宗教本来の價値は、内容は既に死滅して大殿堂のみが殘ってゐる。今日の宗教は弔祭仏事と功利的信心と過去の惰力に命脈を保つのみ。
檀家と寺との關係はあっても、人閒と寺との靈的關係は絶縁の状態に置かれてゐる。最早今日の宗教は外部的の改善位では駄目だ。所詮復活の見込みが立たぬ。既成宗教の教義や信條を肯定したままの改善は、表面から如何に立派でも遂に破綻を免れない。要するに既成宗教の根本に致命的な缺点があるからだ。大改革の時期は到来したのだ。
学者等の宗教改革論はあっても、既成宗教そのものを新しく解釋したまでだから、活きた新宗教の基礎とはならない。幻想的な迷信くさい所に引張り込んで求道者を誤魔化すといふだけである。 既成宗教の何ものにも囚はれず、思きって不合理の点を大膽に改善して現代人の要求に滿ち足るべき活宗教の建設を計ってゐる、否実行宣布してゐるのが本教であって、天下唯一の眞宗教であるのだ。
宗教信仰の徹底は、云ふまでもなく神に對する確固たる信念にあるが、その神が又暗黑の存在であってはならぬ。この意味に於て神の正体を明示する必要がある。英国のホツブス博士曰く「宗教は丸藥の如し、噛み碎くべからず。丸藥も鵜呑みにすれば效あり、分析して内容を知る時は效力なし。螢火も暗夜には光を放つ、太陽に照らされて光を失ふ。人生の燈臺たる宗教今や生命なし」と。現代の既成宗教には知識階級なし」それは矛盾と不合理に充たされて、科学的に権力が零だからである。現代の宗教を生かし改良せしめむとするは死者に醫藥を與へむとするに同じ。
檀家や周圍の手前お勤めはやって居るが、心底より至心に禮拜する宗教家は極少ないのが事実である。自宗の教義学説に對しても疑義を抱いて居ながら、公然発表すれば異端者視される恐れがある。教團より排斥されるから沈默を守ってゐる無氣力者が多いのだ。お目出度い連中か精神異常者のみの既成宗教だ。
(昭和七、三、一〇号神の国)