新聞や雑誌などに昨年来、綾部の教団が、皇道大本の名を冠して居るのは、実に怪しからぬ次第だ、僭上至極だと評論したのが沢山にあつた。私は余りの事に可笑しくて堪らなかつたのであります。皇道と云へば天皇の道であるにも拘らず、臣民の分として余りに不敬であるとか、皇道の美名に隠れて、大本は世人を誤魔化す詐偽団体だとか、色々と誤託を並べたものである。今日と雖も少数の人士は、皇道の名を冠する事を以て、非国民の所作の様に見做し、且つ攻撃して居る人があるやうです。私は余りに世間に無智者の多いのに、呆れざるを得ない次第であります。又中には皇道と神道と同一に見て居る人もあるやうですが、この区別は此処には唯皇道の大意のみを、説明することに致します。
皇はスベルともスメとも訓む。故に、主、師、親の三徳を具備し、地球上を知食す大君を皇御門と申し、御孫を皇御孫命と申し、日本神国は世界を統治すべき、天賦の使命を有する国なるが故に、皇御国と称ヘまつるのである。皇御国に生を享け、皇御国の大君に仕へ、皇御国の粟を食みつつ、結構に生活さして戴いて居る皇大君の赤子たる臣民が、皇御国の道を説き拡め、皇大神と皇大君との御仁徳を、天下に宣伝するのが何が悪いのでありませうか。子が親の大慈を崇め、兄弟に親の有難きこと、尊きことを説き聞かすのに、何処に差支ヘる所があるであらうか。吾々は何処迄も皇御国の人民として、皇大神と皇大君とを主、師、親として仰ぎ奉らねば日本臣民の義務を全うする事が出来ないと思ふのである。猶進んで皇の言霊に就いて、大略を叙して見よう。古事記の初に、独神成坐而隠身也とあるは、無色透明にして、至粋、至純、至聖、至美、至真、至善に坐しまし、無声無形の主神なる事を、表示されたものであります。言霊学の上から、霊返しの法に由つて調べて見ると、知るの返はスである。又知らす、知食す、澄む、澄ます、住む、好く、進む、縋る、助ける、覚る、醒す、栄ゆる、支ふ、誘ふ、直ぐ等の霊返しは皆スと成るのである。次にスは言霊学上より鳥の霊である。主、寿、統一は皆スの活用であります。
又言霊学上より、スの活用を示せば、中に集まる言霊也、真中真心也、八極を統べ居る也、数の限り住む也、本末を一徹に貫く也、玉也、結び産む也、八咫に伸極むる也、限り無く無為也、出入息也、呼吸共に顕はるる声也、結柱也、安々の色也、自由自在也、素の儘也、至大天球の内外悉くを涵し保ちて極乎たり、無所不至也、無所不為也、霊魂球を涵す也、有の極也、声の精也、外を統ぶる義也等の言霊活用を有するのである。
猶諸種のス声の活用を略解すれば、
『知らす、知食す、知る』等の言霊は、万世一系の天津日嗣天皇が、天の下四方の国を安国と平けく統治遊ばすと云ふ事である。
『澄む、澄ます』の活用は、神と大君の洪大無辺なる一大威力によつて、混濁せる天地一切を清浄ならしめ、至真至美至善の国土を造り玉ひし言霊である。
『住む』の活用は万民悉く神君の大慈の下に養はれ、至誠至直にして神を敬ひ皇室を尊び国家の恩に報い奉り、私心私欲の念なし、霊体共に水晶の如く透明潔白に社会に生存し、人生の本務を各自が全うするの意である。現代人の如く私利私欲の外敬神尊皇愛国の念慮薄くして修羅の巷にさまよふ如きは「住むに非ずして濁り居るのである」、要するに霊主体従の生活者は所謂住むと云ふ資格を有すれども、体主霊従の生活を為すものは濁り居ると称すべきものであります。
『好く』と云ふ言霊は、万国の民争うて日本皇国に生出せむ事を好む事である。東方の君子国、日出る国、豊葦原瑞穂、中津国、磯輪垣の秀妻国、姫子国、世界の公園、天国浄土、大倭日高見国、心安国、豊秋津根別国、言霊の幸ふ国、言霊の生ける国、言霊の清き国、言霊の助くる国、言霊の天照る国、惟神言挙せぬ国、万世一系の君主国等種々讃嘆の声を放ちて、皇国の神境を随喜渇仰する、至尊至貴の宝国である。地球上の人類として、誰一人我神国を嫌ふものなき皇、主、好の国であるてふ言霊であります。
『進む』皇国の大道は進歩発展主義である。朝日の豊栄昇りに笑み栄ゆる神国である。楽天主義、清潔主義、統一主義と共に無限に発展し、宇宙一切を天国の神政に進める所の、天職を惟神に具備せる神皇の国土である、故に皇国に生れ出でたる人民は、夢にも悲観的の精神をもつてはならぬのである。
『縋る』世界万国の民、塗炭の苦を免れんとして、東方の君主国たる日本皇国に君臨し玉ふ天津日嗣天皇の大慈徳に、乳児の母乳に縋るが如く、慕ひ来るといふ言霊である。我皇国の天皇は、世界に於ける主師親の三大神徳を具有し玉ふが故に、日本国民たる者は、天皇の大御心を心とし、世界万民の師範となり、救ひ主となり、親切に導き、以て世界平和の一大保証に立たねばならぬ天賦の職責を有つて居るのであります。
『助ける』皇国の大道は万物一切を至善の教に導き助けて、各自其使命を全からしむるを以て主旨とするのである。弱きもの、貧しきもの、幼きもの、愚なるもの、凡て足らざるを補ひ助けて、神と大君の大御心を安じ奉る可き責任ある皇国の臣民である。茲に於て始めて、スベラ御国の臣民たる資格が備はるのであります。
『覚る』とは天地未剖陰陽未分の太古より、千億万年の後の事柄までも、鏡にかけたる如く能く正覚する神智神感力を云ふ。皇道大本が古事記を真解し、大本教祖の神諭を研究する事は、古今を通じて謬らず、中外に施して悖らざる、一大真理を覚悟し、以て我皇国並に皇室の尊厳無比にして、天下を統御し玉ふ天津日嗣天皇の惟神の御天職の、如何なるものなるかを覚ることを得べし、故に皇道は天地の迷雲を払ひ、真如の日月を万民の心天に照す所の神鏡であります。
『醒す』体主霊従的人類天下に充満して、天理人道を弁へず、野獣毒蛇に等しき暗黒世界を、神の大道と大君の大勅とに由つて、神人合一、霊肉一致、鎮魂帰神の権威に由り、眠れる霊界物質界の眼を醒ます可き真教は、皇道大本を措いて他に何物もないのであります。
『栄ゆる』山青く水清き蓬莱島なる日本神国は、皇大神の殊更厚き御仁恵に依つて、国運日に月に栄え、竹の園生は万世に弥栄えまし、国民は天の益人と申して、人口益々稠密の度を日に月に加へ来る、実に目出度き神国であります。斯る結構な神国に生れ出たる臣民は、一日も片時も神と君との大恩を忘れ、不敬不忠の行動を夢にもすることは出来ませぬ。万々一誤つて斯る不心得の事を行つたならば、神罰立どころに到り、栄ゆベき吾人の名位寿富は忽ちにして消え失せ、身魂共に亡ぼさるるに到るのである、アア厳正なる哉、皇道の権威。
『支ふる』政治、宗教、教育、実業、経済、哲学、思想界の行詰りを現出し、社会は将に転倒せむとする時に当りて、克く之を支持するものは、皇道大本の教である。不言実行の大本の教である。斯の如き闇黒社会は、皇道の大義普く天下に宣伝さるるに至つて、始めて完全に支持し改良する事の可能なるは、古事記並に大本神諭の示す所であります。
『誘ふ』宇宙万有一切に真の生命を与へ、安心立命せしむる所の権威ある皇道は、独り占有すべきもので無く、之を普く天下に宣布すべきものである。如何に暗黒界に浮沈せし人民と雖も、皇道の一大光明を認むる時は、先を争うて集り来り、神徳皇恩に浴するは、即ち惟神皇道の実体であります。
『直ぐ』直ぐなるは万有統一の本義である。大工が墨縄を打つも、弓の矢の飛びて的に中るも、銃丸の的中するも、尺度を用ふるも、一切直ぐなるを要す。人の心も亦直ならざれば、何事も成功する事は出来ぬ。又一旦決心した事は少しも躊躇せず、直ぐに断行せざれば機を逸する虞がある。神諭に、神の教を聞いて、其場で直ぐ分りて直ぐに改心の出来る者は、素直な身魂の持主であると現はれて居ります。十日も二十日も二三ケ月も、神諭を調べて解らぬ如うな人は、曲つた身魂であります。直霊の御魂の威力が弱い人であります。
『主 寿 統一』一天万乗の大君主が、天壌と共に無窮に神寿を保ち、万世一系に葦原瑞穂国(地球の別名)を統一して、安国と平けく安らけく、知食すが故に、皇道と云ふのである。皇道は天津誠の御教であつて、人民を愛撫し仁徳を施し、現人神と君臨し玉ふ、天津日嗣天皇の御天職であり、覇道は外国の帝王等の暴力を以て民に対し来つたもので、覇道には権道が伴ふのである。故に我皇国の皇道は、天地開闢の太初より、天津神の定め玉ひし、所謂天立君主であつて、天に代つて道義的に統治遊ばす、惟神の御天職がましますのであります。
神示は、皇道の大意は、拙著善言美詞の祝詞及び感謝祈願の辞に明かでありますから、之等を熟読されましたら、少しは判るであらうと思ひます。
日本言霊学により、更に皇声の略解を試みますれば、
『中に集まる言霊』とは、宇宙一切万事は凡て⦿に集まると云ふことであります。地球の大中心なる(地質学上)日本国には、世界の文物自然に朝宗すると云ふ国徳が備はつて居ります。宗教にまれ、哲学にまれ、一切の思想問題にまれ、科学にまれ、自然的に集中するが故に、皇の国と謂ふのである。
『真中真心也、八極に統べ居る也』の活用は、日本国水土自然の皇国の天賦的天職を示すものである。
『数の限り住む也』とは、神皇の洪慈大徳普く行渡れる瑞穂中津国は、宇宙の所在生物、人獣鳥魚虫介一切其所を得て安住し、且つ天の益人の数は日に月に増加し、深山の奥の奥までも煙の立たぬ所なきまで、生民の安住して、神恩霊徳に浴する天国浄土である。故に之を皇国と申すのであります。
『本末を一徹に貫く也』君は万古不易の君たり、臣民は万古の臣民たり、君臣の大義名分明かにして、本末内外を過たず、君は民を視玉ふ事慈母の赤子に於けるが如く、民は君を敬ひ慕ふ事父母の如く、終始一貫万世一系真善美の国体を保てる我皇国は、天来の皇道炳乎として千秋に輝き玉ふ所以であります。
『玉也』五百津御統瓊の玉は、天津日嗣の玉体也、八面玲瓏一点の瑾なき八尺の真賀玉こそは、統治権の主体にして、皇道の大極であります。
『結び産む也』天地交感して万物発生し、夫婦相結びて子女を産む、是れ高皇産霊神、神皇産霊神の妙用にして、皇道の因つて来る所以であります。
『八咫に伸び極る也』八方十方に明かに、神と皇上との大徳自然に伸長し、至仁至治の極徳を宇内に光被し玉ふ、是を皇道と申すのであります。
『限り無く無為也』不言の教無為の化、これ皇道の真髄である。古書にも惟神言挙げせぬ国とある如く、不言実行を以て、天下を統御し玉ふ御国体であつて、下国民は天津神の御子孫なる歴代の天津日嗣天皇を奉戴し、克く忠に克く孝に、夫婦相和し朋友相信じ、兄弟に友に億兆一心、上下一致、以て皇祖皇宗の御遺訓に奉答すべきは、皇国臣民の義務にして皇道の大精神である。此大精神を無限に世界各国に対して、実行の範を示すのが、皇道の本義であります。
『出入息也、呼吸共に顕るる声也』酸素を吸入し炭酸を吐出する活用にして呼吸共にスースーと声を発す。此のスの声の活用こそ万物を生育し生命を与ふる神気にして、天地造化の一大機関である。天帝呼吸し太陽また呼吸し、太陰、大地、人類、万物一切呼吸せざるもの無く、斯の呼吸のスの声の活動によりて、神人立命するのである。是を皇道の大本と申すのであります。
『結柱也』ウクスツヌフムユルウを言霊学の上より結びの段と云ふ。其中にて最も統一する所の言霊はスの声である。即ち結び柱であり、七十五声の中に於て最も権威ある言霊である。現今七十五箇国を言向和す、絶対的権威はスの声の活用、皇道の発揮に依らねば成らぬのであります。
『安々の色也』小児の寝て居る姿を見ると、実に安らかにスースーと息をして何んとも言へぬ姿である。天下万民悉く皇道発揚して、天下統一し、地上に天立君主が君臨し玉ふ時は、小児の安々と眠りたる時の如く、世界万民枕を高うして安息する事が出来、天国浄土の成就する時が来るのである。是が即ち皇道の大精神である。皇国天皇の世界統御は、道義的御統一であつて、外国の如く侵略でも無く、併呑でも無く、植民政策でも無く、各自の国の天賦的使命を全うして、神恩君徳に悦服するやうになるのであります。
『自由自在也』天地は神の自由自在である。故に神の御子たる人類は、天地の大道に遵つて、総ての経綸を為すも自由自在にして一片の障害も湧起せぬ筈である。然るに万事意の如く成らずと称して、天地神明を恨むものは、神に依りての精神統一言行一致が出来て居らぬからである。皇道の本義にさへ叶へば、天下何物と雖も意の如く自由自在ならざるは無しであります。
『素の儘也』天地自然の儘素地の儘にして、少しの粉飾も無く外皮も無く、惟神の大道に従つて赤裸々なるを素と云ふのである。仮へば皇道にては神社を造営するにも白木の素地の儘を用ひ、祭具一切は木地の儘であるに引替へ、仏教の如きは、金銀其他の色を塗りて、仏堂、霊像、仏具を造るが如し。皇道は素の儘なるを尊ぶ、之を素の儘といふのである。何事も包み隠さず、有の儘赤裸々にして、純正純直なる言行を励む。是が皇道の本義であります。
其他スの活用たるや、至大天球の内外悉くを涵し保ち極乎として神聖不可犯の神権を具へ、無所不至、無所不為、一切の霊魂球を涵し、有の極也。声の精也。地球外面を統べ治め、宇宙万有を生成化育せしむるの言霊にして、皇道の大本元は⦿より始まりて⦿に納まる絶対無限の神力であります。
皇道はもと天地自然の大法であつて、大虚霊明なるが故に無名無為である。実にスミキリである。故に天津日嗣天皇の皇室を中心として、団結せる大和民族の当然遵守すべき公道であつて、天地惟神の大経なるが故に、彼の宗教教法の如く、人為的の教ではなく、皇祖天照大神の神勅に源を発し、歴代の聖皇之を継承し玉ひて、天武天皇の詔らせ玉ヘる如く、斯乃邦家之経緯、王化之鴻基焉である。之を一国に施せば一国安く、之を万国に施せば万国安く、一家之に依つて隆ヘ、一身之に依つて正を保つの大経である。
上御一人としては、万世一系天壌無窮の宝祚を継承し、皇祖皇宗を崇敬し、大日本国に君臨して、世界を統治し以て皇基を鞏め給ひ、下臣民の翼賛に依りて、国家の隆昌と其進運を扶持し玉ふ、而して祖宗の恵撫愛養し給ひし所の忠良なる臣民を親愛し、以て其福祉を増進し、其懿徳良能を発達せしめむ事を期し玉ひ、臣民と倶に之を遵守し、拳々服膺して、其徳を一にせむことを庶幾はせ給ふ所の御道たることは明治天皇の大勅語に示させ玉ふ所であります。
下臣民としては、
皇祖天神地祇を崇敬し、皇室を尊び、祖先を鄭重に祭祀し、且つ祖先の遺風を顕彰し、克く忠に克く孝に義勇奉公の至誠を以て、天壌無窮の皇運を扶翼し奉り、国体の精華たる皇道を体して億兆其心を一にし、拳々服膺して、以て咸其徳を一にせむことを期し、必ず実践躬行すベき天地の大道であります。
大量は測る可からず、大度は尺すベからずとは、其容無く其窮まりなきを以てである。皇道は冲なり虚なり。玄々として、乾天の位の如く、淵乎として万物の宗たり。虚中に霊気ありて自然の妙用を具ふ。虚なるが故に能く他を容れ、能く他を化するのである。名はなけれど世と倶に進み、容無けれど時と倶に移りて万教を同化し万法を摂養す。虚中の虚、霊中の霊、神妙不可測の聖道である、亦皇道は、神洲の精気であつて、日本民族の血液である。皇国上代の凡ては自ら純朴高雅にして、烝々たる皇民は、敬神尊皇報国の念深く、其の人為や天真爛漫にして、其行動自然の法規に適ひ、諸外国の未開野蛮極まる風習と、相距る事雲泥の相違である。是れ全く神代以降列聖の皇道を遵奉して、国民の教養に神慮を煩はせ玉ひし、御余光に外ならないのであります。
畏くも明治天皇は、明治三年正月三日を以て『大教宣布の詔』を降し玉ひました。
大教宣布詔
『朕恭シク惟ルニ、天神、天祖極ヲ立テ統ヲ垂レ、列皇相承ケ、之ヲ継ギ之ヲ述ブ。祭政一致億兆同心、治教上ニ明カニ、風俗下ニ美ナリキ。而シテ中世以降時ニ汚隆アリ。道ニ顕晦アリ。治教ノ洽カラザルヤ久シ。今ヤ天運循環シ、百度維新ナリ。宜シク治教ヲ明カニシ、以テ惟神ノ大道ヲ宣揚スベキ也。因リテ新ニ宣教師ヲ命ジ教ヲ天下ニ布ク。汝群臣衆庶其レ 朕ガ旨ヲ体セヨ。』
億兆安撫国威宣布の御宸翰
明治元年三月十四日
『朕幼弱ヲ以テ猝ニ大統ヲ紹ギ、爾来何ヲ以テ万国ニ対立シ、列祖ニ事ヘ奉ランヤト、朝夕恐懼ニ堪ヘザルナリ。窃ニ考フルニ中葉朝政衰ヘテヨリ。武家権ヲ専ニシ、表ハ朝廷ヲ推尊シテ、実ハ敬シテ是ヲ遠ザケ、億兆ノ父母トシテ、絶ヘテ赤子ノ情ヲ知ル事能ハザルヤウ計リナシ、遂ニ億兆ノ君タルモ唯名ノミニ成リ果テ、其レガ為ニ今日朝廷ノ尊重ハ古ニ倍セシガ如クニテ、朝威ハ倍衰ヘ、上下相離ルルコト霄壌ノ如シ。カカル形勢ニテ、何ヲ以テ天下ニ君臨センヤ、今般朝政一新ノ時ニ膺タリ天下億兆一人モ其処ヲ得ザル時ハ、皆 朕ガ罪ナレバ今日ノ事 朕自ラ身骨ヲ労シ心志ヲ苦シメ、艱難ノ先ニ立チ、古ヘ列祖ノ尽クサセ給ヒシ跡ヲ履ミ、治蹟ヲ勤メテコソ始メテ天職ヲ奉ジテ億兆ノ君タル所ニ背カザルベシ。往昔列祖万機ヲ親ラシ、不臣ノ者アレバ自ラ将トシテ之ヲ征シ給ヒ、朝廷ノ政総テ簡易ニシテ、如此ク尊重ナラザル故、君臣相親シミテ上下相愛シ、徳沢天下ニ洽ク国威海外ニ輝キシナリ、然ルニ近来宇内大ニ開ケ、各国四方ニ相雄飛スルノ時ニ当リ、独リ我邦ノミ世界ノ形勢ニ疎ク旧習ヲ固守シ一新ノ効ヲ計ラズ 朕徒ラニ九重ノ中ニ安居シ、一日ノ安キヲ偸ミ百年ノ憂ヲ忘ルル時ハ、遂ニ各国ノ凌侮ヲ受ケ、上ハ列祖ヲ辱シメ奉リ、下ハ億兆ヲ苦シメム事ヲ恐ル。故ニ 朕茲ニ百官諸侯ト広ク相誓ヒ、列祖ノ御偉業ヲ継述シ、一身ノ艱難辛苦ヲ問ハズ、親ラ四方ヲ経営シ汝億兆ヲ安撫シ、遂ニ万里ノ波濤ヲ拓開シ、国威ヲ四方ニ宣布シ、天下ヲ富岳ノ安キニ置カムコトヲ欲ス。汝億兆旧来ノ陋習ニ慣レ、尊重ノミヲ朝廷ノ事トナシ神洲ノ危急ヲシラズ 朕一度ビ足ヲ挙グレバ、非常ニ驚キ、種々ノ疑惑ヲ生ジ、万口紛紜トシテ 朕ガ志ヲ為サザラシムル時ハ、是レ朕ヲシテ君タル道ヲ失ハシムルノミナラズ、従ツテ列祖ノ天下ヲ失ハシムルナリ。汝能々 朕ガ志ヲ体認シ、相率テ私見ヲ去リ公議ヲ採リ、朕ガ業ヲ助ケテ神洲ヲ保全シ、列聖ノ神霊ヲ慰メ奉ラシメバ、生前ノ幸福ナラム』
嗚呼畏し明治天皇の御神慮を拝し奉りて、陛下の赤子たるもの至誠一貫聖旨に報答せずにおけませう乎。我等臣民悠々として、長夜の夢を貪るべき時でありませう乎。奮起せられよ、日本帝国の臣民諸士勤めよや、皇道大本の教信徒諸氏
以上の御宸翰を拝し奉りて、陛下の御仁慈に感泣せざるものが有りませう乎。今日の世に斯の如き御神慮を、上下の臣民が遵奉し奉つたならば、天下は実に無事安穏でなければならぬ筈である。現代の日本国民中、以上の御宸翰を心得奉り居るものは、実に暁天の星の数にも等しいやうな感じがするのである。社会主義やデモクラシーや労働問題や、サンヂカリズムの如き不祥なる言論は、旭日に露の消ゆるが如く、忽ち其影だにも無きに至るのであります。
皇道大本は神明を敬ひ、皇祖皇宗の御遺訓を遵奉し以て、陛下の御聖旨に答へ奉らむとする、至誠純忠の人士を養成する聖なる教団であります。然るに好事魔多しとても申しますか、商売主義の各地の新聞雑誌等は口を極めて、皇道大本を批難し甚だしきは、不敬不忠の団体の如くに、罵つたものさへ在るのであります。また一旦大本に入信し、大本に於ける権力を握らむとして成らざりし、四五の偽信者などが、各地の新聞雑誌に投書したり、変態心理学者が大本を悪評して、世人の機嫌をとり書籍の販売に便したり、色々雑多の妨害運動が今日至る処に現はれて来ました。併し釈迦にも提婆、鯨に鯱と云ふ事があつて、キリストも教敵の為弟子の為に十字架に釘付けられ、日蓮上人が竜の口に首を刎ねられむとした如く、喬木風強く中るの例への通り、大なる器には大なる陰のさすもので、弥々皇道大本も天下の大本と成りかけて来ました。併し世界二十億の人類は残らず聖人賢者斗りでありませぬから、新聞や雑誌の無根の記事を軽信して、折角の神縁に近づかない人が出来るのは斯道の為に悲しむべき事であります。宗教家は自分等の奉ずる宗教を、死守せむとする打算上より殊更に大本を攻撃し、学者は自己の学説の光の薄らぐ事を防ぐために故意に大本を批難するのである。仏の教にも弥勒出現の際には、大自在天といふ強敵が現はれて、絶対的に反対をすると云ふ意味が示してある。何れの世にも多少の反対や、妨害は免るべからざるものと覚悟して、何事も世間の批評は心意に介せず、至誠一貫神界と君国の為に尽すのが吾々の永年の希望であります。