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徹底的掃滅へ

インフォメーション
題名:徹底的掃滅へ 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:449 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195402c6241
 綾部・亀岡における大本の施設や土地の破却処分と併行して、三月以降地方組織への弾圧は一段ときびしいものとなった。
 三月一四日内務・司法・支部当局は「検挙後の動静楽観を許さず」として協議の上、関係庁府県に各地の情勢を報告するよう指令した。さらに一五日に治安当局は、文部省宗務局や府県の社寺課、全国の警察署を動員して、地方における関係機関の解散や施設の撤去、信者の転向工作を一段と強化し、地方組織の徹底的壊滅を指令したのである。広島県では三月一二日特に警察署長会議を召集して、「一、大本教関係団体はいかなる名称たるとを問わずこれが解散の実をあげしめ、将来集会、談合等を一切なさしめないこと。 二、大本教関係礼拝施設はその個人用たると団体用たるとを問わず一切これを取毀つこと。 三、大本教関係印刷物、その他書類を一切任意提供せしむること。 四、大本教信者の転向をなさしむること」を指示し、県下各警察署を総動員して、広島県から「邪教」一掃の積極的活動を開始した(「大阪朝日新聞」広島版昭和11・3・14)。他の府県でも例外ではない。
 たとえば島根県では、信者が蕎麦屋を開業しようと願い出たところ、「同志の会合場をつくるため」であるとされて許されず、それから二年もたって、「もし同志が出入する形跡があつたら直ちに営業を停止する」という条件つきで、やっと許可されたという例もある。当局の圧迫はつよく、しかも執拗であった。このため表だった活動や会合はできなくなり、信者のつどいは監視の目をくぐってひそかにおこなわざるをえなくなった。
 京都府の新舞鶴署では管内の信者七〇人を神宮奉斎会に入会させ、白糸浜神社で転向の宣誓式をおこなわせた。また和歌山県では松下特高課長が県下を行脚し、田辺分所に属していた信者六〇人を斗鶏神社の氏子に転向するようはからうなど、各地でさまざまな工作がすすめられた。
 京都府では三月一六日と一九日に府下二六署の警察官を京都市に集めて、あらかじめ大本取締りのための特別講習会をおこない、月末にかけて府下の一斉検索が断行された。とくに綾部と亀岡両町の検索はきびしく、追及の手は信者とつながりがあると見られる一般町民にまでおよんだといわれる。
 三月二五日、鳥取県では藤田武寿・平木正二ら七人が検挙され、二七日には残留幹部にだけする第三次の一斉検挙がおこなわれた。綾部・亀岡では湯浅斎治郎(仁斎)・湯川貫一・西村雛子ら八人、京都では差入れに尽力していた中邨新助(中村良春)が検挙され、小倉や沼津でも四人が検挙されて、京都へ護送された。西村雛子は昭和坤生会の管事であったため、四、五〇日も留置されてきびしく追及された。
 ついで四月七日には第四次の一斉検挙がおこなわれた。東京・大阪・島根・静岡・兵庫・福岡・広島、その他関係府県で内海健郎・中野与之助ら四〇余人が、さらに一八日には石川県下の一斉検索で嵯峨保二ら八人が検挙された。これらは今日記録としてのこされているものの一部にすぎない。地方信者への圧迫も日ましに激化していったのである。
 当局の記録によれば、左記のごとく、三、四月には検挙者は四六二人で四二の道府県におよんだとしている。これで事件以来の検挙者は五二七人を数える。いかに三、四月の第二段の検挙が大がかりなものであったかがあきらかになるであろう。
北海道(一八)青森(五)岩手(六)宮城(一二)秋田(六)福島(二)埼玉(一七)群馬(二)千葉(一)栃木(九)茨城(三八)東京(四)神奈川(一四)山梨(二)長野(二)新潟(七)石川(九)富山(四)愛知(一八)静岡(三一)三重(九)滋賀(一)京都(一七)大阪(七)奈良(四)和歌山(一三)兵庫(三〇)鳥取(七)島根(一四)岡山(二二)広島(三四)山口(九)徳島(四)愛媛(五)高知(四)香川(八)福岡(一九)大分(一)佐賀(四)長崎(三六)熊本(五)宮崎(一)
 右の資料によると、山形・福井・岐阜・鹿児島・沖縄の五県では検挙数がでていないが、その後警察の取調べや押収、施設の破却などはどの府県にもおよんでおり、奄美大島(鹿児島県)や沖縄県など遠隔の地もまぬがれてはいない。
 しかも、地方への弾圧はこれでおわったのではない。大本の根絶を期する当局により、地方信者のうえには第二段の検挙を足がかりとして、第三段、第四段と息つぐ間もなく弾圧の嵐が吹きすさんだ。
 その後の新聞報道によってみてもそのだいたいが察せられる。五月には「京都府特高課は全国各府県特高課に通牒を発し、元信者の取調べ方を手配、月末までに約百名を検挙、このうち狂信者程度の甚しいものを京都へ護送、主流に合して本格的取調べを行ふ」ため、「約四十名」が京都へおくられ、ついで六月には「オルグ的中心人物の外、信者中にも何ら改悛の情なく大本再建の潜行運動をつづけている徒輩が相当数に上つてゐることか判明したので、京都府特高課から再び全国各府県に調査方を移牒」し、つぎつぎと検挙されて京都への護送がおこなわれた。そして八月七日東京では第二次の検挙がおこなわれて召喚者は一〇〇人をこえ、約四〇人の検挙者を出したことが報じられた。また愛媛県警察幹部講習会では「左傾、右傾分子の動静」とともに、「大本教関係者転向者の監査」の結果が教材につかわれたりした(「警察協会雑誌」)。文字どおり弾圧の嵐は全国を吹きまくったのであり、昭和一一年の暮までに九八七人が検挙され、三一八人が検事局におくられている。
 第二次大本事件は、まさしく大弾圧であった。一宗教団体にたいする弾圧としてはいかに大がかりなものであったかがわかる。ときの元老西園寺公望は、「現在では所謂邪教─だとへば大本教といふやうなものをやはりもつと取締らなければいかん」(原田熊雄『西園寺公と政局』昭和11・6・8)と語っており、また八月二六日鈴木京都府知事が府下警察署長会議で、「今後これ等(皇道大本)に対しては不断の視察警戒を怠らず邪教の片影痕跡だもこの地上に止めしめざらんことを期さればならぬ」と訓辞しているのにも示されているように、当局は国家権力を背景に不退転の決意をもって弾圧を強行したのである。
 家宅捜索や物品の押収は全国的に信者の各家庭におよんだ。押収物品としてはご神体・肌守・み手代・神床・お宮・祭具・祭服・刊行物・作品・会旗・会服、その他大本に関するものは紙一片といえども見のがさなかった。はなはだしきは大本に関係のない私有財産までも押収されたところがすくなくない。祖先をまつった霊璽も処分され、墓標の大本独特の用語なども抹消された。押収品のなかにはその後一部返還されたものもあるか、その大部分はただちに焼却され、なかには警官に抜きとられ、また製紙原料に売却された例もある。ところによっては、警察署の庭に押収品をつみあげ小学生をあつめて、これが邪教大本のものだといってその面前で焼却したところもあるし、家宅捜索のおり、信者の目の前でお宮を足でふみつぶし、八足台を鋸や斧で切りたおし、軸物や額をやぶり、祭服を切りさくなどの暴行をなすものもかなりあった。
 つぎに地方における警察の取調べの状況をみると、あらかじめ京都へ送るよう命ぜられている者は別として、尋問の急所は王仁三郎の不逞不敬の事実を知っているかどうかという点に集中した。そして本人の信仰程度をしらべ、転向をすすめ、誓約書を書かして釈放するものと、容疑者として京都へ送るものとを区別した。尋問のテキストとしては、警保局で作成した極秘文書の『大本事件の真相』や、出口伊佐男・東尾吉三郎などの警察聴取書の写真または写しが用いられており、「予断」にもとづき一定の枠におとしこむように仕組まれていた。また「王仁三郎はじめ幹部はこのように自白している」という殺し文句で、弁明や抵抗をおさえつけた。当局は大本に隠語があるとし、ことに和歌や冠句などにその意味をふくましているとして、「明光」(文芸雑誌)などに投稿したものはほとんど検挙し、王仁三郎にたいする信仰をきびしく詰問した。それらのうちには、未信者で、数十日勾留された例もあったほどである。このようにして理づめで頭をさげさせられる者もあったが、なかには一貫し恕理論と信仰を主張した者もすくなくない。
 警察に留置された信者の精神的苦痛はおおきかった。うすぐらい留置場、のみやしらみや南京虫などに日夜なやまされる不潔さ、差入れのない者には四銭五厘の「くさい飯」(官弁)があてがわれた。幾日も取調べがなく放置されていたり、早朝から深夜まで取調べがつづいたり、真綿で首をしめるような取調べかとおもえば、俄然ののしられたり恐喝されたり、そのような精神的威圧を例外なくうけた。起訴された被告人以外の者の警察における留置日数を、アンケート(昭和39年)による調査結果の三三五人(うち女性一九人)についてみれば、一〇日未満は一二〇人、一〇日以上三〇日未満は八六人、三〇日以上六〇日未満は六一人、六〇日以上の者は六八人となっている。
 取調べのきびしさは地方によって若干の相違があったが、福島県ではとくに苛酷であった。起訴された岩佐(神)守の長男正彦(二二才)は、昭和一一年四月中旬白河警察署に留置され、毎日深夜にいたるも眠らせないで一週間取調べをつづけられ、その間なぐる、蹴る、頭を下にして鼻より水を入れるなどの拷問をくりかえしおこなった。そのためついに強度の神経衰弱となり、病状悪化して、ようやく二ヵ月にして帰宅をゆるされたが、まもなく病死するにいたったというような例もある。しかも、そのころ岩佐は京都に留置されていたので、家族のたっての嘆願にもかかわらず、わが子の死にすらあうことはゆるされなかった。同県の加藤利七は取調べをうけるにあたり、焼火ばしを尻にあてて責められ、あおむけにたおされて警察官三、四人におさえられ、水を鼻にかけられて人事不省になったという。また山口県では警察での拷問がはげしく、釈放後間もなく帰幽するものもあった。
 一方、京都でも連日警察当局のきびしい取調べがつづけられていた。そしてつぎつぎと起訴・収容されていった。五条署に留置されていた出口すみ(保釈出所まですみという)は、六月一五日警察の取調べがおわって、七月一日に起訴され、翌二日身柄を中京区刑務支所に収容された。極度の圧迫のもとに取調べがおこなわれていた元男も、六月二四日には警察聴取書の作成がおわり、七月一三日起訴されて翌一四日には中立売署から中京区刑務支所に収容された。
 警察取調べでの拷問は苛酷をきわめるものであった。栗原の自殺についで、三月三〇日に有留弘泰が五条署で自殺をはかった。九月二一日あさ六時には、最高幹部の一人岩田久太郎が中京区刑務支所でついに獄死した。時に六二才である。「脚気衝心のため病死」と診断されたか、岩田か獄中でうたったという、〝むちうたばわが身やぶれんやぶれなばやまとおのこの血のいろをみよ〟の歌によってみても、その死がなにによってもたらされたかはあきらかであろう。昭和一一年の暮近く松田盛政が、当局の拷問に抗議して中京区刑務支所で自殺をはかった。また大本浦和分所長であった宮川剛は、重病のため中京区刑務支所から日赤病院にうつされたが、入院して間もなく帰幽した。京都在住の信者がその遺体を引取り、ひそかに大本式で葬儀をおこなったが、拷問のあとが顕著であったという。一年たらずの間に自殺一人、帰幽二人、自殺未遂ニ人という犠牲者がでたが、犠牲はこれにとどまらず、こうした拷問をうけた者はかなりの数にのぼった。
 一九四五(昭和二〇)年一一月、司法制度審議会に警察官の人権蹂躪問題がとりあげられ、「京都の豚箱事件、警視庁の帝人事件、神奈川県の放火事件、二・二六事件当時の大本検挙事件」(藤沼庄平『私の一生』)が審議事項となっているのも、けっして偶然ではない。拷問は、当時の警察か自白を強要するための常套手段であった。当時の新聞報道でみても(昭和12・4)人権蹂躪によって警察官が告訴・告発された件数は全国で八三〇余のおおきを数えている。しかも起訴されたものがわずか四件にすぎないことは、こうした問題がつねにうやむやのうちに葬られていたことを物語る。しかし、こうした人権蹂躪問題は世論をつよく刺激し、一九三七(昭和一二)年三月二五日「人権蹂躪根絶決議」が衆議院で可決された。「近時司法警察官犯罪の捜索をなすに当り、無辜の国民を不法逮捕監禁して濫りに自白を強要し、自己の意に充たざる供述をなすものに対してはややもすれば暴行凌辱、惨苛を極め、往々死に至すあり……而してこれらの指揮監督の任にある検事および地方長官においてこれに馴致するの風あるは、吾人の断じて黙過し能はざるところなり」とあるが、いかに人権がふみにじられていたかが、これによっても推察されよう。
〔写真〕
○無題(新聞記事のモンタージュ) p449
○大本にかかわりのあるものとみれば紙一片までもうばい去った 鳥取警察署 p451
○監視のなかで信者はあふれでる涙をおさえ昇神奉告をした 北陸別院 p452
○官憲は私権を犯し公判をまたずにのこらず焼き払った 綾部警察署 p454
○恐喝 懐柔 欺罔……手をつくし棄教と転向を強制した 提出させられた転向誓約書 p455
○拷問で調書が一方的につくられおおくの人命がうばわれた 日本弁護士会が訴えた神奈川県寒川村人権蹂躙事件の拷問絵図 p457
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