霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第七章 皇道大本は宇宙意志の表現

インフォメーション
題名:第7章 皇道大本は宇宙意志の表現 著者:出口王仁三郎
ページ:88
概要: 備考:2023/10/03校正。 タグ:アインスタイン(アインシュタイン) データ凡例: データ最終更新日:2023-10-03 06:10:31 OBC :B121802c119
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]『神の国』昭和7年3月「於宣伝使会合講話筆録」
 昔から国の東西を問はず、古今を論ぜず、総て神仏の(をしへ)(ひら)く人を宣教師、布教師、或ひは訓導などと色々な名を付けて居りますが、宣伝使(せんでんし)と云ふのは現界に(おい)ては大本が初めてであります。「霊界物語」を見ますと、神界では宣伝使と云ふのが沢山あります。昔は宣伝神(せんでんしん)であつたが、中古(ちうこ)から宣伝使となつたのであります。何故(なぜ)()の宗教の(やう)に「(けう)」の字をつけないかと云うと、それは総ての既成宗教は、みんな人の造つた人造教であります。その人造教を開くのでありますから、布教師と云つて差支(さしつか)へない。(しか)しこの大本(おほもと)は宇宙の大元霊(だいげんれい)なる幽の幽にましますところの、吾々(われわれ)の目にも見えない、耳にも(きこ)えない本当に世界唯一の神様の意志を、私と開祖様が伝達司(でんたつし)となつて表示したものを、その(まま)に自分の考へを加へず、世の中へ伝へるのでありますから、宣伝使と云ふのであります。()しも、仮令(たとへ)少しでも自分の意志が(はい)り、自分の勝手がはいつたならば、これは宣伝使ではないのであります。
 仏教に諸善(しよぜん)諸菩薩(しよぼさつ)と云ふ言葉がありますが、この菩薩といふものは恰度(ちやうど)、大本の宣伝使のやうなものであります。(しか)し釈迦の(をしへ)はあの時代の婆羅門教(ばらもんけう)の、非常に苛酷な階級制度に反抗して()つた所の平等主義の(をしへ)であつて、所謂(いはゆる)釈迦その人が昔からある印度の仏教及び婆羅門教、その他の宗教から脱出して、色々な宗教の(すゐ)を集めて一ツの社会主義的仏教を開いたのでありますから、矢張りこれは人造教と云つてよいのであります。この人造教を布教宣伝する人を菩薩と唱へて居るのであります。大本の菩薩はこれとは少し意味が違ふのであつて、所謂(いはゆる)菩薩以上のものであります。(ぶつ)の方では如来(によらい)(ほとけ))と云つてゐる。(ほとけ)といふことは先覚者、証覚者といふ様な意味であるが、本当の宣伝使なれば、これは如来の働きをするのであります。だから神様その(まま)(をしへ)をするのが宣伝使であります。
 さういふ(ふう)に宣伝使といふのは尊貴な職責でありますから、最も勇気がなければならず、最も人に(すぐ)れた(ただ)しい智慧を走らせ、最も人に優れた光がなければいかず、最も人に優れた所の(しん)がなければいけないので、所謂(いはゆる)(ゆう)(しん)(あい)()四魂(しこん)の働きが、総ての凡俗に超越して居らなかつたならば、宣伝使の役は務まらぬ、誰も聞く者がないのであります。
 それでどうしても宣伝使は、勇親愛智のこの四つの霊魂──これをば何処(どこ)(まで)も活用せねばならぬ。これは御筆先にある通り、(がく)や智慧で出来た鼻高(はなだか)ではいかん、(しん)に腹の底から出て来ねばいかぬが、さういふ人は先づ少ないから、神様が直接に伝達された(をしへ)をその(まま)間違はない様に宣伝したならば、世界一の学者であります。別に今から色々なものを研究せなくても、神から示された大本の教理をその(まま)(あやま)らず説いたならば、大本は本当の神から、直々(ぢきぢき)の教理が出来て居るのでありますから、世界に沢山ある学者や智者は、恐るるに足らぬのであります。
 今迄の既成宗教は霊界に偏し、今日の学者は現界に偏し、哲学者は不可思議(ちから)(あるひ)は色々なものに偏して、中庸(ちうよう)を得たものは一つもないのであります。それで宗教家は科学を馬鹿にし、科学者は宗教を馬鹿にして居る。然るに今日の既成宗教家は、総て自分の唯心論的宗教を幾分か軽蔑して、科学に迎合する様になつて来ました。
 それで基督教などでも、聖書の(うち)にある奇蹟などは(みな)云はぬ事にして居る。奇蹟を云つたならば、今日の文明の世の中に馬鹿にされる、といふ様な考へを持つ様になつて(しま)つたのであります。
 基督教のみならず、仏教の坊主もさうなつて来たのであります。併し既成宗教において、経典やバイブルから奇蹟を抜いたならば、後は何ものもないのである。真理の方面から云へば、みんな勝手な理窟が並べてあるのであつて、()(かく)不思議でわからないと云ふのは奇蹟だけである。その奇蹟も(ほとん)後人(こうじん)が作成したものが多い。けれども、それがなかつたならば、既成宗教はすつかり(ぜろ)になつて了ふ。
 かういふ科学万能の世の中、宗教の(ほとん)ど破産した世の中に宗教も生かし科学も生かし、あらゆる哲学に生命(せいめい)を与へる所の(れい)(りよく)(たい)の三大原則の(をしへ)()てたこの大本は、今迄どんな智者、学者もこれを唱へたことのない天啓の教理であります。五大洲にどんな学者があつても、どんな博士があつても、この霊力体の三大原理に対しては、なんとも云ふ事が出来ないのであります。アインスタインは相対性の原理説を唱へてゐるが、あれは二つであつて、こちらは三つである。(むか)うは霊と(たい)と、(あるひ)は東と西と、男と女といふ様なものであるが、男と女の中に一つの妙な(ちから)があつて子が出来る──かういふ所迄は説いてゐないのであります。霊力体この三つの旗を押し立てて、この闇黒(あんこく)の世の中に進んだならば、屹度(きつと)(あきら)かな世の中となる。どんな敵もこれに服すべき(はず)であります。非常に立派な正宗(まさむね)の名刀を各々(めいめい)に大本の信者は授かつて居るのであのますが、これを使ふ事を知らないが為に、既成宗教家及び無宗教者から馬鹿にされ、反対を受けて居るのであります。本当に(をしへ)に徹底し、本当に宣伝が出来たならば、如何(いか)なるものも、これに反抗する(はず)はないのであります。
 今日(こんにち)愈々(いよいよ)国家危急存亡の場合になつた。国家多事(たじ)多難の時となつたのであります。御筆先に出て居た事が愈々(いよいよ)実現して、これから支那問題のみならず、如何(いか)なる難関を我国(わがくに)は突破せねばならぬかわかりませぬ。食料問題に、経済問題に、軍事上に、思想問題に、あらゆる難関が一度に(おし)せまつて居るのであります。これを切抜(きりぬ)けるには、どうしても神によつて、神の勇智愛親、即ち神の(ちから)によつて切抜けるより、方法は何もないのであります。
 総て神が一物(いちぶつ)を造り玉ふのには、仮令(たとへ)一塊(いつくわい)の土を造るのにも、三元(さんげん)八力(はちりき)といふ諸原素、諸霊力(れいりよく)()られるのであります。(がう)(じう)(りう)三元(さんげん)(鉱物、植物及び動物はこの原素よりなつてゐる)と八力(はちりき)(溶かす力、()す力、引張る力、ゆるむ力(など)八つの力)をもつて、一つの物が造られてゐるのであります。そして人の身体(からだ)()の如く出来て居るのでありまして、そこへ一霊(いちれい)四魂(しこん)といふ(たましひ)即ち勇智愛親の働く所の魂を、御与へになつて居るのであります。一霊(いちれい)直日(なほひ)(みたま)である、四魂の荒魂(あらみたま)和魂(にぎみたま)奇魂(くしみたま)幸魂(さちみたま)は四つ個々別々にあるのではなく、これは智である、これは愛である、これは(しん)であるなど、その魂の働きを云ひ表はしただけで、元は一つであります。その時の所謂(いはゆる)心境の変化で勇となり、智となり,愛となり、(しん)となるのであつて、本当は一つのものであります。直日の(みたま)、これ一つが本当の心なのです。それ以外に(ほか)から神様が来ると思ふのは違つて居る。吾々がこの地上に(くだ)つたのは、本守護神が(くだ)つて来たのである。が、この物質界に(うま)れて、衣食住の為に色々と心を曇らし、色々と画策をするが為に、正守護神又は副守護神といふものが出来て来たのであります。
 副守護神といふのは実際は、悪霊(あくれい)といふ事であります。もとよりの悪霊ではないが、人間の心が物質によつて曇らされて、悪霊になつて居るのである。けれども総ての事を見直し、()り直す(をしへ)であるから、副守護神と云つて居るのであるが、実際は副守護神といふのは悪霊の意であります。折角(せつかく)のよい霊が悪くなつたのである。けれども人間の心に悪霊が居ると云うと具合が悪いから、副守が居ると云つただけであります。
天主(てんしゆ)一物(いちぶつ)ヲ創造ス、(ことごと)力徳(りきとく)()ル。(ゆゑ)ニ善悪(あひ)(こん)ジ、美醜(たがひ)(まじは)ル』
 神様が総てのものを造り、総ての人間を造られたのも、(ことごと)く力の徳によつて居るのであります。力といふ事は、(たい)と霊──霊はチであり、(たい)はカラである。霊と(たい)から完成したものが(ちから)であります。この力徳(りきとく)により善悪(あひ)混じ、美醜(あひ)(まじは)るのであります。同じ神様が(こしら)へても、その時の力によつて(ことな)り、同じ夫婦の中から出来た子供でも、男が出来たり、女が出来たり、美人が出来たり、醜女(しうぢよ)が出来たりするのであります。これは同じ(おや)からでも、この時の力徳のいかんによるので、両親の身体(からだ)の都合もあり、その時の心理状態の都合もあります。霊の状態が非常に良くなつて居る時と、悪い時(など)がある。それによつて善悪(あひ)混じ美醜(たがひ)(まじは)るのであります。これは決して神様が(こしら)へたのではなく、神様は霊力体を御与へになつて居るのであつて、自分達のその時の塩梅(あんばい)如何(いかん)によつて善となり、悪となるのであります。
上帝(じやうてい)一霊四魂ヲ以テ心ヲ造リ、之ヲ活物(くわつぶつ)()ス。地主(ちしゆ)三元(さんげん)八力(はちりき)ヲ以テ(たい)ヲ造リ、(これ)テ万有ニ(あた)フ。故ニ其霊ヲ守ル者ハ其(たい)、其(たい)ヲ守ル者ハ其(れい)也、他神(たしん)在ツテ之ヲ守ルニ(あら)ス、即チ天父(てんぷ)(めい)永遠不易(ふえき)
 吾々の心は天帝から、所謂(いはゆる)一霊四魂を以て造られて居るのである。そしてその心、所謂(いはゆる)精霊といふものを造つて、そして活物(くわつぶつ)に与へられたのである。吾々動物は(みな)活物(くわつぶつ)であります。(また)植物、鉱物も活物であるが、()(かく)この霊を以て心を造り、その心をば吾々に与へられた、その心が即ち人の本体なのであります。それから又地主(ちしゆ)は三元八力、所謂(いはゆる)剛、柔、流の元素と八つの(ちから)とを(もつ)て物体を造り、これを万有に御与へになつて居る。故にその霊を守るもの、即ち私の本当の精霊を守って居るものは私の(からだ)であつて、この身体(からだ)の守護神は私の精霊であります。たとへばいま土瓶の中に、茶を入れて置くとする。この場合は土瓶が(たい)であつて、この中の茶は霊に相当する。この(たい)がこはれたならば霊は出て了ふ。その様に人間の身体(からだ)に大きな穴をあけて血を出すとすれば、(たい)から霊は去つて了ふ。それだから霊に対しては肉体が守護神である、肉体に対しては霊が守護神であるといふのである。その(たい)を守るものはそのものの霊であり、その霊を守るものはその(たい)であります。その(ほか)に弁天さまとか何とか他に特種の神があつて守護するのではない、即ち他神(たしん)あつてこれを守るに非ず、これ即ち天父(てんぷ)(めい)──之は天からきまつた法則であつて、永遠に()はる事はない。何程(なにほど)信念が強くても、諸々(もろもろ)の神霊や菩薩がその人の霊にうつつて住むといふ事はないのであります。只神から直接内流を受けるか間接内流を受けるかだけのものであつて、決して(ほか)の守護神がつくの、守護神が守るのといふ事はないのであります。
 大本の宣伝使は現界のみならず、吾々の肉眼で見えない所の霊界、天国に(せき)を置いて、宣伝使となつて居るのでありますから、深夜疲れてグツスリ寝てゐる間は、天界を逍遥(せうえう)して居る、肉体では気がつかなくても、色々と活動して居る、又地上もめぐつて居る、天翔(あまかけ)り、国翔(くにかけ)りして居るのであります。そして日本の既成宗教の如く、(ただ)に日本内地のみならず、海外の諸国に迄(たましひ)は飛んで行くのであります。それで、もとの本当の(みたま)を清めて置かないと、濁つた(たましひ)他処(よそ)へ飛んで行くと(かへ)つて邪魔になります。
 私も昼はかうして居るが、夜になると、あちらからもこちらからも、色々な声が(きこ)えて来る、するとそこ迄は矢張り、飛んで行くのであります。その時は誰が来たか判らないから、色々と姿を表はす事があります。これは私が行くのではなくして、私の精霊があちらやこちらで活動して居るので、つまりジツトして居つても矢張り、宣伝はやつて居るのであります。本当に神の意志が判つたならば、自分は寝て居つても、宣伝使といふものは神様からその(れい)を使つて貰つて、彼方(あちら)此方(こちら)へやられて居る。現界の宜伝使は(くち)で説くだけであるから中々(なかなか)聞かない人が多いけれども、霊界に(はい)つて、即ち既に国替(くにがへ)して宣霊社に祀つてある所の宣伝使は、霊身(れいしん)であるから先づ人の霊に(かか)つて、現界の宣伝使の行くのを待つて居るのであります。思はぬ所がよく(ひら)けたといふやうな場合は、昇天せる宣伝使が先に(まは)つて居るのである。さうでなかつたならば、今日の頑迷(ぐわんめい)不戻(ふれい)な、我利(がり)我欲(がよく)の人間がききさうな事はない。(また)光を嫌ひ善を嫌ふ悪魔が、光や善に近づく道理はないのであります。それで大本の宣伝使は現界にも霊界にも共に活動して居るのであります。(また)生き乍ら現幽(げんいう)に亘つて活動して居る宣伝使もあるのであります。
 大病人が全快するのも、みんなこれは間接内流によるものであります。(たと)へば電灯がポツト(とぼ)るのも、その電灯だけの力でとぼるのではなくして、もとに会社があるからである。中には、この人を(なほ)してやつたとか、自分がお(かげ)を頂かしたとか云つて澄まして居る人があるが、これは電灯が自分勝手にとぼる(やう)に考へてゐるのと同じ事であります。自分が(とぼ)したと思ふのは、神徳を横領する事になる。「霊界物語」にある天の(ぞく)といふのはそれであります。これは誰でもウツカリ云つて居るのであります。私の信者であるとか、私の(なほ)した人であるとかいふ事は、誰しも当り前の様に思つて居る。けれども、不知(しらず)不識(しらず)の間に天の賊になつてゐるのである。これをよく注意して貰はないと折角(せつかく)神様の御用をしながら、神様に不快な念を与へるといふ様な事が(おこ)つて来るのであります。
(昭和七、二、七、於宣伝使会合講話筆録、同年三月号 神の国誌)
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