霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第七章 皇道大本は宇宙意志の表現

インフォメーション
題名:第七章 皇道大本は宇宙の表現 著者:出口王仁三郎
ページ:88 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2017-07-11 13:56:29 OBC :B121802c119
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]『神の国』昭和7年3月「於宣伝使会合講話筆録」
 昔から国の東西を問はず、古今を論ぜず、すべて神仏の教を開く人を宣教師、布教師、或ひは訓導などと色々な名を付けて居りますが、宣伝使と云ふのは現界に於ては大本が初めてであります。「霊界物語」を見ますと、神界では宣伝使と云ふのが沢山あります。昔は宣伝神であつたが、中古から宣伝使となつたのであります。何故他の宗教の様に「教」の字をつけないかと云うと、それはすべての既成宗教は、みんな人の造つた人造教であります。その人造教を開くのでありますから、布教師と云つて差支へない。しかし、この大本は宇宙の大元霊なる幽の幽にましますところの、吾々の目にも見えない、耳にも聞えない本当に世界唯一の神様の意志を、私と開祖様が伝達司となつて表示したものを、そのままに自分の考へを加へず、世の中へ伝へるのでありますから、宣伝使と云ふのであります。もしも、たとへ少しでも自分の意志が入り、自分の勝手がはいつたならば、これは宣伝使ではないのであります。
 仏教に諸善諸菩薩と云ふ言葉がありますが、この菩薩といふものは恰度、大本の宣伝使のやうなものであります。併し釈迦の教はあの時代の婆羅門教(バラモン教)の、非常に苛酷な階級制度に反抗して起つた所の平等主義の教であつて、所謂釈迦その人が昔からある印度の仏教及び婆羅門(バラモン)教、その他の宗教から脱出して、色々な宗教の粋を集めて一ツの社会主義的仏教を開いたのでありますから、矢張りこれは人造教と云つてよいのであります。この人造教を布教宣伝する人を菩薩と唱へて居るのであります。大本の菩薩はこれとは少し意味が違ふのであつて、所謂菩薩以上のものであります。仏の方では如来(仏)と云つてゐる。仏といふことは先覚者、証覚者といふ様な意味であるが、本当の宣伝使なればこれは如来の働きをするのであります。だから神様そのままの教をするのが宣伝使であります。さういふ風に宣伝使といふのは尊貴な職責でありますから、最も勇気がなければならず、最も人に優れた正しい智慧を走らせ、最も人に優れた光がなければいかず、最も人に優れた所の信がなければいけないので、所謂勇親愛智の四魂の働きが、すべての凡俗に超越して居らなかつたならば、宣伝使の役は務まらぬ、誰も聞く者がないのであります。それでどうしても宣伝使は、勇親愛智のこの四つの霊魂──これをば何処(どこ)迄も活用せねばならぬ。
 これは御筆先にある通り、学や智慧で出来た鼻高ではいかん、真に腹の底から出て来ねばいかぬが、さういふ人は先づ少ないから、神様が直接に伝達された教をそのまま間違はない様に宣伝したならば、世界一の学者であります。別に今から色々なものを研究せなくても、神から示された大本の教理をそのまま、誤らず説いたならば、大本は本当の神から、直々の教理が出来て居るのでありますから、世界に沢山ある学者や智者は、恐るるに足らぬのであります。
 今迄の既成宗教は霊界に偏し、今日の学者は現界に偏し、哲学者は不可思議力、或は色々なものに偏して、中庸を得たものは一つもないのであります。それで宗教家は科学を馬鹿にし、科学者は宗教を馬鹿にして居る。然るに今日の既成宗教家は、すべて自分の唯心論的宗教を幾分か軽蔑して、科学に迎合する様になつて来ました。それで基督教などでも、聖書の中にある奇蹟などは皆云はぬ事にして居る。奇蹟を云つたならば、今日の文明の世の中に馬鹿にされる、といふ様な考へを持つようになつてしまつたのであります。
 基督教のみならず、仏教の坊主もさうなつて来たのであります。しかし、既成宗教において、経典やバイブルから奇蹟を抜いたならば、後は何ものもないのである。真理の方面から云へば、みんな勝手な理窟か並べてあるのであつて、ともかく不思議でわからないと云ふのは奇蹟だけである。その奇蹟もほとんど後人が作成したものが多い。けれども、それがなかつたならば、既成宗教はすつかり零になつてしまふ。
 かういふ科学萬能の世の中、宗教のほとんど破産した世の中に、宗教も生かし科学も生かし、あらゆる哲学に生命を与へる所の霊力体の三大原則の教を樹てたこの大本は、今迄どんな智者、学者もこれを唱へたことのない天啓の教理であります。五大洲にどんな学者があつても、どんな博士があつても、この霊力体の三大原理に対しては、なんとも云ふ事が出来ないのであります。アインスタイン(アインシユタイン)は相対性の原理説を唱へてゐるが、あれは二つであつて、こちらは三つである。向うは霊と体と、あるひは東と西と、男と女といふ様なものであるが、男と女の中に一つの妙な力があつて子が出来る──かういふ所まで説いてゐないのであります。霊力体この三つの旗を押し立てて、この闇黒の世の中に進んだならば、きつと、明かな世の中となる。どんな敵もこれに服すべきはずであります。非常に立派な正宗の名刀を各々に大本の信者は授かつて居るのであのますが、これを使ふ事を知らないが為に、既成宗教家及び無宗教者から馬鹿にされ、反対を受けて居るのであります。本当に教に徹底し、本当に宣伝が出来たならば、如何なるものも、これに反抗する筈はないのであります。
 今日はいよいよ国家危急存亡の場合になつた。国家多事多難の時となつたのであります。御筆先に出て居た事がいよいよ実現して、これから支那問題のみならず、如何なる難関を我国は突破せねばならぬかわかりませぬ。食料問題に、経済問題に、軍事上に、思想問題に、あらゆる難関が一度に押し迫つて居るのであります。これを切り抜けるには、どうしても神によつて、神の勇智愛親、即ち神の力によつて切り抜けるより、方法は何もないのであります。
 すべて神が一物を造りたまふのには、たとへ、一塊の土を造るのにも、三元八力といふ諸原素、諸霊力によられるのであります。剛、柔、流の三元(鉱物、植物及び動物はこの原素よりなつてゐる)と八力(溶かす力、和す力、引張る力、ゆるむ力等八つの力)をもつて、一つの物が造られてゐるのであります。そして人の身体も其の如く出来て居るのでありまして、そこへ一霊四魂といふ魂即ち勇智愛親の働く所の魂を、御与へになつて居るのであります。一霊は直日の霊である、四魂の荒魂、和魂、奇魂、幸魂は四つ個々別々にあるのではなく、これは智である、これは愛である、これは親であるなど、その魂の働きを云ひ表はしただけで、元は一つであります。その時のいわゆる心境の変化で、勇となり、智となり,愛となり、親となるのであつて、本当は一つのものであります。直日の霊、これ一つが本当の心なのです。それ以外に外から神様が来ると思ふのは違つて居る。吾々がこの地上に降つたのは、本守護神が降つて来たのである。が、この物質界に生れて、衣食佳の為に色々と心を曇らし、色々と画策をするが為に、正守護神又は副守護神といふものが出来て来たのであります。
 副守護神といふのは実際は、悪霊といふ事であります。もとよりの悪霊ではないが、人間の心が物質によつて曇らされて、悪霊になつて居るのである。けれどもすべての事を見直し、()り直す教であるから、副守護神と云つて居るのであるが、実際は副守護神といふのは悪霊の意であります。折角(せつかく)のよい霊が悪くなつたのである。けれども人間の心に悪霊が居ると云うと具合が悪いから、副守が居ると云つただけであります。
『天主一物ヲ創造ス、(ことごと)ク力徳二依ル。故二善悪相混ジ、美醜互ニ交ル』
神様がすべてのものを造り、すべての人間を造られたのも、(ことごと)く力の徳によつて居るのであります。力といふ事は、体と霊──霊はチであり、体はカラである。霊と体から完成したものが力であります。
 この力徳により善悪相混じ、美醜相交るのであります。同じ神様が(こしら)へても、その時の力によつて異り、同じ夫婦の中から出来た子供でも、男が出来たり、女が出来たり、美人が出来たり、醜女が出来たりするのであります。これは同じ親からでも、この時の力徳のいかんによるので、両親の身体の都合もあり、その時の心理状態の都合もあります。霊の状態が非常に良くなつて居る時と、悪い時等がある。それによつて善悪相混じ美醜互に交るのであります。これは決して神様が(こしら)へたのではなく、神様は霊力体を御与へになつて居るのであつて、自分達のその時の塩梅(あんばい)如何によつて善となり、悪となるのであります。
『上帝一霊四魂ヲ以テ心ヲ造リ、之ヲ活物二賦ス。地主三元八力ヲ以テ体ヲ造リ、之テ萬有ニ与フ。故ニ其霊ヲ守ル者ハ其体、其体ヲ守ル者ハ其霊也。他神在ツテ之ヲ守ルニ非ス、即チ天父ノ命永遠不易』
 吾々の心は天帝から、所謂一霊四魂をもつて造られて居るのである。そしてその心、いわゆる精霊といふものを造つて、そして活物に与へられたのである。吾々動物は皆活物であります。又植物、鉱物も活物であるが、ともかくこの霊を以て心を造り、その心をば吾々に与へられた、その心が即ち人の本体なのであります。それから又、地主は三元八力、所謂剛、柔、流の元素と八つのカとを以て物体を造り、これを万有に御与へになつて居る。故にその霊を守るもの、即ち私の本当の精霊を守って居るものは私の身であつて、この身体の守護神は私の精霊であります。たとへばいま土瓶の中に、茶を入れて置くとする。この場合は土瓶が体であつて、この中の茶は霊に相当する。この体が壊はれたならば霊は出てしまふ。その様に人間の身体に大きな穴をあけて血を出すとすれば、体から霊は去つてしまふ。それだから霊に対しては肉体が守護神である、肉体に対しては霊が守護神であるといふのである。その体を守るものはそのものの霊であり、その霊を守るものはその体であります。その外に弁天さまとか何とか他に特種の神があつて守護するのではない、即ち他神あつてこれを守るに非ず、これ即ち天父の命──之は天からきまつた法則であつて、永遠に()はる事はない。何程信念が強くても、諸々の神霊や菩薩がその人の霊にうつつて住むといふ事はないのであります。只神から直接内流を受けるか間接内流を受けるかだけのものであつて、決して他の守護神がつくの、守護神が守るのといふ事はないのであります。
 大本の宣伝使は現界のみならず、吾々の肉眼で見えない所の霊界、天国に籍を置いて、宣伝使となつて居るのでありますから、深夜疲れてグツスリ寝てゐる間は、天界を逍遥して居る、肉体では気がつかなくても、色々と活動して居る、又地上もめぐつて居る、天翔り、国翔りして居るのであります。そして日本の既成宗教の如く、只に日本内地のみならず、海外の諸国に迄魂は飛んで行くのであります。それで、もとの本当の魂を清めて置かないと、濁つた魂が他処(よそ)へ飛んで行くと(かへ)つて邪魔になります。
 私も昼はかうして居るが、夜になると、あちらからもこちらからも、色々な声が聞えて来る、するとそこ迄は矢張り、飛んで行くのであります。その時は誰が来たか判らないから、色々と姿を表はす事があります。これは私が行くのではなくして、私の精霊があちらやこちらで活動して居るので、つまりジツトして居つても矢張り、宣伝はやつて居るのであります。本当に神の意志が判つたならば、自分は寝て居つても、宣伝使といふものは神様からその霊を使つて貰つて、あちらやこちらへやられて居る。現界の宜伝使は口で説くだけであるから中々聞かない人が多いけれども、霊界に入つて、即ち既に国替して宣霊社に祀つてある所の宣伝使は、霊身であるから先づ人の霊に(かか)つて、現界の宣伝使の行くのを待つて居るのであります。思はぬ所がよく(ひら)けたといふやうな場合は、昇天せる宣伝使が先に廻つて居るのである。さうでなかつたならば、今日の頑迷不戻(ふれい)な、我利我慾の人間が聞きさうな事はない。又、光を嫌ひ善を嫌ふ悪魔が、光や善に近づく道理はないのであります。それで大本の宣伝使は現界にも霊界にも共に活動して居るのであります。又、生きながら現幽に亘つて活動して居る宣伝使もあるのであります。
 大病人が全快するのも、みんなこれは間接内流によるものであります。例へば電燈がボツト(とぼ)るのも、その電燈だけの力でとぼるのではなくして、もとに会社があるからである。中には、この人を癒してやつたとか、自分がお陰を頂かしたとか云つて澄まして居る人があるが、これは電燈が自分勝手にとぼる様に考へてゐるのと同じ事であります。自分がとぼしたと思ふのは、神徳を横領する事になる。「霊界物語」にある天の賊といふのはそれであります。これは誰でもウツカリ云つて居るのであります。私の信者であるとか、私の癒した人であるとかいふ事は、誰しも当り前の様に思つて居る。けれども、不知不識(しらずしらず)の間に天の賊になつてゐるのである。これをよく注意して貰はないと折角神様の御用をしながら、神様に不快な念を与へるといふ様な事が起つて来るのであります。
(昭和七、二、七、於宣伝使会合講話筆録、同年三月号神の国誌)
   
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