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海外派遣宣伝使の活動

インフォメーション
題名:海外派遣宣伝使の活動 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:1196
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195402c8421
〈出口栄二・広瀬静水の欧米派遣〉 終戦後海外との連絡がしだいについてきたが、ブラジルとは一九四八(昭和二三)年頃から密接な連絡がとれ、戦後の教線の拡大の様子などがわかってきた。そこで、一九五六(昭和三一)年四月に文字清美宣伝使がブラジルに派遣されたが、健実な宣伝と指導によって在伯信徒の団結と組織を強化し、翌一九五七(昭和三二)年秋には宣教と信仰の中心地場としてジャンディーラに、愛善堂の完成をみるまでにいたった(後述)。そして愛善堂の完成を機に、さらに一層の躍進と発展を期すべく、出口栄二・広瀬静水が派遣された。当時海外旅行は政府の外貨保有量が窮屈のため、出国査証をうることは困難な事情であったので、手続きの都合上、ブラジルからのオール・ギャランティ(外貨保証)による申請によって実現したもので、ブラジルにおける信徒のつよい要望と熱意のほどがうかがわれよう。出口・広瀬は一九五七(昭和三二)年五月七日羽田を出発し、欧州・南米宣教の壮途についた。
 五月八日香港をふりだしに、エルサレム(イスラエル)、ジュネーブ(スイス)、ローマ(イタリア)、フローレンス(同)、フランクフルト(ドイツ)、ボン(同)、ベルリン(同)、コペンハーゲン(デンマーク)、ストックホルム(スウェーデン)、アムステルダム(オランダ)、ロンドン(イギリス)、パリ(フランス)、マドリード(スペイン)、リスボン(ポルトガル)など、七月一五日ブラジルのサンパウロにつくまでに一一ヵ国の国々を訪問し、各国の民族・文化施設・宗教事情を視察するかたわら、各方面の指導者たちと意見を交換し、出発前に準備した英・仏・露語の一〇種余の大本文献を配布して宣教につとめた。これがため海外宣伝部では、ドイツ、イギリス、ブラジルなどへ別途郵便であらかじめ文献を送付した。各地での活躍についての主なるものをつぎにあげてみよう。
 香港では道院・世界紅卍字会をたずね、幹部と会談し本部からの土産品を贈呈した。会長王正廷は病気のため出席できなかったが、廖智情・馮辰正・陳樹階の三副会長をはじめ若手の中堅幹部の人々とあい、相互の宗教の理解をふかめ、また協力の方法や宗教の使命について話しあい、友好をふかめあった。
 エルサレムにおいては、宗教省をおとずれて宗教大臣と懇談し、イスラエルの宗教事情をきき種々の問題について懇談する機会を得、また大本の主張などを語った。シオンの丘にのぼったときは、松の木の生い茂る絶好の場所をえらび、ヨルダン側の荒涼とした丘陵を一望しながら大祓いをなし、祝詞を奏上して大本の神に祈願の行事をおこない、あらかじめ用意してきた綾部の金明水をあちこちの井戸にふりそそぎ、綾部の聖地から持参したお土をまいた。またナザレの遺跡や、ハイファにあるバハイ教本部なども視察した。ドイツではフランクフルトの日独文化協会長ダンネル博士と連絡をとって活動した。
 デンマークでは、コペンハーゲンの郊外に住むマルチヌス学会(Martinus Instituto)創始者マルチヌスと会談し、種種の心霊学にかんする文献の寄贈をうけた。デンマークにおいての滞在は四日間の短期間であったか、大本との友好・提携を緊密化するために役だった。オランダのアムステルダムでは世界連邦本部(World Association of World Federalists)をたずね、ヨーロッパにおける世界連邦運動の実況をきき、今後お互いの連絡を密にし、共通の目標にむかって提携協力することを約した。ロンドンでは、グレーター・ワールド(Greater World)、ピースニュース社(Peace News)、メリルボルン心霊教会(Marylebone)豪州のメルボルンではなく、ロンドン市内のメリルボーン、サイキック・ニュース社(Psychic News)、ツー・ワールド社(Two Wordlds)などのイギリス精神主義運動の人々と連絡をふかめた。また開会中の国会を傍聴したり、英国原水爆禁止事務局を訪問し今後の連携を約した。「クレーター・ワールド」の創始者モイエス(女性)の病床を見舞うと、訪問を待っていた様子で非常によろこび、「出口なお、出口なお」と開祖の名をしきりに口にしながら、このお方が正しい予言者であること、これからどうかしっかりやってほしいと激励された。
 心霊主義週刊誌「ツー・ワールド」の六月二九日号に、出口栄二との対談が「世界一周の日本神霊主義者」「水爆実験禁止を強調」の見出しでつぎのように掲載された。
大本は……世界平和のために献身する特色ある宗教で、第二次世界大戦中は、平和のためにあらゆる犠牲をはらうという態度を持続した。出口栄二氏は「現代は地球単位にものを考えるべき時代である」と述べられ、さらに「地球的な見地に立って、すべての宗教は各自の相違点をのり越えて、世界平和の確保のために努力しなければならない。なぜなら神は一つであり、人類も一つなのだ」と語った。現在大本は日本の精神主義の本拠としてさらに発展しているばかりでなく、彼らは創造者を通じて霊界からの言葉を信じ、それにもとづいて世界平和の仕事によき影響をあたえようと力をつくしている。
 七月一五日、出口・広瀬はヨーロッパ宣教の旅をおえてサンパウロ空港に到着した。文字派遣宣伝使・森主会長をはじめ信徒百数十人が、手に手に人類愛善会旗をうちふって出迎えた。一七日、両人は朝から来訪した放送局や新聞社の記者と応接し、一八日は遠隔の各地から馳せ参じた役員をまじえて会議をおこない、一九日は森主会長の案内で領事館・各新聞社・サンパウロ文化協会など訪問した。二〇日は八分どおりできあがった愛善堂を視察するなど、長途の疲労もみせず到着早々多忙な活動にはいった。両人の渡伯が、ともすれば沈滞がちとなった愛善堂建設の大事業に、拍車をかけたことはいうまでもなく、在伯信徒の意気を高揚させた。
 出口・広瀬両宣伝使の宣教は、森主会長の案内で、八月二日から九月三日まで一ヵ月にわたって、サンパウロ州とゴヤス州の各地でくりひろげられた。まず八月二日サンパウロ市郊外のコツカミ村、ピラポーラの町をふりだしに、グワイーラ、リベイロンプレット、リオブレット、ウベルランディア、ゴヤニヤなどの各都市で講演会がおこなわれた。講演題目は平和の問題、開祖の予言、霊界の実在、戦後日本の諸情勢など、聴衆によって臨機応変にかわったが、各地ともに好評であった。とくに心霊主義教会の会員たちはふかい感銘をうけ、そのほとんどが共鳴をしめした。会員のなかには上流社会の人がおおく、大本の宣教活動に便宜をあたえるとの申し出もあり、また大本に参拝したいという者もあって、今後の宣伝活動にあかるい希望をあたえた。
 一〇月一三日には、ブラジル在住信徒の努力の結晶たる愛善堂の完成奉告祭が盛大に執行された。参拝者七〇〇人をこえる盛況で、出口栄二が斎主になって祭典をおこなった。大祭後は四日間、愛善堂ではじめての大本講座が開講され、出口・広瀬は一〇月二〇日からふたたび巡回の講演旅行をつづけ活躍した。
 一二月三日、出口・広瀬は四ヵ月半の滞在をおえ、アルゼンチンのブエノスアイレスをへてチリーのサンチアゴにとび、大本とは縁故のふかい矢口大使のはからいで、各界の人々と友好をかすんだ。ペルーのリマでは天野芳太郎の厚遇をうけ、インカ文化の大規模な遺跡を見学し、一二月一五日メキシコについた。空港には碓井支部長・宮本温・日墨新聞社長松尾神一らが出迎えた。メキシコシチーでは、松尾をはじめ信徒たちの奔走で講演会をもよおしたり、碓井支部長宅で病気お取次がおこなわれた。正月、メキシコの第二の都市グァダラハラで講演会が開催され、おおくの聴講者があつまった。わざわざ遠方から馳せ参じた信徒の山下力太夫妻・山口杉二・山口茂三郎にあい、大本の現況などを語ってはげましあった。
 一九五八(昭和三三)年一月六日ロサンゼルスをふりだしにアメリカ各地を巡歴し、同年一月二六日、空路羽田に帰国した。
〈伊藤栄蔵の渡欧米〉 一九五九(昭和三四)年は、エスペラントの生みの親であるザメンホフ生誕百年を記念する世界大会が、第四四回世界エスペラント大会をかねて、ポーランドのワルシャワでひらかれることになっていた。日本エスペラント学会の八木日出雄博士(岡山大学学長)から、そのころ大本に滞在していたイギリスのウースタを介して、この大会に日本からの代表として、大本から出席しないかとのよびかけもあって、伊藤栄蔵が派遣されることになった。当時は、政府の外貨保有が潤沢でないため、出国査証の下付がきわめて困難であったが、さいわいウースタが、オール・ギャランティの労をとってくれることになったので、渡航のみとおしがついた。
 一九五九(昭和三四)年七月二二日伊藤は羽田をたち、北極まわりで、翌日にはデンマークのコペンハーゲンについた。ここに数日間をすごし、ポーランド入国査証の交渉や準備をすすめる一方、マルチヌスやマルチヌスの協力者でありエスペランチストのI・シュライシャ夫妻、P・ザーコ夫妻たちと友情をふかめた。
 七月二八日にポーランドのワルシャワにつき、大会に参加したが、エスペラント世界大会への出席は、大本としては戦後はじめてのことであった。しかもこの大会には、日本からはただ一人伊藤が参加しただけであった。大会は八月一日から八日まで開催され、参加人員は四四ヵ国から三一〇〇人にもたっする盛大なものとなった。
 第一日はポーランド副首相、世界エスペラント協会会長G・カヌート博士、大会準備委員長A・ライスキーなどのあいさつについで、各国代表(大・公使その他)、各国中央エスペラント会代表のあいさつがあり、伊藤は日本エスペラント学会、全日本のエスペランチスト、大本・人類愛善会を代表してあいさつした。ついでひらかれた世界平和エスペラント運動(MEM)分科会、世界エスペラント協会の第一回委員会にも出席してあいさつした。大会三日目の第一総会では、「東西文化の交流」の問題に関し「エスペラントの果す役目」が討議されたが、そのさい伊藤は議長をつとめた。大会期間中には、ザメンホフの生地ビヤリストクを訪問したり、テレビやラジオをとおして大本ならびに日本のエスペラント運動の紹介にもつとめたが、マルチヌス学会の同志ブルガリアの白色連盟やウースタなどの協力をえて、二回にわたって大本分科会を開催した。
 大会後、伊藤は一〇日からスウェーデンのフロスタヴァーレンで開かれる「夏期講演週間」に講師として参加した。この夏期講演週間はユネスコとスウェーデン・エスペラント連盟の共催によるもので、一一ヵ国から八〇余人が参加した。「東西文化の相互理解」がおおきなテーマとしてとりあげられ、エスペラント運動にかんする諸問題についても討議されたが、伊藤はここで四回の講演をなし、日本の宗教事情、大本事件、日本語の問題、日本の衣食住などについて紹介した。
 八月一七日から二〇日まで、オランダのピータースペルグで一四ヵ国から八〇人の代表が参加して、第一一回世界連邦年次総会が開催された。伊藤は、下中弥三郎ら日本代表や人類同盟の副会長J・イスブルッカ(女性)らと参加し、一八日におこなわれた「世界協同体の問題」についての自由討議では、世界協同体のための国際語の必要性を強調した。また世界連邦世界大会の日本への誘致に尽力した。このあと、伊藤は、二一日オランダのベルヘン・オブ・ゾームをてはじめとして約九ヵ月間にわたり、エスペランチストの組織網にのって講演行脚をおこなった。
 その間におとずれた国々は、八月下旬から年末にかけて、オランダ、ベルギー、ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、イギリスなどの主として北欧諸国、一九六〇(昭和三五)年一月から四月下旬にかけては、ドイツ、スイス、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルの諸国であり、四月二一日イギリスを出発してアメリカにむかった。二五日アメリカに上陸以来六月一七日にいたる約二ヵ月間は、アメリカ、カナダの講演行脚をつづけ、六月一七日ロサンゼルスを出発して、三〇日に横浜に上陸した。
 旅程の前半は、日本出発前からの事前交渉で各国の受入準備がととのえられていたが、後半の旅程は、旅行中につぎつぎと交渉して決定されたものであった。伊藤の旅行にさいしては、各国のエスペランチストがそれぞれ相互の連絡をとって伊藤の世話をひきつぎ、自国内での伊藤の宿泊・食事・交通費などの出費を負担して、スケジュールの消化に献身的努力がなされた。伊藤の出発前、教団の渡航委員会では、旅行の地域は広域にわたらず、二、三ヵ国に宣教を集中すべきだとの意見がのべられたこともあったが、伊藤はエスペラントの実用性と技倆を十二分に発揮して、約一年間にわたって二一ヵ国・一五〇都市を歴訪し、大本の名を世界各地に喧伝せしめることができた。
 伊藤が各地でなした数々の講演や活動は、主として「一つの神」「一つの世界」「一つの言葉」の線にそっておこなわれた。
 「一つの神」という線では、大本の以前からの提携団体であるブルガリアの白色連盟、デンマークのマルチヌス学会、オランダの人類同胞、ドイツの白旗団、イギリスの至大世界キリスト教心霊主義連盟との友好を一層ふかめ、さらにイギリスの心霊主義者たち、アメリカでのバハイ教徒、ユニテリアン、その他各地のカトリック、プロテスタントなど、おおくの宗教人と友情をかわし理解をふかめた。ことにドイツのロイトリンゲンでは、白旗団のシュミットや創始者V・シュヴァイツァ博士の息女R・フォークト夫人らと、折からの雪をかきわけて、ナチスの弾圧で獄死したシュヴァイツァ博士の墓参がなされている。ロンドンではウースタを介して大本ロンドンセンターを設置し、欧州宣教への一つの拠点がひらかれた。
 「一つの世界」の線では、各地の世界連邦主義者と胸襟をひらいて語りあった。スイス、イタリア、フランス、カナダ、北アメリカなどでは、世界連邦運動団体とエスペラント会の共催で世界連邦の講演会がおこなわれ、ことにカナダのトロントタウンシップでは市賓としてむかえられ、世界連邦都市の米州第一号になることを約束させた。フランスのニームでは世界連邦主義者R・ヴォルベリェル夫妻と協力して、世界連邦に関する公開講演会をなし、懸案であった綾部・ニームの「連邦都市」としての姉妹都市提携の実現に尽力した。また平和の問題、原水爆問題にかんする講演を数おおくなし、スライドを上映してつよく平和への念願をうったえた。
 「一つの言葉」の線では、エスペラントをつかっての世界旅行そのものが、エスペラントの実用性を立証することとなり、大衆の啓蒙におおきく役だった。またスイスのE・プリヴァ、ロンドンのI・ラペンナ、ハンガリーのJ・バギー、イタリアのG・カヌートなど各国の第一級のエスペランチストと、ほとんどもれなく語りあって友好をふかめ、大本ばかりでなく、日本のエスペラント運動の将来のためにおおきな布石をしいた。その後各国でエス文「OOMOTO」誌の代表者として活躍しているおもな人々は、この当時の共鳴者である。
 こうして伊藤が約一ヵ年間、二一ヵ国・一五〇都市でおこなった講演回数は一八〇回、テレビ出演一回、ラジオインタビュー八回、新聞・雑誌に紹介されること九七回におよんでいる。この講演の対象は、大半がエスペランチスト外の一般大衆であり、各地のエスペランチストの通訳によるものである。このほか「OOMOTO」の購読者八〇人をえ、大本への共鳴者は四四人をかぞえている。つぎに一九五九(昭和三四)年九月一日付の「レーワルデン・クラント」紙(オランダ)に、「世界平和の巡礼者、レーワルデン市にも来訪」の見出しで掲載されたインタビューの記事を引用してみよう。
今でもこの世界に、神の使命と理想とを背負い、失望することなくつかれることなく、全地球を行脚している予言者がいるということはありがたい。……一人の理想家、巡礼者、それは五十六才になる日本人伊藤栄蔵氏で、七月以来、世界平和のための世界行脚をつづけている。伊藤氏はエスペランチストであり、日本の宗教運動「大本」の総務の一人である。氏は行脚中、世界連邦、大本、そしてエスペラントについて講演しているが、それにはもちろんエスペラントを使っている。……氏はつかれをしらないかのようである。七月にはまずワルシャワの世界エスペラント大会に出席し、以来ヨーロッパの行脚をはじめたが、それは年末までかかる。九月の上半はオランダの各地で講演したが、欧州をおわるとアメリカへ向かう。……
同氏の宣布している大本運動は、一八九二年出口直刀自によって創始された宗教運動で、大本とは「大いなる源」を意味する。一九二二年には同運動は国際的性格をもち、第二次世界戦争前に大本は弾圧に会い、現代信徒数三十万人。第一に大本は全人類にたいして神はただ一柱であること、次に人類は一つであること、次に霊主体従であるべきことを説いている。……大本はすべての宗教の協力を計っているばかりでなく、各国の政府の上に世界政府を樹立すること、そしてすべての国語の上に世界箝を用いることを唱え、自らエスペラントを採用している。そして何よりもこの運動は、第一に世界平和の促進に努力している。伊藤氏はその平和のための世界行脚の道中、各国のエスペラント会を訪問している。
 伊藤は一九六〇(昭和三五)年七月三日、約一ヵ年にわたる宣教の旅をおえて無事天恩郷にかえった。
〈出口新衛の渡印〉 一九五四(昭和二九)年ごろインドのサウラシュトラ州では、いわゆる日本式といわれる農法で稲作がはじめられ、すでに一五〇〇英町(六〇〇町歩)英町はエーカーのこと。1500エーカーは約607メートルの面積が耕作されて好成績をおさめていた。そこでこれをさらに発展さすべく、サウラシュトラ州の農林当局は優秀な日本農家をむかえいれ、数年滞在させて農林指導をさせるため、当時の参議院議員高良とみを通じて日本農家の移入をはたらきかけていた。高良とみは信仰をもった農家こそ移民にふさわしいとかんがえ、このあっせんを大本に依頼してきた。大本では日本とインドの友好への紐帯に役だてるため、この企画に賛成し、現地の事情をくわしく視察してこれを具体化するため、愛善みずほ会会長出口新衛をインドに派遣することとした。
 一九五五(昭和三〇)年四月六日、出口新衛は二ヵ月の予定で羽田を出発した。当時日本からインドへの入国は非常に困難な情勢下にあったが、サウラシュトラ州政府の招請があっての渡印であったので、万事都合よく進捗した。まず、ニューデリーでひらかれていたアジア諸国民会議に大本代表として出席し、参加者と親交をむすび、四月一六日から目的地であるサウラシュトラ州へ旅だった。
 二二日から二六日まで州農林省の案内でジープに乗って、五〇〇マイル以上の広域を強行軍で視察した。ヒンヅー語の通訳として日本山妙法寺の僧侶渡辺天城が、ボンベイから四六〇マイルはなれた現地へ馳せ参じて協力した。視察の結果、南部のジャナガダという人口一〇万の古都の郊外に建設中の州政府農場付近と、北東部のハルバタという町にちかい州政府農場付近が、土質もよく、ダムによる灌漑がきくので、この二ヵ所を候補地として州政府に申しでた。州の農業局長とでもいう地位にあるカダム博士は、とにかくはやく日本の農家をつれてきてくれと、大変な熱のあげかたであったが、州農林大臣ラトバイ・アダンは、経済面の考慮もあってうけいれについては慎重であった。いろいろ話しあいの結果は、独身の青年を政府農場にいれて日本式の農業を実際にやらせ、また将来指導もするということで、渡航費ならびに給料を州政府負担とするから適当な人選をたのむというものであった。
 出口はその後、サウラシュトラ、ボンベイ、ビハール、ハイダラバード、マティプラデーシュ、コドラス、コケン、マイソールの各州など広大な地域を、炎天下と交通の不便によくたえ、二ヵ月余の短期回にまわって、六月二九日に帰国した。その間各地のインド教あるいは仏教・イスラム教・拝火教の寺院・遺跡や施設、またガンジー道場、教育施設、各地の政府の政府農場など視察し見聞をひろめた。
 青年農業指導者派遣については、出口の帰国後すぐ対策が講ぜられ、同年九月には三〇数人の応募者から五人が選抜され、正式招請状をまって渡印すべく準備をすすめたが、その後サウラシュトラ州政府に政変がおこり、州農林大臣の更迭などあって、この企画はついに実現するにいたらなかった。
〈その他の派遣〉 以上のほか海外に派遣された人々をかかげると、出口伊佐男人類愛善会会長・大本総長のジュネーブ派遣とベトナム訪問、土屋弥広宣伝使の香港・台湾派遣、文字清美・鈴木孔喜・有川潔各宣伝使のブラジル派遣、原田郁夫宣伝使のメキシコ・アメリカ派遣、桜井重雄宣伝使のアメリカ視察などがある。
 出口伊佐男は、一九五〇(昭和二五)年一二月三〇日から翌年一月五日までジュネーブで開催された世界憲法制定会議に出席し、大会終了後、欧米を視察して帰国した(七編四章)。また一九五六(昭和三一)年七月にはカオダイ教伝教聖会の本部竣工式をはじめ、各宗教代表者協議会にまねかれてベトナムにおもむいた(八編三章)。
 開教六十年には記念事業の一つとして海外宣伝がとりあげられ、第二次大本事件まで緊密な提携関係にあった世界紅卍字会との連絡を復活するため、土屋弥広を派遣することとなった。終戦後、道院・世界紅卍字会の消息はわからなかったが、一九五一(昭和二六)年になって台北から通信があり、同会幹部の一部は蒋政権とともに台湾に移住し、一九四九(昭和二四)年六月に台湾分会を結成していることなどがしらされた。その後、香港の世界紅卍字会総会との文通の復活や、開教六十年大祭には台湾分会代表の参拝などがあり、接触はしだいにふかめられていた。
 土屋は一九五三(昭和二八)年一月五日、羽田より台湾経由で香港へかけて出発し、同地に二ヵ月間滞在した。その間王正廷総会会長らと交歓し連携をふかめ、日本院会弁事処の設立についての打合せなどをおこなった。同年三月四日香港を出発し、途中台湾に一〇日間滞在して、台北・台南道院に参拝し各地の道友と連絡をとり、一四日帰国した。
 土屋の渡香により、従来の世界紅卍字会の宗壇(世界紅卍字会総監察部・天津)、母院(同監察部・済南)、総会(同基本執行部・北京)が戦後事務遂行不能となったこと、一九五〇(昭和二五)年、壇訓により香港道院(一九二〇年設立)に宗・母・総の三部をあわせて世界紅卍字会総会駐港弁事処が組織され、世界紅卍字会の一切の職権は同弁事処において執行されていること、また日本院会の設立については、「院会は独立的性質のものにして、如何なる一つの団体内にも附属する能はざるものなり。大本の諸方は須らく大本本部以外に於て適所を求め復興を計画すべきなり」との基本方針などが具体的にあきらかとなった。
 文字清美・鈴木孔喜・有川潔は、あいついでブラジルに派遣されたが、その活動は後述のとおりである。
 原田郁夫はアメリカ、メキシコに長期間滞在して同地の宣教にあたるため、一九六〇(昭和三五)年五月二五日羽田を出発した。原田は、ハワイ、カナダのバンクーバー、アメリカのロサンゼルスに立寄り、八月七日メキシコにはいった。支部長碓井重憲をはじめ現地信徒らの協力のもとに、宣教の基礎をきずくために約六ヵ月間努力をつづけた。一〇月二日から九日までメキシコシチーで全米心霊主義者大会がひらかれたさい、原田は碓井と参加し、相互の理解と友情をふかめた。一九六一(昭和三六)年一月一七日メキシコを出発し、グァダラハラ、オブレゴン、エルモシーヨ、メヒカリ、ティファナ、サンディエゴなどをへてふたたびロサンゼルスにかえり、ここを拠点として、あらたな宣教地盤の開拓に日夜活躍をつづけた。ブラジル派遣の任務をおえての帰途たちよった鈴木特派と力をあわせ、カリフォルニア州政府から正式宣教の許可をうけ、大本ロサンゼルス教会の法人化に成功した。同年八月六日、ロサンゼルス一二ウエラ街一二五(日本人街)のサンビル三〇三で盛大な開苑式を挙行し、その後原田派遣宣伝使は滞留して宣教につとめている。
 一九六一(昭和三六)年一〇月二七日、桜井重雄は、米国宗教視察日本宗教界代表団の一員として、羽田をたって渡米した。これは一九六〇(昭和三五)年一〇月、アイオワ州立大学宗教学院の教授M・バックを団長とする米国の日本宗教視察団が来日し、主要教団を歴訪(10月12日大本訪問)し、日米宗教人の交流をはかったその交換としておこなわれたものである。一行はロサンゼルス、デンヴァー、アイオワ、シカゴ、カンザス、ダラス、リットル・ロック、クレーヴランド、デトロイト、ミネアポリス、フィラデルフィア、ニューヨーク、ワシントンなどを順次訪問した。主として教会・寺院・大学を視察し、宗教への相互理解がふかめられた。桜井は帰途サンフランシスコに立寄り、またロサンゼルスにある大本教会を中心に一〇日間滞在して宣教にあたり、さらにハワイにたちよって一二月一二日に羽田に帰国した。
〔写真〕
○シオンの丘で世界平和と人類の幸福を祈願した 修祓する出口宣伝使 p1197
○出口広瀬両宣伝使を迎えたブラジル信徒のよろこびはおおきかった 右出口 左広瀬 サンパウロ空港 p1199
○愛善堂では大本講座がつづけられている 出口宣伝使による第1回講座 p1200
○スウェーデンでおこなわれた夏期講演週間の参加者たち 前列中央 伊藤宣伝使 p1202
○伊藤宣伝使は欧米の各地で一つの神一つの世界一つの言葉をくりかえしうったえた フィンランドでの集会 p1205
○インドの農業を視察する出口新衛宣伝使 緑肥作物の葉かげでタンジロール政府農場 p1207
○綾部市と姉妹都市の盟約をむすんだニームの市街 フランス p1210
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