0625母が座敷牢に入ってからは、0626四方家から大槻家に移っていた。0627伝吉は牛肉の行商で忙しいし、0628米と直の看病に鹿蔵一人では手がまわりかねるという、0629もっともな理由からである。0630そのくせ鹿蔵は、0631決して龍を直の所へ近づけなかった。0632鹿蔵の目を盗んでくるので、0633せいぜい二日に一度ぐらいではあるが。
0634「母さん、0635義兄さんがちょっと出ちゃったすきに走ってきたんや。0636おなかがすいとってやろ。0637おにぎり一つ作ってきたで」
0638「おおきに……」
0639 牢格子の間からさし出す竹の皮包みの下の、0640小さな龍の手を握って、0641直は涙声になる。
0642「母さん、0643塩きいとるかい」
0644 龍は格子に顔をおしつけて、0645自分の作ったおにぎりを頬ばる母をみつめる。
0646「おいしいかい」
0647「ああ、0648おいしいで」
0649「梅干しがあるとよいんじゃが棚が高うて手が届かんのや。0650それから、0651何かしてほしいことあったら、0652うち、0653なんでもしたげる。0654不自由なことばかりじゃろうけど……そうや、0655お梅はんの家で、0656お湯もろてきたげよ、0657顔やら衿やら拭いちゃったらよいなあ」
0658 龍ははずんだ足どりで去って行く。
0659 出してくれるという約束の四、0660五日も過ぎて、0661はや六日目であった。0662今か今かと解放してくれる者の足音を待ったが、0663その日も暮れてしまった。
0664 ――鹿蔵は一度も顔すら見せぬ。0665わたしをここへ入れたまま、0666忘れてしもうたんではなかろうか、0667と直は心細かった。0668帰神が去ってふと人間心にかえると、0669この世にたった一人取り残されたような寂莫感にとらわれる。
0670 火打ち石も行燈も取り上げられていたから、0671夕焼けの淡い照り返しも消え去ると、0672牢の中は闇黒であった。0673直は淋しさに堪えかねて、0674神に問いかけた。
0675「神さま、0676いつ牢から出していただけますのでござりますか」
0677 すると優しく神の声が返ってくる。
0678「直よ、0679満月の夜まで待てい」
0680 満月といえばあと二日――直は歓喜にもえて、0681格子の間から夜空を見上げた。0682月は隣家の屋根にさえぎられてか、0683まだ見えぬ。
0684 と、0685ぱたぱたと息せききって駆けこんでくる足音。
0686「母さん、0687これ……」
0688 龍が暗闇の中から手を突き出した。0689直が受けとると、0690紙に包んだ一握りほどの豆煎りである。
0691「こっそりおにぎり作っとったら、0692義兄さんに見つかって……」
0693「叱られたのかい」
0694「ふん、0695叱られたで。0696豆ぐらいではお腹ふくれんじゃろが……」
0697「この豆煎りは、0698どうしたんや」
0699「うち、0700買うたのじゃ」
0701 恥ずかしそうに、0702龍は口ごもり説明する。0703少しのひまを見つけて近所の竹薮から竹の皮を拾い集める。0704きれいに洗って、0705蔭干しにして束ねる。0706それをためておいて、0707商店で小銭とかえてもらう。
0708「山ほど拾っても、0709なんぼにもならんのじゃがええ、0710これで辛抱しておくれな」
0711 直の頬を涙がすべり下りる。0712親らしいことを何一つしてやれぬのに、0713この子はこんなにも母のために心を砕いてくれる。0714思いきり抱きしめたいと願っても、0715太い格子にはばまれてどうにもならない。
0716「母さんはなんでこんな苦しい目ばかりおうてんじゃろ」
0717「よほど罪障が深いんじゃなあ」
0718「義兄さんはいつ牢から出してくれてんつもりやろか」
0719「満月の晩には出してやると、0720さっき神さまが教えてくれなさった。0721まだお月さまは昇られぬかい」
0722 龍は格子を離れ、0723後ずさりして東の空を仰いだ。
0724「母さん、0725あれ、0726屋根の向こうの柳の木の上に……だいぶ丸いなあ。0727もうじき母さんとこからも見えるで」
0728「いま出ているのが、0729十三夜の月じゃさかい……」
0730「嬉しい、0731明後日じゃ。0732母さん、0733うち、0734もう帰ぬわなあ。0735義兄さんに見つかったらまた叱られんならん」
0736「おおきに、0737気をつけて帰になよ」
0738 あと二日したら娘を抱ける。0739その期待に、0740直は胸が高鳴る思いだった。
0741 待ちかねた四月三十日(旧三月十五日)の晩、0742中天にかかった満月が青白い光を牢格子から投げかける。0743直は居ずまいを正し、0744耳をすまして足音を待つ。0745誰かは知らぬが、0746牢から出してくれる者の足音を――。
0747 だが、0748たまさか近づく足音も、0749みなすげなく遠ざかって行く。0750向かいの安藤家からもれ聞こえるお初の機の音もやんで、0751夜露が、0752直の衿元にまでまつわってくる。0753やがて小さな下駄の音。0754龍が息をはずませ、0755声をかけた。
0756「母さん、0757まだ出られへんの」
0758「こんなによいお月さまじゃから、0759今夜中には出られると思うのじゃがなあ」
0760「うち、0761それまでここで、0762待っとるわ」
0763「やめなされ、0764風邪ひいてはならぬ」
0765「いやや、0766おる」
0767 龍は珍らしく言うことを聞かず、0768格子を握って地べたに坐りこむ。0769四月も末とはいえ、0770夜半を過ぎるとかなり寒い。
0771「お龍、0772もうお帰り」
0773 格子にすり寄って直は何度も繰り返すが、0774衿をかき合わせて月光の中に坐る龍は、0775思いつめたように動かない。0776このいじらしい娘のためにも一刻も早くと、0777直は焦って神に念じたが、0778どうしたことかひそとも応じてくれない。
0779 いつか龍は、0780うとうとと居眠った。0781格子にかかった手がゆるみ、0782体が斜めに落ちこんでいく。0783倒れそうになりハッと目ざめると、0784母が格子越しに龍の袖をしっかり握り、0785支えてくれていた。
0786「母さん」
0787「お龍、0788もう夜が明けるで」
0789「神さん、0790嘘ついちゃったなあ」
0791 直の顔は、0792道に迷った子のように歪んでいた。0793なんとも答えず、0794
0795「さ、0796眠たかろう。0797義兄さんに見つからんように早くお帰り……」
0798 うなずく娘の感覚のしびれた冷たい指を、0799直はそっと離した。
0800 北西町の近くまで来ると、0801もう東の空が白みかけていた。0802一晩中、0803夜霧にぬれた着物の裾が、0804冷たくはぎにまといつく。0805突然、0806近所の犬がけたたましく吠えたてた。
0807「あ、0808義兄さんが起きてや」と思うと、0809龍はとびかかっていって、0810犬の口を押さえたい気持ちだった。
0811 きしむ裏戸を、0812そっとあける。0813ぎくっと龍の体はこわばった。0814寝巻きのまま、0815鹿蔵がぬっと立っていたのだ。
0816「に、0817にいさん……」
0818 無意識のうちに、0819両手は防禦の構えになっていた。0820鹿蔵はその細い手首をぐっと引き寄せ、0821
0822「こいつ、0823また婆さんのとこへ行っとったな」
0824 言うより早く、0825龍の頬をばしっと平手でなぐった。0826よろめく龍の反対の頬を、0827今度は挙固でなぐりとばし、0828蹴りつけた。
0829「あのぐらい抜け出すことはならぬと言うておいたのに、0830このしぶといあまめ」
0831 龍は地べたにころがりながら、0832声をあげて泣いた。
0833 ――米姉さんは気違いやし、0834今日こそ出られると信じていた母さんはまだ牢の中。0835母さんもうちもだまされたんや。0836あの神さんにだまされたのや。0837この上何を信じ、0838頼って、0839二言目には打つ蹴るの鬼のような義兄さんに監視されつつ生きて行かんなんのやろか。
0840 ――いっそ死のう。
0841 龍は身をひるがえして井戸に走った。0842が、0843井桁に足をかけた瞬間、0844強い力が衿首をつかんで引き戻し、0845突きとばした。
0846 鹿蔵は井戸を背にして、0847激しい声でがなりたてた。
0848「死にたかったら死ね、0849もう止めはせぬ。0850じゃがお前が死んだら、0851母さんの病気はさぞひどうなろう。0852もっと狂うて、0853死ぬまで牢から出られまいのう。0854ちぇっ、0855どいつもこいつも勝手に狂うて死にくされ、0856お前んとこみたいな気違い筋は、0857絶えてしもうたが世のためじゃ」
0858 言い捨てると、0859鹿蔵はもう龍など見向きもせず、0860家に入って強く戸を閉めた。0861龍の心を引き裂くような音がした。
0862 裏の葡萄棚のそばに立って、0863龍はおいおいと泣いた。0864母を思えば、0865もう死ぬことはできなかった。
0866 ――どんなにつらかろうと母さんのために生きよう。
0867 自分に言い聞かせながら、0868あとからあとから涙がこぼれ出てくる。0869葡萄棚の下一杯に小さく垂れている薄緑の花穂を見上げて、0870龍はしゃくり上げながら数えた。0871ただ意味もなく、0872葡萄の花を幾度も数えた。
0873「お龍や」
0874 暖かい手が肩にふれた。0875米姉であった。0876今日は調子がよくて、0877座敷牢から出してもらっているらしい。0878正気だと思いたくなるほど、0879静かな、0880心にしみる声であった。
0881「義兄さんを恨むんやないでよ。0882わしかってこんなに長い病気じゃし、0883母さんかって気違いじゃし、0884その上、0885お前まで義兄さんの世話になっとるのや。0886義兄さんもかわいそうなで。0887商売はうまいこといかん、0888厄介なことばかり次々おこる。0889気が立っとってんや。0890お前が牢に会いに行っちゃったらなあ、0891母さんはいっそう牢から出とうなるやろ。0892それで牢を破って出てみないな。0893また義兄さんにどえらい迷惑かけんなんじゃろ。0894わたしさえ早う正気に戻れば、0895お龍にもこんなつらい思いをさせんのに……」
0896 姉の頬も涙で濡れていた。0897暁の光の中にまぶしいぐらい美しかった。0898龍は姉にしがみつき、0899ワーッと泣くと、0900胸のしこりがとけたようで次第に気が鎮まっていった。
0901 また二日たち、0902三日たった。0903あれきり龍の訪れは絶えていた。0904粥を運ぶ伝吉に聞いても、0905「ふうん、0906元気や」と言うばかりで、0907話を避けてそそくさと帰ってしまう。
0908「満月の夜を待て」という神の言葉を素直に信じ、0909夜っぴて待ってだまされたのだ。0910娘が、0911神も母も信じられなくなったとしても誰が咎められよう。0912否、0913龍よりも、0914より打ちひしがれているのは直自身であった。0915しかも不安に波立つ心を押えて瞑目し、0916神に呼びかけ続けてもなんの手応えすら返ってこない。0917一時はあれほど憑依物の退散を願った直なのに、0918神がかからぬとなると、0919こうも淋しいものか。
0920 格子にもたれてうずくまった。0921何もかもものうく虚しかった。
0922 昼近く、0923忍び足に近寄る者がある。0924梅原おきであった。
0925「お直さん」と呼ぶなり、0926おきはまじまじと直を見つめた。0927気弱くなっていた直は、0928思わずその視線をさけて目を伏せた。
0929 おきは格子に顔を近づけ、0930ためらい勝ちに囁いた。
0931「本宮の桶屋の息子がなあ、0932昨日死んだげなで。0933お直はん、0934ほんまにおぼえがあるのかい?……」
0935「え、0936あの子が死んだ?……田町の大内屋はんに奉公しとってじゃと聞いたが……」
0937 この界隈のガキ大将で、0938幼い頃の澄がよく渡りあっていた相手と直が思った時、0939おきの声がなじるように強まった。
0940「ぶいこ(ぶらんこ)から落ちて、0941睾丸打って死んじゃったそうな。0942うしろからどえらい足音がするさかい、0943びっくりして飛び降りたんじゃげな。0944桶屋が祈祷師に拝んでもろちゃったら、0945艮の金神さんの祟りじゃというお告げがあったそうなで。0946この牢を作ったのもあの桶屋じゃさかいと、0947みな噂しとってやわな」
0948「……」
0949「まだあるで。0950隣のお初さん、0951昨夜からひどう腹がやめて死にそうなと騒いどってや。0952あんたを火つけ犯人で訴人した罰じゃげな」
0953 直は蒼白になって、0954おきににじり寄った。
0955「艮の金神さまはそんな祟り神さまと違います。0956いちいち罰をあてなさるような、0957そんなちっぽけな神さまではございまヘん。0958艮は鬼門やの祟り神やのと日頃思いこんでいなさるさかい、0959何か禍いがあると、0960みんな金神さまのせいになってしまうのじゃ」
0961 直の真剣なまなざしに、0962おきは気圧されたようにうなずいた。
0963「そうやろと思ったんや。0964お直さんは他人をうらむようなそんな人やない。0965友だちのわしが一番よう知っとるわな。0966それでも、0967わしとお梅は……お直さんに何も悪いことしとらんさかい、0968うっかり間違えて罰あてんといてよ」と念を押し、0969おきはまた忍び足で去って行った。
0970 一人になると、0971直は宙を見すえた。0972お互い気心知りあった長年の友のおきまでが、0973直を疑い、0974恐れている。0975だがそれを咎めることがどうしてできよう。0976直自身の心の中すらが、0977いまは恐ろしい疑惑で騒いでいた。
0978 小呂の鑑定師、0979琴の息子平太郎、0980そして桶屋の息子と、0981直にからまる一連の不思議な死、0982その上、0983向かいのお初までが……。
0984 後日談だが、0985お初は腸満をわずらって床についたまま三年後に死ぬ。0986戸籍によると、0987明治二十九年十一月十六日歿、0988享年五十歳。
0989 苦悩にもだえながら、0990直は思い続けた。
0991 ――三千世界の立替え立直しなど、0992まことあるものだろうか。0993満月の晩に出られるという予告さえ当たらぬ神に、0994どうして三千世界を動かす力などあろう。
0995 ――やっぱり、0996わしの腹中にあった憑き物は、0997途方もないホラでわしを欺き、0998気に入らぬ存在は祟り殺す、0999性悪な狐狸の類ではなかったか。
1000 ――わが代になって由緒ある出口家を傷つけ、1001泥をぬってしまった。1002世間さまにも顔向けならぬ。1003この上、1004生き恥をさらすことは耐えられない。
1005 ――子供たちにだって、1006わたしの存在がどんなにか重荷となろう。1007この先はただ子供たちの足手まといにしかならぬのだ。1008わたしが死ねば、1009最初は悲しもうが、1010やがては「母さんは、1011そうするしかなかったのだ」とあきらめてくれよう。
1012 何日も死ぬことばかり思い続けた。
1013 近所の子らが息を殺してやってきて、1014好奇と恐れにぎらぎらする目でのぞきこみ、1015直と視線が合うなりワッと叫びを上げ、1016一目散に逃げ出す。1017それにも、1018もう心は騒がなくなった。
1019 五月二十二、1020三日のことだといわれる。
1021 雨の降り続く夜であった。1022ゆるぎない覚悟ができたのを確かめ、1023直は単衣物の襟をほどいて梁に向かって投げ上げ、1024ひざまずいて天に別れを告げた。1025心は平静であった。
1026 その時、1027あの手応えが戻ってきたのだ。1028ぐっと下腹が熱く重くなり、1029力が全身にみなぎり渡った。
1030「直よ、1031いま死んでも、1032やはりこの牢の中におるのと変わらぬぞよ。1033罪障のあるだけのことはあってしまわねば、1034死んでも同じこと。1035霊魂はなお苦しむぞよ。1036今は地獄の釜の焦げおこし、1037そのかわり勤めあげたら十二単衣に緋の袴、1038天より高く咲く花じゃ。1039耐らぬと良い花咲かぬ梅の花、1040この経綸成就いたしたら、1041夫の名も出る、1042先祖の名も出る」
1043「信じられませぬ。1044もう騙すのはやめにして下され」と直は叫んだ。
1045「直よ、1046疑うのはもっともなれど、1047神の言うことは少しも違わぬ。1048この神にまかせておけば、1049それでよいぞよ」
1050「それでも、1051満月の夜を待ていと言いなさったのは、1052あれは嘘でこざいましたわな」
1053 すると、1054神は笑って、1055
1056「神は偽りは申さぬぞよ。1057満月の夜に出られると申したのはまことのこと、1058あと半月余の行であるぞよ。1059有明の月を持ちかねるぞよ」
1060「有明の月を?……わかりませぬ。1061どうせよと……」
1062 神の言葉はとぎれ、1063直の手がすがるように宙を泳いだ。
1064 と、1065水たまりを渡る小さな足音に直はハッと胸を躍らせ、1066格子に寄った。
1067「お龍?……」
1068「母さん――」
1069 ぬれた手が母をさぐった。
1070 月も星もない暗夜、1071見交す顔もさだかではなかった。
1072「母さん、1073これで牢を破って逃げて」
1074 短く激しく言って、1075龍は、1076母の手に固いものを押しつけた。1077直は息をのんだ。1078手渡された木の柄の先を探ると、1079三日月形の刃をきりきりと荒縄で巻きつけた鎌ではないか。
1080 直の瞳が輝いた。1081この鎌こそ、1082神の示し給う具体的な回答に相違なかった。
1083「お龍、1084おおきに……満月や、1085今度の満月の晩にこそ、1086きっと……」
1087 龍は大きくうなずくと、1088さっと雨の中を走り去って行った。
1089 その夜から、1090人目を盗んで直の破牢の作業が始まった。1091入口の蝶番の打ちつけられた太い木を、1092内部から目立たぬように鎌で切り続けた。1093作業ははかどらぬが、1094直はもう焦らなかった。1095どんなに急いでも次の満月の夜まで出られないと観念していたからである。
1096 暗雲は去った。1097神が直を見捨て給わず、1098龍の心が母と共にあると知って、1099明るく晴れ渡る思いであった。1100夜もすがら、1101直は内なる神と語りあかした。
1102 上弦の月が、1103中空に光を増していた。1104いっときの眠りからさめて、1105その皎い光を仰ぎみた。1106破牢の日も迫り、1107鎌でつけた傷もかなり深まっていた。
1108 が、1109しばらく前から、1110心にかかってならぬことがあった。1111直は意を決して、1112神にひたむきに訴えた。
1113「神さま、1114せっかく牢を出していただいても、1115今までのように、1116わたしの口を通して世人をいましめなさっては、1117気違い扱いにされて、1118また牢へ引き戻されてしまいましょう。1119それでは御用もできませんし、1120子供たちもあまり不憫でござります。1121ほかのことなら何でもいたしますが、1122大声でわめくことだけは、1123どうぞこらえて下さりませ」
1124「直、1125それでは筆を持てい」
1126「筆?……あの……字を書くので……」
1127 直は、1128小さくなって、1129頬を染めた。
1130「それはなりませぬ。1131恥ずかしながら、1132わたしは、1133いろはの『い』の字も存じません」
1134「そなたが書くのではない。1135神が手をとって書かすのだ」
1136「筆も、1137紙も、1138ここにはござりません」
1139「そこらあたりをみよ」
1140 半月が、1141直の膝元まで、1142ほの白い光を投げてはいたが、1143見まわすあたりは暗い。1144直は手さぐりで床を撫でた。1145と、1146指にさわる物があった。1147月光にさらしてみると、1148一本の古釘であった。1149あるべきはずもない釘が、1150どうしてかここにあるのだ。
1151 直は鳥が舞い上がるように立ち、1152古釘を持つ右手が牢の柱に向かったと思うや勝手に動いて、1153何やら文字のようなものを彫りつける。1154それがはたして文字であるかどうか、1155直自身にわかるべくもなかったが、1156手は別の生き物のようにいつまでも動き続けるのであった。
1157 十二夜の月を直は見上げる。1158あと三夜満つれば……こんな思いで月の満ちるのを待ち望んだことはなかった。1159と、1160急にたまらぬ眠気に襲われ、1161魂が月に吸いこまれそうになる。
1162 朦朧とした影が次第にくっきりとした形をとり、1163威風厳然とした神の姿を現わした。
1164「……昔の剣より今の菜刀と申すなれど、1165今に日本刀の必要な時が参る。1166この剣をもって世界を洗え、1167荒ぶる神を薙ぎ払えよ」
1168 はっと眼ざめると、1169夢の裡に授かった神剣が直の膝下にあった。1170鞘なし、1171刃先七寸五分。1172直は押しいただき、1173胸をはだけて懐の中に納めた。
1174 五月三十日(旧四月十五日)の深夜、1175切り続けていた格子がついに折れ、1176かたりとくぐり戸がはずれた。1177警察の牢に留置されてより数えて四十日――。
1178 大地、1179この大地――。1180素足で夜気に湿った大地を踏みしめ、1181跪いて両手で撫で、1182土をすくった。1183指にふれる小石も、1184草も、1185こよなくいとしかった。1186見上げると薫るような満月であった。1187喜悦が涙と共にふき上がった。
1188「母さん――」
1189 いつの間に来たのか、1190龍が、1191大地にうずくまり嗚姻する白髪の老母にむしゃぶりついてきた。
1192「満月じゃで、1193お龍――」
1194 二人はしっかり抱き合った。
1195 この時、1196安藤金助がこの光景を目撃し、1197あわてて四方家へ注進に及んだのを二人は知らない。
1198「はよう逃げよいな。1199うちも連れてって。1200母さんの傍もう離れん」
1201「逃げるというても、1202八木か王子しかないが……」
1203「八木へ行こ、1204お澄に会える」
1205 だが直は首をふった――。
1206「八木まで歩くのは無理であろう。1207四十日も牢から出なんだので、1208とんと足に力がのうなって、1209立っておるのも大儀なぐらいじゃ」
1210「うちが手を引いてあげるで、1211見つからんうち逃げれるだけ逃げよいな」
1212 もつれるように二人が表まで出た時、1213金助の注進を受けた四方源之助が駆けつけてくるのにばったり出くわした。1214源之助は寝巻きの上に羽織をひっかけている。1215金助はその足で大槻家へ走ったはずであった。
1216 立ちすくんだ二人に笑顔をみせて、1217源之助はおだやかに話しかけた。
1218「今朝からえろう鎮まっとってじゃと思うとったが、1219そうか、1220もう出ちゃったんか」
1221「はい、1222おかげさまで、1223すっかり鎮まりましたさかい……」
1224「それは結構なことじゃ」
1225「座敷牢に入っとりますうち、1226えらいお世話さまになりました。1227せっかく見舞いに来て下さったけれど、1228神さまが荒立ちなされて、1229家売れじゃの立ちのけじゃのと勝手なことを申しまして、1230ほんまにすまんことでございました」
1231「なに、1232それだけわかっとるんなら、1233正気なものじゃ。1234ちっとも気にしとらへんでよ。1235それでこんな夜ふけに、1236二人でどこへ行ってじゃいな」
1237「はい、1238八木の娘のとこまで、1239行こうと思うとります」
1240「けれど牢ヘ入っとって体がやにこうなっとってじゃし、1241それにそのなりで道中はできんなあ。1242もう程のう夜も明けようさかい、1243それからにしたらよかろう。1244これからのことも、1245じっくり相談に乗らしてもらうでなあ」
1246 源之助は大槻鹿蔵が来るまで時間を稼ぐつもりだった。1247それとなく話をのばしているうち、1248堤燈の灯がみるみる近づく。1249鹿蔵が金助と共におっとり刀で駆けつけてきたのである。
1250 提燈を金助に渡すと、1251鹿蔵はまるで猛獣使いが獣を追い立てる恰好で直をねめつけ、1252縄を持った右手を振り上げた。
1253「さあ、1254牢へ戻れ。1255痛い目にあいとうなかったら、1256さっさと牢へ入れ」
1257 龍が母をかばって前に立ちふさがる。1258鹿蔵は無造作に龍の髪をつかみ、1259直から引きもぐと、1260
1261「お前、1262ようもまあ家から抜け出して……こないだ、1263あれ程いうといたのに、1264おれをなめきっとるのじゃな。1265牢破って婆さんを助け出すからには、1266それだけの覚悟ができとろうが……え」
1267 薄い唇をねじ曲げて、1268仰向かした龍の頬をなぶるようにはじいた。
1269「それで何を使うたい。1270何を使うて牢を破ったい?……おい」
1271「……」
1272 ふだんおとなしい龍の逆らいの目つきに、1273鹿蔵のこめかみが青くひきつれた。1274鹿蔵が腕に力を入れると、1275小さな体が、1276音のないきしみを上げてのけぞった。
1277「やめておくれ、1278鹿蔵――」
1279 血を吐く思いで、1280直は叫んだ。
1281「お龍はちっとも知らんことじゃ。1282わしが勝手に牢を破った――牢に戻るさかい、1283お龍を放しとくれ」
1284 鹿蔵がつかんでいた龍の髪をゆっくりとつきはなすと、1285龍はよろめいて母の足元にくずれ、1286泣き声をかみ殺した。
1287「ふん、1288どうせ一つ穴のむじなじゃ。1289婆さん、1290牢を破ってどこかへ逃げられるとでも思うのかい。1291大声でわめいて近所には迷惑かけるし、1292さんざ人に世話かけさらして、1293この上また……」
1294 濁った三白眼をすえ、1295抑制のきかなくなった怒りに震えながら、1296鹿蔵は直に立ち向かった。1297直はじりじり後退して、1298今はずしたばかりのくぐり戸に背から入った。
1299 鹿蔵は持っていた縄でめちゃくちゃにくぐり戸を格子に結びつける。1300そのすきに、1301龍が縁の下にかくしていた鎌をすっと抜き取り、1302鹿蔵の背にすり寄ろうとした。
1303 殺気を感じた鹿蔵はふりかえり、1304
1305「こいつ、1306わしを殺す気か」
1307 躍り上がって鎌をもぎとろうとする。1308提燈の光に照らし出された鹿蔵の形相は怒りで醜くふくれ上がり、1309凸面鏡の中の顔のよう。1310龍は必死に鎌をかざして向かう。
1311 横から源之助の手がのび鎌をもぎとると、1312背に龍をかばい、1313なだめるように言った。
1314「お直さんは気がのぼせて狂うちゃったんじゃ。1315せっかく鎮まっとってやのに、1316母親の目の前であんまりむごいことをしては治るものまでワヤになるわい。1317それよりなあ、1318あまり長いこと閉じこめておくのも気の毒じゃ。1319このさい、1320牢から出してやることを考えたらどうやな」
1321 鹿蔵もまた、1322源之助の子方であった。1323貫禄も違う。1324源之助からやわらかく説得されると、1325むっと横を向いたが、1326むげにも突っぱりかねて不承々々言った。
1327「それならまあ、1328四方はんの顔も立てんなんさかい……まあ、1329出さんこともない」
1330 一息いれると、1331鹿蔵は思索をめぐらすふうに煙った眼の色になった。
1332「……ただしじゃ、1333その前に一つだけ、1334条件がある」とじっと牢の中をすかしみる。1335「おう、1336おう、1337出してくれるのなら……」
1338 直はこわばった口元をほぐすように、1339もう一度、1340
1341「お前が出してさえくれるのなら……なんなりと」と力をこめて言った。
1342 鹿蔵はちらと源之助と金助を見、1343この場で言い出す損得をはかった。1344彼らは横槍を入れてくるかも知れぬが、1345反面、1346証人でもある。1347問題は直を陥落させればいい。
1348 ねっちりと口説きにかかった。
1349「よしよし、1350返答次第では考えてみちゃるわい。1351とにかくわしとこは、1352いつ治るとも知らぬお前ら母娘気違いをかかえて、1353この先どうやって食いつなげばよいやら皆目見当もとれんのじゃ。1354商売はさっぱりワヤやし、1355入る銭がのうて出る一方、1356どれだけお前ら母娘のために銭ほかしたか知れん。1357そこでこの出口のぼろ家でも売って一時しのぎをつけたいのじゃが、1358まさか文句はあるまいのう」
1359「……」
1360「何も面倒くさいことではないで。1361ただ、1362家売るという書類にぽんと判子だけ押してくれちゃったらよい。1363あとのややこしい段取りは、1364全部わしが面倒みちゃるさかいのう」
1365「……」
1366 鹿蔵の意図はようやくのみこめてきた。1367だが直とて容易に即答できる事柄ではなかった。1368この家は、1369亡き夫政五郎と二人で山から木を伐り出し、1370川原から石を運んで建てた家である。1371伝吉・龍・澄が生まれ、1372政五郎の死んだ家である。1373柱一本、1374傷一筋にも家族の歴史と愛着がしみこんでいる。
1375 恐れを忘れたように龍が格子にとびつき、1376揺さぶって泣き叫んだ。
1377「この家がのうなっては、1378うちら帰るとこがない。1379うちも、1380お澄も。1381……母さん、1382だまされたらあかんで。1383清吉兄さんかって、1384竹兄さんかって、1385せっかく帰っちゃっても、1386どこに寝ちゃったらよいんや。1387この家は誰にも渡したらあかん――」
1388 源之助は金助と顔見合わせて腕組みし、1389むずかしい顔になる。
1390「大槻はん、1391そりゃ無茶じゃ。1392それではまるで出口家を根絶やししてしまうやり方やないか」
1393「ほう!……」と鹿蔵はわざとらしい声を上げ、1394得意の筆法で源之助に鉾先を向けた。
1395「それなら四方はん、1396どうせい言うてくれてんじゃいな。1397わしが手えひいたら、1398米やこの婆さん、1399澄や龍もみんなまとめて、1400組内ででも面倒みてくれるつもりですかい」
1401 そのやりとりを聞きながら、1402不思議に直の心は澄んできた。1403この家だけは最後の砦と長年思いつめていた執着すら、1404さらりと抜け落ちていくのを感じた。
1405 直は静かに源之助に頭を下げて告げた。
1406「御心配は嬉しゅうござりますけれど、1407もう心は決まりました。1408鹿蔵の好きなようにさせてやって下され。1409わたしはここから出してもらいさえすれば、1410それでよいのですさかい……」
1411 急に鹿蔵の声がやわらぎ、1412浮き立った。
1413「そうか、1414そうか、1415きっとか。1416義母さんには、1417面倒みるわしも娘もいるのじゃさかい、1418余計な家などいらんわなあ。1419そうと話がきまったら、1420もう牢などすぐ毀さんならん。1421おう、1422寒い。1423もう夜が明けてきたわい。1424風邪ひいたら大事やさかい、1425義母さんもまずこんな鬱陶しいとこ出て、1426わしの家まで行こかいな」
1427 鹿蔵は先ほどの剣幕をケロリと忘れたように猫なで声になり、1428くくりつけた牢格子の縄を鎌でたち切って、1429直の手を引っぱった。
1430 一番鶏が鳴き、1431金助が釈然としない顔で提燈を吹き消した。1432満月がうっすらと山の端に残っていた。1433有明の月であった。
1434 翌日、1435鹿蔵は警察に出牢の届けを出し、1436次の日には多勢の古物商を集めて、1437早くも出口家の入札を行なった。1438このとき手ばなした屋敷を今後は元屋敷と呼ぶ。
1439 土地建物は、1440四十八円で四方角造の手に落ちた。1441鹿蔵は不動産ばかりか、1442家財道具一切まで、1443直に無断で売り払った。1444わずかに残ったのは、1445直が夜ごと四升の米をひき、1446その響きで子らが眠った石臼と、1447結婚式に使った高台の三つ組の盃だけであったという。
1448 元屋敷を売り払った金の一部を、1449源之助が仲介して鹿蔵からとってくれ、1450その金で、1451政五郎生存中より直の重い負担となっていた銀行の借金を返済した。
1452 最後の家も道具も売りはらい、1453全くの無一物になったかわり、1454すべての負債から解放された直は、1455身によろうた重荷をとりはずし、1456生まれ赤子にかえったようなさばさばした心境であった。1457この時をこそ、1458神が待っていたのかも知れない。1459警察に留置されたのも、1460座敷牢生活も、1461すべて神の摂理ではなかったか。1462体はすっかり衰弱していたが、1463すがすがしいものがこんこんと身内からあふれ、1464こぼれ落ちるかに感じた。
1465「鹿蔵のおかげで、1466わたしの罪障も少しはとっていただけたかのう」と直は呟くのだった。
1467 大槻家に三日いて、1468直は庭掃きをしたり、1469茶をわかしたりの雑用をした。1470だが米は直の姿を見るなり荒立つし、1471鹿蔵は「家を売り払えばもう用はない」と言わんばかりの邪魔物扱いである。
1472 八木へ行こうと直は思った。
1473 それを言い出すと、1474鹿蔵は機嫌よく、1475
1476「ええとも、1477ええとも、1478お龍も連れて早う行きな。1479戻って来てもお前の家はないさかい、1480綾部に帰るという里心をおこすやないで」と念を入れるのだった。
1481 六月二日早朝、1482世話になった四方源之助宅に寄って別れの挨拶をすると、1483
1484「母子三人、1485八木ヘ厄介かけるのは気の毒じゃ。1486お龍はわしの家に置いときな。1487子守りもほしいとこじゃさかい……」
1488 三津恵も出て来て共にすすめてくれるので、1489直はその好意に従うことにした。1490文が歓迎の笑顔を見せ、1491よちよち歩きの源太郎は龍にからみついた。
1492 四方家を出たところで、1493旅姿の伝吉が追ってきた。
1494「義父さんに頼んで、1495八木までついて行くことにしたでよ。1496お龍が行かぬなら、1497ちょうどよかった。1498母さんの足、1499まだよう歩けまいでなあ」
1500 伝吉は、1501母との道中を楽しむように言った。1502涙ぐむ龍に見送られ、1503直は新しい旅路に踏み出すのであった。
   
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