大正七年四月十六日午前十一時五十三分の京都行の汽車で、総勢五人づれの一行が綾部を出発した。其人々は浅野総務を初め、森教監、成川浅子氏及び浅野三郎、森保三の二少年であつた。此旅行の眼目は神勅によりて大和三山を巡る事で、之に付随しては八重垣神社参拝、京都及び大和地方の布教を兼ねて居るのであつた。途中何事もなく嵯峨駅に着いたが爰には花見の人々が駱駅として俗塵紛々、とても雅懐をそそるには足りなく思はれ、一行は花と人に負いて、右折して大覚寺の方面に向つた。行くこと八九丁、弁天の辺に出た。祠側には昨年森氏が不思議な神憑りの指示により築いた神筭木台、竜宮池等がある。其神懸りは余り純正なものではなかつたが、しかし全然人為的に作為したものではなく、やがて綾部で大成すべき言霊閣の先駆をなせる点に於て多大の意義を有するのであつた。約三十分を費した後で、一行は間道から愛宕山下の八重垣神社に向つた。間道と大道の交叉点に達すると、嵯峨の方面から急歩調で来る所の編笠草鞋ばきの異装の人に遇つた。よくよく見ると、それは八重垣神社の祠官を勤める小笠原氏で、即ち森氏の令兄であるのには一同少なからず奇遇に驚いた。四時半頃清滝の茶店に少憩して咽を潤はし、汗を入れて山道にさしかかつたが、これから十町許は人家なく深く陥りたる谷、そり立てる山、山と高さを争はんとするが如き松樹の森、松の緑に対映して特に優美の趣ある山ツツジ等、眼に入るものは悉く清く美くしそれがホンノリとせる春の暮色に包まれて何とも言はれぬ善い気持に、一行は足の疲労も忘れて、六時頃目指す所の八重垣神社に着いた。森さんの三人兄弟が、空也の滝の下に聖境を卜し、三年程以前から只何とはなしに神社造営の挙に出で、道を開き、石垣を積み、本社拝殿の経営は更にも言はず、側らに社務所ともつかず、又別荘ともつかぬ清雅なる家屋をも建築して置いたのが、即ち今日の八重垣神社であるので、詰まり森氏、小笠原氏等は蔭から神の為めに社殿造営の神務に無意識に使はれて居たのであつた。森氏が初めて綾部へ参拝したのは昨年の十月で、自己の使命が明亮に霊覚に映じたのは十二月頃、教主が初めて此地を踏んだのは今年一月四日、そして此時を以て初めて豊国主神、神素盞嗚神が此神社に御鎮まりになつた。委細は本誌二月号に掲げてある通りで、奇蹟頻出の大本でも、此の八重垣神社の由来の如きは最も傑出せるものの一に数へねばならぬ。一行は空也の滝で身を潔めて拝殿に着座、祝詞を奏上し、月光をたよりに高き石階を下り、其夜は主客膝を交えて斯道の談話に月の傾くのも打ち忘れた。翌朝浅野氏、成川氏等は又々身を躍らして滝に打たれ、大変な元気を出した。朝飯後浅野氏は小笠原氏の令閨、令嬢等に鎮魂帰神を修し、九時辞して帰途に就いたが、途中豪雨を催ふし、清滝に達するに及んで止み、最良の日和となつた。これは守護の竜神が清滝まで一行を送られたのであつた。午後一時頃一行は京都千本の支部に入り、上田氏夫妻、其他信者諸氏と大和行の事に就きて協議して居ると、又々空模様は急変し、沛然たる豪雨につれて殷々たる雷鳴は頭上の空を振動せしめた。今度一行は去就動静等全然神示に従つて行つたが、前後十二日の間に寸毫の誤差なく、雨や雷等も一々版で押したやうに的確に始まり的確に終り、今更ながら神界の御守護の深大なるには感歎せざるを得なかつた。此時の雷雨は神界の御都合のもので約三十分に亘るとの事であつたが、果して三十分の後には忘れたやうに清朗なる天候となつた。かくて日暮までに浅野氏は依頼者七八人に向つて幽斎を修し、それから鴨東支部に赴き、夜十一時迄、間断なく講話と幽斎を行ひ、後辞して吉田村なる竹中医学士邸に入つた。竹中氏は成川氏の実弟で、今回一行の来京を機とし、皇道大本に関する談話を承りたいといふので、特に招待されたのであつた。主客共に忙中に一閑を求め難いので、特に睡眠時間を割き、午前三時迄話し込んだ。翌くれば十八日、爰でも早朝より大本信者から幽斎を希望され、又竹中氏夫妻も同じく之を修した。竹中氏夫人の霊感は異常に迅で、たつた一回の鎮魂で天眼通の端緒を開き、極めて明亮に東京向島言問団子の付近を観ることを得た。午後三時出発、京都本部梅田氏方に少憩の後、一行五人の外に、千本、及び鴨東の支部長上田、広部二氏を加へ、四時三十一分七条発、日暮大和の郡山に着いた。此辺は花見の客で、汽車は常に満員の姿、大陽気大混雑を極めて居たが、一行の眼には花などは映らず、来年の春は果して花見の人がありや無しやなど思はれて、軽き哀愁の催すを禁じ得なかつた。
暫時停車場前に休憩後、出迎の橋本夫人に案内され、月下の田圃路を二十四五町歩みて、夜九時頃無事発志院なる橋本邸に着いた。橋本夫人は元天理教信者で、熱心篤実の実践躬行家であつたが、近く皇道大本の教に接して、年来胸底に蟠がりし疑団の氷解するを覚え婦人に稀なる大勇猛心を振ひ起し、屡々大本に来りて修行を積みつつあるのであつた。皇道大本は一宗一派の上に超越し、直ちに神人合一境に進入し、神政復古世界統一の実現実行に着手する地上唯一の中府であるので、其真相が分りさえすれば天理教、金剛教等は更にも言はず耶蘇教徒でも仏教徒でも、東洋人でも、西洋人でも悉く馳せ参じて大神業の大成に努力せねばならぬのだが、多年の習癖に捕はれて、未だ迷夢の覚めざる者が九分九厘を占めて居る。此間に在りて橋本夫人が卒先して大本に来り、天理教の中堅たる大和の国の先駆を為したる非凡の霊能は寔に感歎に値する。従来世界に出現せる宗派は悉く皇道大本の先走りで、その中天理教は最近に現はれたる先走りなのだが、其先走りたる所以は、尤もよく橋本夫人に於て見ることを得た次第であつた。橋本邸に於ける幽斎修業と大本講話とは此夜から直ちに開始され、二十二日迄、前後四日に亘りて行はれ、其間浅野氏、森氏等は殆んど寸暇なき有様で、就中二十一日夜橋本主人に対する説話鎮魂の如きは午前三時頃に及んだ。幽斎修業者は此間約五十人に上つたが此地の神憑りの特色は、祖先の霊魂の憑依者の多い事で、いかに幽界が動揺驚愕を来して居るかが明亮であつた。人間は現世に於て大平楽を唱へ乍ら千百の悪事醜行を敢て行つて居るが、一旦帰幽して厳格なる神律に照され、苛責を受けると初めて驚いて哀願する。しかし時既に遅し、容易に神の宥恕には浴し得ない。そこで其子孫に憑依し、子孫と共に改心帰順して救済の綱に縋り付かうとあせる。これが実に沢山の数に上る。無論かかる種類の霊魂で神政の大業が成就する訳には行かぬが、さりとて之が救済誘導の責任は其子孫に於て負担するより外に途がない。子孫が改心帰順して、善行によりて祖先を苛責の淵より救ひ上げ、併せて自己を救ふより外に採るべき道がない。現在の人間は余程責任が重い訳である。然るに多くの人は改心もせず、善行も積まず、其癖案外弱虫で、マサカの場合には早速掌でも合はせて哀願と来る。これでは何んぼ何んでも神界で救済の綱を懸くべき手懸りが無い。霊魂界も人間界も滅亡党が多い筈だと思ふ。
二十二日橋本邸を辞し、行程二里を隔てたる三宅村屏風の馬場義則氏邸に赴いたが、午後二時より三時の間に出発せよとの神示に負ひて、一時間も遅刻して出発したので、最後の十分許雨に遇つた。人間のする仕事には時々斯んなヘマを伴ふ。これが雨位の事だから宜いが、大事決行の場合には余程注意せねば、徒らに神界を煩はすこととなり、相済まぬ次第だと思ふ。馬場主人は橋本夫人の実兄で先般大本に参拝し、浅野氏に就きて幽斎を修し、熱誠なる信念を得た。其後所用の為に上海に赴き、一昨二十日漸く帰国せるばかりの多忙の身であり乍ら、熱心奔走して付近の篤志家を招集された。例によりて浅野氏、森氏の講話、並に幽斎の修業があつたが、神憑の性質は大に橋本邸のとは趣を異にし、一旦緩急あらば勇往邁進を辞せざる元気旺盛なる霊魂が多いやうに見受けられた。蓋しイザとなつた場合に大和国に於ける活動の中心は恐らく此辺から発生するであらうか。講話と幽斎とは翌二十三日も引続いて行はれ、充分とは行かずとも少くとも堅実なる種子は植え付けられたに相違ない。其証拠には翌二十四日を以て一行がいよいよ大和三山巡りを決行すと聴くや、同行案内の労を執れる者が五人に上ぼつたのを見ても分る。
二十三日は終日鬱陶しい雨天で、明日の天気が多少肉体心には心配であつたが、さて其日になつて見ると果して神示の通りカラリと晴れて、しかも涼しく、誠に登山には誂ひ向きであつた。午前九時出発。先づ耳成山に向つた。行程は約二里許、十一時頃には早くも其山麓に着いた。大和三山が大地に造り付けの三種の神器である事の意義因縁は、本誌三月号に掲載されて居るから、爰には其詳細なる説明は省いて、只耳成山は剣、香久山は璽、畝日山は鏡である事を一言するに止める。若しそれ何故に此一行が大和三山を踏みしめねばならぬかの意義に至りては神意深遠奥妙、今後二三年の日子を経た上でなければ、とても理解も説明も出来たものではないやうだ。此日の登山者は浅野総務の外に五名(森父子、成川浅子、浅野三郎、広部氏)又案内者としては土地の有志が同じく五名(馬場義則氏、松村貞夫氏、岡田亀吉氏、矢迫初蔵氏、糸井音治郎氏)であつた。上田氏、橋本夫人等が急用の為めに同行し得なかつたのは残念であつた。山は直立約一丁許で、現在は松樹が全山を蔽ふて居る。一行は半腹の祠前に進みて祝詞を奏上し、浅野氏は其時一個の小石を祠前で拾ひ取つた。形は耳成山にそつくりである。それから絶頂を踏みしめて社務所に入り、馬場氏、松村氏の厚意によりて遙る遙る携帯されたる冷酒と昼餐とを味つた。午後一時下山、今度は香久山に向つた。各山相互の距離は約一里、極めて規則正しく鼎立して居る事は世人の熟知する通りである。麓の祠前にて同じく祝詞を奏上し、浅野氏は又もや香久山の形せる小石を拾ひ取つた。それから山腹を迂回して絶頂を極め、国常立尊の祠前に於て大祓を奏上した。下山して直ちに最後の畝日山に向ひ、途中橿原神宮に参拝して後、案内の五氏に分れ、一行六名のみで登山した。嗚呼絶頂の夕日の景色、大和の国を一眸に納めたるその美観は譬ふるに物もなかつた。が、一行の胸には四周の風景よりは、無事に三山登臨の御役目を終りたる、無量の歓喜と感謝とが泉の如く湧きに湧き、祠前に立ちて奏上せる祝詞の声量は、平生の幾倍に上り、霊気満身、自から、跳躍を禁じ兼ぬる程であつた。例によりて浅野氏は祠殿の下にて山容其儘の小石を拾つた。山を下る頃には日既に西山に傾きて真紅の光を放ち、同時に東の空には十四日の月まどかに照り出でて、青光を放ちつつあつた。
それから一行は桜井から汽車で○○に赴き、天理教内部の状況を視察し、且つ前日の疲労を医する為に休養すること約一日、二十五日午後三時頃二階堂村杉本なる大和支部に赴き、其夜から翌夜にかけて、最後の講話と幽斎施行に熱心従事した。上田氏夫妻の尽力奔走の結果、遠く奈良方面からの参拝者もあり、又幽斎の結果は見るべき神憑者を生じ、理会者も続出した。大和の国で皇道普及の奔走者は蓋し爰を中心として発生するであらう。三地三様の特色ある人物を引き寄せられたる、神界の御仕組の巧妙なのには真に感歎の外はなかつた。大和支部滞在中の記事として、是非とも書き落してはならぬのは、二十六日夜の月並祭執行中の雷雨であつた。式の開始と同時に猛雨俄かに車軸を流さんばかり、そして雷鳴が之に伴ひ祝詞の声も打ち消さるる程であつた。が、式が済むと同時に雨も雷も名残なく止みて、誠に清朗なる月夜になつた。今回の大和めぐりは雷雨で始まり、雷雨で終り、中々猛烈なる事どもであつた。
二十七日午前十時出発、信者諸氏に送られて帰途に就いた。途中丹波市で一時間許の汽車乗替時間を利用し、一行は天理教本部見物に出掛けた。すると其門前に達する頃墨の如き黒雲むらむらと頭上に湧き出で、やがて本堂に上るか上らぬ中に篠つく如き猛雨が降つて来た。これは天理教大洗濯の兆でもあらう。其時浅野総務は降雨時刻三四分と布告し、人々が傘の用意などに騒ぐのを制して居たが、果して一巡堂内の見物を終つた頃には雨は全く止み、一同潤れもせず、時刻にも遅れず、予定の汽車に乗る事が出来た。かくして其日の午後七時前無事綾部に着き、多数の役員諸氏に迎へられて大本大神に御報告申しあげたのであつた。無論かの三山から拾つた三小石は大本に納められた。(完)