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第十八章 弥勒の世

インフォメーション
題名:第18章 弥勒の世 著者:出口王仁三郎
ページ:511 目次メモ:
概要: 備考:2023/10/05校正。 タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-05 23:59:28 OBC :B121802c185
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正9年9月21日号(第127号) > 弥勒の世に就いて
 御筆先(おふでさき)にミロクの世が出て来ると云ふ事が載つて居ります。(これ)は仏法の法滅尽経(ほふめつじんきやう)にも出て居ります。(また)阿弥陀浄土の(をしへ)が滅ぶる時に、弥勒菩薩が(あらは)れて来ると云ふ事が出て居ります。基督教でも天国が来ると云ふ事が聖書に出て居つて、神道で云ヘば、松の世、即ち神の世が出て来る。斯様(かやう)(みな)知らされてあります。(ところ)が御筆先を始終読んで居る様な人が、弥勒の世は何時(いつ)出て来るかと云ふ事を、尋ねて来ることがあります。(しか)も十年(あるひ)は二十年も御筆先を戴いて居る人が、(かく)の如き事を尋ねて来る。()う云ふ事は、とうの昔に分らなければならぬ筈であるのにそんな事を尋ねて来ると云ふ事は、実に呆れて、私は()いた(くち)(ふさ)がらぬのであります。それで私は御筆先の上から、弥勒の世が何時(いつ)から始まつて居るかと云ふ事を、一言(いちごん)御話(おはなし)したいと思ひます。
 弥勒(みろく)と云ふ(うち)には、法身(ほつしん)応身(おうしん)報身(はうしん)と三つに分れて現れて居るのである。所謂(いはゆる)明治二十五年の正月元旦に国常立(くにとこたちの)(みこと)愈々(いよいよ)ミロクの世が来ると云ふ事を御知らせになつた。(これ)は明治三十年からと云ふ事で明治三十年に神界の世の立替をする、さうしてミロクの世、神代(かみよ)が地上に来ると云ふ事が書いてあるのであります。さう致すと、開祖は明治二十五年に現れ玉うたのであります。神様の御道(おみち)(うち)御這入(おはい)りになつて、愈々(いよいよ)法身(ほつしん)弥勒(みろく)御働(おはたらき)を遊ばしたのが明治三十年からの事で、法身(ほつしん)弥勒は至善、至美、(ぜん)一筋(ひとすぢ)()(かた)をなされる所の神様であります。所謂(いはゆる)弥勒の出現と云ふ事は、霊体(れいたい)(もつ)て現れられたのを、時節到来して、(ここ)(ある)形体(けいたい)を持つて()()に現はれたのでありますから、明治三十年からは弥勒の世になつて居るのであります。それから(また)三十年で世の立替をすると云ふ事は、明治二十五年に御筆先が出ましてから、三十年後と云ふ事になる。此の御筆先はどちらにもとれる。丁度(ちやうど)皇典古事記を解釈致しますと、其の時代々々に応じて、(くわつ)生命(せいめい)を具備せる予言が書いてあつて、大正の世には、大正の世のやうになつて()きて居り、明治初年には、初年の如くに活きた教訓であり、又徳川時代には、徳川時代の活きたる解釈が出来るやうになつて居ります。是が古事記の名文たる所以(ゆゑん)であります。御筆先もさうであつて、(その)人の身魂(みたま)相応にとれる、又時代々々によつて活きた解釈が出来る、実に伸縮自在な(をしへ)である。此の法身(ほつしん)(はふ)と云ふ字は、水扁(みづへん)に去ると云ふ字である。それで此の法身(ほつしん)弥勒の御代身(ごだいしん)たる開祖様が、本当の法身(ほつしん)になられたのであります。次に善人(ぜんにん)真人(しんじん)聖人(せいじん)と云ふ事に(つい)て少し御話(おはなし)致します。善人と云ふ事は善なる人、誠の人と云ふ事であり、美人は読んで字の如く風貌の美しい人である。是には心の美しい人もあり、形体の美しい人もある。女を大抵美人と云ふけれ(ども)、中には醜婦(しうふ)もある。(しか)し美人善人と云ふと、美しい人、又善人(ばか)りであるかと云ふに、必ずしもさうではない。(ここ)に善悪の標準から考ヘて行かなければならぬ。人を殺せば国法によつて、自分も殺されなければならぬ。けれ(ども)時と場合とによつて、勲章を貰ふ事がある。(たと)へば宣戦の詔勅(せうちよく)(くだ)り、大君(おほぎみ)の御命令に()つて出征をした時に、敵を(たふ)して多数の人を殺す。其時(そのとき)は勲功者、殊勲者として、罪になるどころか勲章を戴くのである。斯様(このやう)に時と場合とに依つて、悪い事ともなり、善い事ともなる。(ここ)に至つて善悪に迷ふ事が出来て来る。宗教は人を殺す(なか)れと、(ただ)単に教へて居るが、是では戦争が出来なくなつて了ふ。此の善悪の標準は何処(どこ)()るかと申しますと、日本人は皇祖皇宗の御遺訓及び明治天皇の(くだ)し給へる教育勅語(ならび)戊申(ぼしん)御詔書(ごせうしよ)、五箇条の御勅諭(ごちよくゆ)、之に合致したものが善で、之に違反したものが悪であるから、(この)標準の(もと)に善を行つて行かなければならぬ。(あるひ)は一家を円く治め、隣人と親しみ、知己朋友の中に苦しんで居る人があるならば、自分の(ちから)(だけ)の事を尽して助けてやる。是が慈悲深い人で、()う云ふ人を指して善人と云ふのである。実に一点の非難の打ち所のない人、斯う云ふ人を本当に偉い人、善人と称するのである。即ち善人と云ふ事は、法身(ほつしん)弥勒の事であつて、世の中を(ぜん)一筋(ひとすぢ)に治め、善の(かがみ)をなされた開祖様や、是に(るゐ)した善行を励まれた人の事であります。
 次に応身(おうしん)と云ふ事でありますが、是は身に応ずると云ふ事である。(たと)へば盗人(ぬすびと)(むか)つて、頭から不可(いか)ぬと叱つても却々(なかなか)直らぬ。自分も共に盗人(ぬすびと)(むれ)這入(はい)つて、一遍(ぐらゐ)は自分も盗人(ぬすびと)をやつて見る。さうして此の(おこなひ)はいかぬと言つて、本当に改心をさせる。又芸者買ひの好きな人がある。之も同様に自分も一緒に行く。さうして斯う云ふ事は(つま)らぬから()めようではないか、善い事ではないと云つて、責め諭して改心をさせる。博奕打(ばくちうち)とても其の通り、斯う云ふ具合に之に応じて改心をさせる、是が応身(おうしん)と云ふ事であります。仏法の観世音(ぐわんぜおん)は、三十三世相(せさう)を変へる。是も其通りで、観音様は天照大御神ともなり、木花咲耶姫ともなり、或時は(あまの)佐具女(さぐめ)ともなり、又下照姫(したてるひめ)ともなつて、色々変化(へんげ)をされます。是は何であるかと云ふと、丁度(ちやうど)応身(おうしん)と云ふ事と同じ(はたらき)をして居るのである。つまり盗人(ぬすびと)(むれ)に自分も(まじ)つて、さうして改心をさせると云ふことが、観音の(はたらき)であります。それでありますから、法身(ほつしん)の弥勒、即ち善人から之を見ますと、応身(おうしん)の弥勒は非常な悪にも見える事がある。正邪善悪を超越して、社会の毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)(など)眼中(がんちゆう)に置かないで、天下国家の為に一身を捧げる、是が応身(おうしん)弥勒である。つまり人が悪く言はうが、笑はうが、そんな事には頓着しない。(ただ)天下国家のため、(あく)までも自分の(ちから)のあらむ限り霊力(れいりよく)の続かむ限り、天下万民の為に一身を犠牲にする所の(はたらき)であります。斯う云ふ人の(おこなひ)を見ると気の小さい人は非常に恐れるのである。今日新聞や雑誌で非常に皇道大本の事を(やかま)しく言うて来出(きだ)した。所が是は一つも(まと)の中に這入(はい)つて居らない。影も形もない事(ばか)りを書き(つら)ねて居る。新聞と云ふものは妙なもので、自分が非常に悪く吹聴した事を後から直すと云ふ事を嫌ふ。新聞は嘘を書きながら嘘だと云ふことは決して言はぬのである。正誤を出した所が、小さい六号活字で、何処ヘ出したか分らんと云ふやうな具合で、世の中は斯様(かやう)な有様になつて居るのであります。併し之を大きく考へて見ますと応身(おうしん)(はたらき)で、神界からさう云ふ具合にさせられて居るのである。御筆先に「大本は悪く云はれて、良くなる仕組(しぐみ)であるぞよ」と云はれて、仕組(しぐ)まれて居るのでありますが、之が分つて居る人は結構であるが、併し一面から考へると、真直(まつすぐ)な人、天下国家を思つて、大本と一緒になつて尽したい人を、この為に誤らせる事があります。又(なか)には()う云ふ具合に悪く云はれるからには、大本には何か必ずあるに違ひないと思つてやつて参ります。これは先づ上等な人である。さうして此処へ来て見たならば、新聞や雑誌に書いてある事が、真赤な嘘であると云ふ事が一遍で分るけれども、世の人は総て新聞を迷信して居る。何でも新聞に出て居る事は、嘘のこともあるが、多くは正直なものであると誤解して、丁度(ちやうど)官報と同じやうに見て居る人があるから仕方がない。
 ミロクの世と謂ヘば、天下泰平、至善至美なる世、安心な世、鼓腹(こふく)撃壌(げきじやう)の世の中のやうに思つて居る人が多いが、併し是が報身(ほうしん)のミロクの世の中とならなければさうはならぬのである。夫迄(それまで)はミロク様は応身(おうしん)となつて現はれ、総ての世の悪魔と戦はなければならぬ。ミロクには大自在天と云ふ敵がある、ミロクに百の力があれば、大自在天には九十九の力がある。若しミロクの百の力が一つ欠けたならば、大自在天は勝つのであつて、是ではどうしてもミロクの世になることは出来ぬのである。大自在天には財力がある。さうして今日は筆の力、口の力で攻めて来る。(あるひ)は法律権力で攻めて来る。(あるひ)は軍隊の力を以て攻めて来ると云ふやうに、どんな権力でも持つて居る。即ち九十九の力を持つて居るのであるが、ミロクの方はさう云ふものは何も持つて居らぬ。(ただ)誠と云ふ一つの玉を持つて居るのみである。(けん)とか、(ゆみ)とか、さう云ふ圧迫するものはなくて、(ただ)誠一つで、大自在天の各種の力にぶつかつて行くのであります。さうして応身(おうしん)(はたらき)をせねばならんと云ふのであつて、ミロクの立場と云ふものは実に苦しいのであります。さう云ふ事も知らずに、何時(いつ)ミロクの世が来るか、何時(いつ)立替があるかと云ふこと、それ(ばか)りを待つて居る人があります。神様の方では、明治三十年に立替(たてかへ)をすると云ふ事が(きま)つて居る。若し三十年に立替が出て来たならば、一人も助かる者はない。開祖様は一方には立替を(のば)して置いて、一方には改心する者を、一人でも拵へる様にと、神様に御願(おねがひ)になつたのであります。吾々もさうである、既に明治三十年と云ふ時期が来て了つて居るのであるから、何時(いつ)()(どき)でも立替は出来るのである。今でも出来るのである。けれども此処(ここ)まで(ひら)けた此の世の中であるから、一人でも助けたい、餓鬼虫族(むしけら)までも助けたいのが、神様の大御心(おほみこころ)でありますから、之を助けなければ申訳(まをしわけ)がない。それで天地の神様にお(わび)をして、延ばして頂いて居るのであります。神の心と人民の心とは、全く反対であります。人民は(はや)う立替が来たらよいと待ちつつあるが、若し今日突然立替が来て、所謂(いはゆる)大三災(だいさんさい)が来るとしたならば、大本に於ても、十人と助かる者はないものの様に思ひます。(みな)考へが違つて居る、本当の神心(かみごころ)になつて居らぬ。神様の御心(みこころ)(かな)ふ心、即ち誠の心──善人になつて居らぬ。さうして一方には物質文明が益々(ますます)発達して、汽車、汽船は頻々(ひんぴん)として往来し、空中には飛行機、飛行船が飛んで居る。又電信、電話も整備して、天地間と云ふものは非常に縮小して居ります。昔五年かかつたものが、今は五日と云ふ短時日(たんじじつ)で、飛行機で世界を一周する事が出来る、斯う云ふ具合に縮小して来て居るのである。之が(やが)て統一されて一つになる。もう一つに出来て居る。通信機関、交通機関が既に統一されて居るのであります。統一と云ふ事は、(たと)へば電信電話が何処(どこ)へでも通ずる、汽車ならば何処(どこ)へでも行ける、是が電信電話汽車の統一である。即ち交通の統一である。()うして余す所は、(ただ)精神界の統一が残つて居る(だけ)である。吾々の(たましひ)は非常に曇つて居る。曇りに曇つて悪い血が流れて居る。併し目を以て無限大の宇宙を見ると、一遍で広い空界(くうかい)の現象が映つて来る。斯う云ふ様な結構な目を持つて居る。併し神様は(なほ)()れ以上に魂とか、言霊(ことたま)とか云ふ力を吾人に与へて居らるるのである。吾々は目を以て無限大の蒼空(さうくう)が見えるやうに、耳も、鼻も、口も、(ことごと)く一身上の統一が出来なければならぬ。併し肉眼を以てしては形体(だけ)は見え()るが、細かい所は見えない。日月(じつげつ)星辰(せいしん)の輝いて居る事は分るが、目を働かすと同じやうに、言霊(ことたま)を以て風雨(ふうう)雷霆(らいてい)叱陀(しつた)して其妙用を発揮し得る人は、未だ出来て居らぬ。
 斯くの如く地球上の(こと)一切は(みな)片輪になつて居る。一方が進めば一方は退(しりぞ)いて居るのである。日本の今日の国情を考へて見ると、愚図々々して居る時ではない。考へて見れば見る(ほど)、夜も昼も眠れぬ(くらゐ)に不安な状態になつて居ります。世界の思想界は混乱の(きよく)に達し、又資本家と労働者との軋轢(あつれき)、是も至る所に起つて居るのである。其の他国交(こくかう)(じやう)の問題(とう)を考へて見ると、()うしても、(たたかひ)が起らずには居られないと云ふやうな有様であります。(ある)国は既に着々と軍備を整へて居る。若し今(ただち)に戦争をしたならば、不利な事は分かり切つて居る。今でさへも其の通り、まして二三年先になつたならば、(かず)の上では到底勝つ事は望めない。物質的に勝つと云ふ事は出来ないのであります。今の(うち)ならば何とかなるだらうと云つても、無謀な(いくさ)は出来ませぬ。若しさうやつて(うま)く行けば()いけれども、若し独逸(ドイツ)のやうに()けたならば再び()つ事は出来ぬ。独逸以上の惨害を蒙るのである。故に(いくさ)も考へ物である。是は()うしても、人事を尽す上に於て戦争を免れ、或は軽くすると云ふやうに、大難を小難に、まつり代へて貰ふと云ふ事を考へなければならぬ。さうして手を尽していけない時には、所謂(いはゆる)言向(ことむけ)()はすと云ふ天照大御神の御神勅(ごしんちよく)()つて、言霊(ことたま)の妙用を発揮するより(ほか)はありませぬ。武士の言葉に二言(にごん)なしといふ如く、若し言霊を一遍使つたならば、二度とは使ヘない、(わたくし)も雨や風を必要に応じて降らせたり()めさせたり、又役員信者も之を()つて、実際に経験して居りますが、本当の事は一言(ひとこと)一遍(いつぺん)言つたならば、再び言ふことは出来ませぬ。無茶苦茶な事は出来ない。鶴の一声とか、武士の言葉に二言無しといふ事があるのに、まして神様の御道(おみち)に二言のあるべき(はづ)がない。(ただ)一回である。それであるから非常に難しい。(だい)なる修養を要するのであります。(いたち)最後屁(さいごぺ)をしたやうなものである。最後屁(さいごぺ)(はな)つた(いたち)はモハヤ生命(いのち)はなくなる。又(はち)が人を刺すに、一遍刺したならば其(はち)(いのち)が無くなる。それと同じ事で言霊といふものは、其の運用が軽々しく出来るものでない。魂を磨きに磨いて、愈々(いよいよ)と云ふ時に使ふ。国家の危急存亡の場合、又()に腹は代ヘられぬといふ時に使ふのであります。
 亀山上皇が元冦(げんこう)来襲の時に、身を以て国難を救はうと神祇に誓はれた。是も上皇の言霊の力であります。斯の如く(だい)なる力を()つて居るのが言霊である。その(かは)り、之を屡々(しばしば)運用する事は出来ぬのである。それで応身(おうしん)弥勒のことは、大略申し上げました(つも)りでありますが、要するに物に触れ、事に接して千変万化の(はたらき)をする。さうして此の世の中が(やすら)けく(たひら)けく治まるやうに、(かみ)は天津日嗣(ひつぎ)天皇を(はじ)(まつ)り、(しも)は万民の為に、世界人類の為に一切を(なげう)つて尽す、之が即ち応身(おうしん)(はたらき)であります。(たと)ヘて言ひますと、応身(おうしん)弥勒は(こめ)(たね)のやうなものであります。此(もみ)苗代(なはしろ)()いてさうして草を取る、それから田に植付(うゑつ)けてまた草を取り、水を注ぎ、(みの)つた(のち)は稲を刈り、稲木(いなぎ)にかけ、(うす)でひく、さうして(たはら)()める。此処迄(ここまで)にするのが応身(おうしん)(はたらき)であります。大本が思ふより早く発達するのは、応身(おうしん)のミロクの(はたらき)であります。
 次に報身(はうしん)の弥勒の世になれば、皆が喜ぶ世になる。之を天国とも極楽の世とも云へるのでありませう。実に鼓腹(こふく)撃壌(げきじやう)の世の中になつて来るのでありませうけれ(ども)()(まで)になるには一つの大峠(おほたうげ)があります。この大峠を越さねばならない。御筆先に『大難(だいなん)小難(せうなん)にまつり代へてやる』といふ事が出て居りますが、この大難と云ふのは三つの(だい)なる(わざはひ)で、風水火(ふうすゐくわ)と云ふこと、又小難といふのは饑病戦(きびやうせん)といふことである。不作が続いて饑饉になる。(あるひ)虎列剌(これら)とか、ペストとか、チブスとか、流行性感冒(かんばう)だとか、斯ういふ事が起つて来る、之が小難であります。戦争も人事を尽したならば免れる事が出来るのである。故に是も小難の(うち)に入つて居ります。総て人間の力に依つて、幾分でも防ぎ()るものが小難でありますけれども、風水火(ふうすゐくわ)人力(じんりよく)奈何(いかん)ともする事が出来ぬものである。()く新聞などに出て居りますが、小区域の風害(ふうがい)があるけれども、これでさへ天文学者や如何(いか)なる智者でも、又角力(すもう)(とり)でも、之を奈何(いかん)ともすることが出来ませぬ。水も又其通りであつて、大洪水などは奈何(いかん)とも()がたい。又火に致しましても、火山が爆発する、さうして大地震が起る。(あるひ)は桜島の噴火といふ様な事でも、人間の力では奈何(いかん)ともしがたい。どれ(ほど)偉い地震学者が出ても、(ただ)破裂の兆候があると言つて知らせる(だけ)であつて、之を防止する事は出来ない。(ただ)破裂した(あと)を研究する(くらゐ)の事しか出来ません。以上の如きものが、所謂(いはゆる)大難(だいなん)であります。若しこの風水火(ふうすゐくわ)が起つたならば『ノア』の洪水以上のものになる。『ノア』の時は(ただ)洪水だけであつたが、此の風水火が働いたならば(かぜ)()め、水攻め、火攻めと云ふ事になつて、到底人力では奈何(いかん)ともすることが出来ない。今日(こんにち)饑饉(ききん)の兆候はないけれ(ども)、このさき段々出て来るだらうと思ふ。病気なども頻発して居るけれども、是等(これら)は未だ防げるのであります。若し大難が起つたならば、世界が全滅するより(ほか)に仕様はない。故に大本では、大難を小難にまつり代へて下さいと、お願ひするのであります。(しか)して今の(うち)は、神様が天地を支へて居られるのである。世の終りが近づいたといふ事は、基督教でも仏教でも唱へて居ります。それを神様が金剛力(こんがふりき)で支へて居つて、其の間に改心させて、一人でも余計に助けたいと御骨(おほね)折りになつて居ります。それも知らずに、やれ大正十年頃だとか、十一年頃が本当だとか嘘だとか言つて、騒ぎ廻つて居る。若し大正十一年に大立替が来なかつたならば、吾々が先鋒となつて大本を叩き潰して了ふ、と言つて居る人(たち)があるとか言ふ事で、実に面白い事であります。是は全く悪魔に魅せられて居るので、神様の事が分るどころか、利己主義(われよし)の骨頂であります。斯う云ふ事で、どうして弥勒の世が実現しませうか。若し誠があつたならば、さういふ事の無いやうに、世の中が(たひら)けく(やす)らけく治まるやうに、祈つて居らなければならない筈である。()んな(かんがへ)を持つて居つては、(たひ)らけく(やす)らけく(どころ)ではない。大混乱大騒動を待つ所の悪魔の精神である。祝詞には決して大騒動が起るやうにとは書いてない。天下泰平を日々(にちにち)奏上して(たひら)けく(やすら)けくと祈りながら、心は全く反対になつて居るのである。斯んな不心得な事で()うするのでせうか。さういふ事を言ふ人は、千人の中に一人(ぐらゐ)は無いとも限らないでせう。又立替が来たならば自分は助かる、さうして今迄大本を讒謗(ざんばう)罵詈(ばり)した者は皆(ほろぼ)されて了ふ、実に()い気味だと思つて居るやうな不心得者も無いではない。チヨイチヨイ耳に這入(はい)ります。併しさういふ人間が真先(まつさき)に滅ぼされて了ふのであります。大本に来ないでも、又大本の「オ」の字も知らない人でも、本当の誠の人であつたならば、こんな馬鹿な事は決して思はない。さうして大難も小難もないやうに、又大難を小難にする様に御祈りするのである。さうして今度の二度目の天之岩戸を開いて、立派なミロクの世として、神人(しんじん)共に楽しむと云ふ事が御筆先にあります。どうしても改心が出来なければ、折角御引受(おひきうけ)になつて誠に申訳(まをしわけ)がないけれども、()むを得ずのことがある、さうなつても決して神や出口を恨めて下さるなとまで仰せられて居るのであります。此の全世界を自由にすると云ふ偉大なる神様が、()むを得ずと云ふ事を仰せられると云ふ事は、余程現代の人間には愛想を尽かされてのことであります。今日の社会は人心の腐敗()(きよく)に達し、畜生同然になつて居ります。平田(ひらた)篤胤(あつたね)(をう)が、
  これはしも人にあるやとよく見れば あらぬ(けもの)が人の皮着る
と詠つて居ります。是こそ本当の人間かと思つてよく調ベて見ると、(あに)(はか)らむや人間に非ずして(けもの)である、つまり獣が化けて人の皮を着て居るのだと歎かれたのであります。その当時でも斯の如き有様であるから、まして数十年も経つた今日では、()して知ることが出来るのであります。物質文明が進歩するに()れて、精神的方面は益々(ますます)堕落するのであります。
 弥勒の世に住む人は、総て報身(はうしん)(はたらき)をしなければならぬ。報身の(はたらき)となつて、国家天下の為に尽す、さうせぬことには、報身の世は現れて来ない。報身の世になると、すベての人は聖人君子(ばか)りになる。此世を指して神世(かみよ)()ひ、弥勒の世と謂ひ、(あるひ)は天国浄土と謂ふのであります。
(大正九、九、二一号 神霊界誌)
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