霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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ゆりの怨霊

インフォメーション
題名:05 ゆりの怨霊 著者:出口和明
ページ:136 目次メモ:
概要:綾部の出口ゆり(直の叔母)。直と林助の恋。ゆりが直に養女に来てくれと懇願。ゆりが自殺。怨霊が直に襲いかかり、直は林助との縁談をあきらめて、綾部の出口家に入る。 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2018-12-29 20:08:25 OBC :B138903c05
0001「えらいこっちゃ、0002(とり)が鳴いた。0003もう()ななあかん」
0004 去る潮時を見はからっていたように茂作(もさく)が身を起こしかけると、0005出口ゆりは慌ててすがりついた。
0006「あきまへん、0007なあ、0008あとちょっと……」
0009「そんな無茶言いないな。0010もう二回も……」
0011「そんなこと言うちゃっても、0012久しぶりのことやし……」
0013「またすぐ来るわな。0014お互い、0015身を考えんと……わしかてもう五十やろ……」
0016 年齢を持ち出されて、0017ゆりはしんとなった。0018ゆりは四十八歳――でもこの年で激しく燃えるなんていけないことだろうか。0019喜びを知ったのが遅すぎたのだから、0020その分を取り返すのがなぜ悪い。
0021 初代出口政五郎(まさごろう)は大工で、0022享保(一七一六~三六)の頃、0023出口幸兵衛から分家し、0024綾部組坪内村(現綾部市本宮(ほんぐう)町)に一家を構えたと伝えられる。0025以来、0026出口家は、0027代々「政五郎」を襲名する。
0028 出口家は大きな屋敷と田畑を所有していたが、0029嗣子に恵まれず、0030川合(かあい)村(現京都府天田(あまだ)三和(みわ)町大原字奥山)の太郎兵衛家から養子を迎えて政五郎を襲名させ、0031娘のさよと結婚させた。
0032 二代目政五郎も大工であったが、0033さよと力を合わせて働き、0034資産をさらにふやした。0035しかし彼らの間に子がなく、0036親類の出口惣右衛門の娘ゆりを養女にした。0037文政五(一八二二)年、0038ゆり十八歳の時である。
0039 ゆりには河守(こうもり)(現京都府加佐(かさ)郡大江町河守)に住む従兄の茂作という親の決めた婚約者がいたが、0040話し合いで婚約は解消された。0041政五郎は自分の実家の太郎兵衛家にいる甥・政平をゆりの婿に望んだからだ。0042茂作とゆりの間にはまだ愛情が通い合っていなかったし、0043当時、0044茂作は村の娘に熱を上げていた。0045婚約解消に支障はなかった。
0046 政平とゆりは結婚したが、0047政平は間もなく大病をわずらい、0048治ってからも病気勝ちで、0049夫婦生活は淡白であった。0050彼らの悩みもまた、0051子に恵まれぬこと。0052夫婦は相談して、0053姪の直に白羽の矢を立てた。0054直の母桐村そよはゆりの実姉である。
0055 政平夫婦は福知山の桐村家を訪ね、0056「直を養女に」と申し込んだ。0057直がまだ三、0058四歳の頃である。0059五郎三郎は簡単に承諾したが、0060その表情には「これで一つ口減らしができる」という気持がありありと出ていた。0061しかしたけとそよが反対で、0062ようやく「直がもう少し大きくなり、0063自分の判断で承知すれば」という言質だけを得た。
0064 それからというもの、0065政平夫婦は、0066幼い直の愛情をひきつけようと、0067涙ぐましいばかりに努力した。0068(かんざし)(こうがい)を与えて機嫌をとってみても、0069なぜだか直は懐かぬ。0070そよに連れられて直が綾部に来た時も、0071政平が庭へ下りると直は座敷へ、0072政平が座敷へ上がると直は庭へと避ける。0073政平夫婦の願望を本能的に察知して、0074無意識に拒絶反応を示すのか。0075養女の話はのびのびになった。
0076「ねえ、0077茂作はん、0078あの晩のこと、0079覚えとってですかい」
0080「あの晩?……」
0081「ほら、0082うちの人の通夜の晩のことですわな」
0083 ゆりは蒲団の中で茂作の手を探り、0084握りしめた。0085話題をみつけ出して少しでもそばに引きつけておきたい、0086いじらしい女心だ。
0087「ああ、0088忘れてなるかいな。0089あの時の喪服のおゆりはんときたら、0090とても四十二とは見えんぐらい、0091若うてきれいなかった。0092ほんまかいなあ、0093この女が昔のわしの許嫁やったんかいなあ……そう思たら、0094目の前の仏さんには悪かったけど、0095なんやもったいないことをしたような気がしたでよ」
0096「上手言うて……」
0097 ゆりは若やいだ声を上げ、0098茂作にすり寄る。
0099 政平が死んだのは弘化三(一八四六)年二月八日。0100その通夜の席、0101ゆりは遺骸の前に首うなだれ、0102夫の死にうちひしがれる悲しい女の姿を演じた。0103だがゆりの頭の中はそれどころではなかった。0104政平の死を好機として、0105兄喜兵衛や本家の出口儀助、0106その分家の出口佐兵衛らが出口家の資産の乗っとりを計っていた。0107ゆりはそれを肌で感じとっていた。
0108 ――あいつらに奪られる前にお直を養女にして、0109出口家の財産だけはきっと守っちゃる。
0110 ゆりが昔から見こんでいた通り、0111直は申し分のない娘に成長していた。0112弔問客の接待のために台所でかいがいしく立ち働く直の立居振舞を見ても、0113動きに少しもむだがないばかりか、0114隠れた所に他人への暖かい思いやりをひそませている。0115長い奉公生活の苦労を、0116立派に肥にしている。
0117 ――みんなが帰った後で、0118姉さんやお直に改めて養女の話を持ち出してみんなん。0119政平の遺骸の前やったら、0120いやとはよう言わんやろ。
0121 そう思い決めた時、0122ふいに遠慮勝ちな男の声が聞こえた。
0123「あのう……おゆりはん……」
0124「……」
0125「茂作です。0126ほら、0127わしですがな」
0128 茂作と言われても、0129とっさには思い出せなかった。0130失礼にならぬようにと、0131ゆりは返事をためらった。
0132 この男の存在を、0133ゆりは通夜の始まった時から意識していた。
0134 ――きりっと筋肉の引きしまった精悍な感じの男やが、0135政平はんの知り合いやろか。
0136「もう二十年以上むかしになるけど……ほれ、0137河守の茂作ですがな。0138もう忘れてでしたかい」
0139「あっ」とゆりは声を上げた。0140二十四年の歳月が一度に消えた。
0141「あい変わらずうだつの上がらぬ水呑み百姓ですさかい、0142あれいらい御挨拶にもよう上がりまへなんだ。0143このたびは出口の本家からお知らせがあったもんで……」
0144 話し合って見ると、0145茂作の境遇はゆりと似通っていた。0146茂作も最近妻をなくしたばかりの男やもめで、0147しかも子供がなかった。0148思いがけない再会に、0149ゆりの脳裡からは、0150直の養女の件など吹っとんでしまった。
0151 それ以来、0152茂作はゆりの良い相談相手になってくれた。0153味方(みかた)村(現綾部市味方町)の太平の息子、0154十六歳の菊蔵を出口家の養子に世話してくれたのも、0155茂作であった。0156ゆりは菊蔵を大工見習いに出し、0157ゆくゆくは直と一緒にさせるつもりでいた。0158けれどその菊蔵も、0159嘉永三(一八五〇)年、0160二十歳の若さで死んだ。0161出口家はよくよく子に恵まれぬ。
0162 間もなく、0163近所の大工辻村藤右衛門の世話で、0164中筋村岡(現綾部市中筋町)の豊助を養子に迎えた。0165豊助は石原(いさ)村(現福知山市字石原)で大工の年季奉公中であったため出口家に来初めするとすぐ、0166親方の所へ戻った。0167豊助もまた、0168直の新しい婿候補であった。0169ゆりは直をあきらめてはいなかった。
0170 亡夫の四十九日の法要が過ぎていくばくもなく茂作と一線を越えた時、0171ゆりは生まれて初めて喜びを知った。0172茂作も女房を失って忍耐が続いていたためか、0173その求め方は荒々しかった。0174夫にはないものであった。0175ゆりの肉体は、0176病身の夫から開発されぬまま、0177成熟しきっていたのだ。0178体の芯からうずき出すような官能にもだえた。0179終わった後、0180自分の意志を無視してしばらく痙攣し続ける下半身の筋肉のありようがゆりには奇妙に思えた。0181茂作の腕に抱かれながら、0182ゆりは思った。
0183――男と女とはこういうもんやったんか。0184なんとそれとも知らずに長い間、0185わたしは何をしとったんやろ。
0186 茂作とゆりの再婚は兄喜兵衛や親戚たちに真向から反対された。0187しかし茂作とゆりとの逢引きはひそかに続いた。
0188 綾部と河守との距離は近くはなかった。0189綾部から福知山まで綾部街道を三里、0190福知山から河守まで宮津街道をさらに三里。0191福知山から由良川を舟で下る水路もあった。0192往復十二里といえば、0193そうしばしば通えない。0194それでもゆりは、0195福知山の姉そよを訪ねるのだと自分に言い聞かせて家を出、0196福知山まで来ると、0197せっかくここまで来たのだからといそいそと足を伸ばした。0198長く孤閨(こけい)に耐えられぬ身になっていた。
0199 茂作も月に一度ならず訪ねてきた。0200初めの頃は激しくゆりを求め、0201一晩寝かしてくれぬ。0202だがこの頃では次第に立場が入れかわり、0203ゆりが茂作を寝かさぬ。
0204「さ、0205もういっぺん寝直しや。0206ほれ、0207暖めたげまひょ」
0208 ゆりは茂作の上にのしかかる。
0209「もうこらえとくなはれ。0210おゆりはんは好きやなあ」
0211「あんまりやわな。0212あんたが火をつけてこんなにしちゃったんですで。0213こら、0214どうしてくれる」
0215「分かった分かった、0216けどもうくたくたや」
0217「良い子やさかい、0218ほら、0219良いもんあげる。0220寝んね寝んね」
0221 子供を産んだことのないゆりの乳房はまだ十分に張りがあり、0222形もくずれていない。0223その自慢の乳房を茂作におしつけ、0224口では冗談めかして言いながら、0225ゆりの目はすわっていた。0226このまま茂作を河守まで帰しては、0227今日一日、0228何も手がつくまい。0229この(うずき)を切り裂く刃物でもない限り、0230今夜ももだえくるしもう。0231あの何もかも爆発する感覚の瞬間は、0232もうここまできている。0233火をつけてくれればいいのだ。0234求める時はがつがつしながら愛情をせいいっぱい表現し、0235満足すると急に心まで遠のいて行くような男の生理の身勝手さが憎い。0236だがそれがむしょうにいとおしい。
0237 男の野生が回復すると、0238ゆりはすぐに我を忘れた。0239どんなに声を上げても聞く人はいない。0240広い屋敷の二人だけの世界だ。
0241 ようやく満ち足りたゆりは、0242心配そうに言う。
0243「どうしたんじゃろ、0244わたしの体は。0245年が寄るほど、0246だんだん激しゅうなるみたい」
0247「そのうちわしは、0248おゆりはんに食い殺されるやも知れん」
0249「いっしょに住めんからですわな。0250茂作はんと所帯が持てたら、0251きっとこんなことはござへん」
0252 ゆりはものうげに起き上がり、0253
0254「すぐ朝御飯作りますさかい、0255それまで休んでなはれ」
0256「けど早う去なんと……」
0257「そんなに急がんでも……そうや、0258福知(山)まで送ったげる。0259姉さんにもお直にも用事があるし……」
0260 少しでも長く茂作といっしょにいたかった。0261台所に行くつもりで立ち上がりながら、0262ゆりの足は箪笥の前で止まった。0263一帳羅(いっちょうら)(つむぎ)を出して肩にかけ、0264鏡台をのぞきこんだ。0265そこには寝乱れ髪の、0266腫れぼったい目をした、0267それでいてしあわせに酔いしれた女の顔があった。
0268 ――この着物、0269なんぼも着んうちに、0270ちょっと派手になったみたいや。
0271 だが女は幾つになっても、0272美しい着物を見ると心が浮き立つ。
0273 産土である堀村(現福知山市字堀)の一宮(いっきゅう)神社の社前にぬかずき祈り終った直は、0274「おお、0275さむ」と、0276師走の風に身をすくめる。0277境内は樹木がうっそうとして、0278陽がさしこまぬ。0279樹齢三百年の大桧にちらと目礼しておいて、0280預かってきた反物を胸に抱き石畳の参道を急ぎ足で帰りかけると、0281石段をかけ上がってきた男にぶつかりそうになった。
0282「あ、0283お直はん――」
0284「まあ、0285林助(りんすけ)はん――」
0286 二人同時に声をかけ合い、0287思いがけぬ出会いに絶句し、0288顔を見合わせた。
0289「お参りに来ちゃったんですか」と林助は、0290ややあって当然のことを聞く。
0291「はい、0292堀に仕事をいただきに来たものですさかい。0293それで、0294林助はんも……」と、0295直も同じことを聞いた。
0296「福知(山)に用があって、0297それでお宅へも寄ろうと思うとったとこですわな」
0298「それがなんで一宮はんに……」
0299「ちょこっと願いごとがあったもんで、0300回り道したんですわな。0301それにしてもここでお直はんに出会うなんて……。0302すぐ拝んできますさかい、0303待っとくれなはれ」
0304 十二月も半ばを過ぎると誰もが忙しいのか、0305境内に人影はない。0306真剣に祈りを捧げる林助の背を、0307直は好もしい思いで眺めた。
0308 林助と直とは、0309親からの古いつき合いであった。0310林助は中村(現福知山市字中)の百姓の次男坊である。
0311 たしか父が甘酒の行商を始める少し前の頃、0312母に連れられて林助の家を訪ねたことがある。0313直が七つの時だ。0314林助は文政十二(一八二九)年の生まれだから、0315当時十四歳だったはず。
0316 親同志が話しこんでいる間、0317ずっと林助が相手してくれた。0318直は林助に手を引かれて、0319庵我(あんが)神社に参拝した。0320神社は小高い地にあり、0321そこから庵我の里が見渡せた。0322杉の大木が林立しており、0323太い枝に小さな神さまが鈴なりになって直を見下ろしているように見えたのは、0324錯覚だったのであろうか。
0325 二人で並んで拝んだ後、0326少年林助はひやかすように聞いた。
0327「お直はん、0328何を真剣に拝んどったんや」
0329「父さんがお酒をやめて、0330働いてくれて、0331お婆ちゃんや母さんがもっと楽になりますようにって拝んどったんやな」
0332 林助は急に鼻の奥がくすぐったそうな顔になる。
0333「兄ちゃんは何を祈っちゃったん?」と直が無邪気に聞く。
0334「わしか……わしはな、0335ま、0336いろんなことをな……」
0337「すこい(ずるい)。0338わたしばっかり言わして。0339なあ、0340教えてえな」
0341「うん。0342わしの祈りは、0343欲ばり過ぎかも知れん」
0344「そやから何やの?」
0345「百姓がな、0346わしらみたいな百姓が働いたら働いただけのことのある世の中が来ますように、0347ちゅうて……」
0348 その意味はよく分らなかったが、0349その言葉だけは覚えておこうと、0350直は思った。
0351 筈巻の渡しにも乗せてもらった。0352網を持って小川で小ぶなやもろこも追った。
0353 中村には、0354鬼ケ崎から流れる川の段丘での落差を利用した水車がたくさんあった。0355地方の小麦や菜種油を集め、0356この水車を動力にして素麺を作るのが村の有力な産業であった。0357お昼に御馳走になった素麺は、0358びっくりするほどうまかった。
0359 町屋に育った直には、0360田園に囲まれた中村の自然は、0361新鮮で、0362楽しかった。0363幸福な思い出の少ない直にとり、0364林助はその幸福を与えてくれた数少ない一人であった。0365林助が桐村家に来た時など、0366直は彼にまといついて離れなかった。
0367 林助は二十四歳、0368子供の頃の七つ年上と言えばずいぶん大人に見えたが、0369今はそれほど年のひらきを感じない。0370若者という同じ世代に住んでいる。
0371 祈り終った林助が生まじめに言う。
0372「待たせてすんまへん。0373ほな行こか」
0374 直は林助より一歩おくれて歩いた。
0375 京街道の西側は松縄手という見事な松並木が続く。0376そこを過ぎると蛇ケ端藪。0377藪といっても竹ばかりではなく、0378数百年をへた榎や大きな雑木が生い茂っている。0379洪水の時など、0380この藪が東方数十キロの上流から流れてくる由良川の水勢を弱めて部落を水から守ってくれる。
0381 暗い空から雪が落ちてきた。0382立ち止まって林助は見上げる。
0383「この分じゃ、0384えっと大雪になりそうじゃ」
0385「積もったら、0386中村までの道が難儀ですなあ」
0387「なあに、0388雪は穢れを払う瑞祥というさかい……」
0389 林助はさわやかな笑顔を見せた。0390健康そうな歯が、0391直には降る雪よりも白く清く見えた。
0392 藪を抜けて京口門の手前、0393三軒茶屋まで来ると、0394林助は直を振り返った。
0395「良かったら、0396腹ん中を暖めていこかいな」
0397 手前の茶店では、0398三人の武士が昼まから酒を飲んでいた。0399それを避けて、0400二人は真ん中の茶店を選ぶ。
0401 茶店の女に汁粉を注文した林助は、0402改まってぺこんと頭を下げた。
0403「おめでとう、0404長いあいだ御苦労はん……」
0405 直には林助の言う意味が分らなかった。
0406「ほれ、0407奉公のことじゃがな。0408九月に奉公をやめなはったと聞いてすぐにもお祝いに来たかったんやが、0409秋の穫り入れやら何やかや忙しゅうて今までこられしまへなんだ。0410五郎三郎はんが死んじゃってから、0411まだちっちゃいのに奉公に出されて足かけ七年か。0412ようがんばっちゃった。0413つらかったやろなあ」
0414 直は首を横に強く振った。0415奉公中、0416朝から晩まで身を粉にして働くことに懸命で、0417つらいなどと思うゆとりもなく夢中で過ぎてきた。0418その苦労があればこそ、0419貧しくとも家族でいっしょに住める今の暮らしのしあわせが尊い。
0420 林助はしみじみと言った。
0421「五郎三郎はんが生きとっちゃったら、0422お直はんの娘っぷりにさぞかし喜んじゃったろう」
0423「わたし、0424父さんには悪いけど、0425父さんにはちっとも良い思い出がござへん。0426あの時死んでくれちゃって、0427本当によかったと思うとるぐらいですわな」
0428 自分の心を包み隠す器用さは、0429直にはなかった。0430林助は驚いて直を見たが、0431やがて自分に言い聞かすように呟いた。
0432「男ちゅうもんは、0433誰に尊敬されんでも女房と子供だけには尊敬され信頼されたいんと違うやろか。0434もしそうしてもらえたら、0435それを裏切るまいとして余計にがんばる。0436女の人には分からんやろけど、0437まあ、0438そんなもんや。0439五郎三郎はんかてそうなりたかったやろに、0440その機会を失うてあせってんうちに、0441自分で自分がどうにもならんようになっちゃった――死んでからまで娘にそんなふうに言われたら、0442五郎三郎はんも浮かばれん」
0443 直は耳まで赤くなった。0444その通りかも知れぬ。0445いつも父を鬼でも見るように接した。0446祖母も、0447母も、0448そして自分までも。0449見栄も外聞も投げ捨てて父が甘酒のふり売りに出た時、0450その姿を立派だと思って上げることができていたら……誰一人にも慕われず、0451恐がられて生涯を終えた父さんもかわいそう。
0452 取り返しのつかぬ不孝をしたと、0453直は思った。
0454 ――そうや、0455甘酒屋を始める時、0456父さんが飲ましてくれちゃった甘酒のあの甘さ、0457その感覚をいつまでも大事にして、0458それを父さんの思い出として育てて行こう。
0459 うつむいた直のほっそりした肩先の震えに気づいて、0460あわてて林助は言った。
0461「すんまへん、0462阿呆げなこと言うてしもた。0463さあ、0464冷めんうちに汁粉食いまひょ。0465なんなら汁粉の食いくらべしよか」
0466 その声につられて、0467直も笑顔でうなずいた。0468直は涙を見せまいとして、0469汁粉を一口すすった。0470あっと言うまに野山を一色に染める雪の白さと汁粉の黒の対照が美しい。
0471 ――それにやっぱり、0472父さんの甘酒よりも、0473林助はんの御馳走してくれてんこの汁粉の甘いこと。
0474「お直はん、0475わし、0476一宮はんで神さまに何祈ったか、0477想像ついてか」と林助はとってつけたように言った。0478直は暗誦の口調で答える。
0479「百姓が働いたら働いただけのことあるようにと……そうでっしゃろ」
0480 林助の顔に、0481驚きと喜色が広がった。
0482「そんな昔のこと、0483覚えとってでしたか」
0484「忘れてしまへん。0485あの頃はまだちっちゃかったさかい、0486意味までは分かりまへなんだが、0487今ではよう分かります」
0488 天保の大飢饉の打撃もあって福知山の藩財政は極度に窮乏して借財十万両にもなろうとし、0489武士の権威は地に落ちていた。0490嘉永三(一八五〇)年、0491藩は目付の原井惣右衛門、0492用人の市川儀右衛門に藩政の改革にあたらせたが、0493嘉永五(一八五二)年のこの年、0494物価統制令を強行し、0495百姓は働いても働いても食えぬ状態にますます追いつめられていたのだ。
0496「残念ながらお直はん、0497さっき祈ったんはそのことやない。0498自分のことや。0499いや、0500自分のことだけでもござへん」
0501 林助は目をつぶり手を合わせて祈る真似をし、0502わざとふざけた声を出した。
0503「――神さま、0504どうぞあなたの氏子のお直はんと結婚させとくなはれ。0505もしもめでたく所帯がもてましたら、0506きっときっと、0507お直はんを泣かせるようなことはしまへん。0508誰にも負けんほど働いてしあわせ者にしてみせますさかい……」
0509 そして林助は、0510まだしっかりと目を閉じたまま、0511続けた。
0512「お直はん、0513わしの勝手な祈りに腹が立ったら、0514目をつむって百数える間に黙ってこのまま帰っとくれなはれ。0515わしはなんにも根に持たんし、0516今まで通りにおつき合いさせてもらうでよ。0517けどもう少し聞いてくれてんつもりなら、0518どうぞこの場におっとくれ」
0519 林助は小声で数えはじめた。
0520 直は動けなかった。0521逃げようにも動けない。0522思ってもいない縁談が、0523予告もなく自分の身に降りかかる。0524数は追いせまって次第に速度を早めて行く。0525震え出す指先で耳をふさぎたかった。0526いや、0527さっき聞いた林助の声が消えてしまわぬうちに耳をふさいでしまいたかった。
0528「……九十九、0529百――」
0530 林助は、0531まぶたを開き、0532身の置き所のないような直をひたむきに見つめた。
0533「おおきに、0534お直はん。0535今から言うことをよう聞いとくれなはれ。0536わしは百姓の次男坊やろ。0537そこで父さんが、0538少しやけど元手を出してくれる言うもんで、0539思いきって福知で小商いするつもりや。0540できたらまず身を固めて、0541夫婦で一からわしらの暮しを築き上げたいんや。0542つまりお直はん、0543あんたとや」
0544「……」
0545「あんたのお婆はんも、0546お母はんも、0547わしらが引きとる。0548そして一生懸命働いて、0549二人に楽させてあげたい」
0550 きっと夢だと直は思う。
0551 ――お婆はんやお母はんのことまで心配してくれて。0552そうや、0553夢や。0554夢でもかまへん。0555いま感じてるつかのまのしあわせ、0556それだけでももったいないくらい。
0557 ――でも一宮はんにお参りしてばったり会えたんは、0558神さまのお引き合わせやないじゃろか。0559この人こそ神さまの授かりもの。0560林助はんなら、0561わたしは一生尊敬し、0562信頼してついていける。
0563「実はこのことをお願いにお宅へ行こうとしたとこですわな。0564ところがこうして、0565じかにわしの気持をお直はんに聞いてもらえるなんて、0566思ってもみなんだ。0567どうぞ返事しとくれなはれ」
0568「……そんなこと、0569あんまりにわかで……」
0570「そらそうでっしゃろ。0571ほんならこれだけ聞かしとくれなはれ。0572わしが桐村家にこのことをお願いに行ったら、0573あんたは後で塩まきなはるか」
0574「いいえ、0575塩なんて……」と直は口ごもり、0576燃えるような頬を押さえて、0577
0578「……わたし、0579一宮はんへすぐにお礼参りに行かせてもらうことでっしゃろ」
0580「ははは……お礼参りか。0581ほなわしかてお供せんならん。0582お直はんの家へは年明けて改めて正式にお願いに上がるとして、0583今日はひとまず中村へ()にますわ。0584おおきに」
0585 林助が大きな掌をさし出した。0586直ははじかれたように立ち上がる。0587林助は照れて手を引き、0588ぺこんと頭を下げた。
0589 去って行く林助の背はすぐ白い粉雪に消されてゆく。
0590 林助と別れて帰ってきた直は、0591祖母や母に「道で林助はんにぱったり会うて、0592お汁粉を御馳走(ごっつおう)になったんじゃな」とさりげなく報告したものの、0593かんじんのことは打ち明けそびれてしまった。0594十二歳の妹りよは羨ましがって、0595その時の様子をしつこく聞きたがる。0596相手にせず、0597直は仕立物を広げながら、0598こみ上げる喜びを抑えかねてしまう。0599一つ一つ確かめるように今日の出来事をなぞらえて、0600思うのは林助のことばかり、0601ときどき仕事をとちって母に笑われた。
0602 けれど暮れ方の雪をふくんだ風が格子戸を鳴らし出すと、0603すきま風のように直の心を不安がよぎる。
0604 ふいに直の前につき出された林助の武骨な手。0605なぜすがらなかったろう。0606あの手に、0607あの大きな暖かそうな掌に。0608もう二度とわたしの前には差し出されぬかも知れない、0609あのいとしい手。0610雪の中に消えて行った林助の背。
0611 せつない思慕と不安に胸苦しくなった時、0612凍える風とともに、0613ゆりが戸口に立った。
0614「姉さん、0615お直はん、0616おってかい。0617話がありますのや、0618聞いとくれえな」
0619 出口ゆりは祖母と母を相手に、0620勢いこんで実兄や親戚の悪口を並べ立てた。0621初老ともいえる茂作とゆりの不倫の恋はもはや隠しようもなく、0622世間の顰蹙(ひんしゅく)を買っていた。0623これをきっかけに実兄の出口喜兵衛・本家の出口儀助・分家の出口佐兵衛が共謀、0624出口政平の遺産を乗っ取りにかかっている。0625彼らはゆりの再婚の願いを強くはねつけ、0626執拗に二人の仲を妨害した。0627最初の養子の菊蔵の死後、0628ゆりが豊助を二人目の養子に迎えたのは、0629彼らの思わくはずれであった。0630しかし豊助は出口家と関係ない男だけに、0631難くせつけて離別もできる。0632しかし再婚だけは困る。0633ゆりが寡婦でなくなれば、0634出口家の財産は手が届かなくなる。
0635 全く孤立し苦境におちいったゆりの最後の拠り所は、0636桐村家の人となった姉そよとその家族だけであった。
0637 潔癖な娘心で、0638直は伯父たちの策謀を憎むとともに、0639老いの情欲をむき出しにした叔母の取り乱し方にもついていけなかった。0640夫との甘い思い出一つなかったであろう母が、0641後家となっても身を持して慎しく生きているのにくらべ、0642同じ血を分けた姉妹と思えぬゆりの行為がうとましく、0643不潔に感じられた。
0644 ゆりの涙まじりの訴えに相槌を打ちながら、0645祖母はあおり立てるように言う。
0646「ほんまやなあ。0647あんたはんらの父親(てておや)はなかなか珍しい誠の人じゃし、0648五人の子のうち四人まではなかなか気立てが良いと感心しとります。0649けど惣領の喜兵衛だけは、0650あらあかん。0651どえらいこすい(悪がしこい)男やでよ。0652同じ種から善と悪とが出るのじゃさかい、0653なんともけったいなこっちゃのう」
0654 実兄の悪口を姑から言われて母がつらそうに身をすくめるのが、0655そばで糸車を繰っている直には肌で感じられる。0656早う帰ってほしいと直は願っていた。0657ゆりや祖母の話を聞いていると、0658直は林助との昼まの甘い思い出まで穢され、0659かき消されそうな不吉な予感に脅える。
0660 と、0661話題は急に直に向けられた。
0662「ほれからお直のことじゃがええ、0663どうや、0664承知してくれちゃったかい」と、0665叔母はすがるような口調だ。0666祖母は気まずげにそっぽを向き、0667母は口ごもりつつ答える。
0668「それがなあ、0669かんじんの本人が……」
0670 皆まで聞かず、0671ゆりは泣き腫れ充血した目を直にあて、0672にじり寄った。
0673「お直はん、0674助けとくれえな。0675一人ぼっちのわたしが頼るのん、0676お前だけじゃさかい、0677どうぞどうぞ綾部に来とくんない。0678豊助ちゅう立派な婿はんまで用意して待っとるんや。0679豊助はんはまだ石原で年季を勤めとってやが、0680腕の立つ良い大工やげな。0681綾部へ来てくれたら、0682わたしがよかろべしいに(よいように)するわいな」
0683 直はかたくなに黙っていた。0684人に逆らったことのない直の、0685必死の抵抗だった。0686正月になったら林助が正式に結婚の申し入れに来てくれる。0687それまでどんなことがあっても、0688拒絶し通さねばならぬ。
0689 ゆりがくどくどと養女の件を頼んで帰ると、0690母がせつなげに吐息した。
0691「お直に苦労ばっかりかけて親らしいことは何一つようせなんだのに、0692親の勝手を押しつけるのはすまんけど、0693綾部へ行ってやっとくれ。0694あんなに悩んどるゆりがかわいそうで……」
0695「……」
0696「女ならどっちみち嫁に行って、0697よそさんの姓を継がねばならんやろ。0698そんなら母さんの最後の頼みじゃと思うて、0699出口の姓を継いでやっとくれえな。0700妹が縁あって嫁いだ家を一代で絶やしたとなると、0701出口家代々の御先祖さまに対しても、0702どんのいにもすまんこっちゃで。0703なあ、0704何事も因縁ごとじゃさかい……」
0705 母は泣いていた。0706今までの直ならば、0707これだけの母の頼みをことわれるはずはなかった。0708だが今日からは違う。
0709 祖母が横から口をはさむ。
0710「この子がいやふうなんは、0711よっぽどわしらから離れにくいんじゃろ。0712なんせひっさひっさ(長い間)奉公して、0713どうぞこうぞわしらといっしょに暮らせるようになったとこやもん。0714なあ、0715もうちいとやっと時間かけてみたらどうやいな」
0716 可愛い孫をできるだけ手離したくない祖母。0717だが祖母にしても、0718直の幸福を思えばやはり出口家にやった方がよいと、0719心底では考えていた。0720ゆりの申し出は悪い話ではない。0721このまま桐村家にいても嫁入り支度すらできぬばかりか、0722家族の犠牲になって婚期すら逸してしまおう。0723資産のある出口家に行けば生活の不自由はない。0724それが分かっていながら祖母が煮えきらぬ態度をとり続けるのは、0725老先短いたけの、0726孫への愛着であろう。
0727「母さん、0728すんまへん。0729もうちょっと、0730もうちょっとだけ返事を待っとくれなはれ」と、0731直は両手をついて母に頼んだ。0732夢のような今日の出来事を直の口からはよう言わぬ。0733「正月よ、0734早う来て」と不安におののきながら、0735直は祈る。
0736 嘉永六(一八五三)年正月、0737林助は仲介人を通して桐村家に縁談を申し入れた。0738「直を養女に」というゆりの切望を無下にはことわれぬ。0739即答を避けるうち、0740今度は林助みずから訪ねてきた。0741膝をそろえて坐り自分の気持を打ち明ける林助の真摯な態度に、0742たけもそよも打たれた。0743何より妹りよが吾がことのように喜んだ。0744油屋に奉公している兄清兵衛も賛成した。0745出口家には養女の話を婉曲(えんきょく)にことわり、0746林助との婚約はととのった。0747しかし双方の事情を考慮して、0748結婚は来年の秋と決められた。
0749 直の生涯にとって、0750恋と呼べるのはこの時だけ、0751つかの間のしあわせに酔う直の青春は短かかった。
0752 安政元(一八五四)年二月、0753幕府は日米和親条約を結び同様の条約を英露とも締結、0754幕藩体制の矛盾を一挙に露呈した。0755幕末の政治的、0756社会的動乱時代に突入する。
0757 同年八月二十九日、0758陰暦だから季節は秋だ。
0759 直が使いから帰り玄関の前まで来ると、0760内から出口ゆりの甲高い声が聞こえた。
0761「姉さん、0762見とんなはれや。0763わたしが死んだら、0764喜兵衛や儀助や佐兵衛に取り憑いて、0765一家を呪い殺しちゃるさかい――」
0766「これ、0767なんちゅうことを……」
0768「ほっといてえな。0769あいつら、0770どぶ壺にはめちゃる。0771黒焦げにしちゃる、0772思い知らしちゃるわいな」
0773 あとは絶叫に近かった。
0774 がたんと激しく戸が開いて母とゆりがもつれるように表へとび出し、0775続いて祖母と妹が追って出た。0776ゆりは止める母を突きとばし、0777不意に狂ったように笑った。0778背筋の冷える笑いであった。
0779 ゆりが走り去るまで立ちすくんでいた直は、0780はっとして母を助け起こした。
0781「母さん、0782何があったん?……」
0783 母は答えもできず、0784蒼白な面を両手でおおった。
0785 かつて町内から意地悪婆あと綽名されたたけが憤然とした。
0786「親戚のいつもの意地悪(いけず)や。0787寄ってたかっておゆりはんをちょうざいぼ(なぶり者)にしよって……」
0788 ふいに、0789妹りよが激しく泣きじゃくった。
0790「叔母さん、0791狂うちゃった」
0792 こわばった顔を見合わせながら、0793誰も否定はできなかった。
0794 祖母の語る所では、0795四、0796五日前、0797伯父の喜兵衛がゆりをたずねて来て、0798「お前がそれほど好いた男なら、0799むさんこ(むやみ)に反対しても無駄じゃろう。0800ほいでも世間体があるさかい、0801そっと河守へ行って、0802噂のしずまるまで待っとれ。0803そのうち株内の者と相談して、0804きっと晴れて添わしちゃるでよう」と、0805やさしくすすめてくれた。0806ゆりは狂喜して、0807その日のうちに男の元へ行ったという。0808それが今日になって、0809近所の者から急報があった。0810親戚どもがゆりの留守宅から家財を運び出そうとしているので、0811組内の者が見かねて一応止めているとのこと。0812ゆりを追い払って、0813まんまと出口家の財産を横領する企みだったのである。0814だまされたと知ってかっとなったゆりは、0815綾部に戻る前にまず福知山まで告げに来たという。
0816 母は無理に微笑んでみせた。
0817「お直になあ、0818出口家の跡をついで先祖の祭だけは絶やさんでおくれ言うて、0819うだうだ頼んでいっちゃった」
0820「また……いややなあ。0821あれだけちゃんと養女の話はおことわりしてあるのに。0822それに出口家には、0823豊助はんという立派な養子はんがおってですわな」
0824「ほいでもやっぱり、0825身内のお直に祀ってもらいたいげな。0826豊助さんの嫁になってほしいと……」
0827 母は眉をひそめた。
0828「なしたまあ……」
0829「だんない、0830ほっときなはれ、0831お直は林助さんとの結婚のことだけを考えてたらよい。0832大体、0833喜兵衛さんといい、0834ゆりさんといい、0835欲しんぼすぎるばい」
0836 母は祖母の前に身をちぢめてつぶやいた。
0837「兄妹どうしの争いはまるで地獄……恥ずかしゅうてかないまへん」
0838 妹が母にすがって、0839心細げに言う。
0840「でも叔母さん、0841あんなに取り乱して、0842別条(べっちょう)ないじゃろか」
0843「死ぬ死ぬちゅう奴に死んだためしはないわいな」と祖母はにべもない。
0844 その夜はむし暑く、0845誰もが寝苦しげに転々とした。0846明け方、0847りよがうなされて、0848すすり泣いた。
0849 出口ゆりの死体が発見されたのは二日後であった。0850ゆりが桐村家を訪ねてきた日の晩、0851河守の茂作の家の前で彼女らしい姿を見た者がある。0852福知山からその足で河守まで引き返したが、0853取り乱した姿を恋人に見せるのを恥じ、0854ひそかに別れを告げたのち怨念を引きずってさまよい歩いたのであろう。
0855 死体は志賀郷(しがさと)(現綾部市志賀郷町)の野井戸に沈んでいた。
0856 享年五十歳
0857 出口ゆりの死は直の人生を変えた。0858出口家を戸閉めしたまま放置もならぬ。0859錯乱のゆりの心理状態をあらわすように庭も荒れほうだい、0860家の中も雑然としていた。0861怨念を残して憤死したゆりの霊も祀らねばならぬ。0862養子の豊助はまだ年季が終っていない。0863今までの因縁から言っても、0864当座、0865直が出口家を管理する責をおわされた。0866直は単身、0867綾部へ移った。
0868 綾部は京都へ二十二里、0869大阪へ三十里、0870福知山へ三里。0871丹波高原の中心に位する福知山盆地の東端につらなるところ。0872由良(ゆら)川の上流和知(わち)川は激しく山裾をかんで下る急流、0873山家(やまが)を経てようやくゆるやかとなり並松(なんまつ)の景勝をつくりつつ西にめぐる、0874そのあたりに小さくひらけた聚落が綾部。0875由良川にのぞんで西に本宮(ほんぐう)山、0876それと並んで町の南には藤山、0877四尾(よつお)山が壁のようにそそり立っている。0878山と川と丹波路のあいまに生まれた、0879細長くつつましやかな城下町である。
0880 綾部町は、0881寛永十(一六三三)年、0882藩祖九鬼(くき)隆季(たかすえ)が下市場に陣屋を築いたが、0883慶安三(一六五〇)年に焼失、0884翌四年、0885本宮山を中心に陣屋と武家屋敷をつくったのが始まりである。
0886 隆季の祖父は九鬼嘉隆で、0887豊臣秀吉の朝鮮出兵のさい、0888水軍の総督として偉功をたてた。0889徳川家康は九鬼一族が水軍に練達、0890威力を蔵するのを恐れるあまり、0891この丹波の山奥綾部の地に隆季をして転封せしめたのである。0892以後二百七十余年、0893九鬼氏は綾部二万石を領し、0894十一代を経て明治維新を迎えている。
0895 直が綾部に嫁入った頃の藩主は、0896九代の九鬼隆都(たかひろ)であった。0897隆度(たかのり)が病身で藩政をとることができず政治が大いに乱れたので、0898文政五(一八二二)年、0899二十三歳で藩主となり、0900家老以下の役人の粛正から改革の手をつけた。0901隆都は単なる並び大名でなく、0902内外多事の藩政を改革した歴代中の英主でもあった。
0903 当時、0904幕府は隆都の存在を高く評価し、0905一再ならず幕府の公職につかせた。0906隆都は文政六(一八二三)年以来、0907日比谷御門番、0908公家使節接待役、0909江戸城警備の統率役である大御番頭、0910京都二条城在番をへて以後もたびたび京都、0911大阪で番頭をつとめている。0912また人道的な政治家であり、0913たとえば天保の飢饉の時など、0914藩は高値の他国米を買い入れて救民に専念し、0915領内からほとんど餓死者を出していない。
0916 九鬼の鬼は、0917正確には角のない〈〓〉という字であるが、0918ここでは鬼の字を使用することにする。0919綾部には、0920昔から妙な風習がある。0921節分の豆まきの時、0922「福は内、0923鬼も内」という。0924九鬼家の鬼をはばかったのであろう。0925いや、0926はばかるというより、0927むしろ九鬼の殿さまを慕った、0928領民の素直な心のあらわれであるかも知れぬ。
0929 このように、0930直の来た当時の綾部は、0931天保の飢饉や江戸・京都等の藩邸の火災の頻発、0932隆都の幕命による公務等で藩財政は窮乏していたが、0933藩主と家臣、0934あるいは領民とのつながりの中に、0935温かい情が流れていたものと思われる。0936それは、0937故郷の福知山とは大きな違いであることに、0938のちには直も気づくであろう。
0939 出口家が所在した綾部組坪内(つぼのうち)村は本宮山の麓にあり、0940町家からややはずれ、0941農家と職人の家がぱらぱらと入りまじっていた。
0942 当時の直の思い出は暗い。0943だだっ広い家の中で叔母の位牌を守って只一人、0944夜になるのが恐かった。0945長い間、0946叔母はこうした孤独に耐えきれず、0947茂作にすがったのであろうか。0948直は林助の面影だけを追い求めて忍んだ。0949きっと来年には晴れて結婚できる。0950いや、0951すでに林助は、0952直の心の夫なのだ。
0953 直がいちばん辛かったのは親戚たちへの応待である。0954直が若いのと出口家の様子に暗いのを良いことに、0955遠慮げもなく家へ入りこみ、0956「これはわしとこの物や」と言って高級な家財を運び出したり、0957「ゆりに何両貸していたから金を返してくれ」とか、0958「生前に田を一枚もらう約束があった」と言って、0959勝手に名義を代えたりする。0960ゆりをいじめた出口喜兵衛・出口儀助・出口佐兵衛と言った連中である。0961このままでは出口家の財産はすっかりむしり奪られてしまうと、0962直は気づいた。
0963 ――あんなに財産に執着しとっちゃった叔母さんにもすまん。0964出口家を継いでくれてん豊助はんとやらいう人にも申しわけない。
0965 直はそう心に決めると、0966それからは「どうぞ証文を見せとくれなはれ」と言って、0967親類たちの貪欲な要求をはねつけた。
0968 直はふと大事なことを思い出した。0969叔母が死ぬ前に福知山へ寄った時、0970直に出口家の跡を継ぐことを懇請したのち、0971「河守へ行く前に、0972出口家のたいせつな家宝は、0973みんな近所の研屋(とぎや)兵平(へいぺい)はんによう言うて預けといたで、0974わしにもしものことがあったら、0975直がきっとそれを受けとっといてや」と母に遺言したという。
0976 亡き叔母の執念のこもった品々であろうと思うと、0977うかつに忘れていたことをすまなく思い、0978直は四、0979五軒先の研師の家へ出かけた。0980藁屋根はひしゃげ、0981〈とぎや〉という看板の文字も薄れている。
0982 きしむ戸をあけて声をかけ、0983直が叔母の遺言を告げると、0984刀を研いでいた兵平がきょとんとした顔をつくった。0985まだ若い男である。
0986「そうけ、0987初耳じゃのう。0988わしらあ、0989さっぱり知らんでよ。0990いやいや、0991もしかしたら、0992女房が知っとるかも知れんさかい、0993ちょっと待っとってよ」
0994 主人は奥へひっこむ。0995だいぶたって、0996赤ん坊を抱いた女房の絹を連れてきた。0997絹は初めから喧嘩腰である。
0998「きしょくいこと言うてくれてや。0999ひん、1000預かった覚えのないもん返せやて?……まるで言いがかりやないかいな。1001証文でもあれば、1002出して見なん」
1003 高飛車に言い、1004あとは叔母の悪口をべらべらとまくしたてた。1005そのくせ夫婦とも直の顔を直視しようとはしない。1006これ以上叔母を冒涜されまいと、1007直は慌てて詫びを言い、1008きびすを返した。1009薄暗い陰気な研屋から出ると、1010日ざしがまぶしい。
1011 研屋の女房と叔母はことわけて仲が良かったと聞いている。1012さてこそ信頼して大事な家宝を預けたのであろう。1013それだのに、1014欲がからむと仲の良かった友のことまで悪口になる。
1015 出口家の親戚といい、1016この研屋といい、1017叔母を狂気の自殺にまで追いつめた人間の物欲の果てしなさ、1018貪婪さが恐ろしかった。
1019 出口家に一か月ほどいて庭の掃除や家の中の整理をすっかり終わると、1020もう一刻も綾部に我慢できなかった。1021ここまですれば、1022後は今年一杯で年季明けという、1023豊助にまかせればいい。1024直はしっかりと戸を閉め、1025十一月の寒空の下、1026わき目もふらずに福知山へと向かった。1027背筋がぞくぞく寒い。1028「風邪のひきかけやろか」と直は思う。1029それにしても背中に冷たく重く何かがへばりついているようなこの感覚。
1030 福知山に帰って四、1031五日後、1032直は胸苦しさに目ざめ、1033夢中で蒲団をはねのけた。1034裾の方にぼうっと立っているのは、1035叔母のゆりではないか。1036一筋の光もない暗黒の室内に青白く浮き上がるその濡れた髪から、1037着物から、1038冷たい雫がしたたり落ちる。
1039「お直や、1040お前のおかげで出口家の祭は絶えた。1041あんなに頼んでおいたのに……うらめしいぞえ」
1042 裾から重たくのしかかってきたゆりの氷のような指が、1043直ののど元にかかる。1044もがいてももがいても、1045直の体は金縛りに合って動かぬ。1046動かぬ唇で直は叫んだ。
1047「神さま……一宮はんの……かみ……さ……ま」
1048 凍りかけた直ののどから、1049ゆりの指が一本ずつ離れていく。
1050「おのれ……うらめしや……」
1051 ゆりの滅入った声が(かす)かに遠のくのは、1052ゆりの幽体が遠ざかるせいか。1053直の瞳は磁石に吸いつけられたように亡霊の行方を追う。1054ゆりは裾を乱し、1055髪をなびかせて、1056うつぶせの姿のまま浮上し、1057天井を抜け、1058屋根を越える。1059直の瞳は物理的限界を忘れて、1060ゆりの姿を透視できた。1061ゆりは屋根の上十間ほどを一気に越え、1062突然下降して、1063棟にまたがる。1064たちまち鬼女の形相に変じたゆりは屋根をきしませ、1065瓦をはがし、1066次から次へと直を目がけて投げつける。
1067「今日で三日も四日も、1068茶も水もくれなんだがええ……」
1069 その声が耳の鼓膜を突き刺すように轟き渡り、1070恐怖のあまり、1071硬直した直の体から意識がうすれていく。
1072 そのまま直は四十度の高熱を発して寝こんでしまった。1073医者も原因が分からず見離した。1074一時は死亡の噂がとんで香奠(こうでん)まで届けられた。
1075(おっとろ)しや、1076おゆりの死霊の祟りじゃ」とたけは断言する。1077だが祈祷師を招いてお祓いしても何の効果もない。1078寝こんでから数日がたつと、1079誰の目にも直の命が旦夕(たんせき)に迫っていることが見てとれた。1080それほど衰弱が激しかった。1081家族の者はひたすら神に祈って、1082ただ暗涙にむせぶばかり。
1083「ちょっと見てみなん、1084お直が何か言いたげなで」
1085 枕頭に座したたけの声に、1086そよもりよも身を乗り出した。1087急報により中村から駆けつけた林助も、1088真剣に直の口元を凝視する。
1089 直がもどかしげに熱でひび割れた唇を動かそうとする。1090そよが綿に水を含ませ、1091拭ってやる。
1092「ゆ、1093ゆるして……わたしには……夫が……」
1094 痩せ衰えた直の手が空をつかむ。
1095「お直はん、1096わしじゃ、1097林助じゃ、1098分かるか」
1099 直の手を林助はにぎりしめる。1100しかし直は強くそれを拒み、1101
1102「いや、1103それだけはかんにん……綾部へは……」
1104 ううっと苦悶のうめきが上がり、1105直は身もだえる。
1106「たすけて……林助はん……りんす……け」
1107 直の両手が切なく宙をさまよい、1108視点の定まらぬ目を見ひらいて林助を求める。1109もどかしく林助は直の体をかき抱き叫び続けるが、1110直の魂魄(こんぱく)はどこをどうさまようのか、1111手応えもない。
1112 男泣きする林助に、1113りよも涙にむせんで口走った。
1114「あ、1115あんまりや、1116ゆり叔母さんは。1117姉さんから林助はんを奪るつもりや。1118どうでも綾部へ帰なしたいのや」
1119 障子の桟が音を立てて倒れかかり、1120行燈の炎がぼうと燃え上がった。1121たけが夢中で念仏を唱える。
1122 りよの目はすわり、1123激しくわななきながら見えぬゆりの霊に向って叫んだ。
1124「わたし、1125りよです。1126叔母さん、1127姉さんには林助はんがおってや。1128叔母さんかて、1129好きな人とむりに離される苦しみは、1130よう知っとってのはずや。1131そうや、1132わたしが出口へ行く。1133豊助はんのお嫁になったかてかまへん。1134そやさかい……」
1135 風もないのに行燈の炎が大きく揺らいで消え、1136闇の中で直が悲鳴を上げた。
1137「わるいのはわたし……」と直はうめき、1138「林助はんを……のろうのだけは……やめにして……」
1139 直の体が林助の腕の中で激しく痙攣を始め、1140断末魔の絶叫がそののどを裂いた。
1141「叔母さん、1142わたし……綾部へ行く……」
1143 林助は悲愴な声をしぼり出す。
1144「わし、1145お直はんをあきらめる。1146わしの体はどうなっとしとくれ。1147そやさかい、1148どうぞお直はんの命だけは助けたっとくなはれ」
1149 林助の頬には、1150涙が止めどなく伝わり落ちていた。
1151 遠くから誰かの呼ぶ声が聞こえ、1152その声をたよりに暗黒の海を泳いで岸にしがみつく。1153幾つかの影が揺らぎ次第に焦点がしぼられると、1154懐かしい顔があった。
1155「ああ、1156こわかった」と直がか細い声で言った。
1157「おう、1158気がついた」とたけがしゃがれた声をしぼり出す。1159眼を泣き腫らした母を見、1160妹を見、1161そして林助を見て、1162直は弱々しげな微笑を送った。1163林助が膝の上に揃えた拳をにぎりしめ、1164耐えきれずに嗚咽した。
1165 直がやっと病床から離れたのは、1166臥床(がしょう)後四十日目であった。1167秋も過ぎ、1168何かとせわしない年の暮になっていた。
1169 愛ゆえに別れた林助への思慕は深く沈潜し、1170その後の直の生涯かけて、1171(かげ)りを添えずにはおかなかった。