言霊学に就て(一)
王仁
熟ら考ふるに
此至大天球の
裡に偏在充満する一切万有は、
其物の気体たると液体たるとを問はず、
何れも声音
(声と音とは区別あれども今
茲に声音と
連ね書くは声にも非ず、音にも非ず、
全たく両者を兼ねて不二なるものの仮名也)
を発する性質を有せざるはなし。今
如何なる物と
雖も
微かに変動すれば微かなる声音を伴ひ、大に変動すれば大なる声音を伴ふは吾人が日常経験する処なり。さて其声音とは何ぞや、通常理学者の教ゆる処を以てすれば音響なるものは一の振動にして、或物の振動は其振動を媒介物
(主として空気)
に及ぼし、媒介物の振動は吾人の鼓膜に及ぼし、鼓膜の振動は聴覚神経を経て脳に達するに
因ると云ふにあり。
而かも
是れ
唯単に唯物論的形而下の解釈
而己。吾人は
斯かる半面の解説のみにては満足すること
能はず、
尚進で物の振動は何故に種々なる音響となり、
又音響なるものは
如何なる機能を有し、如何なる効果を有するやを知らむと欲するなり。換言すれば吾人の声は気管を通過する空気が声帯
其他の発声機関に触れて発するなりてふ説明以外に
其発声の因たる空気の通過するは何の為なるや、吾人の思料する処は何故に発声機関を
籍りて声となり、
又他より来る声とは何故に吾人の聴管を通じて精神に影響するやを聞かむと欲するなり。
更に
之を
究竟す時は精神とは
如何てふ問題に帰着する也。吾人は
斯かる問題に達しては最早科学の説明より以上の不可思議力、
無礙自在の妙機を認めざらむと欲するも
能はざるものにして、
茲に
全たく科学の圏囲を超脱したる形而上学即ち哲学的領域に入るものなり。古来の哲学宗教が
或は声音なる末流を
遡りて帰納的に絶対不可思議なる本源を認め、
或は無障自在の妙機なる根底より演繹的に声音なる枝葉を説くも
畢竟するに
之が
為のみ。
是無礙自在の妙機絶対の不可思議力こそ実に
所謂宇宙の本体、
独一の
真神、
久遠の仏陀にして、一切の音は即ち
其発現なれば、
大毘盧遮那経(第二具縁真言品)云、秘密主、此真言相非一切諸仏所作不令他作亦不隨喜何以故以是諸法法如是故若諸如来出現若諸如来不出諸法法爾如是住諸真言真言法爾故仝経疏七云以如来身語意畢竟等故此真言相声字皆常々故不流無有変易法爾如是非造作所成若可造成即是生法法若有生則可破壊四相遷流無常無我何得名為真実語耶是故仏不自作不令他作設令有能作之人亦不随喜是故此真言相若仏出興於世若不出世若己説若現説若未説法住法位性相常住是故名必定即象聖同即此大悲万茶羅一切真言一一真言乙相皆法爾如是故重現之也。
又
空海の
声字即ち
実相義に
云く、各教の興りは声字に
非らざれば成せず。声字
分明にして実相
顕はる。
又内外の風気
纔かに発すれば必ず響くを名づけて声と云ふ。響は
必らず声に
由る。声は即ち響の本なり。声発して
虚しからず、必ず物の名を表す、号して字と云ふ。名は必ず体を招く、之を実相と
名く云々と。
是れ声は絶対実在の発現にして、万有一切も
亦絶対実在の発現なれば、
畢竟するに声物一如『絶対声物一如なりと云ふに
外ならず。又新約書の
約翰伝には之を最も巧妙に云ひ現はせり。
云く
太初に
道あり、
道は神と
偕に
在り、
道は即ち神なり、この
道は
太初に神と
偕にありき。万物これに
由て造らる。造られたるものに
一として之に
由らで造られしは無し。之に
生あり、此
生は人の光なり、光は
暗に照り、暗きは之を
暁らざりき云々。それ
道肉体を成て
我儕の間に
寄れり。
我儕その神栄を見に実に父の生たまへる
独子の栄にして、恩寵と
真理とにて充てりと、
是れ
声は即ち
道、
道は即ち神、神即ち万有なりと云ふに
外ならず。
(此点に
於ては基督教も多神教の
一なり)
要するに
是等は釈迦、基督等が認めたる声音即ち絶対説にして、
我言霊学の声音根本説と
相類似せりと
雖も、
其所説たる漠然として
拠る所なく朦朧気に声音の妙気を想像したるのみにして、
我言霊学の如く絶対の真を伝へ、各声の霊気の明確にして整然たるが如きには
非らざるなり。
抑此大宇宙を
我国にては之を
至大天球と云ひ、大宇宙の主宰
之を
天之御中主と云ひ、万有一切之を神と云ひ、此活動力之を結びと云ふ。
「
而して
尚之を言霊学の上より云ふ時は、至大天球は一声に
あと云ひ、天之御中主は之を一声に
すと云ひ、
す分れ発して七十五声となり。此七十五声は結びの力によりて更に発動すれば万声となり、帰り納まれば一声の
すに
蔵る」
是一切
法界の
四大観なり。此四大は即ち
有らゆる声音なり。天之御中主の発動
之れを神と云ひ、神霊元子とは
こころなり、
こころとは絶体の霊機が
此処彼処と発作するの
謂ひなり。此
こころの発作が更に現はれたるもの即ち
こゑなり。
こゑとは即ち
心の柄なり、此声広義一面に又
をとと云ふ、
をととは外より
をに結び
当るものあるに対して
とと結び対するの
謂にして
緒止なり。之を厳格に区別せば、前者は有霊機物、即ち動物(広義)の心的作用による自発的声音なり、音に非ず。後者は無霊機物、即ち植鉱物等の他より迫撃するを
俟て後声音を発するものにして、心的作用なき物の他発的声音なり、声に非ず。
然れども動物の下等なるものは
亦鉱物と区物する
能はずして、
而も一種の声音の質を有するなれば、基本に
遡る時は声と音とは区別なく、其末に
奔る時は人間の声と
雖も其声より心の活きなる観念を控除して考ふる時は
是れ音なり。之要するに声と音とは天之御中主の心が発動したる声音の程度の差によりて
名けられたるものにして、等しく広義に
於ける声なり。
此声音は法界一切の万有となりて形想を現じ、又幽冥に
蔵れて不可思議なり。此巻序発蔵の活機は即ち
所謂結びにして、此結びの力によりて一切法界の生住異滅する状態を
至大天球とは云ふなり。
(高天原(至大天球)の意義は之を大祓に譲る)
されば
至大天球の組成元素は声音なり、音声なければ
至大天球なし。故に此声音は
至大天球と共に存在して
如来の所作に非ず、
真神の所生に非ず、如来真神其物なり。之を真言と云ひ之を
道と云ふ、
道即ち神にして真言即ち仏也。我国にては之を言霊と云ふ、言霊は即ち神なり。神は即ち天之御中主の心なり。此心を種々に動き結びて万有を生す。万有は万別あり、故に万有の言霊
亦万別あり。此声音を大別すれば即ち己に言へりしが如く声と音とに
分る。
而して此声
更に別あり、一は人の声にして他は動物の声なり。人の声は明朗にして数多く、動物の声は混濁にして数
少く、又動物の下等なる者に至りては
僅かに響を有するのみ。即ち霊機の減少するに
従て声
亦減少するなり。
尚又同じく人間にても外人と
我日本人との音声、言語を比較するに、外人の声は総て濁音、半濁音、
拗音、
促音、のみにて、又鼻音を用ゆるもの
頗る多く、日本人の声は直音のみにして、
(但し今の日本の人の声は此限りに非ず)
清明円朗にして各声確然たる区別あり。
外人の声は数多の連続拗曲せるものなるが故に其元声
少く、
(
悉曇五十音、英語二十四音の如し)
日本人の声は一々朗明なるが故に其元声多し
(七十五言なり)
彼等は拗促音を本位として直音を出だし、日本人は直音を本位として拗音を用ゆるなり。
(但し上古は一も拗促音を用いず)
故に外国人が直音を出さむとするも日本人の如く円満朗明なる
能はず、又日本人が拗促音を発せむとするも、外国人の如き曲拗促迫したる音を出す
能はず、両者自ら主客の
位備りて動かすべからず。
例ば
悉曇の
摩多「母音」
◎(ウに用ゆ)
◎(エに用ゆ)
◎(アウヲに用ゆ)の如く、又韻鏡の
字母唇音濁の
並べい へい(
部廻切「きやう ほう けい」にしてバビブベボの韻を受く、歯音清の
精(
子盈切にしてサシスセソの韻を受)等の如し。是等は我国の声にて呼べば
ヲウエイ、
アウ、
ビヤウ、
シヤウ等なれども、本音は
ヲウ、
エイ、
アウ、
ヒヤウ、
シヤウ等なり。故に拗促音を本拠とせる外人より直声を出さむとするには必らず数音を綴り合じ、不足を補ひ余れるを捨て、
所謂反切の結果に非ざれば出すこと
能はざるなり。
況んや又彼等が用ゆる拗促音を出さむとするに
於てをや。即ち
◎は
◎に用ゆる時
始てウの如く活き(
◎◎◎との合なるが故に)
◎は
◎に用ふる時
始めてエの如く活き(
◎は
◎と
◎との合なるが故に 又
並「びやう へい」はバビブベボに活く母字なれども、下に付くイ、ヤウを除かざれば用を為さず、
精はサシスセソに活く母字なれども、下に付くイ、ヤウを除かざれば用を為さず。
徳、
紅切、
東は
徳のクと
紅のコとを切り除かざればトウに成らず。
戸公切
紅も
公のコを切り除かざればコウに成らざるにても
瞭かなり。我国直音を本拠とするものよりすれば
毫も
斯かる困難なし、
尚此等の事、
鈴廼屋大人の漢字三音考に論ぜられたり。
外国人の音は凡て
朦朧と
渾濁りて、
譬へば曇り日の夕暮の
天を
膽るが如し。故にアアと呼ぶ音のオオの如くにも
聞え、又アアオオと呼ぶ音のウウの如くにもホオの如くにも
聞ゆる類、
分暁ならざること多く、又カキクケコとハヒフヘホとワヰウヱヲと
相渉りて
聞えるなど、
諸の音
皆皇国の音の如く分明ならず、又
混雑乱曲の者多し。東西を今の唐音にトンスヰとよぶが如き、トとンと
雑り、スとヰと雑り、又トよりンへ
曲り、スよりヰへ曲る。春秋をチユインチユウと呼ぶが如き、チとユとイとンと雑り、チとユとウと雑り、又チよりユへ曲り、イへ曲り、ンへ曲り、チよりユへ曲り、ウへ曲る。
古の音も皆
如此し。一音にして
如此混雑し、二段三段四段にも
拗れ
曲るは不正の音にして、皇国の音の正しく単直なると
大に異なり、曲らざる音もあれどもそれも皇国の正しき単音の如くには非ず。アア、イイ、ウウ、カア、キイ、クウなどの様に皆必ず長く引きて短かく正しくば呼ぶことあたはず、短く呼べば必ず
韻急促りて入声となるなり。外国の入声は皇国の入声の如きクキツチフ等の
顕はなる韻はなくして単音の如くなれども、正しき単音には非ず。其
尾物に行きあたりたる如くに
急促りて、喉内に隠々として韻を帯べり。此方にて悪鬼、一旦、鬱結、悦気、憶見、甲子、吉凶など
連ね呼ぶときの悪、一、鬱、悦、憶、甲、吉等の音の如し。故に今此書(三音考)に入声の形を云ふには、仮に其音の下に
ツ点を施して
識とす。日月の唐音をジツエツと書くが如し。これ新奇を好むにあらず。其韻を示すべき
仮字なきが故なり。此点を施せるは皆
急促る韻と心得べし。さて
如此く韻の
急促るは甚だ不正の音なり。皇国の音は「い」「ゐ」いかに短かく呼べども正しく
且優緩にして
急促ることなし。又外国には韻をンとはぬる音
殊に多し。ンは全く鼻より出づる音にして口より出づる音に非ず、故に余の緒の音に口を全く
閉ては出でざるに、此ンの音のみは口を
緊く
閉ても出るなり。されば皇国の五十連音
ヽヽヽ『
ヽヽヽヽ是れ誤りなり。此五十連音は下に云ふ
悉曇の出にして濁音、半濁音を除きたるなり。我国には
之れを合して七十五音なり、
大人も之を知られざれば
斯る論あり』
此五位十行の列に入らずして、縦にも横にも
相通ふ音なく孤立なり。然るに外国人の音は
凡て
渾濁て多く鼻に触るる中に、
殊に此ンの韻多きは、
物言に口のみならず、鼻の声をも
厠借る者にして其不正なること明らけし。皇国の古言にはン声を用る者
一もあることなし云々。
是れ主として支那字音に関しての見解なれども、他の外国の声音も
此理にもれず。要之声音は
至大天球中の主宰天之御中主の心の発はれたるものにして、一切万有が享有する
霊機の程度に
由て声と音とに
分れ、声は更に霊機享有の程度に由て、人の声と動物の声とに分れ、人の声は又
更に霊機享有の程度に由て日本人の声と外国人の声とに分れ、
茲に声音の正不正と多少とは明かに霊機の正不正と多少とを示せり。
[#図 声音]
加之我国には其声各活機ありて機能を有し我国に有りと有らゆる言詞は皆
此声に依りて義を現はし心を顕はせるものにして、
彼外国の如く有り来りの無意味なる符号には非ず、
例ば漢字音にて
風を
風と呼ぶ、
而ノウと云ふ者は何の意義を有するや、又
金を
金と呼ぶ、
而(但し
韻鏡学者は種々理屈を付するも
僅かに少数の音に止まり、
且つ完全ならず)して
キンと云ふ音は何の意義を有するや。
其他印度語にても又英仏語にても
如此推究し行けば捕捉する処なきに
了るなり。
是れ世界の語学者が最も苦心しつつある問題にして、
我文部省が国語仮名遣ひの為に焦慮惨憺するも寸功を奏せざるは
必竟根抵なければなり。
若し
此根抵だに有らば、
我国音国語は勿論、支那、印度、英、仏、独語、乃至
禽獣鱗介の声をも解し、又其音を聞けば草木、金、石、糸、竹の種類をも
分つべし。
(但し
是等は吾人通常聞き慣れ居るが故に
大凡は聞き
分ち得るなり)
釈迦は之が功徳を解一切衆生語言多羅尼と云ひ、我国にては之を言霊と云ふ也、言霊とは言葉の
霊なり、霊とは心の枢府なり、即ち吾(小我)心の枢府はやがて天之御中主(大我)の心の枢府なり。
此の心の枢府を言葉の上より観たるもの即ち
吾言霊にして、此言霊はやがて天之御中主の言霊なり。故に此言霊を知る時は
有ゆる一切の言語声音を知り、一切声音言語を知る時は天之御中主全体
即至大天球を知るなり。されば
若し
夫れ
真に此を知りて言霊を用ゆれば、
一声の下に全地球を燎くべく一呼の下に全宇宙を漂はすべし。
況んや微々たる
雷霆を
駆り風神を叱して乃至一国土を左右し、小人類を生殺するに於てをや。
如是言霊、
如是大道、
如是妙術は実に我国の具有なり。故に我国を言霊の
幸ふ国と云ひ、言霊の助くる国といひ、言霊の
明けき国と云ひ、言霊の治むる国と云ふ也。
(
是等は
吾古事記を真解するに
依而明らかなり)
抑も我国が
如此く霊機の
淵叢地として如是大道を具有する
所以のものは至大天球成立の本然に
由るものにして、
猶吾人の一身を司配する精神の宿れる脳髄の如く、至大天球中に於ける脳髄なればなり。彼
藤田東湖が天地正大気粋然鐘神洲と歌へるも朦朧気ながらにも之を想像したればなり。今一歩を降て之を天文地文的関係より観る時は実に我国が地球上に於ける位置、気候、
水土の関係より来るものなりと
謂ふべし。
香川景樹も水土の関係より声音の正不正を論じて
曰く(古今集正義論)
声音は性情の符、性情は水土の霊ならんことさらに論を待つべからず。しかも濁れる中にありては、
善と能く見し
西土の、芳野の花の
美善を書せるに似たるも、百千鳥
侏離のこちたきを免れざれば、彼いはゆる正を得むことはほとほと
稀なるべし。
況んや黄なる泉に染紙のいたく喧擾る
響ひをや。
猶余りの万つ国原、其音すべて直清朗なる事あたはざるは、我が天津日霊の大御照しますらん大御光の遍き際りに疎ければ、水土自然に剛潔ならずして、彼
雑はり濁れる柔土弱水の中に
涵育が故なりとしるべし。されば其の謡へるや譜節もて之を
文どり、
鐘鼓もてこれをたすくといへども、なほ其音
清爽ならず、其
調朦朧なるをいかにせん。独我
安積香の山の井浅からず、清濁る影し見えねば、難波津の何をかわけて善や悪しやをとはん、
臀肉の空しく内木綿の
洞にして天霧さはる隈しなければ金石を仮らずと
雖ども詠ふやただちに天地を感動し、神人和楽かく何ぞ百獣の舞をうらやまん云々
是れ
専ら漢詩を付けて和歌を興さむが為に論ぜるなれども、其
水土に
依る声音性情の関係を論ぜる
大凡の意は
聞ゆるなり。気候水土の関係によりて其国人の性情風俗一切が各特異の点あることは吾人の日常見聞する処にして又
是等天然の勢力が実に偉大なる不可抗力を有するものなることは欧州にても、モンテスキユー、スペンサー等
其他社会学者も等しく認めて論明せる処にして、今此声音の如きも
必竟同理なりと云ふ。我古事記に依る天体学に徴する時は地球は至大天球の中心に位して
稍々西南に傾度を有せり。(地球中心説)
而して
我日本は
其地球の表半球の東北方面の上部に位するが故に
恰も我国は地球面の中央の上に位置するものにして温帯中にあり。
寒暑度を失はず、土壌沃豊にして水気清澄なり。
是を
以て又我国を
豊葦原瑞穂中国と云ふ也。豊葦原とは至大天球の事なり。瑞穂は満つ粋にして
ほは稲草などの穂、又は
鎗の穂先など
謂ひて、精英純粋の処を云ふものにして、満つ粋の国とは地球上に於ける粋気の充満する国の意なり。
(
斯かる水土論は他日具体的に論及することあるべし)
されば其国土に生ずる一切は皆精英の気を
鐘めて
生れ、霊機
亦精英なるが故に其の声
亦精英にして其言霊
亦精英なり。
如是皆
其れ精英なり。故に
曰く直に之を用ゆれば
回天動地の業
亦難からずと、さて
斯く精英なるものを用いむとする時は其の用法
亦精英ならざるべからず、
而して其の用法は実に
我朝廷に於ける天津日嗣の大道妙術にして
所謂言ひ継ぎ語り継ぎつつ伝へ玉へる我国古有の者なり。
然れども崇神天皇の
大御心によりて
一度び秘蔵せられてより
以還暫く其の伝へを失ひ、天下
紊れて儒仏教の伝来となり、之と同時に又外国の語声をも輸入し
来りぬ。
所謂支那字音及び印度
悉曇是也。
爾後我国の道
益々に失ひ、言霊の
弥亡び
斎部広成が如きすら我国上古文字無しと云ふに至り、万葉集時代には己に仮名遣ひの誤れるもの多く、
源順朝臣が我が古語の失はれむことを憂ひて
和名抄を遺したけれども、其和名抄己に
誤あり。
如此き有様なりしかば現在今日まで使用しつつある五十音の此間に
起るに至りしなり。是れ実に印度
悉曇の転化したるものにして、
其が自然の理法に違へること
甚だし。今や崇神天皇以来二千年を経て時
運りて
乾坤一転せむとも、
茲に彼
秘せられたる大道は世に
出でむとするに至りぬ。
然れども
馴致習慣の久しき人
皆彼
誤れるものを以て大道の本然なりと信じ、
反て
此を以て奇異を好める妄誕の説とせむ。故に今
茲に之を
闡明せむとするに際して、
先づ現行五十音の基本なる
悉曇なるもの宇宙真理の正伝に非らざる
所以を
知悉せしめむとす。
然れども
亦住々にして現行五十音が
果して
悉曇に
基くものなるや、否やを知らざるものあるべければ、又更に一歩を
退て五十音の出所を論定し、
而して
後本論に入らむとする也。
抑々従来の片仮名五十音図共に
吉備が作なりと云ひ、又
真言の僧徒が天竺の
悉曇章によりて邦人に固有する声のみを挙げて作りしものなりと云ふ等、
其他異説多くして
詳かならず、吾人は今之が作者の
何人なるやを尋求するは必然の要件に非ずして五十音図
其者の根拠を求めむとするものなるが故に作者の
穿鑿は
姑く之を
借きて問はず、
直に五十音の故郷に入らんとす。さて今之を真言僧侶の手に成れるものとせば、
悉曇の出なることは論を
俟たず、
而して又之を
吉備真備の作なりとするも
仝じく、是れ
悉曇に基くもの也。何者吉備大臣が之を作りしとするも、必ずや入唐帰朝後のことに相違無くして
(唐に居ること二十年、我聖武天皇の天平七年帰朝す)
学び来れる漢音によりて作れるものなるべく、
而して従来支那韻音なるものは
悉曇より出たるものにして、
畢竟同根の出なればなり。
張鱗之が
韻鏡序に曰く
余年二十始得此学字音住昔相伝類曰洪韻釈子子之所撰也有沙門神興号知韻音嘗著切韻図載玉篇
(南梁高祖武帝の大同九年成る)
巻末竊意是書作於此僧世俗訛呼王=洪為洪而己然又無処拠云々、又曰く 梵僧伝之華僧続之云々と、
依て支那韻書も亦
悉曇より転化せるものなるを知るべし。故に
何れにても
我五十音は
悉曇に根拠を有するものなることは
明けし。韻鏡易解大全に曰く
依開大=区抄等堅阿伊宇恵遠五字及横加佐太奈波未也羅和九字者在仏経中余所三十六字
(五十音中、父母音を除きたるもの)弘法大師所加也云々
或は又作者 未分明矣と、又同頭書に曰く 云々三十六字雖大師加之彼十本有伝来非云新加之乎と、今五十音父母音を除きたる余りの三十六字は空海が加へたりとするも、
若くは
否らずとするも、己に父母音にして彼に存し、其音字の配列順序にして両者同一なる点より考ふるときは最早疑ふの余地なかるべし。
[#図 五十音図]
以下悉曇の活字無きを以て○点を以て其配置を示す。
[#ここに図表2枚(母音と父音の図)が入るが省略]
前記の如く
悉曇には母音十二字あり之を摩多と云ひ父音三十五字あり、之を体文と云ふ。
而して我国の五十音図の父母音は皆右の中の同類音を一音に約したるものなり、即ち「 」印を付したるは其約音を除去すれば、アイウエオ、
及カサタナハマヤラワを残し、此父母
交はりて他の三十六音を生ずるなり。依之観之正しく
我五十音図は此
悉曇図を襲へるものなるは明白なり。
但し此図は之を
襲用せるものなるも、声音は之を襲用せるものに非ずして正しく我国の声なり。
(上古よりは多少の変化あれども、之を襲ふも其類似の声の位置を借りたる者なり迷ふべからず)
印度人の声は到底日本人の声とは同一ならざるなり。
「但し吾人は
悉曇専門の研究家に非ざれば、
或は時に
些末の
誤謬なきを
保し難し、
謹みて大方識者の高諭を仰ぐ」