聖師 『そうやとも。……
原の白隠禅師にまたこういう話がある。
村の金持ちの娘が男を作って子が出来た。親が「誰の子や」と尋ねるので娘は──白隠和尚は偉い人やさかい、あの人の子や言うたら親も怒らへんやろうと思って──「白隠さんのお手が掛かって出来ました」と言った。
すると案に相違して親父はプンプンに怒って「あの白隠か、偉い坊主やと思ってたに、何のこの売僧めが、そんな事をしおったか」と生まれたばかりの赤子を連れて寺に行き「これは貴様の子じゃ、大事に養うなっと何なっとせい。俺ゃもう檀家も何も止めや」と言うたところ、白隠は──「そうか。これがワシの子か、そんなら貰うとこかい」とその子を毎日背中に負うて村中乳を貰って歩き回った。
村人に「あいつ偽坊主やったか」など言われもっても、言い訳も何もせず三つまで育てた。
そんな具合で村人の信用がゼロやもんやからボロボロの衣をまといながら、それでも何も言わずに子を抱いて乳を貰いに歩いておった。
ある日そうした姿でボロボロの衣の上に子を背負うて乳をもらいに歩いているところを、他家へ嫁に行っておったその娘にヒョッコリ道で出会った。娘はその白隠の姿を見て、道にへたって手を合わして拝んだ。で直ぐ家に帰りその訳を父親に話した──「実はお父さんあの子は誰それの子でした。それを言うたら怒られるかと思って白隠さんと申したのです。でも白隠さんは自分の名誉を傷つけてまで何も言わずに育ててくれました。今道で白隠さんに出会い道にへたって謝って来たのです」と本当の事を言った。
親はビックリして急いで白隠の所へ行き、よく謝って子供を返してもらった。白隠は「そんなんやったら返したろうか」と言って返してくれた。それから一時に「白隠はえらいえらい」という事になり関東での名僧になったのや。
自分がこれはしようと思ってやったのではない。自分の名誉とかそんな事をちっとも思っておらん。「お前の子や」と言って持って来たので「じゃ貰っとこ」と貰ったまでや。でまた「返せ」言うから返したまでや。今の世の中の人やったら、とても「そんな事あらへん」と言って怒るとこや』
林 『名誉毀損で訴えるなア』
聖師 『あんまり窮屈に固めた理屈が今の既成宗教を小さくしているのや。人の延びるものを延ばさんからいかん。仏教などは日本男子の睾丸を抜いてしまっている。日本男子の睾丸剔去術をやっているのや。睾丸を抜くと活気がなくなる、日本魂を抜かせる。因縁じゃ、因果じゃと言うているが、そんなこと教えて貰わんかて自分で何でも知っている。それがいわゆるそのままの惟神じゃ。作ったり無理にこしらえてするのは惟神やない。惟人や』
(笑声)
聖師 『拝むのはいやだと思う時に神様の前にいやいや出かけて拝むのは、それは偽っているのだ。そんなとき拝んでもそれは形容だけや。心から神様を拝みたいと思うとき拝むのが本当や。忙しい時など神様を気が向かないのに拝んでると仕事も遅れるがな。そういう時に無理に拝んでもあかんわい』
寿賀麿師 『そんな時は神様を拝んでいても、あれもせんならん、これもせんならんといういろいろの雑念が湧いて来ていけませんなア』
聖師 『しかし雑念いうけど、鎮魂をして坐っておっても、いろいろの事を思い出すように、無我無心になるとか、精神統一をするとかいうても、統一しようと思う心がすでにもう統一が出来ていない。無我無心になろうと思うから無我無心になれぬ。
人というものはいくつにもその魂が分かれて動くのだ。あっちにもこっちにも魂が分かれて活動する。だからいろいろ思い出すのは、その分かれて活動している魂が思わせるので、それをまとめる、統一するのが本当の統一なのだ。思い出す事は良いのだ。忘れた事を思い出し、あっちの事を思い、こっちの事を思い、一時に一切の事を思い出す。それで本当に統一が出来るのだ。それが本当の無我の境なのだ。精神喪失状態になるまで行くのが無我の境だと今の人間は思っているが、それは間違っている。そんな事をやって亡骸になったら大変や。
(笑声)
霊のある間は天かけり国かけりして勝手な事を思い出させる。つまり神様は天かけり国かける、その神に習うのが人間や。あっちの事やこっちの事を思うのが、それが真実で、そうでなくては死んだようなもんやないか。高山の伊保理、短山の伊保理を掻分て聞召さむ……総て人間がそうなった時には色々の事を良く思い出す。その時は伊都の千別に千別てあれもせんならん、これもせんならんという気持ちになって来る。それが無我の境でみんなの考えているような、みな忘れて死んでしまう事とは違う』
寿賀麿師 『神様を拝みながらいろいろ思い出し考えたりする事は悪い事ではないのですか』
聖師 『それはつまり、いろいろの事が集合して来るのだから、いいのや。それが無我の境で、総てが幸わうのだ。
ああしよう、こうしようという智慧がついて来るのだ。あっちを思い、こっちを思う、それが大本の無我で今の世の中の無我とは違う。世の中の無我とは死んだ無我や。大本のは生きた無我や』
林 『それで安心した』(笑声)
寿賀麿師 『それで思い出しましたが、綾部の祭務係にいる人で先達をしておって「高天原に十三銭」と言って祝詞を奏げた事を思い出しましたが、何かの値段をフッと思い出して、高天原に十三銭と言ったんでしょうかね』 ─大笑い─
聖師 『それも統一しているのや、何もかも一遍に思い出して来るのやからな。……しかし合致したと、統一したとは違うよ。
合致という事は一つになる事で、統一というたら何もかも一所によせたのが統一なのだ。何もかも自分が主人公になり、いろいろあるものをよせたのが統一や。世界統一いうたら支那、印度、アメリカ、アフリカ、日本とみな違った国を一つにする事が世界統一やがな。いろいろの事を一緒に思うたのは合致したとか一つにとけ入ってしまったとかいうのや、合致融合と統一とをみん間違えて考えている』
高見 『それと話は違いますがよく、考えまい考えまいとする事をよく考える事がありますが……』
聖師 『考えまいというのは副守護神が考えまいとしているので、それはその先に潜在意識というものがあるから考えるのや』
林 『ではその潜在意識というのはつまり本守護神なんですか……』
聖師 『そうやがな……こういう潜在意識の事について話がある。
──あるとき二人の友人がおった。そのうち一人があるとき酒に酔うたあげく、片一方の人間をボロクソに言うた。その言われた一人は恥をかかされたから非常に怒って、今にも殴り倒そうと思ったのだが、その友が「酒に酔ってすまんこと言うたが許してくれ」と地べたにへたり込んで悪かった悪かったと拝み倒して頼んだのでこっちも腹は立ったが、その時は直って、仲直りの後の二人は親友もただならぬほどの親しい仲となってしまった。ちょうど男同志の夫婦みたいに仲良くなったのや、人から見ても羨ましいほど仲のよい親友になってしもうた。
ところがある時、その悪口言うた友人が何かの事件を起こして、その許した男が証人に立たんならん事になった。だからその男は、友人の助かるように弁護してやろうと思ったのや。その男の言い方一つで助かりもすれば罪にもなる、生殺与奪の権を握っているのだから……その日になっていよいよ弁護する事になった。ところが自分が言ってやろうと思った事は一つも言えずに、腹の中から自然に男の不利な証言ばかりが出て来てベラベラ言ってしまった。──
つまりそれは何故かと言えばケンカした時、この野郎と思った、くやしい感情が表面は仲良くなったように見えたけれど潜在意識となってそれが知らず知らずの間に口をついて出てしまったのや。ああこんな証言は言うまいと思ったが自然に腹の中から声が出た。そして青年を罪におとしてしまった。つまり、それが潜在意識なのや。
人を残念がらしたりする事はこわい事やで……。
人を恨ませる事はとても悪い事や。人を憎んだり、苦しめたりする事は一番悪い。
いわゆる守護神が覚えているのだから、なんぼ仲良くしておっても、いつか仇を打つのや、本人は直っておっても腹の霊が承知しないのだから……』
林 『一遍ケンカしたり等した奴はどうしても心の底から親しめないものですなア』
聖師 『そうや、喧嘩したらいくら後で仲良うしても忘れぬものや、表面仲良う見えるけれど、どうしても腹が承知しない。ワシらでもそうや。一遍ワシらにそむいて神様から離れて行ったような人間は何ほど改心して神様の所へ戻って来ても、前のようにこちらは温かい心持ちがどうしても出んが。一遍背いたら、なんぼ神心のようになってもあかん。それだけの事はどうしても報うてくるからな。
神は大慈大悲やから何事も許すとはいうても、許されるだけの事はせんならん。罪を償うだけの事をせな許されないものや』
寿賀麿師 『無二の親友になるという事と、以前に残念な事があったと思う事とは別な心が働いていますね』
高見 『潜在意識という事は、実際恐ろしいもんやね』
林 『仲良くなっても心の片隅に必ずそれは思っているからね』
聖師 『当たって砕ける、それは表面だけで、腹の中では承知していない。これが本当や。なんぼ神様に仕えておってもな。教祖はんのお筆先に出ている「この神に敵とうて来たら、鬼か蛇になるぞよ、従うて来たら本当に優しい御神であるぞよ」というのを読んで「そんな神は偽神じゃい」と俺は初め思った。それじゃ人間と同じじゃないかと思ったが、神人合一すればするほどお筆先通りや』
(以下次号)