霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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煙の都

インフォメーション
題名:10 煙の都 著者:出口和明
ページ:353 目次メモ:
概要:清水へ行き長沢雄楯に会う。初の大阪宣教。 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2018-04-15 01:45:12 OBC :B138902c10
0001 喜三郎は琴に未成の神主を託し、0002三矢の案内で駿河へ東上する決意を固めた。
0003 旅費二十円は、0004薭田野村下佐伯の地主大石友治郎から借りた。0005友治郎、0006通称友吉、0007四十六歳。0008喜三郎とは親子ほど年が離れているが、0009真面目で世話好きな男、0010喜三郎の話を熱心に聞き、0011よく理解した。0012村人の誰も相手にしてくれぬこの時点で、0013快く大金を貸してくれた友治郎の好意に胸がつまった。0014この恩を一生忘れまいと、0015喜三郎は心に誓った。
0016「くれぐれも油断するなよ」
0017 巡礼橋まで見送る修行者たちに、0018喜三郎は念を押した。0019琴はすり寄ってきて、0020旅仕度の若々しい喜三郎の手に触れた。0021内縁の妻という意識は、0022自然に体にあふれてくる。
0023「大丈夫。0024心配せんと行ってきとくれやす。0025うちにかて正神と邪神の見分けぐらいできます。0026修行場に妖魅など寄せつけません」
0027 自信に満ちた琴の声音は、0028一歩踏みこめば己惚れになりかねぬ。0029喜三郎はふと危惧を感じた。
0030「かかってきた霊に寒気を感ずるようでは正神とはいえん。0031正神にはぬくみがある。0032熱いくらいに。0033仲やん、0034頼むで。0035慢心が一番恐ろしい敵や。0036つつしみ深く、0037省みる心を忘れんでいてくれ」
0038 喜三郎は、0039琴の手を祈りをこめて握り返した。0040まだ残る不安を振り切って、0041背を向ける。0042その背に螢が青く光って流れた。
0043 初めての大旅行であった。0044東は京都伏見、0045西は埴生(はぶ)村、0046南は能勢妙見、0047北は園部船岡、0048つまり六里以遠を旅した経験はなかった。0049七、0050八十里の旅行とはいえ、0051田舎者の喜三郎にとっては大きな冒険であった。
0052 老の坂を越えた沓掛(くつかけ)のあたりでまぶしく朝日が昇り始める。0053沓掛から人力車を奮発し、0054午前九時四十分、0055京都七条駅に着く。0056洋風のしゃれた駅の玄関口には人力車が押し並び、0057洋装の紳士、0058淑女が華やいで人目を集めていた。
0059 午前九時四十六分の新橋行普通列車三等車両に乗りこむ。0060昨年までは上等・中等・下等と呼んでいたのが一・二・三等と名称が変わっていた。0061〈マッチ箱〉という小型車両で、0062両脇の木の長椅子には茣蓙(ござ)がかぶせてある。0063二十八歳のこの年になって、0064汽車に乗るのは初めて。
0065 腹をふるわすばかりの汽笛一声、0066黒煙を吹き上げて、0067ゴットン、0068汽車は動き出した。0069喜三郎は子供のように座席に上がり込み、0070車窓にかじりつく。0071早い早い。0072のろのろ普通列車も、0073喜三郎には夢の超速力に思われる。
0074 琵琶湖・彦根の旧城・名古屋城を望見する度、0075あたりかまわぬ大声を上げて、0076旅慣れた三矢に袖を引っ張られる。0077天竜・大井・安倍川の鉄橋通過の勇ましい轟音。
0078 やがて富士の霊峰を眺め、0079魂を奪われて沈黙した。0080「芙蓉山に連れて行く」と言われて、0081身は高熊山にありながら、0082霊的には幾度か登ったなつかしい富士をついに目前に見たのだ。0083感激家の喜三郎は、0084こぼれる涙を急いで拭いた。
0085 静岡で降りて一時間待ち、0086再び列車に乗りかえて江尻駅(現清水駅)に下車、0087三矢の案内に耳を傾けながら大きな鞄をぶらぶらさせ、0088安倍郡富士見村下清水へと黄昏の道を十七、0089八町ばかり歩く。0090目ざす月見里(やまなし)神社は見るかげもなく荒廃していた。0091明治二十四年の地震で崩れ落ち、0092形ばかりの仮宮が建っている。0093境内はようやく復旧工事にかかったところであった。
0094 祈り終って、0095ここも荒れた境内の長沢家を訪問した。0096幸い長沢は在宅し、0097喜んで迎えた。
0098「待ちかねていました、0099三矢からの報告も受けています」
0100 三間ばかりの平屋だった。0101玄関脇の書斎に通され、0102机を挟んで対座した。0103三矢はついてこなかった。0104勝手知ったように、0105茶の間ヘでも入りこんで、0106家族の御機嫌をとっているのか、0107時々、0108へつらい笑いが聞こえる。
0109 初対面の挨拶といっても、0110わずかに住所姓名を告げただけ。0111用向き一つ聞かずに長沢は、0112一人で熱して喋り始めた。0113無口な人と三矢から聞いていた喜三郎は、0114驚いた。
0115 まず師である本田親徳の人格識見について一くさり。0116そこで息をつぎ、0117膝を交互に進ませて三白眼の大きな眼をむき、0118眼が近いのか背を曲げ身をのり出して、0119喜三郎を覗きこむ。
0120「ともかく上田さん。0121本田先生の学識・霊力はたいしたもんでしたよ。0122久能(くのう)山や富士山に四十余年、0123神道を学理と実地に研究なされ、0124まさに皇道の蘊奥(うんのう)に到達しておられた。0125面白かったのは、0126紀州の高野山に登った時じゃよ。0127霊山も俗僧どもの巣窟となり果てとると悲しまれ、0128鎮魂の姿努をとるや、0129空中に大声を発せしめられた。0130『破戒の俗僧ども、0131霊山を汚しおるから、0132当山は三日のうちに焼きはらうぞ。0133さよう心得い』、0134俄かに丸頭どもが周章狼狽、0135天を仰いで罪穢(ざいえ)解除(げじょ)の祈祷を一心不乱にやり出しおった」
0136「ははは……坊主(だま)せば七代祟る言うけど、0137この頃の坊主はそんな力もおへんやろ。0138空海はんもお気の毒ですなあ」
0139「幽斎も熟達しておられたのう。0140先生と清見(がた)の旅亭に泊まった時じゃった。0141どうもいたずらが過ぎて、0142今でも思い出すたび冷汗が出るのじゃが、0143こればかりは、0144上田君、0145真似せんでくれよ。0146宿の二階から眺めとると、0147一隻の漁船が入ってくる、0148日頃先生の神術に動転させられとるので、0149『先生、0150あの船は鎮魂で(かえ)りませんか』とつい戯れを言うた。0151『やってみよう』と先生も気軽に答えられたもんだ。0152鎮魂の姿努をとられ、0153うーむと気合いを入れる。0154見るまに船は丸い底をみせてひっくり返った。0155わしは蒼くなったよ。0156先生も驚かれたらしい。0157あわてて岸までかけつけた。0158わいわいさわいどる連中から、0159乗船者に異常なく、0160たいした被害もなかったことを確かめると、0161何にも言わずに逃げ帰ってきた」
0162 長沢は四十一歳の元気盛り、0163少し天井向いた鼻を仰向けて、0164てれたようににんまりした。0165中年のひっそりした女性が、0166食事を運んできた。0167後で知ったが、0168長沢の妹ひさ三十七歳、0169未だに独身で神務に奉仕している。
0170 長沢は妹を紹介するでもなく、0171食事しながらも喋り続ける。0172机の下には、0173二、0174三ケ月分はあろう新聞や、0175丸まった紙屑、0176手紙の類が、0177封を切ったのやら切らぬのやらごっちゃになって散乱していた。0178風邪気味なのか、0179つうと鼻水がたれて口髭にひっかかる。0180顔と顔が接近しているので、0181喜三郎は気になった。0182と、0183障子の破れ端に指をのばし、0184ぴりっと引きちぎって、0185鼻をかむ。0186あまって膝に落ちようとするのは、0187平然と新聞紙で受け止め、0188ちぎっては丸めて、0189ぽいと机の下に投げこむ。
0190 刻み煙草もひっきりなしに吸った。0191灰は左掌にポンポンと雁首を叩きつけて、0192横の火鉢に落とす。0193それらの動作を流れるごとくにくり返しつつ、0194四時間ばかり、0195喋り続けて、0196つと雪隠へ立った。
0197 霊学の問題となると、0198さすがに裨益(ひえき)すること大であった。0199初対面の若造をつかまえ、0200寸刻を惜しむばかりに語ってくれるのは、0201この上なく有難い。0202しかし、0203一夜を歩きつづけの上長途の汽車旅、0204それも初体験で、0205喜三郎はくたびれていた。0206急いで足をのばした。
0207 長沢は、0208せかせかと雪隠から帰ると、0209また元の所に坐り、0210さらに膝をすすめて話は佳境に入る。0211いつのまにか長沢の母豊子が傍に坐り、0212ほほえみ、0213うなずきながら聞いていた。0214八十歳になるという、0215品のいい老婆であった。
0216 深更になって、0217長沢はふと言葉を改めた。
0218「本田先生が昇天なされたのは明治二十二年四月。0219その一年ほど前であったから、0220今からかぞえてちょうど十年昔になる。0221『丹波より一人の修行者があらわれる。0222その者が来てからでないと、0223惟神の道は広まらぬ。0224十年後にこの道は丹波からひらけよう』とおっしゃった。0225上田さん、0226あなたは、0227師の大志を継ぐべき人だと思う。0228研鑚を願います」
0229 一人で喋りながら、0230長沢は、0231喜三郎の人物をちゃんと審神(さにわ)していたのだ。0232本田親徳の言葉には、0233思いあたるものがあった。0234が、0235それは胸に納めて、0236喜三郎は(しゅく)として両手をついた。
0237 豊子が寝室に案内してくれた。0238蒲団が二つ並べてあり、0239一方には三矢が高鼾(たかいびき)で眠っている。
0240 着物を厚く大きくしたような夜具を見て、0241蒲団よりほかの夜具を知らぬ喜三郎、0242「なんと大きな布子(木綿の綿入)じゃなあ」と感嘆し、0243豊子に笑われた。
0244 並々ならぬ霊覚の持ち主と喜三郎を見抜いている豊子は、0245親しみをこめたまなざしで言った。
0246「本田先生から預かっているものがあります。0247十年後に丹波から来る者に渡してくれ、0248いうことでしたので……」
0249 豊子は、0250箪子(たんす)の引き出しから、0251鎮魂の玉と天然笛を取り出した。0252喜三郎は、0253拝跪(はいき)して受け取った。0254さらに二冊の和綴じの書をそえられた。0255「神伝秘書」一巻と「道の大原」と「真道問対」各一巻の写本である。0256暖かい夜具に包まれながら、0257喜三郎の目は冴えわたった。
0258 あの時のあの方だ。0259直感が喜三郎の心をつらぬいていた。
0260 十年前の明治二十一年春、0261喜三郎十八歳の時であった。0262樫原(かたぎはら)種粉(たねこ)を運んで、0263わずかの賃金を得るために、0264山と積んだ車を喜三郎が前曳きし、0265父が後押しした。0266王子の梨木(なしのき)峠の頂上に重い車を押し上げて、0267二人は路傍の石に腰かけ流れる汗をぬぐっていた。
0268 足もとの草叢の中に、0269縞の財布が落ちている。0270手にとった重みで、0271はした金でないことが分かった。
0272「父さん、0273財布や。0274大金が入っとるで。0275途中で交番に届けよか」
0276「やめとけ、0277やめとけ。0278怪しい金かも知れん。0279かかわり合いになったら面倒や。0280その辺に捨てとけ」
0281 事なかれ主義の父の言い種も無理ではない。0282親切が仇となって、0283泣きをみることもままある世だ。0284落とし主の身を気づかう喜三郎との間に、0285押し問答が続いた。
0286 いつの間にか背後に人が立っている。0287気づいて二人は、0288ぎょっとなった。0289見れば、0290暗がりの宮あたりで、0291少し前にすれ違った旅の老人である。
0292「その財布は、0293拙者の遺失物でござる」
0294 落ち着いた声音で老人が言った。
0295「それはよかった。0296では……」
0297 人品いやしからぬ老人の風貌に、0298喜三郎はほっとして財布をさし出す。
0299「中見をお確かめ下され。0300四百二十円ばかりあるはず」
0301 老人の言う通りであった。0302戻った財布の中から五十円を出して、0303老人は感謝のしるしに父子に与えようとした。0304吉松は頑として拒否した。0305老人は、0306ふっと深い眼を喜三郎に当てて言った。
0307「十年後にまた逢う日がこよう」
0308 聞きかえす間もなく霞の中に去っていった。0309その謎の言葉が、0310はっきりよみがえってくる。0311あの人こそ、0312世界の高天原発見の目的で諸国歴遊中の本田親徳。0313それとも知らずに十年たった今、0314わしはここに来ている。
0315 いっときのまどろみの後、0316喜三郎は起きた。0317家を抜け出して、0318天宇受売(あめのうずめ)命を祀るという由緒深い月見里神社の仮宮に額ずく。0319朝日が、0320白雪を頂く富士の霊峰をうす(くれない)に染めていた。0321身も心もその霊気の中に浸りつつ、0322懐中してきた「道の大原」を押しいただき、0323声高く(しょう)す。
0324「神の黙示は、0325乃ち吾が俯仰観察する、0326宇宙の霊・力・体の三大を以てす。0327天地の真象を観察して真神の体を思考すべし。0328万有の運化の毫差なきを視て真神の力を思考すべし。0329活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし……」
0330 喜三郎は、0331呆然として立ち上がった。0332何ということだ。0333小幡神社で、0334更には高熊山で受けた異霊彦(ことたまひこ)命の神示と寸分ちがわぬではないか。0335次々とひもとく言葉のどれもが、0336すでに喜三郎の血肉となっている神示そのものであり、0337更に(つまび)らかに説き明かしてある。
0338 長沢の妹ひさが、0339神饌物を棒げてくるのをつかまえて唐突に聞いた。
0340「本田親徳先生の御神名は」
0341「ことたまひこの命」
0342 響くように、0343ひさが答える。0344そうか、0345梨木峠の老人に十年後に出逢うたのは高熊山、0346霊界ではこの芙蓉山だったのだ。0347わしの導師は異霊彦命、0348即ち本田親徳。0349驚異と確信に我を忘れて、0350喜三郎は立ちつくす。
0351 朝食が終わると、0352長沢は再び喜三郎を招いた。0353今日こそは長沢に一言も喋らすまいと気負いこみ、0354座に着くなり喜三郎の方からまくし立てた。0355高熊山での修行前から今朝の確信に至るまでわずか一箇月余りのいきさつだが、0356三時間息もつかずに語る。0357芙蓉山の神霊木花咲耶姫(このはなさくやひめ)命はじめ異霊彦命から受けた神示の数々も包まずに語った。0358長沢はおとなしく「はい、0359はい……」とうなずぎ、0360長物語の神妙なる聞き手にまわってくれた。
0361「よく分かりました。0362それでは、0363あなたの神がかりがどんなものか、0364私が審神してみましょう」
0365 二人は手を洗い、0366口をすすぎ清めて、0367月見里神社の社務所で対座した。
0368 喜三郎の眼の高さに天井から吊るした鎮魂石がある。0369鏡魂石は金欄の外袋から取り出した白地の内袋に入ったまま。0370心を鎮めて見つめるうち、0371石の周囲に美しい色彩が躍り、0372魂が吸いこまれていく。0373長沢のゆで卵をむいたようなつるんとした顔が厳しく引き締まり、0374瞼が垂れて半眼となる。
0375 厳粛の気がみなぎるうちにユーユーと尾を引く石笛の音。0376長沢の眼が異様に光った。0377 とーん。0378激しく体を切った喜三郎。0379端正に元の座に下りるや、0380凝塊がつき上がって唇を割る。0381有形の他感法の場合、0382神霊が強くかかると自意識を失う。0383ただ遠くかすかにわが唇が動いている感覚が残る。
0384 昇神を願う審神者の二拍手。0385再び体を切って我に返る。0386たとえようもない、0387爽快な気分であった。
0388 長沢は目を閉じたまま無言。0389が、0390その頬は赤らみ、0391深い感動があらわれている。0392緊張を吐き出すように長沢はホーッと深い息を出し、0393
0394「小松林命のご神憑(しんぴょう)があった」
0395「男山八幡宮の御眷属と前に伺いましたが、0396正しい神がかりでっしゃろか」
0397「むろんじゃよ、0398高等神がかりです。0399神主は修行ばかりではない、0400やはり天稟(てんりん)がものをいう。0401私の門下の宮城島金作も幼少から優秀な神主であったが、0402上田さんもそれに勝るとも劣らぬ」
0403 長沢は例のせき込んだ及び腰となり、0404膝がぶつかり合うほど身を進ませて、0405喜三郎を見つめた。
0406「上田さん、0407数年後にはロシアとの戦が始まる――小松林命のきっぱりした予言です。0408きっと的中するだろう」
0409「へえ!」
0410「明治二十七年四月には、0411宮城島金作に御穂神社の御眷属八千彦命がかかられて日清戦争の予言をなさった。0412微に入り細にわたって、0413正確に実現しました。0414今度は日露が戦う。0415戦争の詳しい経過からその結果まで示されました」
0416「その結果は……」
0417「むろん勝つ。0418が、0419これはまだ神界の秘密じゃ。0420人には……」
0421 長沢は人さし指を立て、0422強く唇を封じてみせた。
0423 後年の長沢雄楯翁談話の記録によると、0424
0425「……そこで出口さん(上田喜三郎)が神主、0426私が審神者で神懸りをやり御伺いする事に致しました。0427懸られた神様は男山八幡の小松林という神様でありました。
0428『日露戦争は御座いますか』
0429『ロシアとの戦いはある。0430明治三十六年の下半期から開戦となって、0431三十七年二月上旬に火蓋は切っておとされる』
0432『戦況は』
0433『……日本は連戦連勝だが、0434支那との戦いのようには行かぬ。0435我艦も×隻沈む』
0436『平和は何時来るか』
0437『……二年目の九月に平和は来る』
0438『日本の利は』
0439『……朝鮮は手に入る。0440支那の海岸と樺太の一部が手に入る……』
0441 このように全く寸分違わぬ神託がありました。0442全く海陸の戦況すべて、0443何一つとして間違わぬのでして、0444二時間以上もかかり、0445出口さんの神懸りは、0446ちょうど、0447演説口調のようでした。0448これは、0449歴史を調ベて見ましても、0450ちょっと、0451類のないくらいの大神懸りで、0452神懸り歴史に特筆大書すべきであります……」
0453「……そうか。0454小松林命はやっぱり正神。0455と、0456その命を受けてわしに憑られる松岡はんも……」
0457「あんたを試しておられる。0458徹底的に鍛えようという神心じゃよ」
0459 小松林命の予言よりも、0460高等神がかりと断定されたことが幾層倍も嬉しかった。0461思わず、0462にじみ出る涙を袖でぐいと払った。
0463「気違いや。0464山師や、0465狐つきや」と、0466身内のものから村人たちにまで誹謗され続けてきた。0467自分でも信じきることはできなかった。0468いや、0469信じ切ろうとして、0470七人もの神主をかかえながら、0471何度だまされ、0472恥をかかされ、0473いためつけられてきただろう。0474迷いは心を去らなかった。0475それを初めて高等神がかりと……。0476しかも霊学の大家に……。
0477 喜三郎は、0478両手をつき、0479長沢の前に深く頭を下げて即座に入門を乞うた。0480教えを乞おうというよりは、0481神がかりを認められた嬉しさがそうせずにおれなかったのだ。0482長沢は快く入門を許した。
0483 喜三郎は長沢総理に上申し、0484園部の内藤半吾に少監督、0485下司熊次郎には社長、0486東別院村の細見栄次郎に(ごん)少監督、0487斎藤元市と多田琴に社長、0488弟の上田幸吉と多田亀吉に取締にとの任命を申請、0489許可された。
0490 三日間逗留して帰路についた喜三郎と三矢の持つ二箇の大きな皮鞄の中には数多くの守札や神拝詞(しんぱいし)の折本などがつまっていたが、0491何よりの土産は、0492いま目ざしている道は間違っていなかったという、0493強い確信であった。
0494 名古屋駅で途中下車して、0495三矢の案内で、0496金の鯱鉾(しゃちほこ)を見物した。0497また駅前広場では、0498二銭払って、0499初めて蓄音器なるものを聞いた。0500耳に管をあてると、0501鼻にかかった娘義太夫の声が伝わってくるのだった。
0502 さまざまな初体験をして穴太に帰ると、0503斎藤仲市はじめ修行者らが笑顔で迎えてくれたが、0504とりわけ琴のそぶりには喜びが満ちあふれていた。
0505 喜三郎を駿河へ手引きした功績により、0506三矢は役職を一等進められて権少監督に任ぜられ、0507大恐悦であった。
0508 幽斎修行はさらに激しく続行された。0509審神者も神主も疲労衰弱、0510歩行も自由にならぬまでに至った。0511しかし本真剣な喜三郎の気迫に打たれて、0512誰も音を上げる者はいなかった。0513琴や幸吉が正神と感合し、0514とくやたかまでも容姿にどことなく気品ができ、0515物腰も優美となり、0516落ち着きを見せてくる。0517やたら無差別に体を切る回数は減り、0518感合の始めと終りの二回となる。0519修行場の雰囲気も鎮まって、0520森厳さを加えていた。
0521 参考までに、0522正神の憑った時の審神者と神主との問答を記載する。本教創世記による
0523 審神者上田喜三郎・神主多田琴。
0524「御神名を伺います」
0525「住吉神社の眷属大霜だ」
0526「御苦労です。0527神社所在地は?……」
0528「摂津国堺市にある」
0529「社格を問います」
0530「官幣大社だ」
0531「祭神の御名は?……」
0532「祭神は四座、0533底筒男(そこづつのお)神・(なか)筒男神・(うわ)筒男神・神功皇后である」
0534「摂社がありますか」
0535祓戸(はらいど)神社・磯の御前(みさき)(津守の祖)の二座がある」
0536「住吉大神は何神の御子でしょうか」
0537「伊弉諾尊の御子である。0538尊が筑紫の日向の橘の小戸の檍原(あわぎのはら)に至りて祓除(ふつじょ)し給う時、0539ついに身の汚れを盪滌(とうじょう)せんとして海底に沈濯(ちんたく)し、0540因て以て生まるる神を名づけて底津小童(おわらべ)命、0541次に底筒男命、0542また潮の中に潜濯して、0543因て以て生まるる神を名づけて中津小童命、0544次に中筒男命、0545また潮の上に浮濯して因て以て生まるる神を名づけて表津(うわつ)小童命、0546次は表筒男命。0547その底筒男命・中筒男命・表筒男命がすなわち住吉大明神である」
0548「住吉の地に鎮座された由来をお知らせ願います」
0549「底筒男・中筒男・表筒男三神の荒魂は筑紫の小戸にある。0550和魂は神功皇后が三韓に出兵し給う時に摂州に顕座し、0551皇后の体に託して四方を循行(じゅんこう)し、0552ついに摂州の地に到りて『真住吉の国なり』と宣言する。0553因てその地に鎮座し、0554名づけて住吉という」
0555「貴神が住吉に仕えられたのは、0556どのような縁故でしょうか。0557審神者の研究のためにお教え下さい」
0558「吾はその昔、0559神功皇后が三韓に渡り給う時、0560一方の将軍として従軍した者の荒魂だが、0561以後、0562住吉神社の眷属として奉仕している」
0563 審神者上田喜三郎・神主上田幸吉。
0564「御名を伺います」
0565「八坂神社の眷属行守(ゆきもり)だ」
0566「神社の所在地は?……」
0567「山城国愛宕郡八坂にある」
0568「社格は?……」
0569「官幣中社だ」
0570「現奉仕の宮司の姓名と位記を問います」
0571「従六位秋山光條である」
0572「祭神の御名は?……」
0573「祭神は感神(かんじん)天皇・八王子・稲田姫だ」
0574「感神天皇とは?……」
0575「素盞嗚尊の御別称だ。0576一に牛頭(こず)天王とも申し上げ、0577勇悍にして安忍なる大神である」
0578「八王子とは、0579どのような神でしょうか」
0580「天照大神の生み給いし五男神と素盞嗚尊の生み給いし三女神を合わせて八王子と奉称する」
0581「稲田姫とはいかなる神ですか」
0582「素盞嗚尊が出雲国()之川上にて八岐の大蛇を退治して、0583一女を救いわが妻となし給う。0584これが稲田姫じゃ」
0585 静岡への旅で広い世間を見たこと、0586長沢翁から高等神がかりと判定されたことが、0587喜三郎の希望をさらにふるい立たせていた。
0588 朝起きるなり、0589井戸端で米をといでいる琴に相談を持ちかけた。
0590「お琴やん、0591わしは神霊の世界を本格的に究めるために、0592霊学会を設立しようと思うねん。0593けどこんな穴太の片田舎では、0594発展してもたかが知れとる。0595どうせなら煙の都大阪に霊学会本部を設置して大宣教し、0596浪花っ子を煙にまいてやりたい」
0597 とぐのをやめて立ち上がった琴の頬も上気している。
0598「喜楽はん、0599ぜひそうしとくれやす。0600あんたはこんなとこにくすぶっとる人やない。0601それでいつ出発します? そうと決まったら、0602うちも中村へ帰んで身仕度せんなんし……」
0603「おいおい、0604大阪へ行くのはわし一人や、0605お琴やんには留守のことを頼みたい。0606霊学会が軌道に乗ったら、0607すぐに呼ぶさけ……」
0608「それでもあんた、0609大阪に誰か知り合いがいやはりますか」
0610「いや、0611誰もおらん」
0612「よろしか、0613よう考えとくれやっしゃ。0614大阪で霊学会を開くにしても、0615初めから神主を育てるのは容易なことやおへんで」
0616「そらそうや」
0617「そんならうちを連れて行かはったら、0618便利でっしゃろ」
0619「それもそうや」
0620「それに西も東も分からん大阪で宣教するとなったら、0621穴太みたいなわけには行きまへん。0622その点、0623うちなら大阪の地理にくわしい」
0624「え、0625お琴やん、0626大阪知っとるのか」
0627「うちの母さんが大阪に住んでますねん」
0628「お琴やんのお母さん、0629まだ生きてたんか」
0630「お国いうて、0631うちを生んでくれた実の母やけど、0632うちの子供のころ、0633お父さんの極道に愛想をつかして別れてしもて、0634今は口入れ屋に後妻に行ってます。0635それでもときどき遊びに行くさけ、0636大阪ならよう知ってます。0637宿屋に泊まって宣教したんでは、0638滞在費がなんぼあっても足らしまへん。0639ちょうど母さんの家の離れがあいてるし、0640そこを根城に宣教しなはれ」
0641「そら、0642そうできたら助かるけど……」
0643「ほんなこれで決まった。0644善は急げや。0645うち、0646明日にでも一足先に大阪に行って、0647喜楽はんに宿貸してもらうように、0648母さんに頼んどきますわ」
0649 由松が縁先から大声でどなった。
0650「こら、0651朝っぱらからいつまでいちゃいちゃしてけつかるねん。0652腹へった。0653はよ飯食わさんけえ」
0654 いそいそと台所へ走る琴の背を眺めながら、0655喜三郎はいつのまにか琴のぺースにまきこまれている自分に気づいた。
0656「ほんまに頼り甲斐のある女や」と、0657喜三郎は口に出して呟いた。
0658 懐には家と田を抵当に入れて借りた大枚五十円、0659ぶら下げた革鞄には鎮魂石に天然笛。0660初宣教の心意気に胸を張って、0661喜三郎は穴太を発つ。0662西条(にしんじょ)・川上・寺村をぬけ、0663昼なお暗い生首(なまくび)峠を踏み越えて十三里の山坂を茨木に出る。
0664 茨木駅から汽車に乗った。0665汽車の窓から望見する大阪は、0666噂にたがわぬ煙の都。0667幾百とも知らぬ煙突が、0668もうもうと黒煙を吹き上げていた。
0669 梅田駅下車。0670呆然としゃれた煉瓦造りの駅構内を眺める。0671正面玄関に時計台がそびえ立つのも、0672ひどくハイカラだ。0673客待ちの人力車群を横目に見て、0674駅前広場を渡り、0675池のある小公園を抜ける。
0676 さて、0677どちらへ行ったものか。0678馬車、0679人力車の行き交う鉄輪が目まぐるしく轟き渡り、0680たそがれの町中をやたら忙しく人が動く。0681誰もかも自分のことで頭がいっぱいなのか、0682物問いたげにつっ立っている田舎者に目もかけてはくれぬ。
0683 ――そうや、0684交番に聞くのが早道やろ。
0685 目についた交番を覗いて、0686机上執務中の巡査に訊いた。
0687「あの、0688丹波の中村にいたお国はんが、0689こっちへ越して来てますやろ。0690知ってはらしまへんか」
0691「住所はどこや?」
0692「もちろん大阪ですがな」
0693 巡査は、0694机から頭を上げて喜三郎を眺めた。
0695「大阪は分かっとる。0696住所聞いとるんじゃ」
0697「そやさけあんた……やっぱり大阪や。0698あきまへんか」
0699「何々町の何番地かが分からな。0700せめて目当ての橋なり建物なり言うてみい」
0701「へえ、0702困ったなあ、0703大阪としか聞いてしまへんのやが」
0704「しゃあないな。0705それで、0706お国はんの苗字は……」
0707「さあ、0708中村におった時は、0709多田いう苗字やった。0710夫は多田亀吉、0711通称多田亀いうて、0712丹波ではちょっとは名の知れた侠客や。0713天保十年生まれいうとったさけ、0714今年でたしか還暦ですわ。0715お国はんはだいぶ昔に大阪に後妻に行ったそうやから、0716苗字は多分かわってまっしゃろな」
0717「どうにもならんがな。0718この広い大阪でお前、0719お国さんいえば分かるとでも思っとったんか」
0720「いや、0721最近、0722娘の多田琴が来てまっさけ、0723分かりまっしゃろ。0724色が白うて、0725背丈はわしより高いぐらい、0726なかなか可愛い顔した大女やさけ目立ちますわ。0727見てはらしまへんか」
0728「阿呆かいな」
0729「そら職務怠慢や。0730穴太の岡本巡査やったら、0731他国者(よそもん)が来たらその日のうちに何でも知ってまっせ」
0732「おいおい、0733大阪にはお前、0734何十万人住んどるねんで。0735いちいち顔見とるわけないやろ」
0736 巡査がもてあまして、0737げんなりした顔をする。0738喜三郎は手を打った。
0739「そやそや、0740何で思い出さなんだんやろ。0741お国はんの嫁入り先は、0742口入れ屋やった」
0743「口入れ屋。0744大阪に何百軒あるやら分からん。0745わしゃ忙しいんじゃ。0746あきらめて帰ってくれ」
0747 押し問答の末、0748喜三郎は立ち上がった。
0749「かましまヘん。0750自分で捜しますわ。0751いざとなったら、0752天眼通で見るさけのう。0753そやけどあんた、0754神さんならもっと親切に教えてくれはる。0755私事やさけ、0756神さんにまで厄介かけてはすまん思うて交番に聞いたんや。0757富士の霊峰を仰いだり、0758名古屋城の金の鯱鉾を見物したり、0759蓄音器を聞いたりしたことのあるわしやさけよいようなもんの、0760田舎者なら途方に暮れとるとこやで」
0761 巡査が追ってきて、0762やさしい声を出した。
0763「君、0764君、0765癲狂(てんきょう)院なら反対だっせ。0766連れてったる」
0767「おおきに、0768一人で行きます」
0769 喜三郎はぷりぷりした。
0770 大阪が大都会であることは百も承知の喜三郎だが、0771何せ井の中の蛙だ。0772何ほど大阪が広いといっても、0773ちょっと根気よく捜せば分からぬはずはあるまい。0774不親切なお巡り()と、0775本気で思った。
0776「お国さんとお琴やんのおる口入れ屋はどこやろ」
0777 道々聞きながら、0778南へ南へと進む。0779中之島公園にぶつかって、0780豊国神社に参拝し、0781木村重成(しげなり)の誠忠碑を眺める。0782誠忠碑の大きな御影石が、0783真中から斜にひび割れていた。0784水の都の浪花は、0785中空を煙で包まれ、0786地は河で囲まれていた。0787同じような橋が、0788いくつも架かっている。0789橋の上に立ち、0790思案した。
0791 屑屋が通る。0792ラオ仕替屋が通る。0793下駄の歯入屋が通る。0794人力車が通る。0795着飾った人。0796貧しげな人。0797その雑踏の中で目をつぶり、0798琴の行方を追った。0799がたがたと響く雑音にさまたげられて、0800心が散る。0801ここでは石笛も吹く気になれぬ。0802四辺(あたり)は次第に暮色に滲んでいた。
0803 どうしたものか、0804その時、0805ぼんやり瞼に映ったのは、0806穴太の隣家、0807古ぼけた斎藤佐市の家ではないか。0808はて、0809そんなはずがないと、0810目をぱちぱちさせて気がついた。0811おいのだ。0812二年前喜三郎との仲を裂かれて、0813いのは大阪に去った。0814そのいのの親佐市夫婦が確か空心(くうしん)町で餅屋をしていると聞いた。
0815 喜三郎は元気よく歩き出した。0816暗くなる前に、0817ともかく空心町を捜しあてよう。0818交番はこりていた。0819地理を知っている車屋に案内さすのが安全と、0820知恵を働かせる。0821ちょうど空車をひいて橋づみに来かかった車夫を、0822呼び止めた。
0823「空心町の斎藤佐市いう餅屋にやってもらえまへんか」
0824「へえ、0825餅屋だっか。0826空心町のどこらへんやね」
0827「そうや、0828天満(てんま)橋の詰めや言うとってでしたわ」
0829 車夫は、0830きょろきょろまわりを見まわしてから、0831喜三郎の風体に目をあてて、0832考え深げに言った。
0833「お客はん、0834車に乗るんやったら乗っとくれやす。0835わしはあんまり行きとうないんやが、0836お客はんの注文で走るんですさかい、0837前金で頼んまっせ」
0838「よっしゃ、0839なんぼや」
0840「そうやな、0841空心町はよっぽど道のりがあるさかい、0842二十五銭出してもらわんとなあ」
0843「かまいまへん。0844やっとくなはれ」
0845 この際、0846五十銭が一円でもよかった。0847一刻も早く、0848知人の顔を見たかった。0849無事に行きつくようにと奮発して、0850言い値より多い三十銭を前金で握らせた。
0851 車は揺れながら長い橋を南へ渡り、0852また大きな橋を渡って町中を走り、0853今度は同じような橋を北へ渡った。0854似た景色の多い所だと思ううち、0855橋詰めの少しへこんだ狭い門口の家の前に下ろされた。
0856 門口に灯が入っていて、0857看板の文字が読めた。0858実盛餅(さねもりもち)」とある。0859さっきは暗かったので気づかなかったが、0860ここならたしかに見たところだ。0861人力車が走り去った頃、0862喜三郎は手を打った。0863つまり、0864ここ天満橋のたもとから車に乗って、0865町中をぐるぐるかけまわり、0866あげくに元の場所ヘ下ろされたわけだ。
0867「やあ、0868喜三やん。0869よう来たのう。0870あんた、0871この頃、0872噂に聞いたら、0873えらい信心でけとるそうやないけ。0874けっこうや。0875まあ、0876上がって一服しとくれ」
0877 実盛餅屋の主人佐市が、0878なつかしげに寄ってくる。
0879「へい、0880おおきに」
0881 扇を膝にもてあそび、0882喜三郎はうつむいた。0883穴太にいた頃、0884佐市はこれほど愛想がよくなかった。0885やはり大阪にいて、0886故郷の人に会うのは嬉しいのだろう。0887女房のお繁も声を聞きつけ、0888笑顔で出てくる。
0889「わざわざ穴太から出てきたんやなあ。0890あんた、0891おいのはまだ独りでっせ……」
0892 言いかけて、0893あわててお繁は口をふさぐ。
0894 喜三郎はもじもじし、0895いっそう深くうつむいた。0896大阪で宣教する夢にひかれて無鉄砲にとび出してきて、0897都会の広さにとまどい、0898思いがけずいのの両親のところにとびこんでしまった。0899心の準備もできてなかった。0900気も狂わんばかりに恋しかったいののことを、0901今がいままで忘れていた、0902己れの薄情さが恥ずかしい。
0903「それで、0904大阪へは……用事できはったんやろ」
0905 それとなく佐市が聞き出す。
0906「はあ、0907出来れば、0908大阪で神の道を広めようと思いますんや……」
0909 答えながら、0910琴の居場所までは聞けないと思った。0911古傷がちくちく痛んでいた。
0912 お繁が実盛餅と番茶を運んできて座談に加わる。0913天満橋から車に乗って三十銭で元のところに下ろされた話に、0914二人はふき出した。0915わだかまりもとけてきて、0916故郷の噂に花が咲く。0917やがて、0918お繁が言った。
0919「せっかく来やはったんやで泊まってもらいたいけど、0920この通りの狭さやさけ、0921どうにもなりまへん。0922どこかの宿屋へでも泊まらなしようがおへんなあ。0923旅費は持っとってか」
0924「算段して五十円持ってきたさけ、0925あの人力車に払うても、0926まだ四十九円五十銭ほど残っとるはずや」
0927 夫妻は目を丸くした。
0928「そんな大金もっとると、0929掏摸(ちぼ)スリのことが田舎者やと思うて盗るかも知れんぞ。0930しっかり内懐ヘ入れて、0931片一方の手で握りもって歩けよ」
0932「車に乗ったら、0933まただまされんよう、0934気いつけや」
0935 くちぐちに忠告してくれる。
0936 喜三郎は、0937堂島(どうじま)の川ばたにある白木造りの三階達ての玉屋に宿をとった。0938早朝から歩き通しで慣れぬ都会をさまよい、0939心身ともに疲れきっていた。0940ともかくも一夜の夢をここで結んだ。
0941 翌朝、0942琴の所在を捜しがてら行きあたりばったりに布教しようと、0943鞄を持って玄関に出た。
0944「こら、0945どこヘ逃げる。0946田舎者めが」
0947 すごい剣幕で、0948番頭がとびかかってきた。0949喜三郎は驚いた。
0950「逃げるんやないて。0951ちゃんとまた帰ってくるわい。0952尋ね人があるさけ、0953夜まで出しておくれやす。0954毎日宿賃はろうて寝とってもつまらんさけ……」
0955 番頭は、0956まだ疑わしげな顔であった。
0957「そんなら鞄を置いといてもらおか。0958銭はなんぼ持っとんのや」
0959「四十九円五十銭ほどありますで」
0960 胴巻きを出し、0961中見を見せると、0962番頭の表情が変わった。
0963「ヘヘへ……それはどうも。0964けどなんだす。0965都会慣れん人が大金もって出歩いたら、0966無用心だっせ。0967掏摸(ちぼ)にでもとられたら、0968宿賃も払うてもらえヘん。0969外ヘ出やはるんやったら、0970四十円だけ預からしてもらいまっせ。0971お帰りの時には、0972きちんと勘定しますさかい……」
0973 もっともだと思った。0974四十円を番頭に預け、0975残りの九円五十践を持って宿を出た。0976 琴の所在を尋ねながら、0977大阪の町を歩き廻った。0978教会の看板が目につくと訪問して、0979教義を聞いた。0980稲荷下げも多かった。0981芝居を見、0982寄席をのぞき、0983見世物小屋にも首をつっこんだ。0984夜は宿で鎮魂し、0985神勅を待ったが、0986松岡も大霜も琴らの行き先となると、0987スカタンばかり教えて、0988本当のことを告げてくれぬ。
0989 二週間がうかうかと過ぎ、0990番頭が勘定書を持ってあらわれた。0991喜三郎は肝をつぶした。0992一日の泊まりが二円八十銭、0993二週間で三十九円二十銭。0994穴太の宿万屋なら一泊二十五銭が相場だ。0995何ほど大阪だといっても、0996倍の一泊五十銭とみて二ケ月ぐらいは大丈夫と、0997懐勘定していたのである。0998預けた金の中から八十銭を返してくれたが、0999やけくそで茶代としてくれてやった。1000つまり命の綱とも思う四十円の金は、1001二週間前、1002玉屋の番頭に手渡したきり、1003長の別れとなってしまった。
1004 手持ちの端金も、1005もはや一円余りしか残っていない。1006これ以上、1007半日として宿屋にうろうろできなかった。
1008 鞄一つ下げて宿を出た。1009足は重かった。1010家屋敷を抵当に入れ、1011借りた金だった。1012一同には、1013大阪大宣教の夢を語って勇ましく旅立って来たのに。1014琴はこの大都会のどこに消えてしまったのか。1015その上、1016煙の都の煙と消えた大金の惜しさ、1017無念さ。1018――どの面下げて故郷へ帰れよう。1019かといって、1020宿賃の相場を調べて玉屋の主人に抗議しようなどとは、1021つゆ思い浮かばぬ喜三郎だ。1022失意の時は妙に故郷がしのばれる。1023ふと斎藤老夫婦の顔が瞼に映じた。1024宿を世話してもらって以来、1025会ってはいなかった。1026ともかく斎藤家に立ち寄ってから一思案しようと、1027喜三郎は決めた。
1028 暗くなって空心町の実盛餅屋の店に入ると、1029思わぬ人に出会った。1030かつて涙で別れ、1031今では未亡人となったいのである。1032姉わきの家に同居しているとのことだったが、1033たまたま両親に会いに来たのでもあろうか。1034いのは後ずさり、1035面をおおった。
1036 なつかしさと悲しみが入りまじって、1037声も出ぬ。1038独り身でいると聞いたが、1039ほんとうだろうか……もしや、1040まだわしを……心で問いかけながら、1041喜三郎も黙した。
1042 佐市夫妻と妹富野(とみの)が出てきて、1043喜三郎をもてなしてくれた。
1044「せっかくやさけ、1045泊まっていきなはれ、1046喜三やんも度々はこられんやろ。1047何せ四畳半一間で窮屈やが……」と、1048お繁婆さんが粋をきかしてくれる。1049ありがたかった。
1050 二十歳の富野が、1051はしゃいで蒲団を敷いてくれた。1052夫妻・いの・富野と共に、1053壁ぎわに縮こまって、1054喜三郎も雑魚寝した。1055佐市親子の間に喜三郎の場をわけてくれた故郷の人々の暖かい心が、1056むしょうに有難かった。1057きれいな旅館の冷たい一室より、1058どれだけ嬉しいことか。1059昔の恋人と、1060こだわりなく一室に休めるなどこれは現実なのであろうか。1061情欲を離れた、1062澄んだ気持ちで、1063いのをいとしいと思った。
1064 どうやら寝静まった頃、1065がらがらっと枕元をゆすぶる車輪の響きに目がさめた。1066表戸が開いて、1067誰かが入ってきた。
1068「おいの、1069出ておいで……」
1070 姉わきの声だ。1071喜三郎は半身を起こした。1072いのも起きていて、1073二人はランプの灯影に切なく目を見交す。1074万感こめたいのの(ひとみ)が揺れ、1075にじむ。
1076「いの……何しとんの、1077おいの」
1078 きびしいわきの声にさからえず、1079いのは出ていった。1080門口に待たした馬車に乗ったのだろう。1081遠のいていく鉄輪の音が夜のしじまに消えていった。
1082 喜三郎は天神橋の上に立ち、1083淀川の深い流れを眺めていた。1084川面に映る大阪城の(いらか)屋根の瓦が西日にきらきら輝く。
1085 ――二百八間の矢矧(やはぎ)橋に(こも)をまとって寝ていた腕白小僧の日吉丸は、1086ついに六十余州の天下を握った。1087豊太閤の幼時の境遇かて、1088わしと似たようなもんや。1089そやのにこのわしときたら、1090無理算段して作った旅費もたちまち消え、1091土産物一つ持って帰ねんざまや。1092矢矧橋ならぬ天神橋のたもと、1093男と生まれて大志を抱いたからは、1094おめおめ尻尾はまけん。1095喜楽、1096しっかりせい。
1097 吾とわが身を叱咤(しった)する喜三郎に、1098どんと突きあたった者がある。1099よろめきながら見ると、1100みすぼらしい姿の十二、1101三歳の少年だ。1102と思う間もなく、1103息せき切って追いついた三十歳前後の番頭風の男が少年をつかまえ、1104打つ蹴るなぐるの乱暴狼藉である。1105少年は悲鳴を上げて泣き叫ぶ。1106たちまち人の山、1107往来止めの有様だ。
1108「言うことがあったら交番で言わんけい」
1109 男は少年の手首をつかみ、1110腕も抜けんばかりに引っぱる。1111ようやく喜三郎は口を出した。
1112「ちょ、1113ちょ、1114ちょっと待ったりいな。1115どんな悪いことしたか知らんけど……」
1116「お前、1117だれや」
1118「へえ、1119丹波の国は曽我部村穴太の安閑坊喜楽ちゅうて……」
1120「つまり丹波の山猿か。1121黙ってひっこんどらんかい」
1122「そう言わんと、1123わけを聞かしとくれやす」
1124「こいつは掏摸(ちぼ)の卵や。1125店先の実母散(じつぼさん)を一服、1126かっさろうて逃げ出しくさった。1127今後のいましめに、1128橋詰めの交番につき出したる」
1129「それには何かわけがあるのやろ。1130おい坊や、1131泣かんとわけを言うてみ」
1132 泣きじゃくりながら語る少年の話はこうだ。
1133 少年の母は長く子宮病をわずらい、1134命さえ危ぶまれる。1135だが貧しいために医者にも診せられず、1136薬も買えぬ。1137実母散が女の病に効くと隣人から聞いて、1138矢も楯もたまらず、1139薬屋の店先からかっぱらったと言う、1140聞くも涙の物語――。
1141 涙もろい喜三郎、1142思わずもらい泣きしながら、1143懐中から五十銭を取り出した。
1144「番頭はん、1145この薬わしが買うさけ、1146許したっとくれやす」
1147「許せんとこやが、1148そこまで言いなはるなら勘忍したろ、1149おい、1150坊主、1151今度したら承知せんぞ」
1152 番頭は五十銭玉を引っつかみ、1153一服十銭の薬に釣も払わず肩怒らして去って行く。
1154 ――大阪といえば日本三大都会の一つ、1155七福神の楽天地かと思っていたが、1156やはりここにも貧に苦しむ人がいる。1157どこへ行っても秋には秋が来る、1158冬にはやっぱり冬だ。1159ああ……。
1160 思わず慨嘆すると、1161とたんに揺り起こされて眼がさめた。1162お繁婆さんが心配そうにのぞきこんでいる。
1163 今の夢で、1164喜三郎は急に故郷に残した祖母や母のことを思い出した。
1165 ――これは神さまのみ心かも知れん。1166しょうがない。1167いっぺん帰って再起を計るか。
1168 大阪と決別の思い出に、1169天満天神の鳥居をくぐった。1170境内には丹頂鶴が五羽、1171金網を張って飼ってあった。1172泥鰌(どじょう)を売っている六十ばかりの爺さんが声をかけた。
1173「天神さんお参りの記念や。1174お鶴はんに泥鰌を上げてんか。1175一盛り一銭だっせ」
1176 見れば小さい泥鰌が二匹、1177水の入った浅い竹筒に入っている。1178絵に書いた鶴はたくさん見たが、1179実物に会うたのは初めてである。1180一羽一銭あてに泥鰌を買い、1181つぎつぎ投げてやった。
1182 と、1183向かいの馬小屋では、1184白い毛の駿馬が足で板の間を叩いて、1185喜三郎の注意をひきつける。1186見れば、1187土器(かわらけ)に茄で大豆が十粒ほどずつ皿に盛ってあり、1188「一皿一銭、1189お馬さんにおあげなさいませ」と書いてある。1190鶴に五銭やったからには、1191この馬にもやれずにおれぬと、1192白銅一枚はりこんで、1193五皿の茄で豆を与え、1194興に入った。
1195「ちょっと、1196ちょっと……」
1197 誰のことやろうとふり向くと、1198小林易断所の看板を机にぶら下げ、1199毛布(げっと)の椅子に坐った老易者が手招きしている。1200そういえば、1201境内のあちこちに、1202易断の店があった。
1203「金をとろうとは言わん。1204ちょっと来なはれ」
1205 招き寄せた喜三郎の顔を凝視して、1206老易者は一語一語力を加えた。
1207「丹波から大阪へ出て神の教えを宣伝するには、1208まだ時期が早い。1209尋ね人にも会えまへん。1210未練を残したらあかん。1211それより丹波ヘ帰ることじゃ。1212十年ばかり修行を積んで出直しなはれ。1213いまは大切な時や、1214軽挙妄動せんようにな」
1215「先生、1216あんたは神さんみたいなこと言うてやな。1217一体、1218どなたはんです」
1219「わしは若い時から富士講の丸山教会に入り、1220富士山で修行しとった」
1221「富士山……それなら芙蓉仙人を知ったはるか」
1222 それには答えず、1223易者はたんたんと語る。
1224「ところが、1225教祖の六郎兵衛はんが神罰をこうむって悶死してのう、1226教会はめちゃめちゃじゃ。1227ほいでわしも大阪へ出て来て、1228情ない易者渡世をしている」
1229「名前を聞かしとくなはれ」
1230「小林勇と名乗っているが、1231これは仮の名。1232再会することでもあれば、1233その時に本名を名のろう。1234それよりもあんたのこれからの丹波での十年間の辛苦は、1235並々のことやない。1236思うてもかわいそうな気がする。1237しかしのう、1238それを乗りきるのも神さまのため、1239世の中のためじゃ。1240さあ、1241心を残さず丹波へ帰りなはい」
1242 老易者にうながされて、1243喜三郎は背を向けた。1244天満天神の社前にぬかずき、1245天津祝詞を奏上する。1246易者のいた位置に戻って見まわしたが、1247その姿はなかった。
1248 徒歩で梅田駅まできたが所持金わずかに二銭五厘、1249汽車はあっても乗る術がない。1250仕方なく線路のまんなかをとぼとぼ歩き、1251吹田の茶店で蒸し芋を食って腹を満たした。
1252 少しは元気を回復し、1253茨木町から清坂街道を北にとる。1254十五夜の月が東の山の端に姿を見せる。1255山路にかかると、1256力になるのは淡い月影ばかりである。
1257 ようやく東別院の東掛(とうげ)村にさしかかった。1258この村には石田心学の祖・石田梅岩の生家がある。1259岐路に立って思案した。1260道を北にとれば年谷川にそって矢田に出て、1261そこから西へ向かうと曽我部村だ。1262道を西にとれば柚原(ゆのはら)に出て、1263池田街道を北進すると曽我部村だ。1264距離的には西ヘの道がやや近そうだが、1265柚原までの谷道は細く険しい。
1266 迷っていると、1267西への道の四、1268五軒先にふいに白い影が現われ、1269先導するように進む。1270喜三郎が進むと進み、1271止まると止まる。1272呼べど答えぬ。1273現われたと思うや消える。1274消えたと思うや現われる。1275変幻出没自在だ。1276怪しみながらも、1277空腹と疲労の身には、1278力強くさえ思える。1279睡魔に襲われ何度も転倒したが、1280白い影に励まされるように立ち上がる。1281西別院の村はずれにくると、1282ここからは下り坂だ。1283白い影が消えて再び現われることはなかった。
1284 細い谷川の向かいに狭い墓地が浮き出ている。1285喜三郎は谷川をとび越えた。1286狭い土地に幾つかの墓石が立ち並び、1287その背後に六体の地蔵があった。1288地蔵の上には雨露をしのぐだけの小さな屋根がある。
1289 野宿するには墓場がよかった。1290墓の台座が適当な枕になる。1291神社の境内だと森厳で恐ろしいが、1292墓地だと亡霊がうじゃうじゃいる感じがして、1293にぎやかでよい。1294それに時にはお供え物のお裾分けに預かれる。1295見渡すと、1296新墓の前に幾つかの饅頭が供えてあった。1297たかった蟻を払いのけ、1298喜三郎はぜんぶ頂戴した。1299皮が固くなっているが、1300空腹にまずいものなしである。
1301 六地蔵のうしろで、1302台座枕にごろりと横になった。1303薄目をあけて眺めると、1304藤の花と山つつじが白くはんなり浮き出ている。1305その眺めが一種の催眠剤とでもなったのか、1306瞼が垂れ下がって華胥(かしょ)の国へと旅立つ。
1307 地獄から湧き上がるような陰々たる声にゆっくりと現実へ呼び戻され、1308頬にかかった水しぶきで完全に目ざめた。
1309 月の傾きから判ずれば、1310幽霊の好む丑満(うしみつ)時だ。
1311 ――妖怪変化や。
1312 喜三郎の体躯は小きざみに震え、1313居たたまれぬ思いに逃げ出そうとすると、1314腹の底から「待て!」と制止の声がかかった。
1315 急に胴がすわった。
1316 ――わしは顕幽両界の救済者たらんとする霊学の修行者や。1317ここで怪霊に出っくわして研究材科を得たこそ、1318もっけのさいわい、1319神のみ心。
1320 冷静にかえってみれば何のことはない。1321女が題目を唱えながら、1322土瓶片手に石地蔵の頭から水をかけていたのだ。
1323 ――わしはなんちゅう卑怯者、1324憶病者やろ。1325長途の旅で疲労困憊(こんばい)のあげくとはいえ情けない。
1326 女が少し離れた気配に、1327地蔵の間からのぞいた。1328マッチがすられ蝋燭に点火された。1329さきほど饅頭を失敬した新墓の前に、1330赤ん坊をおぶり幼な子の手を引く背の低い小肥りの女がひざまずき、1331泣きながら何かをしきりに訴えている。1332女は「南無阿弥陀仏」と力なくとなえながら立ち去り、1333その姿は木立にまぎれて見えなくなった。
1334 女が消えると、1335また急に臆病風に吹かれて総毛立った。1336長居は無用と、1337喜三郎は頬かむりし、1338尻ひっからげ、1339細い渓流を渡って山路に出たとたん、1340足もとから子供の悲鳴が起こった。
1341「母ちゃん、1342こわいっ!」
1343 驚きにとび上がった喜三郎は、1344大声でわめく。
1345「何こわいことあるけい。1346わしは人間や」
1347 言うなり喜三郎、1348後ふり向きもせず、1349足の痛みも忘れて法貴谷(ほうきだに)めざして走っていた。
1350 くたびれきって穴太へ帰りついた。1351二、1352三日後、1353追っかけて多田琴も帰ってきたが、1354喜三郎の憔悴(しょうすい)しきった顔を見るなり呆れたように吐息し、1355何も聞かなかった。1356かえって、1357穴があれば入りたい思いにさせられる喜三郎であった。
   
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