余かつて黒住教教祖黒住宗忠氏が、次の如く学者に対して痛罵せしことを聞き、すこぶる奇怪の感を抱きたることありき。
(前略)ある時、学者多く集合の席にて、世の中の罪人の張本、親殺し主殺しよりもはなはだしき背理なる罪をいうかなと尋ねしに、講釈の席なれば誰とても答うる者なし。かかる罪人は今時の学者なり書籍は数千巻読むといえども、その奥義の肝心なる天地を悟ること能わず、聖人の語に君子は本をつとむ、本立ちて道なるの道理を明らむることなし。元と申せば、五常の道を守り、君に忠、親に孝、夫婦兄弟朋友の言などと云うことを、信の本と心得て、天地の間に、神もなく仏というものなしなどと押し極めて、一切衆生の人々を迷わせて参る罪、これより大なるはなし。(至誠講義)
嗚呼これ何ら激烈なる痛罵なるよ。釈尊の世に出でし時には、九十幾種の婆羅門の学者あり、基督の世に出でし時には、パリサイらの学者ありて、さかんに相敵視しぬ。由来宗教家の前には、学者なる者最も度し難き人間なるが如く映ぜしが如し。
余輩ら、明治の新教育に育てられ頭脳をもって、常に宗教家が学者を痛罵するの言に接して、決して快き感あるもに非ざりき。いわゆる宗教家なる者は、一種の信仰を根基として、一切万有を観察するが故に、多く現今の如き、実験証明に基礎を置く科学と相容れず、いわば宗教は架空の論とも見るべく、科学こそ真正真実の学問なれと想いたること、実に久しき間のことなりき。
しかるに、ひとたび極典古事記の本義を聞き、その深奥を窺うに到りて、
創めて宗教家の言のすこぶる意義深淵なることを識り得たり。余輩は、むしろ信仰に薄弱にして、理学的頭脳に富むと自称せしものなり。仏典を読むも聖書をひもとくも更に信仰を催さず、普通の倫理と選ぶところなきものの如く思惟し、特に科学の見地よりして批評を下し、問難疑義を生じて科学的証明を
獲るに非ずんば、哲学的解釈を得んことに悶えたりしなり。されば、そは余は全能の神を知らざりし愚挙たりしなり。(古事記よりして見るときは仏教の如来(仏)基督教の神に対してすこぶる見解の異なるものあるも今は謂わず)
試みに余をして、現今の学者に対して批判を下さしめよ。或いは謂う者あらん、もしもある偏狭なる信仰(むしろ迷信)を
基として、一切を批評せんは、色眼鏡をかけて世間を見るが如し。請う、
爾まず爾の
眼の
梁を去って、しかして後に学者を品等せよと、余輩謹みてこの語を服膺せんとす。
余は、四十三年六月一日発行にかかる『科学世界』をひもときて、科学の進歩の実に精密の極に達し、科学万能の呼び声のただならざる所以を理解せしの感あり。されどひるがえって考うるに、東洋においてすでに幾千年以前に発見せられたる確論が、日進文明の現今、大学者によって未だその端緒すらも発見せられざる現象を見てすこぶる痛嘆せざるを得ざるものあるを覚えき。
文学博士福○氏が、千里眼の実験に対して、未だ東洋独特の解決を知らず、種々に迷惑するの状態真に憐れむべし。仏典密教の渡来はすでに千有余年の以前にあり。文学博士とも言わるる氏が未だ東洋の霊魂説を知らざるは何事ぞや。
就中我が邦の極典古事記が説くところの、
タマシイ タマノヲ
の深淵なる説には、思いも及ばざるは無理ならぬことながら、真に東洋の面目を失墜するものに非ざるか。
宇宙万有は、ことごとく天御中主神の御腹の内に住するものなり。タカマガハラの説、最も傾聴すべし、しかも神と人と物と元と異物にあらず、宇宙は天御中主神の全一大精霊体たるなり。宇宙の組織紋理即ち天御中主神の血脈神経系線脈等を、ことごとく精細に解義するものは、古事記の極典なり。換言すれば、神の細胞組織繊維組織を詳述し、有機的活動の全般を説くが古事記なり。人に言語の霊能あるが如く、宇宙に言語の霊能あり。この人の霊能の働きに仮りて、宇宙の霊能を説くが古事記の
言霊説と名づく。言語は事実なり、波動なり、活物なり。この点において、古事記と科学とは相密接して協同誘掖するなり。かのエネルギズム、原子説等は古事記を説明するに偉大の助力たるなり。古事記よりせば一般の科学は、ことごとく古事記解説の補助たりと云うを最も適当なりと為す。かの同雑誌に記載せらるる、
音の調和と楽律、輻射
等はすこぶる好研究にして、古事記解説上に最も便宜あり。
また同誌に理学博士坪井正五郎氏の人猿同祖論あり。博士は篤学の士と聴けど、田舎の小身者が説に耳を傾くるの雅量ありや否やは疑わし。馬鹿なことでも聴いてみるだけの熱心なくては、学者の本領を失せん。博士の論は、実に立派なり。されど馬鹿な説をも聴くだけの雅量なくんば、氏の説、ここにその発芽の尖端を
剪去せられん、惜しむべし。
余輩は、一切の科学をもって、古事記解説の補助たりしと謂えり。されど、現今称えらるる倫理説(古来のも勿論)等には絶対的反対のものもあり。
就中古事記説に類似する神学、哲学、倫理説、宗教等にかえって
氷炭水火相容れざる説多し。たとえば法華本門の門跡と相容れざるが如し。紫の朱を奪うを憎むとはこのことなり。
吾人は時として学者に対して痛罵をほしいままにしたく思うことしばしばあり。世は実に無学者に誤らるるよりも
似而非学者の世を害し、人を傷づくることのはなはだしきを見るごとに、真に黒住宗忠以上の痛罵を発したく思うなり。
某県会議事堂に、大隈伯の来たって講演せらるるや、時勢を憤慨して現時の国民に大なる警告を加えらる、真に多謝すべし。されど伯の言は、明治一世の雄弁家たり時代の指導者たり得といえども、未だ百世の言として聴くべき何物もなし。伯にして百二十五歳の高齢に達せしむとも、伯の生命は百二十五歳のみ、憐れむべしとも謂わざるべし。井上文学博士哲次郎氏の如き、壇上に壮語して二時間の長広舌を弄すといえども、氏の生命は二時間半のみ、世界文明の統一なぞ鉄面皮の限りと聴者評し合えりき。
(大正三・九・一五 敷島新報 第二号)