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明治の晩期

インフォメーション
題名:明治の晩期 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:317 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195401c2115
 一九一一(明治四四)年一月三日、王仁三郎は、竹原房太郎をつれて島根県の出雲大社教を訪問した。警察の圧迫が引きつづきはげしいので、大本の祖霊社を、合法的に大社教霊社の分社にしようとする手続きのためであった。
 大社教から、祖霊分社の許可書がきたのは同月二六日で、表向きには大社教本宮教会本院と称することになった。
 翌一九一二(明治四五)年五月一日には、新築をすすめていた祖霊社も竣工し、田中善吉※がその主任となり、竹原房太郎が協力して、大本の祖霊祭祀は、祭式・機構と組織の面からも次第に秩序だてられてきた。※田中善吉、義臣と通称す。一九〇〇(明治三三)年入信。京都市東九条札之辻に生まれ、青物商などをいとなむ。翌年綾部に移住。一九一一(明治四四)年祖霊社の主任となり、生涯を祖霊の祭祀に奉仕した。一八六八(明治元)年の生まれで、一九四七(昭和二二)年に帰幽した。
 大本が大社教と接近したことによって、大本の教義がかえられたのではない。しかし大社教に大本がつながったということは、素盞嗚尊の神格を重視する大本の教理よりしても、意義の深いことであった。このときの王仁三郎の大社訪問は一九〇一(明治三四)年の開祖ら一行との大社詣りについで二度目のものである。ついで一九一四(大正三)年には、出雲大社教管長千家尊福が綾部をおとずれ、大本に一泊して、さらにそのつながりが深められてゆく。
 大社教を訪問した直後の一九一一(明治四四)年一月五日には、正式に、上田王仁三郎(三九才)と出口すみ(二七才)の婚姻届が綾部町役場に出された。この日から王仁三郎は出口姓にあらためられる。長女の上田あさの(八才)・次女のむめ乃(六才)・三女の八重野(一才)も、同時に出口姓になった。
 王仁三郎の改姓=婚姻届がおくれたのは、王仁三郎が上田家の長男(嗣子)であって、他家の養嗣子となるためには戸籍手続がむつかしく、王仁三郎が上田家から隠居した後でないと、他家に入るととが困難であったからでもある。
 二月二三日、当主の開祖なおは隠居して、王仁三郎がいよいよ家督をついだ。土地・家屋(主として境内地・神殿など)の名儀変更がおこなわれ、名実ともに後継者が確定した。このことは、大本史上からいっても大きな意義をもつものであった。王仁三郎による実際的な教団の運営指導も、これまで通りかわりはなかったが、王仁三郎の位置が教団内において安定したことにより、大本の組織面が着実に足もとを固められることとなり、いっそう力強く踏みだす体制がととのえられたことになる。
 五月五日、王仁三郎は大日本修斎会の「修斎」を発表した。その修斎は、「正一等修斎」四方平蔵、「准一等修斎」福島寅之助・田中善吉・四方与平・木下慶太郎・湯浅斎次郎・梅田信之、「正二等修斎」西田元吉・近松政之助・大槻伝吉・竹原房太郎、「准二等修斎」以下「修斎試補」まで(省略)総計五七二人の人々であった。
 八月二七日には大日本修斎会の役員改選がおこなわれ、一一名の議員による投票で四方平蔵が会長に当選した。ところが、四方は議長でもあったので、規約によって、次点の湯浅斎次郎※が会長に就任することとなった。
※湯浅斎次郎、仁斎と通称す。前歴既述。一九〇九(明治四二)年一〇月綾部に移住。王仁三郎の信任あつく、教団最高幹部の一人となる。一八七〇(明治三)年の生まれで、一九四九(昭和二四)に帰幽した。妻の小久(現存)は夫を内助し、教団の発展のためにつくした。
 このとき任命された役員の総数は八一人で、これはほぼ会員の戸数に匹敵している。王仁三郎が会長をやめて、信者のなかの重だったものに、なんらかの形で教団機構の責任を分担させることにしたのも、発展への協力体制を充実しようとする意図にもとづくものであり、その体制のもとに信者の力の結集がなされる前提がきずかれる要因ともなった。
 この年一一月一一日には、本宮村上野の畑地五反ちかくがゆずりうけられ、二三日に同地内の畑地四畝が、ついで、年をとえた一九一二(明治四五)年一月二〇日にはその周辺の畑地六反が、七月になると、かねて開祖はじめ信者たちに待望されていた、出口家元屋敷とその建物がそれぞれ入手された。
 一九一二(明治四五)年四月二四日(旧三月八日)には、開祖なお・王仁三郎・すみ・長女直日をはじめ役員・信者ら一二四人の一行は、綾部を出発して、山田市におもむき、翌二五日、伊勢の内宮と外宮に参拝し、ついで二六日には、稚姫君命をまつる香良洲神社に参拝して、その夜帰綾した。
 同年旧三月一五日の筆先には「三月八日立ちで、お伊勢の大神宮殿に参拝をいたしたのは、まだ昔から無いことでありたぞよ。お香良洲のお宮に、同じ身魂の出口なおと引きそうて、お迎えにまいりたお供は結構でありたぞよ。世の変り目の金輪際のおりでありた……」、また「国常立尊が、出口なおの身魂は変性男子の身魂であるから、長い苦労がさしてあるから、同じ身魂をお迎えに連れまいりたのでありたぞよ」と示されている。
 開祖はこの参拝がおわったのち、神命のままに水行を中止することになった。
 この年の一月から四月の末日までの、王仁三郎自筆の「日記」が現在のこっているが、そのなかに記されている文献の名をあげてみると、新聞では「大阪毎日」と「丹州時報」(舞鶴にて発行の地元新聞)、雑誌では「新日本」・「太陽」・「皇道」・「あきつ」・「実業之日本」・「神社協会雑誌」・「成功」(内閣大臣号)・「神風」などがあり、単行本では「国民文庫」・「漢文大系」・「訳文大日本史」・「日米戦争」・「呼吸静座法」・「何鹿郡案内」・「薩の海軍・長の陸軍」・「漢籍同字解」・「二十一史」・「平田全集」などがある。
 とくに、「神風」という雑誌には王仁三郎の関心が向けられており、同年の三月には、神風会支部の設置申請書がだされ、四月には支部長の辞令がきている。
 この日記の二月二五日の条には「三教者会同当日華族会館ニ於テ」とあって、それ以上はなんら記されていない。一九一〇(明治四三)年には、有名な幸徳秋水らを処断した大逆事件がおこり、翌年には、吉田松陰と幸徳秋水とを比較した徳富蘆花の第一高等学校での講演が問題化している。また同年の喜田貞吉博士の講演の中に、北朝正統論とみなされるものがあったところから問題がおこっている。こうした日露戦後の社会問題・思想問題の深刻化するなかで、原敬内相の名によって開催されたのが「三教会同」であった。
 この会同は、西園寺内閣の内務次官・床次竹次郎が企画の中心にあたったものといわれ、「思想の混乱も心配される時になりました。そこで神仏に……吾々の社会に躍り出で貰ったがよかろう」ということで、一九一二(明治四五)年二月二五日、神道・キリスト教・仏教を一堂にあつめて開かれたものであった。その決議には、「皇道を扶翼し」・「国民道徳の振興」に宗教者が協力することがうたわれ、政府にたいする宗教者の役割が強調されていたことはいうまでもない。この三教会同を、王仁三郎はどのように感じていたのであろうか。「日記」の限りでは明らかでないが、のちに王仁三郎は三教会同にふれて、「三教会同なるものは、所謂皮相の合同でありまして、弱者が時に策を弄んで、教権の振起を謀る世渡りたるに止まるのみであって、彼等は遂に宗教の権威を失墜したるに過ぎなかった」(「このみち」大正5・4)と鋭く批判しているのが注目される。
 近代日本の基礎をきずいた明治時代は、一九一二(明治四五)年の七月三日でおわりをつげ、大正の世代へとすすむ。この年の旧三月一五日の伊勢参拝の直後の開祖の筆先には「世の変わり目の金輪際のおり」とあったが、目にみえぬ風が吹きぬけてゆくように、世の変わり目がいちじるしくなってきた。
〔写真〕
○大社教からの辞令 p318
○左から むめ乃 すみ 八重野 あさの p319
○香良洲神社 p320
○王仁三郎自筆の日記 p321
○大逆事件 時事新報 東京朝日新聞(1911.1.19) p322
○明治はおわった 明治天皇の大葬を遙拝する教主と役員たち p323

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