霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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新米審神者

インフォメーション
題名:05 新米審神者 著者:出口和明
ページ:153 目次メモ:
概要:浅野和三郎は鎮魂帰神や筆先の解読など大本の活動に本格的に取り組み出し、綾部に移住することを決意する。 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2018-10-16 03:22:45 OBC :B138911c05
0001 王仁三郎が村野龍洲を連れて横須賀を去ってしまってから、0002浅野和三郎の真剣勝負が始まった。
0003 常陸国(茨城県)の南端に生まれ、0004一高から東京帝大英文科へ――浅野は受け持ちの教師であった小泉八雲の下で『帝国文学』誌上に連月創作を発表、0005帝大を出てからは海軍機関学校に招かれて英語教官の任に着き、0006かたわら翻訳や英和辞書の編纂に打ち込んで来た。0007文学士浅野の名は著名であった。
0008 そうした順風満帆の人生航路を過ごした和三郎が、0009四十の坂を越して、0010突如として激しい心境の変化を来たした。0011半生を(つちか)って来た学問や理知や常識ではどうにも割り切れぬ、0012魔訶不思議に出っくわしたのだ。0013黙殺し得ぬまま、0014ついに和三郎は綾部の大本を訪ねて教えを請い、0015さらに王仁三郎を自宅へ招いて、0016神霊世界へ足を踏み入れる首尾となった。
0017 鎮魂帰神という、0018神霊交感の実証法を王仁三郎から手ほどきされ、0019審神者(さにわ)の石笛を授けられたあげく、0020浅野はただ一人手さぐりで修行に分け入る。0021いや、0022それがどんな惨憺(さんたん)たる苦行であるかは、0023温室育ちの彼にはまだ予測もできなかった。
0024 浅野が実験材料に選んだのは、0025霊が感応しやすい宮沢虎雄理学士であった。0026とてつもない高声で口を切り、0027近所隣を驚かせた宮沢であったが、0028その後二、0029三度の王仁三郎の導きで、0030天言通は急速に進み、0031しきりに予言めいたことなどしゃべり出していた。0032気心知れた宮沢なら、0033新米審神者の浅野の手にも負えそうな、0034恰好の神主であろう。0035やはり鎮魂帰神に熱中している宮沢に、0036否やはなかった。
0037 王仁三郎が去った夜から、0038さっそく実験は始まった。0039浅野の書斎で、0040初心の審神者と神主は、0041一対一で向きあった。0042この日まで和三郎は、0043唇が紫色にはれるほど石笛を吹く練習をとげていた。0044不十分ながら、0045音は出た。
0046 心を鎮めて石笛を吹く。0047鎮魂の法をとる。0048その時を待ち望んでいたように、0049宮沢は感応し、0050かっと両眼を開いた。0051その眼たるや、0052平素の二倍はあろうか、0053烱々(けいけい)たる光を放つ。0054型通り組んだ手まで離し、0055居丈高(いたけだか)に膝につき立てる。0056かつてない変貌である。
0057 内心の周章(しゅうしょう)をひた隠し、0058浅野は、0059かろうじて威儀をつくろった。
0060「どちらの神さまですか、0061恐れながらお名乗り願います」
0062「た、0063た、0064た……たけみかづちのみこと……」
0065 障子が震え、0066ぴりりと鳴る。
0067「え、0068あの……出雲の国譲りの神話に出てこられた……」
0069「おう、0070武甕槌命といえば、0071一柱……ほかにおるか」
0072「はっ……」
0073 早くも恐ろしい権幕に呑まれて、0074審神者先生、0075憑霊に頭を下げてしまった。0076いわゆる気合い負けである。
0077 武甕槌命についての乏しい知識をあわてて動員する。0078天照大神の命を受けて出雲に下り、0079大国主命とその子らを説いて国土を奉還させた殊勲者。0080たしか(たけ)御名(みな)(かた)命の手を握って氷柱(つらら)と化せしめたおそろしく大力の武神……たいへんな神さまの御降臨じゃと、0081審神どころか反問の一つ、0082疑いの寸言も入れる勇気など出ぬ。
0083 こうなると、0084憑霊はふんぞり返ってしまった。0085厳然として審神者を見下し、0086かさにかかって命令する。
0087「浅野和三郎、0088そなたは鎮魂の修行一つできてはおらんではないか。0089そんなことで、0090この神界の審神者がつとまると思うか」
0091「はっ……」
0092「この方が、0093これからお前の鎮魂をしてやる。0094そこに手を組み、0095眼をつぶれ」
0096 和三郎はいわれるままに目をつぶった。
0097 主客転倒もいいところ、0098自分のつくった神憑りから逆に鎮魂されるというのだから、0099無気味きわまる。0100「審神者は絶対的権威を守れ」という王仁三郎の注意など、0101逆上した浅野の頭から消しとんでいた。
0102「浅野、0103雑念を去れ、0104なっとらん」
0105 日頃温厚な機関学校の同僚宮沢が、0106穏やかな平常の声とは似ても似つかぬ破れ声で、0107頭からかみついてくる。0108小言を浴びせながら、0109二、0110三十分、0111真っ赤になって鎮魂をする。0112第一回目は、0113いい加減で終わってしまった。
0114 武甕槌命がついていると信ずる宮沢は、0115意気軒昂(けんこう)として毎晩やってきた。0116自称武甕槌命は、0117かかるとすぐ審神者役を浅野から奪い、0118権柄(けんぺい)ずくな態度で、0119しかしねばり強く浅野の鎮魂を繰り返す。0120浅野も、0121武神から審神されると思えば、0122誉れと感激せざるを得ない。
0123 七回目であったろうか、0124浅野の組んだ両手から感覚が退いていった。0125腕・胴・足とやがて総身は存在を失って、0126宙を(ただよ)いだしていた。
0127 ――ははあ、0128これが禅坊主などのねらっとる境地らしい……肉体の無感覚をしっかり客観し得る自己は確かにある。0129待てよ、0130すると霊肉脱離して、0131ぼくは死んだのかしらん。
0132 あたりを見渡そうとすると、0133眼蓋の裏が明るく奥深くなってきた。0134赤や紫が交錯し、0135それが落ち着くと一面に蒼ずんできて、0136晴れわたる秋の夕空か大湖を思わせる。
0137 碧水(へきすい)の中に一点、0138かすかな波紋を描きながら現われた人影があった。
0139「あっ、0140あの方は……」
0141 知っているようで知らぬ顔――どちらからともなく近寄った。0142眼は見合わせなかった。0143年の頃は五十有余、0144豊頬長髯(ちょうぜん)0145衣冠束帯姿、0146やや斜めに眼を伏せたまま、0147その人は少しずつ動いて行く。
0148「ああ、0149どなただったか……」
0150 思いだそうと戸惑ううち、0151早や焦点がはずれてぼやけていく。
0152 ――しまった、0153もう少し、0154もう少し見ておきたい……。
0155と、0156あせる間に、0157宮沢の二拍手が響き渡って、0158現実に引き戻されていた。
0159「誰でした、0160今のお姿は……」
0161 逆審神者の宮沢に向かって、0162浅野はせき込んだ。
0163「ばかっ、0164自分で自分の守護神がわからんのか」
0165 大喝(たいかつ)されて、0166はっとした。0167これが天眼通なのか。0168そして、0169あのお姿が、0170日夜自分を守り導き給う神霊、0171守護神であったのか。0172浅野はこの目で神霊の実在を見、0173その端緒(たんちょ)をつかんだことを、0174宮沢の憑霊に感謝しなければならなかった。
0175 しかしそれからがたいへんである。0176武甕槌命は威張る、0177威張る、0178さすが武断派らしく、0179浅野に絶対服従を迫ってくる。0180心中おそれをなしながら、0181浅野は口返答一つできず、0182万事憑霊の仰せのままとなってしまった。
0183 ある日、0184上村工学士と田中豊頴(とよかい)が来合わせた。0185宮沢理学士は例によって発動するや、0186ふんぞり返って命じた。
0187「上村、0188田中、0189おまえらは今から海軍機関学校に参って、0190めぼしい奴を引っ張って来い。0191即刻招集だ、0192ぐずぐずするな」
0193 二人はびっくりして、0194居合せた将校、0195文官連をかり集めに飛び出していく。0196何事かと集まって来た六、0197七人は、0198日頃おとなしい宮沢理学士に頭から怒鳴りつけられ、0199何が何やら見当がつかない。
0200「さあ、0201これからお前らに鎮魂をしてやるのだ。0202機関学校には、0203この度の御神業に参加すべき重要なる人物が集めてある。0204浅野が総大将、0205宮沢が参謀長である。0206時節は切迫しているのじゃ、0207さあ、0208眼をつぶれ、0209つぶれったらつぶれ。0210ええ、0211姿勢が悪い。0212浅野、0213ぐずぐずせんと手の組み方を直してやれい」
0214 説明も抜きにしていきなり叱りつけるのだから、0215気の弱い者など顔色を変えている。0216友だちをつかまえて宮沢の奴失敬な、0217気でも狂ったんではないか、0218こら危険だぞと構えているから、0219にわか神主たちはちょいちょいうす眼をあける。
0220 とうとう焦れて、0221武甕槌命は、0222一同の頭を平手で一つずつ叩いて回った。
0223「こんなことで立替えの間に合うものか。0224落第だ、0225役に立つものは一人もおらん。0226用はない、0227みな帰れっ」
0228 赤くなって怒っている憑霊の前には、0229和三郎も手がつけられぬ。0230同僚諸氏はそこそこに帰っていった。
0231 機関学校の内部は大騒ぎになった。0232昼間きちんと講義に出ている浅野や宮沢理学士をつかまえて、0233「鎮魂は危険だ。0234催眠術の一種だから発狂してしまうぞ。0235大本を信ずるのもいい加減にせよ」などと忠告、0236攻撃の的とする。0237無論、0238浅野も宮沢も負けてはいない。
0239「あれは発狂ではない、0240霊の発動だ」
0241「霊なんかあるものか。0242君、0243だまされてるんだ」
0244「いや、0245ぼくは確実な体験を握っている。0246神や霊がないという君らこそ、0247物質主義に毒されているのさ」
0248 議論は沸騰し、0249噂は横須賀から東京の海軍省まで飛び火した。
0250 正面の敵ばかりでなく、0251思わぬ伏兵があった。0252宮沢理学士の両親や妻女が、0253心配のあまり騒ぎ出したことである。0254彼らからみれば、0255浅野和三郎が物好きにも鎮魂などという魔術にこり出し、0256宮沢をそそのかして熱中させ、0257ついには半狂人にしてしまったということになる。
0258 審神者の未熟の悲しさで、0259浅野にもおいそれと弁明はできなかった。
0260「こう腹背に敵を受けてはどうにもならん。0261しばらく休止しようか」
0262 浅野は妥協をはかり、0263宮沢を説得して見たが、0264どうしても承知しない。
0265「やっとぼくらは神霊の実在を体得したんだ。0266この霊覚でもって、0267天地の秘奥をさぐって、0268前人未踏の境地を開こう。0269少々荒々しくったって仕方ないさ。0270神懸りと狂人の区別がわからん奴は気の毒なもんだ。0271ほっといたらよいさ、0272そのうち真相が知れるだろう」
0273 宮沢の強気にも増して鼻息の荒い憑霊は、0274数日の後には、0275浅野の鎮魂も待たずに勝手に発動するようになった。
0276「お前のおやじやおふくろは修行の干渉をするから困る。0277どうも(うる)さくっていけない。0278当分は浅野のところに泊まり込んで帰るな」
0279 これが、0280宮沢に対する武甕槌命の御神勅であった。0281宮沢は、0282すぐさま浅野家の書斎に泊まり込んだ。
0283 言いなりに宮沢を何日も泊めておいたのが事態をいっそう悪くした。0284火の手は広まり、0285風説は風説を生んで、0286ついには海軍本省から実情調査の内命が、0287機関学校長木佐木少将の手許まで下るに至った。0288しかし、0289木佐木少将はじめ、0290王仁三郎の説話を聞き一度でも鎮魂を受けたものは、0291見方もまた違っていた。
0292 賛否両論の渦中にあって、0293浅野家では、0294ひるまず夜ごとの修行が続けられた。0295そのうち上村工学士も修行に加わり、0296毎日欠かさずやって来る。
0297 審神者は例によって宮沢の憑霊である。
0298「さあ鎮魂、0299みんな不勉強でいかん。0300浅野の家内も子供もやれ、0301残らず井戸水をかぶるのだ」
0302 十五、0303六間もある深い井戸のまわりに、0304上村工学士と和三郎の家族全員が集まって水をかぶるのだから、0305水汲み役もたいへんだ。
0306「ぐずぐずするな」とどなられっぱなしの女中芳子は、0307必死で釣瓶をたぐる。0308五月の半ばで、0309そう寒くはなかったが、0310井戸は数日後には渇水する。
0311 ずいぶん迷惑なばかげたことも多かったが、0312一週間ばかりの強行鎮魂の効果も捨てたものではなかった。0313上村工学士が口を切ったのも、0314この時であった。
0315「さ……さる、0316さる、0317さる……」
0318 唇をなめなめ、0319低く優しく、0320長いこと「さる」を繰り返す。0321みんな、0322てっきり猿の霊だと思い込んだ。0323それが、0324数回鎮魂しているうちに、0325後の方がまだあった。
0326「さる、0327さる、0328さるた、0329さるた、0330ひこ、0331ひこ……のみ……こと」
0332 語尾が妙にひっつれて「命」で結んだのには、0333一同思わず吹き出した。0334あまりに滑稽なので、0335猿田彦命ばかりは、0336誰も信ずるわけにはいかなかった。
0337 一方、0338浅野家の内側にも幾多の材料が得られた。0339次男の新樹が鯛の骨を喉に立てて取れなくなった時、0340真夜中に芳子が猛烈な腹部の痙攣(けいれん)を起こして苦悶した時など、0341浅野は神力の加護を祈って鎮魂し、0342わずかの間に治した。0343些細(ささい)な体験とはいっても、0344積み重なるに従って、0345それは確信となる。0346好奇心時代、0347びっくり仰天時代が最初の二週間ばかりで経過すると、0348修行はますます真剣に、0349綿密に深まって行く。
0350 宮沢理学士の天言通に対して、0351浅野の妻多慶(たけ)は急速に天眼通が開けていった。0352閉じた目に痛いばかりの鮮紅や青紫が見えたのが数日、0353それから抜け出ると、0354審神者の命ずるままの地が忽然として開けてくる。0355体は目前に坐したまま、0356多慶はいったことのない富士山頂の景色や綾部の産土神社などのありさまを、0357実地踏査しているように細かく語るのだ。
0358 浅野は工夫を凝らして、0359東京在住の知人に手紙を出し、0360一週間、0361毎夕八時の家の中の様子を書きとめてもらうことにした。0362多慶はその時間になると目をつむり、0363東京の知人の宅に想念を集中する。
0364「今、0365御主人が書斎で本を読んどられます」
0366「どんな本です」
0367「分厚い、0368茶色の表紙の本で、0369まだはじめの四、0370五ページのところです。0371あ、0372本を伏せて……奥様が入っていらっしゃいました。0373本の表紙の字は……南朝の研究……」
0374「へえ、0375柄にもない本を読むんだなあ、0376着てるのは洋服ですか」
0377「いえ、0378お二人とも和服です。0379奥様は何かおっしゃってる、0380ああ、0381残念ですけど、0382声は聞こえないわ……」
0383 そんな会話が、0384鎮魂中の多慶と審神者の浅野の間に交わされる。0385一週間の後、0386送ってもらった知人の覚書とこちらの記録を引き合わせて見て、0387寸分違わぬのを認めた。
0388 東京と横浜とは四十(マイル)弱の距離だから、0389千里眼とはいえぬだろうが、0390浅野は次第に距離を伸ばして同じような実験を台湾の友人と交わし、0391さらにはヨーロッパとも試みた。0392肉体の疲れもあるのか、0393決して無制限とはいえぬまでも、0394天眼はよく時間と空間を超越し得ることを確信した。
0395 物質も難なく透視する。0396多慶が来る前にふと思い立って、0397浅野は、0398書斎の若狭塗りの巻煙草入れの蓋をした。0399客用の煙草の吸い残りが何本あるか、0400自分にもわからない。0401鎮魂中の妻の前にそれを持ち出して、0402浅野は命じた。
0403「何本入っていますか。0404巻煙草の数を教えて下さい」
0405 五、0406六分過ぎてから、0407鎮魂を止めて聞く。
0408「どうだった、0409箱の中は……」
0410「変でしたよ、0411わたしの目には白木の小箱が見えました。0412形はこれのようですけど、0413木目がはっきりしてました」
0414「内側は見えないのかい」
0415「ええ、0416蓋がしてありましたから……」
0417「なんだ、0418あまり早く止めすぎたんだ。0419塗ってある漆を通っただけで、0420木箱を通過する力がまだなかったんだよ。0421やり直し」
0422 今度は念入りに約三十分。
0423「よく見えました。0424十七本ありますわ」
0425 蓋を取って勘定して見ると、0426きちんと十七本の敷島が入っていた。0427木箱や茶壺くらいは、0428その後、0429実験を繰り返すごとに早く確かになっていた。0430この分では、0431人体を透視して病根を探るのも、0432さして難事とは思えぬ。0433その上、0434現界の物事ばかりではなく、0435顕幽界を突破して、0436神霊世界との直接交流もできるだろう。
0437 浅野は、0438熱した心で思う。
0439 人間誰しも、0440自己の感覚を標準としたがる。0441肉眼に見えぬから存在せぬなど、0442幼稚な空理屈も、0443もうおしまいだ。0444肉眼などは安物の眼鏡だ。0445望遠鏡や顕微鏡を借りてさえ、0446無と思ったものが有になる。0447まして霊的修行の結果は、0448人間の体的五感の他に、0449霊的五感が新たに加わってくるのだ。0450五感と五感で十感となる。0451古来六神通力などいうようだが、0452天言・天耳・天眼・天筆と時所位に応じ自在にあやつり、0453一見何の変哲もなげにすましておられる大本教祖や王仁三郎先生が、0454現にこの世に実在するのだ。
0455 多慶はもっぱら天眼専門で、0456今のところ天言は苦手らしい。0457宮沢の大声に恐れをなしたのか、0458初めて口を切った時の息のつまるような苦しさのためか、0459その後も二、0460三度言語を発したなりで止まっていた。0461けれど、0462未知の世界へのあふれるばかりの憧憬と探究意欲は、0463燃え上がるばかりである。0464どんな嘲笑悪罵も忠言も、0465もう自分たち夫妻を元の時点に引き戻すだけの力はないだろう。0466それでいいのだ……。
0467 日夜に起こる神霊研究への満足は深かったが、0468他方、0469失敗に対する苦心痛慮(つうりょ)も辛かった。0470宮沢は、0471もう一週間も浅野家から学校へ出勤している。0472本人の宮沢も弱り、0473浅野も迷惑だったが、0474帰ろうとするものなら憑霊がどなり始める。
0475「いかんと言ったらいかん。0476浅野、0477宮沢を預かっておけ」
0478 ずいぶん無茶だと思いながら、0479板ばさみとなって苦しんだ。0480宮沢家からは、0481のっぴきならぬ談判が来る。0482殊に母堂は、0483涙ながらに浅野にかきくどく。
0484「当人はまるで狂人みたいに、0485母親の言うことなど受けつけてくれません。0486嫁も可哀想でございます。0487このまま家へ帰らなくなってはどうしましょう。0488どうか一旦帰宅させて下さい。0489あなたからおっしゃって下さらなければ、0490もう私どもでは……」
0491 浅野は武甕槌命とぶつかる覚悟を決めた。
0492 夕食後、0493何気なく浅野は言った。
0494「宮沢君、0495いっぺん家へ帰ってみた方がよくはないか……」
0496「ぼくもそう思うんだが……」
0497 言いもあえず、0498宮沢の頬は赤くなり、0499眼はぎらりと光る。
0500「何べん命じたらわかるのだ。0501あのおふくろに泣きつかれては修行どころかい」
0502 もうその声は宮沢ではなく、0503憑霊自身なのだ。
0504「いや、0505お言葉ですが、0506それではいつまでたっても解決はつきません。0507宮沢君の家族が怒るのも当然です。0508家族を説得して神の道に目覚めさせ、0509それから修行に入るのが順序ではありませんか。0510一度説得のために、0511宮沢君を帰してやって下さい。0512ぼくの立場もあります」
0513 浅野は必死だった。
0514「うむ……」
0515 やや考えて、0516憑霊は案外素直に折れて出た。
0517「よし、0518それなら今から行って、0519みんなを信仰に導いてやろう。0520浅野も同道せい」
0521 午後八時頃、0522二人は連れ立って宮沢家へ行った。0523浅野家とは七、0524八丁隔てた佐野の練兵場の脇の丘の中腹である。
0525 道々、0526宮沢は穏やかに「うまく親父がわかってくれればよいがなあ……」などと言ったが、0527雲行きはそんなに甘くなかった。0528浅野の挨拶に出てきたのは父親だけ、0529妻女など、0530気味悪がって顔も見せぬ。0531宮沢は平静の温顔はどこかへ消し飛んで、0532苦り切った顔で父親に対した。
0533 まず浅野は頭を下げる。
0534「御心配をおかけしまして、0535すみませんでした。0536いろいろ事情に行き違いがありまして……」
0537「行き違いとはどういうことです。0538一体どんなわけがあって、0539伜は一週間もあなたのところにいたのですか。0540まずその理由から伺いましょう」
0541 まるで、0542無理やり子供を閉じ込めて帰さなかったと言わんばかりだ。0543といって、0544御神勅の結果だなどともいえぬ。0545仕方ないから、0546浅野は神懸りの説明から始める。0547父親は頭からぴしゃっと言った。
0548「いや、0549神懸りなら私もよく存じてますよ。0550行者などが御幣を振り回して、0551くだらん事をやる。0552愚婦愚民が迷わされて、0553ありがたがるだけです。0554それを人もあろうに帝大まで出て相当学問したあなたが……」
0555「待って下さい。0556大本の鎮魂は、0557そんな稲荷下げとは違います。0558日本固有の天授の神法で……第一、0559目的からして……」
0560「さあ、0561近頃の伜を見たらどうです。0562まるで狂人だ。0563先夜も同僚の方々を呼びつけておいて、0564まことに失礼なことをしたそうで、0565面目も何もあったもんじゃない。0566今日限り、0567伜を巻き込むのは止めて下さい。0568とんでもない不心得だ……」
0569 二人の押し問答を黙って聞いていた宮沢が、0570この時、0571真っ赤になって怒鳴り出した。
0572「不心得とは汝のことじゃ。0573だまれっ」
0574 一喝したのは、0575むろん宮沢本人ではない。0576憑霊のせいなのだ。0577しかしそんなことなどわからぬ父親は、0578伜に負けず真っ赤になってどなり返した。
0579「おのれ無礼な。0580親に向かって今の言葉は……」
0581「馬鹿もん。0582この方は武甕槌命であるぞ。0583注意して口をきけい」
0584「な、0585なにをぬかすか。0586お前は、0587お前は……」
0588 二人は立ち上がり、0589つかみ合わんばかりとなった。0590あわてて浅野が中に入る。
0591「ま、0592待って下さい、0593お父さん……いや、0594宮沢君……の守護神、0595わけのわからぬ人間相手に怒られるとは大人気ない。0596何と言っても相手は宮沢君のお父さんではありませんか。0597まずちょっとお坐り下さい……」
0598 こうなっては、0599審神だか喧嘩の仲裁だか、0600わかったもんではない。0601おまけに喧嘩相手は人間対憑霊であって、0602しかも肉体的には親子ときている。0603弱りながらもなだめつ、0604すかしつ、0605双方を坐らせた。0606しばらくは荒い息を弾ませて、0607無言のにらみ合いが続く。
0608「さてさて、0609人間というもんは、0610何とわけのわからぬ。0611やむを得ない、0612このほうが予言をしてやろう。0613あたれば神の言うことを信ずるか」
0614 撫然とした口ぶりで、0615憑霊がいう。
0616「予言……それが当たればたいしたものだ」
0617 父親は鼻であしらう。0618憑霊はいきり立った。
0619「疑うか、0620こいつ」
0621 浅野が、0622あわてて脇から口を添えた。
0623「まあ、0624お父さん、0625相手が息子さんと思えばお腹も立ちましょうが、0626せっかくああ言っているのです。0627ちょっとそれをお聞きになってはどうです。0628ひとつ神力というものを、0629この際しっかり見せてもらおうじゃありませんか。0630さもないと、0631人間は誰も信仰などしませんから」
0632 父親もやっとくだけた表情になって、0633
0634「それもそうだ。0635わしだって、0636無茶に反対するのではない。0637これは不思議だ、0638ありがたいとわかったら、0639よろこんで信じますよ。0640ただ伜のように、0641やたら怒鳴るのではもっての他だが……」
0642「そうか、0643よしわかった。0644そんなら明日から三日間の天候でも教えてつかわそうか……」
0645 案外気軽に憑霊は言い、0646目をつぶり、0647首を傾けて、0648
0649「晴れ・晴れ・小雨だ。0650雨は三日後の朝のうちから降り出すはずじゃ。0651他に知りたいことは……」
0652 何を注文すべきか、0653浅野はちょっと当惑した。0654二、0655三日後の天気の予報なら、0656百発百中はずれたことのないのはすでに何度も実験済みであったし、0657また、0658この憑霊の数理的頭脳の正確さも充分知っている。0659宮沢理学士の守護神として、0660応分の才能なのであろう。0661難解な数学の試験など運算なしでいきなり答えを出し、0662一つとして違わぬのだ。0663この実験は宮沢自身を驚かせ、0664ますます信頼の念を深めさせていたのだから。
0665 浅野は父親と相談して切り出した。
0666「それではお尋ねします。0667ヴェルダンは今度陥落するでしょうか」
0668 ヴェルダンは第一次大戦中の英独両軍の激戦地で、0669当時ドイツ皇太子軍は、0670全力をあげてヴェルダン要塞に迫っていた。0671新聞の外国電報はむろんのこと、0672海軍機関学校での噂も、0673この勝敗をかけた一戦に集中していた。
0674「ヴェルダンか、0675うむ、0676あの運命は、0677もう神界で決まっている」
0678 まるで神界の参謀長と言ったふうに、0679反身となる。
0680「どう決まりました」
0681「陥落する」
0682「いつです」
0683「時期か……」
0684 ちょっと憑霊は言いよどんだ。
0685「来月の十六日……」
0686「六月十六日ですね。0687……発表してよろしいんですか」
0688「それは困る。0689まあ、0690二、0691三の友人ぐらいなら仕方ないが……」
0692 宮沢の父親はうなずいた。
0693「まだ一月ほど先だ。0694それまでは当分、0695信仰問題はお預けですな。0696わしは中立ということにしましょう」
0697 仕方なげに、0698憑霊も宣言する。
0699「それではわしも引き取るぞ」
0700 宮沢の怒った肩が下がり、0701顔色も元に戻って、0702ほうっと吐息をついた。
0703「どうも発動してくると、0704抑え切れないから弱ってしまう。0705ぼくが言ってるのでもないのに、0706お父さんがむきになって怒るんだから……」
0707 平生通りの宮沢の声に、0708妻女もやっと出てきて挨拶する。0709家庭の空気も和らいでくる。0710今夜から宮沢は自宅に帰ることになった。
0711 ――うまくこのまま落ち着けばよいが――八分の懸念に胸を痛めながら、0712一人浅野は夜道を戻ってきた。
0713 翌日登校して、0714浅野は宮沢が一週間の欠勤届けを出したのを知った。0715さっそく家を訪ねてみると、0716昨夜浅野が辞してから、0717また神憑り状態となって無茶を言い出したとかで、0718両親が心配のあまり、0719今朝宮沢を東京へ連れ出したという。0720東京帝大の精神病科の診療を受けさせるはずと言う。
0721 二、0722三日は、0723上村工学士たちと共に不安のうちに過ごしていた。0724三日目に、0725宮沢から便りが届いた。
0726 ――みんなが、0727ぼくを狂人扱いにしているから、0728馬鹿らしいけれど、0729黙って好きにさせています。0730大学病院では○○博士の診察を受けました。0731極度に神経が興奮しているから全治までに約三週間を要すとのこと、0732入院は平に御免こうむって、0733今は親戚にごろごろしています。0734霊の発動は全く止んだので、0735みんな安心したようです。0736この分ならそのうち横須賀に帰れるでしょう。
0737 十日たって、0738宮沢は東京から帰り、0739こともなく出勤してきた。0740無罪放免であった。0741 浅野はほっと安心したものの、0742大本の道を天下に布き、0743世人を霊に目覚めさせることの至難さを、0744どんなに痛烈に感じさせられたかわからなかった。0745宮沢のいなかったこの間の心痛を、0746誰にわかってもらえよう。0747それでもこりごりだからもう止めようという気にはなれなかった。0748思いは宮沢も同じであった。
0749「まるで罪人扱いなんだから、0750ひどいもんさ。0751とうとう今後、0752浅野さんところへは絶対行かないと誓わせられてしまった」
0753「残念だが、0754しばらくは仕方ないさ」
0755「まさか、0756ぼく一人除け者にする気じゃないだろうね。0757朝早く寄る手もある。0758出勤前に来るから、0759こっそり鎮魂をしてもらえませんか」
0760「さあ、0761もし見つかったら、0762また一騒動なければなるまいがね、0763なにしろ声が凄いんだから……」
0764「その点は、0765ぼくからも神さんによく頼んでみますし……」
0766 宮沢の熱意に負けて、0767二人は男女の密会みたいにあたりに気を使って、0768朝ごとの鎮魂を続けた。0769憑霊もこりたのか、0770発動はぐっと抑えて、0771つとめて平静さを保っていた。0772以前のように野放図な声を張り上げることも、0773乱暴な振舞いもなく、0774もっぱらよき師匠然としている。
0775 鎮魂のたびに、0776和三郎は、0777神霊界の状況について突っ込んだ質問を重ねた。
0778「浅野はまだ『古事記』の読み方が浅いぞ。0779少なくとも五十回は繰り返して読め、0780神名ぐらいは暗記せい。0781そうでなくては審神者はつとまらぬぞ」
0782 憑霊の叱咤(しった)のおかげで、0783浅野は真面目に古事記に取り組んだ。0784わからぬところは、0785宮沢の現われる朝を待って質問した。0786時々逃げをうたれることもあった。
0787「この次までに教えてやる。0788そう質問攻めでは、0789かえってお前のためにならんぞ」
0790 実はこの頃になって、0791浅野は、0792冷静に自称武甕槌命を観察し直していた。0793神格の高かるべきこの神が、0794対等に老人風情と喧嘩する。0795いかに武神といえども短気すぎる振舞い……どこかに背伸びしている風すら見える。0796正神であれば、0797もっと品格が高く、0798落ち着いて、0799どことなく優美でなければならない……あの目玉のぎょろぎょろした動きなど、0800人間世界からいっても高貴とは言いがたい。
0801 疑いは次から次と起こって、0802浅野を不安に陥れた。
0803 浅野は、0804妻多慶の霊眼を活用して、0805ヴェルダンの戦況を見させた。0806もし、0807六月十六日にヴェルダンが落ちねばどうなろう。0808宮沢の予言した三日間の天候は的中した。0809その時点では、0810浅野は宮沢の憑神を信じていたから、0811兄浅野正恭(当時少将)や二、0812三人の友人にその予言を漏らしていたのだ。
0813 多慶は赤土の丘陵、0814塁々たる死屍(しかばね)を越えて突撃するドイツ軍、0815その他戦場の局部局部を、0816手に取るように語ってくれた。
0817「どうだろう、0818落ちるだろうか。0819戦いの経過を、0820文字ででも知らしてはもらえまいか……」
0821 多慶は守護神に向かって目をつぶった。0822やがて祈り終わり、0823
0824「あなた、0825陥落の字はありません。0826ただ白地の長い旗が見えて、0827それに大きく『攻』とあります。0828この意味は……」
0829「攻めるが落ちぬ……かも知れん。0830宮沢君の予言はどうやら怪しいようだ……」
0831 おずおずと多慶が言った。
0832「わたしもこの頃そんな気がしますの。0833鎮魂している時、0834ふっと宮沢さんの守護霊が見えますけど……あれは神さまかしら。0835私には何だか天狗さんみたいに思えますが……」
0836「天狗?」
0837 息を詰めて、0838悲しげな多慶の眼を、0839浅野はのぞき込んだ。
0840 恐れていた日がやって来た。0841六月十六日、0842いかにあせっても新聞には陥落の報などない。0843十七、0844十八日と待っても無駄であった。0845あの予言は嘘だ、0846だまされたのだ……信じて外に漏らした己れの不明が恥じられて、0847浅野はいたたまれなかった。0848未熟な自分への嘲罵(ちょうば)はかまわぬにしても、0849それが神霊への否定、0850大本への信用にかかわることは耐えがたい。0851浅野の胸は慚愧(ざんき)・悔恨・落胆・憤怒に渦巻き乱れた。
0852 二十一日まで、0853こらえにこらえて、0854ようやく浅野は決意した。
0855 ――今日こそ、0856あの偽神をとっつかまえて、0857何が何でも化けの皮をはがしてやらねばならぬ。
0858 折も折、0859二月に去ったきりの飯森中佐と福島久が連れ立って学校へやって来た。0860浅野は心強い思いで、0861いっさいを打ち明けて相談した。0862久は言った。
0863「それはきっと天狗か何ぞですわいな。0864わたしに一度鎮魂させておくれなはれ」
0865 午後二時、0866二人は宮沢を連れて学校を出ていった。0867浅野はとび立つ思いを抑えて、0868あと一時間、0869授業の都合で残らねばならなかった。
0870 放課後、0871急いで帰宅し、0872和服に着替えて書斎にとんでいった。0873福島対宮沢の鎮魂はすでに白熱化している。0874浅野は声を呑んだ。0875とんでもない鎮魂であった。
0876 宮沢は立ち上がり、0877威圧的にのしかかっていく。0878久も負けてはいない。0879下からがっちり受けてこれも中腰、0880武者震いして応戦する。0881双方手は組んだままながら額と額はがっちり合うてうんうん押しっくらとなった。
0882 浅野は激しく立ち騒ぐ魂を押し鎮め、0883下腹に力をこめて鎮魂の形をとり、0884必死に神助を祈った。0885それから我ながら奇妙に改まった声を上げる。
0886「拙者が審神者を致す。0887福島どの、0888しばらくお控え下されい」
0889 二つの体は、0890さっと分かれてとびすさった。
0891「それならば、0892審神者はあなたに……」
0893 久の息も絶え絶えである。0894宮沢は陣容を立て直して、0895浅野に向かった。0896浅野はぎょっとした。0897体のしびれるような凄い圧迫感、0898日頃の二倍三倍にも宮沢の体が大きくなって見える。0899火を吹くような両眼、0900逆立つ髪、0901真っ赤な顔に憤怒をみなぎらせて、0902つかみかからんばかりである。0903逃げるに逃げられぬまま、0904浅野は胆を据えた。
0905「どなたであるか。0906お名を伺いたい」
0907 返事はなかった。0908ぐいと唇をひき結び、0909息づかいも荒々しく、0910じりじり詰め寄ってくる。0911浅野は叫んだ。
0912「何故返事をなさらぬか。0913審神者の要求にも答えられぬとは、0914一体どなたでござる。0915名乗られい」
0916 いっそう(かたく)なに黙りこくって、0917宮沢は仁王のような握りこぶしを突き出してきた。0918和三郎は坐っているのに、0919向こうは中腰で進んでくるのだ。0920顔面一尺のところで、0921そのこぶしは震えている。0922そのまま、0923長い長い、0924果てしのない睨み合いとなった。
0925 気の遠くなるのを励まして、0926浅野は声をしぼる。
0927「あまりに無法……その態度は何であるか。0928いやしくも神ともあろうものが腕力沙汰に出ずるとはもっての外、0929疑わずにはおれぬ。0930現にあなたは六月十六日と日を切ってヴェルダン要塞陥落を予言されたが、0931見事失敗したではないか。0932でたらめではなかったか。0933それでも神と言えるか。0934さあ正体を現わして本名を告げい」
0935 はち切れんばかりの怒気は、0936眼と眼、0937鼻と鼻とぶつかるばかりに切迫する。0938もう息苦しさにがまんできぬ。0939やけくその勇を振って、0940浅野の方から体当たりを喰らわしていった。
0941 あっと、0942浅野は目を見張った。0943がしんと火花が散って投げとばされるかと思いの外、0944相手はふっと一間ばかりもとび退いたのだ。0945ふくれ上がっていた風船の気が抜けたように、0946忽ち宮沢は小さく見えていった。
0947 それからの浅野は勇気百倍、0948追究に追究を重ねて一時間余、0949全霊を指先にこめて存分に相手を攻め抜きやり込めた。
0950 武甕槌命とは偽りの名、0951まことは、0952これから神界に奉仕せんとする名もなき天狗であること、0953あの予言は追いつめられたあげくの苦しまぎれのでたらめであること、0954けれど決して悪意あってしたのではない、0955何とか浅野夫妻や神界のためお役に立ちたい一心であったことなど、0956とつとつとして弁明につとめる。0957初めの権幕の凄じさはどこへやら、0958だんだんにしょげ返った天狗さんは、0959浅野の言うなりにうなずくばかり。0960いささか気の毒になって、0961浅野はこう言い結んだ。
0962「あなたは私たちにとっては恩師である。0963おかげでずい分貴重な勉強をさせてもらいました。0964けれどその恩義のために、0965罪悪を黙認するわけにはいきませぬ。0966人間が幽界の事情に暗いのに乗じて真実を曲げ、0967嘘を教える、0968だますなど許されぬことである。0969そのために、0970宮沢家に加えた迷惑など甚しい。0971今後はまだ機縁の熟さぬ宮沢氏の両親に向かって、0972決して焦った行為をとらぬよう、0973断じて口を切らぬことを希望します」
0974 二拍手と共に、0975天狗は去った。0976セルの夏洋服の上まで汗を滲ませていた宮沢は、0977我にかえった。0978しばらくは一同、0979無言で顔を見合わせた。
0980 この時を境に、0981宮沢は、0982強烈なる意志をもって天狗の霊の発動を押え切った。0983時には宮沢は浅野と顔見合わせて、0984例の天狗さんをなつかしみ苦笑しあうことすらある。0985 のど元過ぎれば、0986その折の苦しさ、0987熱さも忘れるものか。0988相変わらず宮沢は、0989機関学校で理学を教授しながら神霊世界への探究は捨て得ず、0990その方面の本などをあさっている。
0991 浅野は、0992この息づまる五十日余の霊的体験を通して、0993たいがいのことには驚かぬ修練だけはできたと思った。0994その上審神者としての貴重なる心得は、0995魂にしみわたっていた。
0996 ――神がかりの言は決して軽々しく信じぬこと、0997予言めきたることは絶対に避け、0998かりにも外界に吹聴すべからざること、0999審神者の役目は神聖にして貴重、1000断々乎として之にあたるべきこと等である。
1001 六月二十五日、1002王仁三郎らが神島に参拝、1003神霊をお供して帰綾(きりょう)してから、1004宣教意欲はますます盛り上がった。1005七月三日、1006直霊軍の別働隊として、1007青龍隊が組織される。1008皇道大本を宇内に宣揚し、1009大本教祖の神示を宣伝することが目的で、1010隊員資格は、1011二十歳より三十五歳までの青年であった。1012大将以下少将まで、1013さらに準士官を置く軍階制で、1014少将以上は教主が任命し、1015以下は互選である。
1016 結成当初は少佐が最高位で、1017宇佐美武吉であった。1018大尉は西谷正康・佐藤尊勇(忠三郎)・瑞穂玖仁靖となっている。1019隊長は宇佐美武吉少佐が任命された。
1020 待ちこがれた夏休みがやって来た。1021大正五年七月二十九日、1022浅野和三郎は単身綾部への車窓にあった。1023五十日余の霊的荒療治を経て神霊世界に体当たりし、1024謎のいくつかを解いた。1025神の実在・霊魂の存在・神人感合・霊示霊覚の実際などが、1026ここ半年足らずの間に急流のように浅野を洗い流した。
1027 浅野は変わった。1028思想・感情・趣味・嗜好まで自分でも信じられぬだけの変わりようを遂げてしまった。1029大本を知る前と後でも、1030別人と言ってもよかった。1031もっとも、1032それは俗世間から見れば、1033気が変になったと言うことらしいのだが……。
1034「あなた、1035どうぞしっかり調べてきて下さいまし。1036分かりましたら度々お便りを……」
1037 別れ際の妻多慶の真剣な眼色が思い浮かぶ。1038二度目の綾部行きの目的は、1039大本の真髄と言うべき一万巻の筆先の研究一点にしぼられていた。1040浅野は、1041自分ら夫婦のとったこの方針について満足していた。1042神・霊魂の有無さえ分からぬ学者に、1043何で筆先を論評する資格などあろう。1044半生の物質中毒の垢をようやく洗い落した今こそ、1045心を低くして神慮に接することが許されるのではないか。
1046 浅野は、1047十年をかけて、1048こつこつと積み上げてきた英和辞書編纂の事業をふっと思い出した。1049数人の助手を使い、1050少なからぬ月日と労力をもって、1051Tの個所まで終わったところであった。1052それまでに費やした辛苦からみれば、1053あと一息で完成にこぎつけるはずなのである。1054思い出した――というのが実感であるほどに、1055いつか浅野はその仕事から遠のいていた。
1056 ――惜しいけれども仕方ない。
1057 汽車の振動に身をまかせて、1058浅野は眼をつむった。1059惜しいと言う残り滓まで捨ててしまいたかった。1060今、1061自分の前に置かれた一万巻の筆先の謎を解こうという新たなる使命感に比べれば、1062辞書編纂など、1063いかにも味のない、1064つまらぬ仕事でしかなかった。
1065 横須賀の支部長田中豊頴に私用を頼まれて、1066彼の縁家である園部の奥村徳次郎宅に立ち寄った。1067奥村宅の裏の離れ座敷は、1068明治三十一、1069二年に上田喜三郎――つまり現大本管長出口王仁三郎の拠点であった話を聞いて、1070浅野の腰は据わった。
1071「あの方が手前どもに居られなはった時分は、1072まだほんの若々しい、1073子供じみたお人でございましてなあ……」
1074「へえ、1075ほんまに。1076けど、1077あの喜三やんの霊術言うたら、1078現にこのわたしが……」
1079 奥村老夫妻がこもごも語り出す話の面白さに引き入れられて、1080浅野は離れに一泊、1081その夜は二十年前、1082園部霊学会当時の喜三郎の思い出語りに更けていった。
1083 翌三十日綾部着、1084王仁三郎夫妻はじめ飯森中佐、1085京都の福中中佐らが待ちかまえていた。1086浅野の夏休み滞在中の部屋として、1087新建ちの二室が用意されていた。1088そこは西石の宮の傍の建物で、1089龍門館の台所に接する入り口には、1090漬物樽がたくさん並んでいる。1091つい先日まで、1092ここは飯森夫妻の居室であったとのこと。
1093 ともかく机に向かって見たが、1094早速には仕事も手につかない。
1095 じりじりと西日の照りつける暑さにぼうっとしているところへ、1096飯森が顔を出した。1097久し振りに晩飯を共にしようと、1098飯森の並松の新居に連れ立って行った。1099狭い二階家であるが、1100和知川に面していて、1101涼風がまともに室内を洗っていた。
1102「こりゃいい、1103すてきな場所を占めたもんだな」
1104「景色だけが御馳走ですのよ。1105今晩はどうぞごゆっくりなさいませ」
1106 飯森夫人久子がにっこりした。
1107 福中もやってきた。1108酒盃を重ねるうちに、1109話題は海軍のことから大本に、1110横須賀から綾部にと、1111いつ果てるともなく移って行く。
1112 ――大本では自分を待っているだろう、1113早く切り上げんといかんと思いつつ、1114浅野は時を忘れた。1115久子のすすめるままに、1116その夜は三人枕を並べて、1117心地よき和知のせせらぎを子守歌に寝入ってしまった。
1118 翌朝、1119こうしてはおれぬ感じにとび起きて、1120浅野は朝食も食わず、1121急いで大本へ帰った。1122澄がやってきて、1123浅野をつかまえた。
1124「浅野はん、1125『久し振りでお友だちのところへ行かはったんやさかい、1126一晩くらいは……』と、1127うちも言うたんですけど、1128教祖はんはなあ、1129夜っぴて寝んと、1130待っとっちゃったんですで」
1131「えっ教祖さまが……」
1132 浅野は意外であった。
1133「へえ、1134教祖はんより、1135神さまが待ちかねてひどう()いておられますのや。1136今度あんたはんがおいでなはったんは、1137お筆先を調べるという神界の御用のためどす。1138……浅野はん、1139今日からは、1140どうぞ、1141みっちりとお筆先を腹へ入れておくれなはれ」
1142 毅然とした澄の言い方に、1143浅野は涙が滲むのを覚えた。1144ああ悪かったと、1145衷心(ちゅうしん)から神さまと教祖さんにお詫びをしたい気分になった。
1146 早速、1147直筆のお筆先が五、1148六冊、1149三方に乗せられて浅野の室に運ばれてきた。
1150 一冊を机の上に広げて眺めたが、1151いざとなると、1152どうとりついてよいやらわからなかった。1153読める字が少々はあるが、1154大半は判読できないのだ。1155用語・語脈すべてが新奇であるから、1156意味のつながりがたぐれない。1157憮然(ぶぜん)としてみつめることややしばし、1158誰かに一度読んでもらえば分かるだろうけれど……いや、1159それではあまりに意気地ない。1160このお筆先だって、1161誰かが最初に読み出したにちがいない。1162どうやってか、1163とにかく判読できたのだ。1164やってやれぬはずはないのだから……。
1165 ノートを出して、1166丹念に模写し始めた。1167読めても読めなくても、1168一枚一枚写して行くうちに、1169手がかりがつかめてくる。1170難しいと言ったところで、1171いろは四十八文字と、1172いくつかの数字の組み合わせに過ぎぬのであるから。1173どれが何の字という呼吸が、1174二時間ぐらいのうちにどうやら呑みこめてきた。
1175 文字は判で押したように、1176きまった型である。1177半日がかりで一冊を読みあげた。1178疲労と、1179それにも増した喜びが浅野の体内を熱くかけめぐっていた。
1180「暑うおすやろ、1181浅野はん、1182船で散歩に行きまひょ」
1183 その夕方、1184王仁三郎が言い出した。
1185 ――月末には横須賀から浅野和三郎文学士が来られると、1186宮飼正慶は聞いた。1187ひどく場ちがいな気がした。1188英文学者と言えば、1189ハイカラな、1190神さまなどとはまるで縁の無さそうな人種に見える。1191こんな青臭い丹波の山奥へ何だって来るのだろう、1192物好きな人もあるものだと、1193宮飼は思った。
1194 水無月祭りの翌々日であった。1195和知(わち)川に遊船を浮かべて、1196浅野文学士の歓迎会があるという。1197宮飼もさそわれて船に乗った。1198船中で浅野から先に声をかけられ、1199宮飼は、1200あわてて挨拶を返した。1201思ったより無造作な感じで、1202宮武外骨翁の風貌にどこか似ていた。
1203 飯森が櫓を押す。1204上流の水の深いところへ来ると、1205王仁三郎はいきなり素裸になって川へとび込んだ。1206飯森も続いた。1207二人は楽しそうに泳いでいたが、1208やがて船の舳先(へさき)にくくりつけた縄を持って船を曳きだした。1209川沿いの景色は移り変わって、1210かなり上流までたどって行く。1211岸辺の樹木や潅木の影がしっとりと水に浸って、1212凄いばかり青味がかっていた。1213船をそこへつないで、1214涼を入れる。
1215 屋形に下った十ばかりの赤い提灯に火がともった。1216ほとんど飲めぬ王仁三郎も、1217浅野・飯森らと盃を交わしながら、1218嬉しげに談笑していた。1219やがて船は静かに水を分けて、1220元の岸辺へと戻って行く。1221提灯の灯が水に映って、1222赤く波に砕ける。
1223「あなたなどはもうお筆先はほとんど読みこなしておられるでしょうな」と浅野が言った。
1224「いやどうして……」と飯森は、1225(さお)を操りながら答えた。
1226「十分の一もむずかしいでしょう。1227実際読んでみると、1228一日平均五冊はとてもできませんよ。1229まあ十年がかりでないと、1230全部に眼は通せませんなあ。1231そうするうちにも、1232あとがどしどし出る……」
1233 一同はそのまま黙りこくって、1234瀬を切って流れる川の響きに耳をすました。
1235 毎朝祝詞を奏上し、1236夜には讃美歌をうたい、1237折々は阿弥陀経を誦していると言うのが、1238引っ越してからの飯森であった。1239一枚の葉書を三段に書き分ける。1240その中には、1241どっかからとってきたしゃれた英文も挟み込まずにはいられない男なのだ。
1242 一日に数回服を取り替えてめかしこまねば満足できないおれの感覚とも、1243やっぱり似てやがる……と宮飼は観察する。
1244 ところが同じインテリでも、1245浅野和三郎はまた気分が変わっていた。1246あの鼠と蛇の横行するような台所と西石の宮にはさまれた暑苦しい室にこもりきって、1247朝昼晩とうず高く積みあげた筆先を睨んでいるのだから、1248それは宮飼にとってどうにも理解できかねる神経であった。
1249 ちょいちょい顔を出しては、1250「お筆先なんて、1251つ、1252つまりませんよ。1253いい加減になすってはどうです」と、1254忠告してやる。
1255 浅野は充血した目を振り向けて、1256
1257「まあここに坐り給え、1258宮飼君。1259君はせっかく宝の山に居りながら肝心なことは何もつかもうとはせん、1260実に欲のない人だとぼくは思うね……」
1261 卓上のランプには、1262うるさく羽虫の群れがまつわっている。1263蚊いぶしぐらいでは追っつかぬほどのやぶ蚊がぶんぶんしている。
1264「ぼ、1265ぼくは、1266こ、1267こんな宝の山なら、1268ご、1269ごめんですね。1270ぼ、1271ぼ、1272ぼくはとうてい駄目だ」
1273 急いで宮飼は引き下がる。1274その足で並松の飯森宅の二階に上がりこむ。1275すっと汗が引いて行くほど涼しかった。
1276 飯森は新訳聖書を開いていた。1277そう言えば、1278あのジジジと脳髄を焼いてくれるような福島久の丸顔には、1279ここではあまり出くわさなかった。
1280 宮飼は、1281飯森の書棚にある分厚い二冊の書を手にとって、1282ぱらぱらと拾い読んだ。1283『シイクレット・ドクトリン』『アイシス・アンブェールド』のどちらも、1284かつて飯森が熱を上げ、1285渡米しようとして海軍を捨てさせたほどの霊智学の本であった。1286難解な術語や古代語がつまっていて、1287宮飼のおぼつかない語学力では歯が立たない。
1288 いい加減にして書棚に戻してから、1289おやっと思った。1290著者の名が、1291どこかでひっかかったのだ。1292霊智学会の創立者であり、1293非凡なる霊能者として世界に知れ渡った露国婦人ブラバッキー……ブラバッキー……久の白い丸顔が突如目に浮かんだ。
1294「ふ、1295福島のお久さんが……い、1296いつか言っとった、1297あ、1298あれはたしか、1299縮れ毛の女、1300ブ、1301ブラバッキー……」
1302 飯森は聖書から目を上げ、1303傍の水筒に口をつけて冷酒をあおった。
1304「そうさ、1305ブラバッキーさ、1306気がついたかね」
1307 そっけなく彼は言った。
1308 宮飼は口をとがらして、1309吃音の身を呪うようにのどをひくつかせた。
1310「し、1311知ってるんですかね、1312彼女は……」
1313「お久さんは何も知らんさ、1314ぼくは言ってない」
1315「じゃあ……」
1316 宮飼が言わんとするところは、1317飯森には分かっていた。1318昨年の秋、1319肝川(きもかわ)直霊軍分所の旗上式に久と出会って、1320その話に感動した。1321久の求める大広木正宗が、1322はたして自分か否か、1323そんなことは分からない。1324しかし久によって自分の心がしっかり大本に結びつこうとした時、1325悪霊が久を襲った。1326久は飯森の双刃の剣で切りまくった。1327その悪霊はブラバッキーと言う露国の魔女だったと、1328久が告げた。1329飯森は愕然(がくぜん)とした。1330露国の魔女ブラバッキーと霊智学会のブラバッキーは同一人物だろうか。
1331 田舎育ちの無知な久が、1332霊智学会のブラバッキーを知るわけはない。1333古今東西、1334あらゆる霊学・霊術を網羅し、1335巧みな霊的交感法をもって、1336中央アジアの仙人からまで遠隔通報を得るというブラバッキー。
1337 ブラバッキーが世界に卓越した霊的知識をもつことは確かであったが、1338ただ一つ、1339日本に関しての見方がいかにも浅かった。
1340 彼女がもし日本を知ろうとして、1341その超能力を駆使させ、1342あらゆる通報を得んがために動いているとしたら、1343飯森は願ってもない男であったろう。1344そしてまさに渡米寸前の飯森を横からさらったのは、1345大本であり、1346久だったと言える。
1347 飯森は、1348憑かれたように日本の宗教界を遍歴し、1349次々とあさり歩いたここ数年間を思った。1350久に会わなかったら、1351今ごろ飯森は蓄えた知識をもって海を渡り、1352ブラバッキーの膝下(しっか)にあったはずなのだ。
1353 ブラバッキーが真実日本を狙う邪神界の魔女であるならば、1354久から一厘の秘密を聞き出した飯森を、1355どうでも奪い返したかったのでは――。
1356 久と十カ月、1357処々を流浪する間中、1358その考えは飯森に重くねばりついていた。1359荒唐無稽と自らを嘲笑ってみたが、1360あっさりと久に告白することはできなかった。1361いわれのないやましさが、1362いつか飯森の暗い影となった。
1363「じゃ、1364じゃあ金比羅さんで、1365な、1366なんで戦ったんですか……ブラバッキー女史と、1367ひ、1368久女史は、1369いったい……」
1370「さあ、1371知らんね。1372何故だかどうだか知るもんか。1373相手がロシア女なら日本軍人たる俺がお久さんに加勢するのは当然だろう。1374まさか見殺しにもできんじゃないか」
1375 答えながら、1376まだ詮索したげな宮飼の眼をはじくように、1377横を向いた。
1378 ブラバッキー女史の一件は腑におちぬながら、1379どこか秘密な匂いがあった。1380たぐっていけば、1381ドン・キホーテなどとは異質の、1382底知れない穴がありそうだった。
1383 数日後、1384浅野の部屋を訪れた時、1385宮飼はその話を持ち出したかった。1386しかし、1387浅野が納得できるよう説明するだけでも数多くの言葉を要するだろう。1388言語障害の彼にとって、1389それは思うだけでも苦痛だった。1390言い出す勇気も萎えてしまった。
1391 筆先の抜粋をひかえたノートを前に、1392浅野が新しい講釈を始めた頃、1393飯森が入ってきた。1394西日の当る午後、1395三人は早速酒を汲み交わした。1396いけぬ口の浅野と宮飼はすぐ酔って、1397眼をとろんとさせる。1398飯森一人手酌で飲みながら、1399おとなしく口数の少ない平生とは何処となく変わった態度で、1400盛んに意気を揚げている。
1401「どうだい。1402ドリンキングマッチ(のみくらべ)はもういい加減に止して、1403昼寝でもしようじゃないか」
1404 飯森は酔眼をふり向けて、1405うそぶくように巻舌で言い放った。
1406「アイ ヘート ディス オーモト ドクトリン(ぼくは大本教を憎む)。1407アイ キャン ノット ビリーブ(信じることなんか出来んのさ)」
1408 それから宮飼に向きを変えた。
1409「ドゥ ユー リッスン トゥ ミー(おい、1410聞くかい)」
1411 何を言い出すのかと、1412真面目に宮飼は答える。
1413「イエス、1414アイ リッスン(聞きますよ)」
1415「アイ ベッグ ユアー パードン(失礼だが) アイ ディスライク ユー(ぼくは君が嫌いだ)。1416アイディスライク ミスターオニ ミスターヘイゾウ エンド ミスターアサノ(王仁三郎さんも、1417四方平蔵さんも、1418そして浅野さんも嫌いだ)。1419アイ ドント ライク ユー オール(君らみんな好かんのだ)」
1420 吐き出すように言ってのける。1421好い面の皮だと宮飼は思った。1422浅野はただ笑っている。1423飯森はなお言いつのった。
1424「ユー セイ トゥ マッチ インポータンス オン カンガカリ(君は神憑りについて、1425重要そうに言いすぎる)。1426バット イン マイ オピニオン カンガカリ イズ エ ミア イリュージョン(ぼくの意見は、1427神憑りなんて単なる幻想にすぎんということだ)」
1428「ノー カンガカリ イズ ノット アン イリュージョン(いや、1429神憑りは幻想ではない)。1430バット エファクト シュアー ファクト(真実だ、1431真実だ、1432ほんとうなんだ)」
1433 浅野は言い返す。1434二人の間にはげしい神憑り論争が英語で戦わされた。1435黙って聞いている宮飼にも飯森は何か言いかけたが、1436うまく聞き取れなかった。1437仕方なく、1438
1439「ワンス モア プリーズ(どうぞもう一度)」
1440「なんだ、1441まるで機関学校の英会話の稽古じゃないか」
1442 浅野が吹き出したので、1443三人とも大笑いになってしまった。
1444 笑いおさめると、1445飯森は何やら捨てぜりふを投げて出て行った。1446酔いもさめ果てたように仰向けに寝転んで、1447浅野は呟いた。
1448「サムシング リヒール イッツセルフ(そのうち分かってくるだろうさ)」
1449 同感だと宮飼は思った。1450飯森がどんな感情をもってここを眺めているか、1451はからずも今、1452彼の心の底をのぞきみた気がした。
1453 霊智学会に熱狂し、1454今度は福島久を信じて全国布教の旅に出たほどの「夢想家(ドリィマァ)」飯森が、1455何故急にこうも激しく神憑りを否定するようになったのか。1456酒の上での戯れと、1457宮飼は聞き捨ててしまえなかった。1458飯森の内部がどっかで何かに突き当たり向きを変えたのだと、1459宮飼は思った。1460神も霊も信じない、1461いや、1462信じられない宮飼にとって、1463その飯森の変節は好もしいはずであった。1464大本で教える神も霊魂も神憑りも、1465いっさいは彼の言うように単なる幻想(ミア・イリュージョン)で片がつくなら、1466しごく心落ち着くはずではないか。1467 それなのに暮れ方になると、1468宮飼は追いたてられるように外へ出た。1469あてもなく町を出はずれ、1470福知山へ通ずる街道を往ったり来たりした。1471頭が燃えるように熱いばかりで、1472何をどう考えてよいか分からなかった。
1473 ディスライク ユー(お前が嫌い)と言われたことは、1474そんなに意外でもなかった。1475だいたい人に好かれるより嫌悪されることの方に慣れている。1476だから自分は別としても、1477王仁三郎・四方平蔵・浅野和三郎の三人を、1478飯森は何故嫌う。1479福島久の感化に染まって王仁好きになれぬのだろうとは、1480宮飼にも察せられる。1481それほど久は管長とことごとに対立していた。1482けれどそれだけではなく、1483この三人をくるめて共通するのは、1484審神者(さにわ)」というこしゃくな職権ではないか。
1485 広間ではよく病気治しやもめごとの相談をもち込むもののために、1486「お取次」をしていた。1487たいていは四方平蔵が鎮魂をして片づけている。1488型にはまった訓戒の言葉、1489祝詞の調子、1490一種異様な気合の声が広間から響いてくる。1491あの気合が、1492なぜともなくいやで、1493宮飼はあまり近寄らない。1494時には霊が発動して、1495突飛な現象が起こるらしかったが、1496王仁三郎が出て行くまでもなく、1497平蔵の処理にまかされているようだ。
1498 浅野和三郎を大本に導いたのは飯森である。1499彼は浅野にとって道の恩人であり、1500先輩に違いなかった。1501それが、1502わずかの間に、1503浅野は審神者としての霊力を王仁三郎から与えられていたのだ。
1504 夏の初め頃、1505横須賀から帰ってきた飯森が、1506王仁三郎と宮飼に浅野の噂話をしたことがあった。1507浅野が鎮魂帰神をやり出してから、1508ひどく海軍での評判が悪いこと、1509同僚の一人である宮沢理学士を神憑りにして、1510とうとう狂人同様暴れさせ、1511親たちが苦情を持ち込んでいること、1512最後に身振りを入れて飯森はこう語った。
1513「その宮沢さんの子供さんがまた面白い。1514近所の子供らを集めてきては、1515ずらりと並ばせておいて、1516いっせいに敬礼をさせるんです。1517そして頭が高いぞと、1518片っぱしから一つずつ頭を叩いて回る。1519つまり、1520お父さんの真似をやっとるわけですな」
1521 そこで三人とも大笑いした。1522宮飼は笑いながらも、1523話の底にどこやらひやりとするものを感じていた。1524今思えば、1525あの頃すでに審神者――ひいては王仁三郎・浅野への反感を飯森は匂わしていたようだ。
1526 お筆先を信奉しながらも、1527変性女子・瑞の御霊の働きとしての王仁三郎と霊学を受けつけぬ飯森は、1528お筆先などつまらないと思う宮飼と、1529心情的には近かった。1530けれど、1531今になって宮飼は迷う。1532浅野の説は幻想のまた幻想、1533常識からは考えられぬにしても、1534自分の信奉している常識とは一体何であろう。1535たった五つしかない自分一人の感覚だけを信じ、1536それに触れるもののみを頼りとして編み出したものではないか。1537触れないものはすべて拒否してきたこれまでの生き方に、1538誤りはなかったろうか。
1539 考えあぐんでさまよううち日は落ちて、1540いつしか暗闇に包まれていた。1541路の両側は桑畑、1542それを隔てて綾部ステーションの灯がちらちら見える。1543列車が着くと、1544駅前から物部村へ通うガタ馬車の笛の音が星のない夜空に鳴り響く。1545昼間聞くと滑稽でしかない笛の音が妙に胸に泌みて、1546柄にもなく宮飼は涙をこぼした。
1547 たんぼ道を戻ってくると、1548不意に顔にかぶさるものがある。1549ぎょっとしてよくよく見ると、1550それは天狗の掌ほどもありそうな桑の葉であった。
1551 翌夕、1552宮飼は金龍殿の広間へ行ってみた。1553開け放した四十八畳敷の広間の真ん中でずんぐりした男が、1554四方平蔵の前にかしこまっていた。1555宮飼は初めてその場に入って、1556鎮魂なるものの実態をみつめた。
1557 低いが腹の底をふるわすような気合が平蔵の唇から(ほとばし)ると、1558ぎゃっと男は叫び声を上げ、1559いきなりころころ転げ出した。1560まるで米俵が坂道を転げるようにである。1561唖然としている宮飼の前で、1562勢いよく階段を転げ落ち、1563邪魔物の上をぽんと跳び越えて、1564まだまだお池の方まで転げていく。1565平蔵の鋭い気合で、1566男はようやく止まり、1567のっそり起き上がった。1568何が何やら分からぬらしい。1569神前に戻って頭を下げ、1570平蔵に説教される間、1571まだぽかんとしている。
1572 神前を下がってきながら、1573男は宮飼に聞いた。
1574「すんまへんけど、1575教祖はんのお部屋、1576どこどす」
1577 宮飼は、1578金龍殿から統務閣へ通ずる廊下まで案内した。1579まもなく四方与平があたふたとその廊下からやってきた。
1580「ちょっと手え貸しとくなはれ。1581教祖さんのとこへいやらしい狸が一匹のぞきよってなあ……」
1582「狸が……」と、1583平蔵が立ち上がる。
1584「そうらしい。1585筆先書いとられた教祖さんが叱りなさると、1586びっくりして廊下で目を回しよった。1587みんなで片づけておくれと言われたのやが……」
1588 平蔵について、1589宮飼も行ってみた。1590たそがれ時の廊下はひどく暗い。1591教祖室は三方が廊下と縁で囲まれている。1592近くの藪には狸や狐などがよく出没する頃であった。
1593 燈明を掲げて、1594注意しながら廊下を見回った。1595縁の隅にごろっと転んでいる黒い影があった。1596燈明の灯でよくよく見ればさっきの男。1597憑いていた狸がまだ離れきらぬうちに教祖の姿を見て、1598震え上がって気絶したらしい。1599平蔵の一喝で男は目をさました。
1600 宮飼は、1601眼光紙背(しはい)に徹するどころか、1602一目で肉を突き抜けその霊性までも見抜くていの教祖直に親しみがもてなかった。1603ありていに言えば、1604恐ろしかった。1605この少々抜けたような男にこそ、1606宮飼は同情した。
1607 鎮魂や神憑りの原理は、1608理屈ではなく自らの体験によらねば分かるまいとこの夜、1609宮飼は思った。1610けれど自分の体を審神者の前に投げ出す勇気などなかった。1611イリュージョン(幻想)かファクト(事実)かその一方に極めつけねばおさまらぬ気持ちは、1612波のように高ぶって来る。1613彼は、1614久しく見向きもしなかった哲学や心理学の本をあさった。1615徒労と知りつつ、1616次々あさった。1617果てには、1618持っている箸を取り落したりするほどぼんやりした。
1619 熱さと蚊の大群に追い出されて、1620浅野和三郎は部屋を出た。1621蚊は、1622横須賀に比べて、1623十倍ではきかぬ量であった。1624これでも、1625下水工事完成後、1626金龍海から流出する水が蚊の温存地を洗い流して、1627さしもの綾部名物も数を減少したという。1628とすれば、1629以前はどんなであったろうか。1630蚊帳も蚊やりもない貧しいあばら屋に、1631屑買いの母直の帰りを待ちかねて幼い龍と澄が抱きあって寝たという話を、1632浅野は思いやっていた。
1633 足は決まって和知川へ向かった。
1634 ――大橋越えて、1635他にたずね行くとこはないぞよ。1636この経綸問いに行くとこ、1637どこにも他にはないぞよ……。
1638 お筆先に出て来る綾部大橋が、1639百数十間にも及んで、1640和知川とその河原をまたいでいた。1641巨岩が急流を割くあたり、1642そうそうたる瀬音を不断にたてつつ、1643一方豊かな川面には本宮山の丸い姿を穏やかに浸している。1644砂白く、1645水清く、1646左岸の老松は高く低く枝をさしのべ、1647ゆったりと暮靄(ぼあい)に包まれていく。1648他に人影もない大橋の上に立つと、1649涼風が袂を払って通り抜ける。1650昼間の、1651あの暑熱は夢かと思われるばかりのさわやかさであった。
1652 筆先に満腹し、1653混乱し、1654あるいは反撥する浅野をこの大橋にいざなって、1655思いを鎮め、1656疲れをいやし、1657その消化をたすけてくれたのは、1658実にこの山と川と夜風である。
1659 一口に言えば、1660大本の筆先は謎の集合体であった。1661浅く解くも、1662深く読みとるも、1663対する者の器量次第と言えよう。1664日清戦争・日露戦争・欧州大戦、1665これに引き続く世界的大動乱・地震・雷・洪水・火の雨の襲来・飢饉・疫病・綾部が末で都・日本の世界統一・三十年で世の切り替え――
1666 先ず浅野の目を奪ったのが、1667これら一連の予言警告であった。1668気の弱い者なら、1669それだけで神経衰弱になりかねない。1670ところが、1671どこをどう探してみても、1672それがいつ起るのか、1673何年後にやってくるのかは、1674いっさい明示されてなかった。
1675 ――出口には世界のことを、1676先にこういうことがあると、1677気もないうちに書かしておくなり……。
1678 事件が現実に起こってしまってから筆先を見ると、1679あっと気がつく。1680明治二十五年から大正五年現在までの二十四年間をふりかえってみれば、1681筆先の予言と世界の現実はぴったり合一するではないか。
1682 ――こりゃあ大変だ。1683大本の筆先にかぎって時期を明示してないのが、1684偽神の偽予言でない証拠なのだ。1685神人界の大改造を背負って立たれる神さまが、1686自縄(じじょう)自縛(じばく)的にその経綸の時期方法順序などを告白なさるはずがあろうか。1687これしきの予言ですら、1688避け得る限りは避けたいところを、1689天下の人心のあまりの聞き分けのなさに、1690やむを得ぬ警告となったにちがいない。
1691 筆先一流の〈ぞよ〉でむすんだ断定的教訓が頭に(にじ)み入るには、1692それでもかなりの抵抗があった。1693学問をしてきた者の常として、1694ことごとに疑問が起こり、1695批判がはさまる。
1696 ――なにほど知恵や学がありても、1697人民ではわからんことであるぞよ。1698このしぐみ、1699わかりてはならず、1700わからねばならず……さっぱり学や知恵をすててしもうて、1701うまれ赤子の心にたちかえらんと、1702見当が取れん、1703むつかしいしぐみであるぞよ。1704いままでの腹の中のごもく(ごみ)を、1705さっぱり放り出してしまわんと、1706実地まことは、1707わかりかけがいたさんぞよ……。
1708 冗談じゃない、1709学問や知恵を捨ていとは、1710ずいぶん偏狭な野蛮神じゃないか。
1711 ――外国はけものの世、1712強いものがちの、1713悪魔ばかりの世であるぞよ……。
1714 こうなると欧米を先進国と崇めて維新以来、1715万事の理想標準を他に求め、1716列国の仲間入りに腐心している現代人として、1717ついていける感覚ではなかった。1718殊に英文学者たる自負を傷つけられて面白くない。
1719 しゃくにさわって筆先を投げ出したまま、1720ごろりと横になる。1721そのうち、1722横須賀での鎮魂帰神の実習から得た、1723物質世界の深奥に厳存する神霊世界に思いが至った。
1724 多慶のまだ日の浅い天眼通力にしても、1725名もない一天狗の霊力にしても、1726たしかに知恵や学では計ることができぬ。1727もし内なる霊魂をみず外側しか信じぬ物質主義を「外国」と解釈するなら、1728けものの世も納得できる。1729紫の袈裟(けさ)・金ピカの大礼服・爵位官等だの紅白粉だのがありがたくて、1730内側の霊性はどうでもよいのは、1731外国ばかりか日本も変わらぬ。1732それをまざまざと浮き出して見せるのは、1733天地間にただ一つ照魔鏡(しょうまきょう)があるばかりだ。1734それが天授の神法鎮魂帰神ではないか。1735天下の有象(うぞう)無象(むぞう)が恐ろしがって難くせをつけたがるはずである。
1736 他にも、1737筆先の中には神界の組織系統に関する暗示が多かったが、1738その点は、1739皆目見当がとれなかった。1740艮の金神・坤の金神・元の国常立尊をはじめ変性男子・女子・みろくさま・龍宮の乙姫だのたくさんの神々の系統・因縁・活動に関しては一切手がかりもなく、1741こみ入ったところは分からないということが、1742分かっただけである。
1743 それはそれとして、1744八月半ばに達した時、1745浅野の心底は固まった。1746後半生をして大本と運命を共にしようと決するに至らしめた。1747初めて大本を知ってから約八カ月、1748殆ど脇目もふらず突き進んで、1749教えの門に辿りついた。1750因縁の身魂は大本に来ぬ先から支度をさせられて居り、1751さあとなったら不可抗力で丹波の山奥へ連れて来られてしまう。1752そんな神の綱に身を任せる思いであった。
1753 和知川の夜の散歩から帰ると、1754浅野は、1755半紙を広げて筆をとった。1756先ずすうと川筋を描いて見て、1757その脇に四角い線を書き込む。1758背水の陣を布くつもりであった。1759一たん東に帰って浮世の風に吹かれると、1760ひょっとして決心の鈍らぬとも限らない。1761今の中に住居をきめてしまおう。1762なるべくなら、1763このなつかしい和知川べりに……。
1764 家の間取りを試みに書き入れている時、1765王仁三郎が入ってきた。
1766「早い早い、1767もう引っ越す準備ですかい」
1768 驚きと喜びをかくさぬ笑顔である。
1769「なるべく景色のよいところへ、1770こんな破屋でも建てて住もうかと思いますが……」
1771 見越していたように、1772王仁三郎は言った。
1773「並松に売家が一軒あります。1774和知川縁では一番でっしゃろ。1775新しく建てるより手っ取り早うてよい。1776二百坪ほどの宅地付きで六百円言うことやったが……」
1777「宅地付きで……そりゃまたばかに安い。1778見んでもかまいません。1779それにしましょう」
1780 話は五分で決まってしまった。1781何もかも神にまかせきった喜びに、1782そこらじゅう子供みたいにはね回りたかった。1783多慶は三日にあげず綾部の様子を尋ねてきたが、1784わざと詳しい返事は控えていた。1785とっときの土産話として、1786家屋敷を買った一件は辛棒強く呑みこんだ。
1787 帰郷間際に浅野を訪ねて来綾したのは、1788戸沢(とざわ)姑射(こしゃ)である。1789一高時代からの同窓の友で、1790今は熊本五高の教授であった。1791夏休みを終えて任地熊本に帰る途中を立ち寄ったのだ。1792彼は一高在学中に読売新聞の歴史小説懸賞募集に応募し、1793一等賞を取った。1794『しのぶの露』の作者藐姑射(はこや)山人は彼である。1795二等賞は高山樗牛(ちょぎう)の『滝口入道』、1796高山は二高出身の東京帝大生で、1797ともに文学好きの学生仲間を沸かせたものだ。1798戸沢は、1799大本信仰を狂人扱いする他の友人たちとはいささか違っていた。
1800 綾部移住の覚悟を打ち明けると、1801彼は言った。
1802「君が善いと決めたことは、1803やれるまでやってみるがよかろう。1804世間の毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)などは頓着(とんちゃく)するに足りんよ。1805第三者から何とも言われぬ。1806はじめから可否の批判など出来ぬ」
1807 もっともな見解であった。1808王仁三郎に戸沢を推薦した。
1809「私の友だちの中では、1810戸沢が一番早く大本を理解できると思います」
1811 しかし王仁三郎はちょっと考えて、1812
1813「分かるお方ですが、1814それまでにはまだ大分時がいります」ときっぱり言った。
1815 戸沢は綾部に一泊し、1816翌朝帰郷する浅野と共に綾部を離れた。1817大阪に用のある王仁三郎が同行した。1818三人を送って、1819飯森も宮飼も綾部駅まで行く。
1820「今年の暮にはこちらに引っ越してきますから、1821どうかよろしく」
1822 そう言って見送りの人々に挨拶する浅野和三郎の信念あふれる笑顔を、1823羨ましいと宮飼は思った。
1824 王仁三郎・戸沢・浅野の一行は、1825ひとまず大阪・松島の谷前家に落ち着く。1826谷前家には、1827村野龍洲が高砂の船頭橋本福太郎の娘八重を連れて来合わせていた。
1828 八重と浅野は初対面ではない。1829浅野が綾部に滞在していた八月十日頃、1830八重は村野に連れられて来綾した。1831そして四方平蔵から鎮魂を受けたのを、1832浅野は目撃している。
1833 この時の八重の発動状態は猛烈を極め、1834組んだ手をばたばたさせ激しく体を揺する。1835髪はまたたくまに乱れ、1836櫛も簪も二、1837三間先に吹き飛ぶ。1838審神者の質問に応じて流暢に口を切り、1839神島の眷属の龍神だと名乗った。1840大本のことなどろくに知らぬ少女の口から筆先そっくりの用語が飛び出し、1841世界大戦、1842欧州大戦の帰着点などがすらすらと語られた。1843この十三才の少女の神主としての優秀な素質に、1844浅野は感動したものだ。
1845 浅野は八重を神主として鎮魂帰神の実地を戸沢に示そうと思いつく。1846早速、1847鎮魂を始め、1848戸沢にその猛烈な発動ぶりを見せた。
1849 戸沢は大いに興味を示したが、1850先を急ぐため未練を残して熊本に向かう。
1851 戸沢を送った後、1852浅野は王仁三郎に連れられて大本大阪支部へ行き、1853初めて大本についての講演をする。1854住吉公園の村野家を訪問したりして二、1855三日大阪で過ごし、1856八月二十二日の晩に、1857梅田駅から夜汽車に乗って帰宅の途につく。1858その浅野の頭を占めているのは、1859今はただ綾部移住のことだけだった。
   
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