霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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国内宣教と造営

インフォメーション
題名:国内宣教と造営 著者:
ページ:807 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195401c4444
 一九二五(大正一四)年の節分大祭を期として、旧亀岡城址の整備が着手された。そしてこれまでここを万寿苑とよんでいたのを、正式に天恩郷と命名した。
 天恩郷建設の陣頭指揮は聖師みずからによってとられ、一木一石にいたるまでその配置に心がくわえられた。旧城址には、これまでに、一九二〇(大正九)年の八月に大道場としてバラックだての一棟がたち、一九二一(大正一〇)年の七月一〇日に、聖師の居室兼事務所として瑞祥閣がたてられていた。しかしその後は、第一次大本事件が勃発したために、その他の建設工事は中断されていたのである。そこであらたに、天恩郷の造営が本格的にはじめられることになった。そして、その第一着手として一九二五(大正一四)年の三月二二日、瑞祥閣のまえに月の輪台がつくられた。これは霊国における月照山に相応するものとされ、四月二五日には、そこに月照山の神体としてみろく塔が建設された。この塔の台石には四天使の像がほられており、一三階層の石塔で、六・六六メートル(約二丈二尺)のたかさをもつ。なお苑内には平安石やミロク石もすえられた。
 六月九日には、光照殿(現在朝陽館の位置)の地鎮祭をおこない、信者の奉仕によって、一〇月二五日に竣工した。ここに人類愛善会の総本部と世界宗教連合会東洋本部とがおかれることになった。その奥の別棟は月明館とよび、聖師の亀岡における居室にあてられた。
 以前はランプが使用されていたが、五月二三日には天恩郷に、九月二四日には綾部の神苑に電灯がつけられ、両聖地の夜もあかるくなった。こうして施設もしだいに近代化してゆく。
 綾部では、天神馬場(綾部駅附近)の元天理教教会の敷地がすでに入手されていたが、その跡にのこされていた約九坪ばかりの建物に、大本皇大神ならびに大本開祖・天理教教祖の神霊を奉斎することになり、これを二聖殿とよんで、二月二〇日にその鎮祭がおこなわれた。さらに五月一一日には聖師が突然、綾部町労働者団の有志に推されて、最高点で綾部の町会議員に当選したことも注目すべきである。
 国内における文書宣伝誌としては、じゅうらい「神の国」が唯一のものであった。「神の国」は一九二四(大正一三)年八月から、れまでのB5判をB6判(約一〇〇頁)にあらためることになって、月二回の発行をつづけていたが、翌一九二五(大正一四)年八月から月刊とした。この年の二月からは、「神の国」のほかに、タブロイド判で旬刊の「瑞祥新聞」(四頁)を発刊することになり、「瑞祥新聞」は主として対外宣伝用にあてられた。「神の国」が月刊となると同時に、さらに同年の八月五日から、大本瑞祥会の連絡機関誌として、旬刊誌「瑞祥会報」(のちに約六〇頁)があらたに刊行され、これは一一月から「真如能光」と改題された。
 すでに発行されていたエスペラント文の月刊誌「OOMOTO」および「緑の世界」、ローマ字の「言葉の光」、一〇月から創刊された「人類愛善新聞」などを前記の出版物にくわえれば、当時教団から発行されていた定期刊行物は七種にのぼっていたことになる。これによっても文書宣伝がいかに活発化してきだかがわかるであろう。
 単行本としては、『霊界物語』が毎月刊行されたほかに、『霊の礎』(七〇頁)、『大本の大要』(二〇〇頁)、『新精神運動大本』などが発刊されたが、なかでも一九二五(大正一四)年の二月に発行された『王仁蒙古入記』(三八二頁)は、たちまちにして五版を突破し、各方面におおきな反響をあたえた。けれどもその出版活動が当局によってすべて容認されていたのではない。この年一一月には『霊界物語』第七一巻が発売禁止となり、ついで機関誌「神の国」一一月号もその厄にあっている。
 なお一九二一(大正一〇)年四月から、信者の渡辺宗三郎・大沢晴豊らによって、「大正日日新聞」の姉妹紙として創刊されてきた日刊「北国夕刊新聞」(本社金沢市)に、一九二三(大正一二)年以降一貫して『霊界物語』の掲載がつづけられていたことも注目すべきであろう。
 この期の巡教としては、一九二五(大正一四)年の九月二九日、三代直日は宇知丸・八重野・田中緒琴らをともなって綾部を出発し、翌日愛媛県大洲にある宇知丸の実家につき、ふたな支部の山口恒彦邸・松山・新居浜の白石宅をへて、五日には土居の八雲神社に参拝し、八雲琴の中山元祖の墓にもうでた。そとで田中緒琴による八雲琴の奉納があり、高松分所・琴平をへて、七日に帰綾した。
 この年にはいると、聖師を訪問してくる名士の数もふえてきた。そのうち外人でさきに記したものをのぞいて、注目すべき人々をあげると、中華仏教連合会の顕蔭、インドのクルカルニ博士、バクシー、レージャー、ついでサバール、タタール人のデウセウ、イスマイル、ビーンコフ、蒙古の劉仲元らがある。
 第一次大本事件による障害を、教団内外の諸活動によってしだいに克服してきた教団は、一九二六(大正一五)年をむかえて、いよいよ充実した活動をすることになり教団の全活動は急速にもりあがっていった。それは人類愛善運動によって、社会との接触面があらたにひらかれてきたこと、『霊界物語』による指導精神がようやく信者に浸透し、ことに宣伝使が任命されて、その使命感にもとづく活動がはじまったこと、聖師によって積極的な施策がうちだされ、大本の海外宣伝による反響のおおきさが、信者を勇気づけたことなどが、その発展をうらうちする理由としてあげうるだろう。
 その具体的なうごきは、この年の三月九日、「大阪毎日新聞」に、土井大靖(清都)の名によって、頁のすべてをつかって写真いりの大広告をかかげ、大本の真価を世にとうたのにも見出される。「大本の出現─救世の大光明」と題されたその宣伝文の内容は、下記のような小見出しよりなる。一 起源と成長、二 大本の本質と特色、三 神霊問題を徹底的に開示する大本、四 珍籍霊界物語、五 光は東方より、六 大本を離れたる諸経綸、七 来れ来って神の光明裏に入れ。このようなこころみは、大本としてはじめてのくわだてであった。
 宣教の精力的な展開は、一九二六(大正一五)年の二月二〇日にはじまる、宇知丸の九州全県にわたる宣伝の旅にも顕著である。
 宇知丸による九州巡教の報がつたえられると、本部奉仕者のうちで、九州地方出身の人々は全九州地方に檄をとばすという力のいれようであった。本部が立案したこの巡教についての指示には、左のようにのべられている。
一、宣伝は信者なき方面を主とし信者を従とし交通不便の地をも開拓する事。
一、霊界物語にお示しの三五教の宣伝使にならひ極力未信者を誘ひ宣伝のお手引をなす事。
一、全九州協力の精神を発揮し信者少き辺僻の地には互に援助する事。
一、準備質素なる事。
 また、当時に指令されている座談会の案内文案をみると、「近代物質文明の行詰り」や「思想上其他真の安心の道」について、また家庭内の平和・病気や一家の不幸について座談をすすんでおこなうことを指示していた。これは当時における宣教の状況がどのようにおこなわれたかをしるうえで、参考となる史料である。
 宇知丸は九州を一巡する宣伝の旅のなかで、奄美大島にもでむき、五月一五日から八月二日までの八〇日間を、津々浦々にいたるまで宣伝行脚していった。さらに聖師の命をうけた山口利隆夫妻も、向島にわたって宣伝をつづけたので、大島内における大本の教勢はきわめてさかんになった。九州一巡の中途で宇知丸は、九月一四日から東海道・関東・東北および信州を一巡し、一ヵ月の旅をおえて一〇月一二日に帰着した。そして一一月二八日から山陰地方を一二日間にわたって巡回した。
 第一次大本事件後の入信者の動向を、現存の人々についてしらべたアンケートによると、信者の友人や縁戚からすすめられたり、大本の教義に感銘して入信した人々が多数をしめている。しかしこの時期のめだった傾向として病気の平癒によって入信したものもかなりあり、なかには、現代もっとも迫害をうけている宗教にこそ、かえって真実のものがあるとして求道したり、また聖師王仁三郎という存在に神秘的な魅力を感じて入信するものもすくなくなかった。そしてこのころの入信者が二〇才台を中心とする若い層がおおく、また知識層が意外におおいのも興味がある。なおこの時期の入信者が、農民層よりも比較的に公務員・会社員や商工業者におおいことも注目される。
 前述のように、このころ社債整理などのために教団の財政面は極度に窮迫していたが、そのなかにあって聖師は天恩郷の建設を積極的にすすめ、一九二六(大正一五)年の一月九日には、月照山に宣霊社をたてた。ここに昇天した宣伝使の霊が合祀されることになったのである。はじめに合祀鎮祭されたのは井上明澄・外山豊二・小高一栄の神霊である。かねて造営をいそいでいた建坪一〇四坪の大広間よりなる大祥殿(現在の葉がくれ居の前方)は二月五日に竣工祭がとりおこなわれた。そして大祥殿は、天恩郷における一般の礼拝場とされ、あわせて大道場にあてられた。したがって修業者にたいする午前・午後の講話も、おもにこの大祥殿でおこなわれることになった。ちなみに当時の修業者は一週間滞在し、講話は、年中無休でつづけられている。
 ついで一〇月三日には安生館が竣工した。これは修業者や参拝者の宿泊所にあてられ、大祥殿の施設とあいまって天恩郷における一般のうけいれの設備がととのってきた。こうして、天恩郷内の月照山以北は万寿苑、以南は千秋苑とよばれることになり、さらにこの年の一月に入手された亀岡町安町の洋館はシオン館と命名された。このシオン館はエスペラントの講習会や展覧会、その他の会場に使用されることになる。
 聖師の生活は、一九二六(大正一五)年になってから、ますます多忙になってきたが、一二月四日には、東京で一〇日間滞在し、一五日亀岡に帰着した。こえて一二月二五日、ついに大正の年もおわりをつげ、改元されて、あたらしい昭和の時代をむかえることになる。
〔写真〕
○月照山 (上)建設前 (下)月の輪台 みろく塔と宣霊社 (右)大祥殿 (左)天恩郷碑 p807
○光照殿 (上)地鎮祭 (下)竣工 左端は天恩郷碑とみろく塔 正面は瑞祥通り右端にみえるのが大銀杏 p808
○瑞祥新聞創刊号 真如能光改題第1号 瑞祥会報(1925─大正14年8月5日第1号~第10号)の11月5日号より改題 p809
○八雲神社参拝前の記念撮影 大洲佐賀宅にて 三代直日(前列右より2人目) 教主補佐宇知丸(後列右より3人目) 八重野(4人目) p811
○大阪毎日新聞の四面に掲載された大本の全頁広告の一部 p812
○月宮殿下の石垣工事竣工 左前方は光照殿 右端は大銀杏 人のいるあたりが現在の教碑附近 p813
○大祥殿 p814
   
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