霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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大本言霊解

インフォメーション
題名:大本言霊解 著者:王仁
誌名:神霊界 掲載号: ページ:3
概要: 備考: タグ: データ凡例:共通凡例B データ最終更新日:2021-06-08 15:09:48 文字数:25304 OBC :M192919190915c01
大本言霊解

      王仁

△大本(おほもと) オホモトの言霊(ことたま)を略解(りやくくわい)すると、オの声はア行の第五段、即ち出(いつ)なり、厳(いつ)なり、稜威(いつ)である。アの行は総て天位(てんい)にして親音(をやおん)であるから、各横音(よこおん)に響く。之(これ)を天津(あまつ)祝詞(のりと)に筑紫(つくし)之(の)日向(ひむか)之(の)橘(たちはな)の大戸(をど)と示されてあるのである。

(一)、オの言霊は、起也、貴(とほとい)也、高(たかい)也、於(うへ)なり、興(をこ)し助(たす)くる言霊也、大気(たいき)也、大成(たいせい)也、億兆(をくちやう)の分子(ぶんし)を保ち且(か)つ分子(ぶんし)の始末(しまつ)を知(し)る居(を)る也、心(こころ)の関門(かんもん)なり、受納(じゆのう)の義(ぎ)なり、真愛(しんあい)の引力(いんりよく)也、権利(まこと)強き也、先天(ちちはは)の気(もの)也、大地(だいち)を包裏(つつみ)居(を)る也。漸々(ぜんぜん)に来(きた)り凝(こ)る也。外及(そとをまもる)也等(とう)種々(しゆじゆ)の活用(かつえう)ある言霊である。

(二)、ホの言霊は、天地(てんち)万物(ばんぶつ)の始(はじめ)也、母(はは)也、矛(ほこ)なり、隠門(ほと)也、臍(ほぞ)也、ヽ(ほち)也、袋(ふくろ)也、日(ひ)の霊(れい)也、上(うへ)に顕(あらは)る言霊なり、天(てん)の心(こころ)なり、照(てり)込(こ)む義(ぎ)なり、火(ひ)の水(みづ)に宿(やど)る也、掘(ほり)也、帆(ほ)也、父(ちち)也、太陽(ひ)の明分(ほ)なり、心(こころ)に写(うつ)る也、恋(こ)ふるなり、見止(みとむ)る也等(とう)、種々(しゆじゆ)の活用(かつえう)ある言霊である。

(三)、モの言霊は、舫(もやふ)也、塊(かたまる)也、亦(また)也、者(もの)也、累(かさね)也、与(くむ)也、円満(ゑんまん)を主(つかさど)る也、下(した)に働(はたら)く言霊也、世(よ)の芽出(めで)也、天之手(てんのて)也、数(かず)寄(よ)り数(かず)成(な)る義(ぎ)也、伸縮(のびちぢみ)有(あ)る也、遂(つひ)に凝固而(こりかたまつて)物(もの)と成(な)る也、本元(ほんもと)也、土(つち)の上面(うはつら)也、水(みづ)の坐(ざ)なり、分子(ぶんし)の精(せい)也等(とう)種々(しゆじゆ)の活用(かつえう)ある言霊である。

(四)、トの言霊は、男(をとこ)也、轟(とどろく)也、解(とく)也、基(もとひ)也、人(ひと)也、昇(のぼる)也、万物(ばんぶつ)の種(たね)を宰(つかさど)つて一より百千の数(すう)をなし、タ行(ぎやう)は総(すべ)て前駆(ぜんく)の意義(いぎ)ある言霊也、十(とう)也、能(よ)く産(う)み出(いだ)す也、結(むす)び徹(とほり)足(た)る也、皆(みな)治(をさま)る也、結(むす)びの司(つかさ)也、形(かたち)の本源(ほんげん)也、八咫(やあた)に走(はし)る也、世(よ)の位(くらい)也等(とう)、種々(しゆじゆ)の活用(かつえう)ある言霊である。

△以上オホモト四言(げん)を更に略解(りやくかい)する時は、次の如き活用を示す事になるのである。

   (一) (オ)の言霊(ことたま)

(一)起(をこる)也。神諭(しんゆ)に一旦(いつたん)此(この)世(よ)が潰(つぶ)れて了(しま)ふ所を、艮(うしとら)の金神(こんじん)が引(ひき)受(う)けて、潰さぬ様(やう)に守護(しゆご)いたして来たのであるから、神も人民も守護神も目を覚まして、それぞれ今度の御用(ごよう)に御起(おた)ちなされよとの神宣(しんせん)は、起(をこる)也の言霊の活用である。

(二)貴(とうとい)也。神諭に綾部の大元(おほもと)は、今では粗末にしてあれ共(ども)、先に成りて神界の誠の仕組(しぐみ)が解(わか)りて来たら、世界中に外(ほか)には無い貴(とほと)い所に成るので在(あ)るぞよと在り、且(かつ)又(また)貴(とほと)き天神(てんじん)地祇(ちぎ)[*底本ではフリガナは「ちぎ」ではなく「ちじ」。]の昇降(しようかう)し玉(たま)ふ霊地(れいち)にして、貴人(きじん)高位(かうい)の人々の集まりて神業(しんげう)を補佐(ほさ)するてふ言霊である。

(三)高(たかい)也。神諭に大本(おほもと)は地(ち)の高天原(たかあまはら)であると出てある。世界の中心、最高最尚(さいせう)の神人(しんじん)集合して、高き功名(こうめう)を顕(あら)はすてふ言霊である。

(四)興(おこし)助(たすく)る言霊也。大気(たいき)也、大成(たいせい)也、恰(あたか)も地獄のドン底(そこ)まで落(おち)込(こ)み、行詰(ゆきつま)りたる社会を興(おこ)し助けて、神政(しんせい)を成就し、神の大(だい)気吹(いぶ)きに由(よ)りて濁世(だくせい)を払拭(ふつしよく)し、至聖(しせい)至楽(しらく)の神世(しんせい)を大成する神の出現あるべき言霊である。

(五)億兆(をくちやう)の分子(ぶんし)を保ち、且(か)つ分子の始末(しまつ)を知り居(を)る也。神諭に三千世界の神、守護神、人民、餓鬼、虫、樹草(きくさ)に至るまで、神の恵(めぐみ)に由(よ)つて、各自に其(その)所(ところ)を得せしめるとある所以(ゆえん)である。亦(また)三千世界の一切(いつさい)万事(ばんじ)の事は、塵(ちり)程(ほど)の事でも、艮の金神は調べ抜いてあると出て居(を)る所以(ゆえん)である。

(六)心(こころ)の関門(かんもん)なり。世界の人民の心の関門を開(ひら)ひて、真理の蘊奥(をんのう)[*底本ではフリガナは「をんのう」だが、一般的には「うんあう」。]を覚(さと)らしめ、神の御国(みくに)に導き助(たす)くてふ言霊の活用である。亦(また)如何(いか)なる頑迷(がんめい)不霊(ふれい)の人と雖(いへど)も、此(この)大本(おほもと)に或(あ)る一定の時間参詣(さんけい)して、神の美(うる)はしき御声(みこゑ)を聞き、且(かつ)又(また)その偉大なる神力(しんりき)に接する時は、必ず心の関門の開(ひら)けて、心中(しんちう)に神国(しんこく)を建設し得(う)るてふ言霊の活用である。

(七)受納(じゆのう)の義(ぎ)也。三千世界一切の宝は全部○○の物になるぞよとの神諭の出(い)でたる所以(ゆえん)である。今迄(いままで)悪の守護神が此(この)世を持荒(もちあら)して、上げも下ろしも、行きも戻りも成らぬ如(よ)うにワヤに乱した世界を、艮の金神が天(てん)の大神(おほかみ)様から一旦受(うけ)取(と)り申して、建替(たてかへ)建直(たてなを)しを遂行(すいかう)致して、三千世界の総方(そうほう)様へ御目(おめ)に懸(か)ける、大謨(たいもう)な経綸(しぐみ)であるぞよとの、神諭に出(い)でたる所以(ゆえん)である。又(ま)た竜宮の宝を陸(あげ)の竜宮館(りうぐうやかた)の高天原(たかあまはら)へ御(お)納(をさ)め遊ばすのを、艮の金神が御預り申すぞよとの神諭の出(いで)たる所以(ゆえん)である。

(八)真愛(しんあい)の引力(いんりよく)也。神の仁徳(じんとく)愛護(あいご)を発揮して、仁愛神(みろく)の神政を布(し)き、天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)の真王(しんわう)仁君(じんくん)に引き付けられ、万国(ばんこく)の民(たみ)来朝(らいてふ)して、神徳、君恩(くんをん)を欣慕(きんぼ)し、真正(しんせい)の天下泰平を来(きた)すてふ言霊である。神諭に、艮の金神は世界一切を助ける神であるから、此(この)真相(まこと)が世界に判りて来たら、世界中の人民が歓(よろ)こびて、我(われ)も我(わし)もと申して出て参る世界の大元(おほもと)に成るぞよと出てある所以(ゆえん)である。又(また)一度綾部(あやべ)の霊地を踏み、神徳に浴(よく)した以上は、堂(どう)しても此(この)地を忘るる事が出来ぬやうに成り、神縁(しんえん)深き人は遂(つひ)に神の綱(つな)に曳(ひ)き付けられ、家族を挙げて移住し、神務に一身を投ずると云ふ言霊である。

(九)権利(まこと)強き也。権利(けんり)はマコトである。誠(まこと)ほど[*底本では「ほど」ではなく「ほぞ」。]世の中に強いものは無い。併(しか)し三百代言(だいげん)等(とう)の唱(とな)ふる権利(けんり)なるものとは、天壌(てんぜう)の相違ある事を付言(ふげん)して置きます。神諭に此(この)大本(おほもと)は真(しん)の神の誠(まこと)の教(をしへ)で開(ひら)く、神界(しんかい)の地場(ぢば)であるから、絶対無限の権利(けんり)を保つから、誰が何(な)んと致しても微駆(びく)とも致さぬ、尊い、世界に外(ほか)に無い誠の経綸(しぐみ)の場所であるぞよと出て居(を)る所以(ゆえん)である。本春以来全国の言論界から無限の悪言(あくげん)毒筆(どくひつ)を以(もつ)て包囲攻撃され、其(その)筋(すじ)からは疑惑の眼(まなこ)を以(もつ)て、綿密周到なる調査を受けたるにも拘(かか)はらず、一片(いつぺん)の不都合も無く、思神(ししん)、思国(しこく)、思君(しくん)、思民(しみん)の至誠(しせい)を認められたのは、全くマコト強きの致す所である。却(かへつ)て大本(おほもと)の基礎は益々(ますます)強固となり、社会の渇仰(かつこう)信用は、日に月に増大しつつ在(あ)るも、権利(まこと)強き言霊の活用である。

(十)先天(ちちはは)の気(もの)也。先天(せんてん)的に神界の御用を勤(つと)むる、変性(へんぜう)男子(なんし)と変性(へんぜう)女子(によし)の御魂(みたま)が出顕(しゆつけん)して、宇宙の修理固成(こせい)に任(にん)ずるてふ、言霊の活用である。変性男子即ち厳(いづ)の御魂(みたま)は、三千世界の父の役を勤め、変性女子即ち瑞(みづ)の御魂(みたま)は三千世界の母の役を勤め、至上至高の神世(しんせい)を樹立し玉ふ、言霊の活用があるのである。

(十一)大地(だいち)を包(つつ)み居(を)る也。大地一切の動植物を包羅(ほうら)し、之(これ)を安息せしむる、大神(おほかみ)の威徳(いとく)を顕(あら)はすてふ、言霊の活用である。即ち神諭に大地の上の一切のものは、大(おほ)国常立(くにとこたちの)尊(みこと)が司配(しはい)し守護いたすぞよと顕(あら)はれある所以(ゆえん)である。

(十二)漸々(ぜんぜん)に来(きた)り凝(こ)る也。神諭(明治二十七年)に、此(この)大本(おほもと)は今では何(な)んでも無い粗末(そまつ)な処(とこ)であれども、行く先は世界から漸々(ぜんぜん)に結構な人民や御魂(みたま)が寄りて来て、神の御用を致すやうに成るから、そうなりたら、巌(いわ)に松が生えた如く凝り固まりて、神国(しんこく)の結構な御用を致すやうに成りて来て、三千世界に外(ほか)に無い、誠一つの凝(かた)まりが出来て来て、三千世界を助ける地(ち)の高天原(たかあまはら)と相(あい)成(な)るぞよ。是(これ)からは誠の人が漸々(ぜんぜん)寄りて来て、日本魂(やまとだましい)の凝(こ)りて、世界の善の鏡を出す所(ところ)に成るぞよと、顕(あら)はれある所以(ゆえん)であります。

(十三)外(そとを)及(まもる)也。神諭に艮の金神は日本(にほん)斗(ばか)りで無いぞよ。海の外(そと)の異国は申すに及ばず、宇宙の守護を致す大本(おほもと)で在(あ)るから、大地の外面(そと)までも守護を致すぞよとの神諭の出(い)づるも、オホモトの反(かへ)しオの言霊の活用あるからである。

   (二) (ホ)の言霊(ことたま)

(一)天地(てんち)万物(ばんぶつ)の始(はじめ)也。天地(てんち)の初発(しよつぱつ)に伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の二神(にしん)が、アナニヤシエオトコヲト詔(の)り竟(を)えて御合(みあひ)ましし時に、ヽ(ほち)とホの霊(みたま)現(あら)はれ、其(その)御霊(みたま)⦿『○は女神(によしん)の水(みづ)、ヽは男神(をしん)の火(ひ)』是(かく)の如(ごと)く此(こ)の霊(みたま)の現(あらは)るを淡路(あはぢ)穂(ほ)狭(さ)別(わけ)の島を生むと云ふ。其(その)ホの霊(みたま)が右に割別(さきわか)れて気(いき)起(おこ)り、オの霊(みたま)をなし、左に割別(さきわか)れてヲの霊(みたま)を成し、次に気(いき)脹(ふくるる)のヘの霊(みたま)起(をこ)り[*底本では「起」ではなく「越」。]、右に割別(さきわか)れて天地の胞衣(ゑな)のエ霊(みたま)を成し、左に割別(さきわか)れて胞衣(ゑな)搦(から)むのワ行のヱの霊(みたま)をなし、其(その)胞衣(ゑな)の中より水火(いき)二つに別(わか)れんとして、フの霊(みたま)起(おこつ)て吹き、右に浮昇(うきのぼ)り[*底本では「浮」ではなく「浄」。]、ウ(ア行)の霊(みたま)起(をこ)り、左に渦(うづ)巻き降(くだ)るウ(ワ行)の霊(みたま)起(をこ)りて、竟(つい)にヒの霊(みたま)起(をこ)りて火と成り、次にミの霊(みたま)現はれて水(みづ)と成り、亦(また)水は火の為に割別(さきわか)れて昇る水火(いき)の(火水(ほし)と現(あらは)るなり)イ(ア行)の霊(みたま)を成し、火の霊(みたま)は左に割別(さきわか)れて引く水火(いき)のヰの霊(みたま)を成し、(水火(しほ)と現(あらは)る也)次に水火(いき)放(はなる)のハの霊(みたま)起(をこ)りて、水の気(き)は月となりて右に割別(さきわか)れて、アの霊(みたま)を現じて天を成し、火の気(き)は日と現(あらは)れて左に割別(さきわか)れてワの霊(みたま)と現(げん)じて地(ち)を成し、水の霊(みたま)の月は朧(おぼろ)にして形を茲(ここ)に見せず、火の霊(みたま)の日は形を茲(ここ)に現(げん)ず。故(ゆへ)にア行は天を宰(つかさど)り、ワ行は地を宰(つかさど)り、ハ行は地の方(ほう)を宰(つかさど)り、(此(この)アワの二行はホの一言(げん)より割別(さきわか)れ以(もつ)てアワ道(ぢ)のホの狭別(さわけ)と云ふなり)
 次にアの霊(みたま)の水は、ワの霊(みたま)の火とを文(あや)にして、ヤの霊(みたま)起(をこ)り、次にア行のイとワ行のヰとを文(あや)にして、入(い)る息(いき)のイの霊(みたま)起(をこ)り、次にア行のウの水(みづ)とワ行のウの火(ひ)と文(あや)にしてエの霊(みたま)起(をこ)り、次にア行のエとワ行のヱと文(あや)にして、昼夜(ひるよる)の胞衣(ゑな)のエの霊(みたま)をなし、次にア行のオとワ行のヲとを文(あや)にして、水火(いき)を与(くむ)のヨの霊(みたま)起(をこ)りて引く水火(いき)定(さだ)まり、然(しか)して出る水火(いき)の正中(せいちう)にノネヌニナと起(をこ)りて、総(すべ)て水火(すいか)の中に位(くらい)す。是(これ)を伊予(いよ)の二名(ふたな)島(じま)と云ふ。(伊予(いよ)とは息与(いよ)なり。二名(ふたな)とは出る入(い)る息の二つの中と云ふ事なり。島とは行(しま)の事なり。)
 次にラリルレロと起(をこ)つて引く息を搦(から)みて降(くだ)る。(ナニヌネノは清(きよ)き水にて昇(のぼ)り、ラリルレロは濁水(だくすい)にて降(くだ)る)是(こ)れを筑紫(つくし)ノ島(しま)と云ふ。此(この)濁水(だくすい)降(くだ)るに従(したが)つて、引息(ひくいき)の火(ひ)の霊(みたま)弥々(いよいよ)凝(こ)りて、コの霊(みたま)起(をこ)り、ロの濁水(だくすい)と与(くみ)て水火(しほ)塊(かたま)るのソの霊(みたま)を起(をこ)して地(ち)の初(はじめ)をなす。其(その)初(はじめ)を成すに従(したが)つて、差別(けじめ)分(わかつ)のケの霊(みたま)起(をこ)り、其(その)差別(けじめ)別(わか)つて従(した)がつて、水火(すいか)与(く)むのセの霊(みたま)起(をこ)りて瀬(せ)となり、其(その)瀬(せ)と成すに従つて、クの霊(みたま)起(をこ)りて土(つち)を成す。其(その)土(つち)を成すに従つて、スの霊(みたま)起(をこ)つて洲(す)と成り、その洲(す)現(あらは)るに従つて火(ひ)の気(いき)のキの霊(みたま)起(をこ)りて雲(くも)、霧(きり)霞(かすみ)も晴(はれ)て、カの霊(みたま)起(をこ)りて日も暉(かがや)いて影を成し、其(その)暉(かがやき)に従(したがつ)て洲(す)の上(うへ)にシの霊(みたま)の水(みづ)起(をこ)りて(此(こ)のシの水(みづ)を清水(しみづ)と云ふ。清(せい)は借字(しやくじ)也)
 次にサの霊(みたま)起(をこ)りて上(うへ)に割別(さきわか)れて昇り、カ行は伊邪那岐(いざなぎの)神(かみ)、サ行は伊邪那美(いざなみの)神(かみ)、此(この)二行(ぎやう)の水火(いき)誘(さそ)ひ双(なら)ぶを二神(にしん)の御名(みな)とす。カ行を伊岐(いき)島(しま)と云ふ。(伊岐(いき)は息(いき)なり)サ行を津(つ)島(しま)と云ふ。(ツは水(みづ)にして津(つ)也)此(この)二行(ぎやう)起(をこ)るに従つてラ行の濁水(だくすい)弥(いよいよ)収(をさ)まるなり。生(うまれ)て両眼(れうがん)を閉(と)づるは、総て口中(こうちう)の水を宰(つかさど)る也。小児(せうに)の涎(よだれ)、或(あるひ)は生長して言語の別(わか)ち悪(あ)しきも、皆(みな)此(この)ラ行の濁水(だくすい)収(をさ)まらざるの故なり。呼吸(こきゆう)に在(あ)つて離れず閉(と)づるは、ラ行の濁水(だくすい)にして、開(ひら)くはカ行サ行の活用也。故に此(この)二行起(をこ)りてより、澄(すめ)めるものは昇りて天と成り、濁(にご)れるものは降(くだ)りて地と成り、人の言語の別(べつ)を成す。然(しか)して二柱(ふたはしら)の水火(いき)和(わ)して伊邪那美の気(いき)は水中(すいちう)の火(ひ)と成りて降(くだ)る。是(これ)をタ行と云ふ。万物の種(たね)を宰(つかさど)つて、一より百千の数(すう)を成す。其種(たね)を宰(つかさど)るのタの霊(みたま)現(あら)はる。種は一粒よりして百千の数(すう)を成し、次にチの霊(みたま)現(あら)はれて、チは一より始(はじま)りて百千の数(すう)を成し、次にツの霊(みたま)現(あら)はれ、ツは続(つづき)連(つらな)る義にして、一より二に続き連なりて百千の数(すう)に及び、次にテの霊(みたま)現(あら)はれ、手(て)の名は一にして左右あり、合(がふ)して百千の数(すう)を成し、次にトの霊(みたま)現(あ)らはれ、トは人の霊(れい)也。人の名は一にして女男(めを)あり。女男(めを)与(くみ)て百千の数(すう)に及ぶ。此(この)行(ぎやう)総て万物の霊根(たね)のヽ(ほち)を宰(つかさど)る。是(これ)を佐渡(さど)の島(しま)といふ。(サは細(さい)也、トは火(ひ)也。細(さい)なる火を宰(つかさど)る行(ぎやう)と云ふ事なり)
 次に伊邪那美の気(いき)の火中(かちう)の水(みづ)と成りてマ行現(あら)はる。此(この)行は潤水(じゆんすい)にして、タ行の火は与(くみ)舫(もや)う。(此(こ)のマ行の水は真水(まみづ)と云ふ。真(ま)は借字(しやくじ)也)故にモの霊(みたま)起(をこ)りてタ行と舫(もや)い、メの霊(みたま)起(をこ)りて陰陽(いんよう)回(めぐ)り、ムの霊(みたま)起(をこ)りて陰陽睦(むつ)み、次に月の霊(みたま)のミは、前にヒの霊(みたま)と共に起(をこ)ると雖(いへど)も、陰陽朧(おぼろ)にして光を成さず、茲(ここ)に至つてラ行の濁水(だくすい)収(をさ)まり、カ行、サ行の水火(いき)澄(すみ)昇(のぼ)るに従つて、始めて光を現(あらは)して照(てり)暉(かが)やき、マの霊(みたま)起(をこ)りて円(まどか)を成し、然(しか)して亦(ま)た月の霊(みたま)のミはムと睦(むつ)み、メと回(めぐ)り、モと日月(いき)舫(もや)い、日月(ひつき)[*底本は「日月」に「つきひ」とフリガナ。]もやいて万物を生じ、人(ひと)及び鳥獣(ちようじう)草木(さうもく)悉(ことごと)く現(あらは)れて、一世界満足なり。即ちタ行水中(すいちう)のヽ(ほち)とマ行火中(かちう)の水と与(く)み舫(もや)いて、御霊(みたま)⦿斯(かく)の如し。○(まるき)は万物の子宮(しきう)にして、ヽ(ほち)は万物一滴の種なり。是(これ)を大倭(おほやまと)豊(とよ)秋津(あきつ)島(しま)と謂(い)ふ也。即ちオホモトのホの言霊は、天地万物の始元(しげん)にして、○(まる)き世界に一の神霊を現(あら)はし、⦿(す)の御国(しんこく)[※「御国」にフリガナ「しんこく」は底本通り。]を建設すべき言霊、自然の活用を有するのである。皇国(くわうこく)をホヅマの国、又はミヅホの国と称するも、ホの言霊の活用ある故なり。

(二)母(はは)也。天地救済の母親神(ははをやがみ)なる瑞(みづ)の御魂(みたま)の大神(おほかみ)顕現(けんげん)して、蒼生(さうせい)を平(たひら)けく安(やす)けく、治め玉ふ意義の言霊である。亦(また)母と云へば一切万物を産(うみ)出(いだ)し、且(か)つ是(これ)を輔育(ほいく)する活用があるのである。

(三)矛(ほこ)也の言霊活用あれば、時に随(したが)ひ物に触れ、八千矛(やちほこ)を向けらるる如(よ)うな事が幾度(いくど)もある。旭日(きよくじつ)昇天(せうてん)の勢(いきほ)ひ日に月に加はり来(く)る大本(おほもと)の成功を羨望(せんぼう)する余り、遂(つひ)に反対行為に出(い)づる者が次第に殖えて来るのも、矛(ほこ)也の言霊の活用である。大本(おほもと)には手品の種が在るとか、山(やま)カンじやとか、意外の事を発見したとか、今に大本(おほもと)にヱライ事件が突発するから、今の内(うち)に脱退して我(われ)に従(した)がえ、然(しか)らざれば一生世間へ顔出しの成らぬ様な事が出来(しゆつたい)するとか、教主の手品に掛(かか)つて居(を)る幹部の役員は御気(おき)の毒(どく)じやとか、秘密の証拠を握つたとか、神霊界の記事は云々(うんぬん)とか謂(い)つて折角の熱心な信者を天(あま)之(の)沼矛(ぬぼこ)(舌(した))や筆紙(ひつし)に托して迷はせ、地獄のドン底へ抱(だ)き落(をと)しに掛(かか)るものが出来て来る言霊もあるから、大本(おほもと)の役員信者は大(おほい)に注意をして貰(もら)はねば成らぬのである。何程(なにほど)大本(おほもと)の役者が至誠(しせい)通神(つうしん)的の活動を行(や)つて居(を)つても時としては矛を向けられ、又は反間苦肉[*底本では「反間」ではなく「反感」。]の奸策(かんさく)に乗せられ、失敗する事があるから、大本(おほもと)の真相を充分に探査して、真(しん)に大本(おほもと)を解(かい)して居(を)つて貰はぬと、トンダ失策をする事がある。神諭に出てある通り、実に世間に顔出(かほだし)の出来ぬ様(やう)な事が出来(しゆつたい)するのであります。兎角(とかく)この大本(おほもと)は神界の仕組(しぐみ)で行く処(とこ)で、人心(じんしん)小智(せうち)の窺知(きち)[*底本のフリガナは「きち」ではなく「きうち」。]すべき所で無いから、人間の誘惑にかからぬ様に、誠心誠意の信仰と研究を望まねばならぬ。

(四)隠門(ほと)也。ホトは人体に取りては女の要処なり。隠れたる所なり。天地経綸(けいりん)の司宰者たる人間を生み出す枢軸である。地上に取りては世に顕(あら)はれざる主要なる地点である。然(しか)れども時(とき)満(み)つる時は大(おほい)に現(あら)はれ、万物を発生し、化育し、天下国家の真柱(しんちう)を産み出すてふ言霊である。

(五)臍(ほそ)也。ホソは人身(じんしん)の中府(ちうふ)にして、所謂(いはゆる)臍下(せいか)丹田(たんでん)の上である。一身上の高天原で、天之岩戸である。即ち一身上の守護神の鎮坐(ちんざ)所(しよ)である。之(これ)を大地の上から見れば、大地の中心である。日本を極東と称するは地理学上の見地からである。大地固成(こせい)の上より、地質学上より見れば、日本は大地の中心であり、綾部は日本の中心で、下津(したつ)岩根(いわね)の地の高天原で、世界の大守護神の鎮坐せらるべき言霊である。

(六)ヽ(ほち)也。ヽ(ほち)は世の始(はじめ)の霊(みたま)である。艮(うしとら)の頭(かしら)にヽ(ほち)を加ふれば良(りよう)となる。良(りよう)はヨロシキともナガシとも訓(よ)む。艮(うしとら)はトドメともカタムルともハジメとも訓(よ)む。世の元(もと)のハジメの生神(いきがみ)が現(あら)はれて、三千世界を造りカタメて、最後(さいご)のトドメを差し玉ふは艮の金神である。艮(うしとら)の頭(かしら)にヽ(ほち)を加へて、即ち一霊(いちれい)天(てん)より下る時は良き世を招来(せうらい)し且(かつ)又(また)末(すゑ)ナガキ松の世を出現すると云ふ言霊の活用である。

(七)袋(ふくろ)也。袋は一切物品を蔵(をさ)むる意義である。一度此(この)袋に容(い)れられた以上は、容易に出る事は出来ぬ。是(こ)れを出したり入(い)れたりする権利ある者は、袋の持主(もちぬし)である。綾部の神宮(しんぐう)坪(つぼ)の内(うち)と云ふ地名は、袋の言霊活用である。一度真愛(しんあい)なる神の霊地に参詣し、神の恵(めぐみ)の御綱(みつな)が懸(かか)つた以上は、袋の持主なる大神の許し無しには、自由行動を取る事は出来ぬのである。一旦大本(おほもと)の教(をしへ)に入(い)り、中途に少々の誤解を生じ、大本(おほもと)を悪罵(あくば)しつつ、脱走した人でも或(あ)る一定の期間を経過すれば必ず前非(ぜんぴ)を悔(く)ひ、神界に謝罪して、亦(また)元(もと)の神宮(しんぐう)坪(つぼ)の内(うち)の霊地へ立(たち)戻(もど)る如(よ)うになつて来ると云ふ言霊である。神諭に『大本(おほもと)の大橋(おほはし)越(こ)えて未だ前(さき)へ、行衛(ゆくゑ)判らぬ跡(あと)戻り、慢神(まんしん)すると其(その)通り』と出てをりますが、一旦力(ちから)一杯[*底本では「杯」ではなく「抔」。]反対行動を為(し)た人が、改心して再び大本(おほもと)へ立(たち)戻(もど)り、大神の仁慈に浴(よく)した例(ためし)は、今迄(いままで)に数え切れぬ程(ほど)ある。現(げん)に目今(もくこん)反対行動を取つて、無暗(むやみ)に活動を続けて居(を)る人もあるが、是(これ)等(ら)の人々も必ずや前非を悔ひ、改心の情(ぜう)を表(あらは)して、再び大本(おほもと)へ帰り来(く)るべき運命を持つて居(を)るのである。可成(なるべく)はズツト此(この)侭(まま)信仰を続けて我(わが)真心(まごころ)を大神に認めらるる様に致したきものであります。

(八)日(ひ)の霊(みたま)也。天照皇(あまてらす)大神(おほかみ)の威霊(いれい)、国祖(こくそ)の大神を輔(たすけ)て、日本(にほん)国(こく)の霊能(れいのう)を中外(ちうぐわい)に発揮し、天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)を万世不朽(ふくつ)[※フリガナ「ふくつ」は底本通り。]に守護し玉ふ霊地である。皇道(くわうだう)大本(おほもと)が敬神と尊皇(そんわう)の神旗(しんき)を神風(しんぷう)に翻(ひるが)へし、天下万民の為に永年(えいねん)奮闘を怠(をこた)らないのも日の霊(みたま)也の言霊に支配されつつあるからであります。

(九)上(うへ)に顕(あら)はるる言霊也。天地の間に人の眼(め)にて見る能(あた)はざる火水(ひみづ)がある。是(これ)を火水(かみ)とも云ふ。神(かみ)と唱(とな)ふるは体(たい)であつて、水火(いき)と唱ふるは用(よう)である。故に陰陽と陰陽と与(く)みて万物を産むのである。人の胎内に火水(ひみづ)あり、是(これ)を霊水火(たましひ)と云ふ。亦(ま)た気(いき)ともいふ。魂(たましひ)と唱ふるは体(たい)にして、息(いき)と唱ふるは用(よう)である。故に息(いき)と息(いき)と与(く)みて言(ものいひ)、気(き)と気(き)と与(く)みて人を産むのである。変性男子の御魂(みたま)は一名厳(いづ)の御魂(みたま)と唱へ、火の体(たい)にして、大本(おほもと)教祖の御神務である。変性女子の御魂(みたま)は一名瑞(みづ)の御魂(みたま)と唱へ、水の体(たい)にして、大本(おほもと)教主の天職である。故に教祖を火となし、教主を水として、大神界の経綸(けいりん)が、秀妻(ほづま)の国の中心、地の高天原に行(をこな)はれつつあるのである。真実(しんじつ)の火は象形(かたち)の無きもの、是(これ)を火の体(たい)と云ふのである。此(こ)の火が象形(かたち)を見(み)する時は、必ず火中(かちう)に水がある。故に良く燃える。是(これ)を火の活用と云ふのである。大本(おほもと)の神々の経綸(しぐみ)が完成するのも、変性男子の火の中へ変性女子の水が入(い)り込んで助(たす)くるから、火の活用が上に高く顕(あら)はれ、ホノヲと成つて天をも焔(こが)す勢(いきほひ)となるのである。亦(ま)た実(まこと)の水には象形(かたち)無し。是(これ)を火の体(たい)と云ふ。此(こ)の水の象形(かたち)を見(み)する時には、必ず水中(すいちう)に火がある。故に良く流れ動いて水の活用を遂(と)ぐるのである。以上は火も水も共に体(たい)と用とを略述して見ましたが、今度は火と水とに就(つい)て、体用(たいよう)の区別を述べて見ようと思ふ。火、水と並び唱ふる時は、火は体(たい)にして水を動かし、水は用にして火に動かさるものである。火は元来(ぐわんらい)動かずして音(をと)無く、水は動いて音を発するのである。故に変性男子の火は動かず、音も成さないけれども、其(その)火に動かされつつある。変性女子の水は大変に動けば動くほど音を為すものである。古典を按(あん)ずるに、天照(あまてらす)大神(おほかみ)(火)と素盞嗚(すさのをの)尊(みこと)(水)との誓約(うけひ)の後(の)ち、火たる天照大神は、天之岩戸に深く隠れて少しも動き玉はず、水たる素盞嗚尊は火に動かされて、山川(やまかわ)草木(くさき)悉(ことごと)く動揺せしめ、天地皆(みな)震動したのも、水の御魂(みたま)の活用である。大本(おほもと)の変性男子即ち教祖様は、火の御用であつたから、明治二十五年から大正七年まで、前後二十七ヶ年の永い間、一室に閉じ篭(こも)り、大神に奉仕さるる傍(かたはら)、昼夜(ちゆうや)を分(わか)たず、机に向(むか)つて神諭の御用を専(もつぱ)ら遊ばし、少しも表(をもて)え現(あら)はれての活動は無かつたのも、火の体(たい)の御役目であつたからであります。故に動かずして音も無く世間からの反対も、部下の中傷も何も無く、実に音(をと)無しで、音無瀬(をとなせ)川(がは)の上流に天下修斎(しうさい)の神業(しんげう)の根基(こんき)を築き居(を)られたのである。之(これ)に反して変性女子の教主の御魂(みたま)は、水の役で、教祖の火の力に動かされて、種々の活動を成し、従つて部下の教信徒より或(あるひ)は笑はれ、或(あるひ)は罵(ののし)られ、或(あるひ)は苦しめられして、種々(しゆじゆ)の音(をと)を立てて来たのも、御魂(みたま)の因縁の然(しか)らしむる所であります。元来(ぐわんらい)火は体(たい)にして水を動かすものであり、水は用にして火に動かさるるものである。火は動かずして音(をと)無く、水は動いて音を成すは天地の真理である。総て動かざるは火の性質で、動くは水の本来の性質である。故に水の名を為すと雖(いへど)も動かざる時は火である。凝結(ぎようけつ)した水を氷(ひ)と云ふも此(こ)の理(り)である。又(また)火の名を為すと雖(いへど)も動く時は水である。例(たと)えて云へば、水気(みぎ)は水の名であり火垂(ひだり)は火の名である。然(しか)れ共(ども)右の手を以(もつ)て左の手を打つ時は、右の水は火となり左の火は水となりて音を為すのである。亦(ま)た木(き)は水で鐘(かね)は火であるから、木を以(もつ)て鐘を打つ時は、鐘は水となつて音を成し、鐘を以(もつ)て木を打つ時は、木は元の水となつて音をなすのである。火水(ひみづ)体用(たいよう)の活物(かつぶつ)にして、相対(あいたい)して動き、天地の水火(いき)の廻(めぐ)る事此(かく)の如く微妙なものであります。元(もと)の火は─(ひ)にして、元の水は│(みづ)である。即ち体(たい)から言(いへ)ば、火は横にして伏(ふ)し、水は竪(たて)にして起(た)つ。変性男子の火は、体(たい)から見れば女体(によたい)であり、変性女子の水は体(たい)から見れば男体(なんたい)である。然(しか)るに水に火加(くわ)はる時は火に従(した)がつて横に流れ、火に水加(くわは)る時は水の体(たい)に同化して高く上に燃え上がり、上に顕(あら)はるるに至る。変性男子の火も変性女子の水に依(よ)りて、雲の上までホノヲと成りて顕(あら)はるると云ふ言霊の活用であります。言霊(ことたま)学(がく)の体(たい)より言ふ時は、─(ひ)はカにして│(みづ)はミなり。故に十をカミと言ふ。用(よう)より言ふ時は、─(ひ)はシにして│(みづ)はホである。故に是(こ)の十をシホともイキとも言ふ。│はミヅホの義である。十は瑞穂の中国(なかくに)の標章(ひやうしよう)で、即ち神国(しんこく)日本(にほん)の意義であります。

(十)天(てん)の心(こころ)也。天に坐(ま)す御三体の大神が、大地の汚濁(をだく)を洗滌(せんてき)し、払拭(ふしよく)し玉ふに就(つい)て、二度目の天之岩戸開きの大(だい)神楽(しんがく)を施行(しかう)し玉ふ御神意を、普(あまね)く天下に発表し給ひ、人心(じんしん)を清めて天国を地上に建設さるるてふ言霊である。大本(おほもと)の神諭は即ち天の心を伝(つた)ふる[*底本は「伝」(旧字体は「傳」)ではなく「博」になつている。]貴重なる神示であります。故に此(こ)の大本(おほもと)は天の心を心とし、天を相手として活動して居(を)る所であるから、現代の如き俗悪なる人間社会に真解(しんかい)されないのも無理はないのである。それを人間(にんげん)心(ごころ)を出して、大本(おほもと)の行(や)り方(かた)が何(ど)うの斯(こ)うのと批評したり反対したりするのは、未(いま)だ大本(おほもと)の言霊(ことたま)的使命を解(かい)せざる、迂愚者(うぐづしや)の狂動(きやうだう)であると言はねば成りませぬ。人間(にんげん)心(ごころ)の抜けない人々は、到底(たうてい)大本(おほもと)の真相が解(わか)らないから、従(したが)つて反対するのでありますが、何程(なにほど)反対されても微駆(びく)とも動(うごか)ない大本(おほもと)は、天の心を心として天下の為に全力を尽くして居(を)るからであります。併(しか)し我々の心の緩(ゆる)まない為に、種々(しゆじゆ)の敵を造つて警戒を与へ玉ふ、天の心かも知れませぬ。神諭にも力(ちから)一杯[*底本では「杯」ではなく「抔」。]敵対(てきた)ふ御役(おやく)も拵(こしら)えてあるから、其(その)人は誠に御苦労な御役じや。霊魂(れいこん)の因縁で、善の役と悪の役とが拵えてあると出て居(を)りますから、信従者も反対者も、天神(てんじん)地祇(ちぎ)の御心(みこころ)に由(よつ)て、知(しら)ずに神界善悪両面のそれぞれの御用を勤めさして頂いて居(を)るので在(あ)ります。

(十一)照(て)り込(こ)む義(ぎ)也。俗世界の新聞紙や雑誌で大本(おほもと)の教理を誤解し、又は売らん哉(かな)主義で種々の悪言を並べ、邪教とか妖教(えうけう)とか、誇大妄想狂の集団とか、教祖は田舎の紙(かみ)クズ買(かひ)の婆々(ばば)だとか、教主は手品師だとか、大正の天一坊(てんいちぼう)だとか、由井(ゆい)正雪(せうせつ)だとか、社会共産主義者だとか、所在(しよざい)悪罵(あくば)を恣(ほしいまま)にして、大本(おほもと)を覆(くつが)えさうとすればする程(ほど)、世界の同情が大本(おほもと)へ集中し、思ひも寄らぬ助け船が現(あら)はれて来るのは、照り込む義也の言霊の活用が在るからである。加之(しかのみならず)時期到来の暁(あかつき)には、天津(あまつ)日(ひ)の豊栄(とよさか)昇(のぼ)りに、大本(おほもと)の至誠至忠の真心(しんしん)が、大空(おほぞら)に高く輝き渡り、旭日(きよくじつ)強く大本(おほもと)に照り込み、一切万事が明(あき)らかに世界に判るてふ言霊であります。

(十二)火の水に宿る也。火は天に属(ぞ)くし、水は地に属(ぞ)くす。天の大神が地の高天原なる霊地に天降(あまくだ)り玉ひて、大(だい)神業(しんげう)を遂行し玉ふてふ言霊である。時期到来すれば、天の○○様も一時は下津(したつ)岩根(いわね)に天降り坐(ま)して、五六七(みろく)の神政を成就し玉ふてふ言霊の活用がありますが、今は発表する時期ではありませぬから、省いて置きます。又(また)変性男子の御魂(みたま)なる教祖様の威霊(いれい)が、瑞(みづ)の御魂(みたま)なる変性女子の水に宿り玉ひて、神示の経綸(けいりん)を助け玉ふてふ言霊であります。

(十三)堀(ほり)也。オホモトのホの霊(みたま)に掘の活用があるので、是非(ぜひ)是非(ぜひ)掘の必用(ひつえう)を感じ、大正三年の八月八日から、三千坪の面積に金竜池(きんりようち)[※後に「金竜海(きんりゅうかい)」に改名。]を掘り、大八洲(おほやしま)の水火(いき)に合(がう)して、五大洲(しう)に象(かた)どり、大小五箇の島を築き、各自に神社を建造し、天地経綸に参加し玉ふ生神(いきがみ)を奉祀(ほうさい)[※「奉祀」に「ほうさい」というフリガナは底本通り。これは誤字であるが、「奉祀(ほうし)」が正しいのか「奉斎(ほうさい)」が正しいのか分からないので、底本通りにしておく。]したのであります。神諭にも、出口直の屋敷には金の玉と黄金(わうごん)の釜(かま)が生(い)けて在(あ)るから、是(これ)を掘り出して三千世界の宝と致すぞよ。昔から世に埋(うづ)もれた一切の宝を掘り上げて、それぞれに目鼻を付ける世界の大本(おほもと)であるぞよ。と出て居(を)るのも堀(ほり)也の言霊の活用が在るからであります。

(十四)帆(ほ)也。現時(げんじ)は蒸気船が出来て居(を)るから、帆の必要を感ずる事は甚(はなは)だ尠(すく)なく成つたなれど、古(いにしえ)は船に帆は最も必要の物であつた。理想の彼岸に達(たつ)せんとせば、救世(きゆうせい)の船にも帆が必要である。大本(おほもと)の四言(しげん)中(ちゆう)に、斯(こ)の帆の活用があるので常に神業(しんぎよう)が順風に帆を挙げた如く、着々と進行したのである。時に暴風に遇(あ)ふた事も幾度(いくたび)となく在(あ)つたけれども、其(その)暴風に逢(あ)ふ毎度(たびごと)に大本(おほもと)の神業が急速力で進歩して来たのも、帆の言霊の活用に由(よ)るのであります[*底本は「のであります」ではなく「のあります」。]。今後と雖(いへど)も未(ま)だ未(ま)だ幾度(いくたび)となく、強風に吹き付けられる事が有るであろうが、何処(どこ)までも帆柱(ほばしら)(神柱(しんちゆう))の折れない限りは、一層迅速に神業の進歩を見るべき言霊であるから、何事が出来(しゆつたい)しても心配は要りませぬ。且(かつ)又(また)帆は高く現(あら)はれるもので在りますから、彼岸に近くに従ひ益々(ますます)世人(せじん)より、見上げらるる如(よ)うに、成るのであります。

(十五)父(ちち)也。父系に属する変性男子の、厳(いづ)の御魂(みたま)国常立(くにとこたちの)尊(みこと)の現(あら)はれ玉ひて、三千世界を審判(さには)し、教導(きようどう)し玉ふも父の霊也の言霊の活用であります。

(十六)太陽(たいよう)の分明(あきらか)也。天に一つの太陽ありて、万界(ばんかい)を照(てら)し玉ひ、地に一つの帝王ありて、大地の顕界(けんかい)を知食(しろしめ)す如く、宇宙の間に唯一の光明を放ちて、万物を照(てら)し助(たす)くる霊地の存在するは惟神(かむながら)の明分(めいぶん)である。其(その)霊地が宇宙の中心にして、地上の中心日本(にほん)国(こく)に存在し、日本(にほん)国(こく)の中心たるアヤの高天原に存在するは、天照大神の知召(しろしめ)す太陽(ひ)の明分(ほ)に基(もと)づくのであります。

(十七)心(こころ)に写(うつ)る也。古今東西の思想は、一切大本(おほもと)に映写し、厳(いづ)、瑞(みづ)二柱(ふたはしら)の心鏡(しんきやう)に感ずるに由(よ)り、世界の人心(じんしん)の傾向の判明する霊地であるから、大本(おほもと)に写らぬ事は一つもないと云ふ言霊であります。殊(こと)に瑞(みづ)の御魂(みたま)の心の鏡には、一々明瞭に映(えい)じて来るので在ります。現(げん)に今(いま)筆を採りつつある私(わたくし)の心眼(しんがん)に、大阪の支部の某氏の態度に、不公平な点があると云ふて、信者の人々が某氏に対して不平を抱(いだ)き、ゴテゴテ言ふて居(を)れるのが写つて、執筆の邪魔に成るので、大変に困つて居(を)るやうな次第であります。

(十八)恋(こふ)る也。神諭に今では世界の大本(おほもと)に成る結構な所(とこ)が、余り粗末に致してあるから、分(わか)らぬ人民が寄りてタカリて、色々と悪く申して居(を)れども、大本(おほもと)の経綸(しぐみ)が天晴(あつぱ)れ判(わか)りて来たら、如何(いか)なものでも恋しくなりて、我(われ)も我(わし)もと申して集(よ)りて来て、勇んで御用を致すやうに成るぞよと、出て居(を)る所以(ゆえん)であります。

(十九)見止(みとむ)る也。世界一切の事は、何に由(よ)らず、綾部の大本(おほもと)の許しの無き事は、九分(くぶ)九厘(くりん)までは都合克(よ)く行くなれど、モウ一厘と云ふ所(とこ)で手(て)の掌(ひら)が覆(かへ)りて、一も取らず二も取らず、行きも戻りも成らぬ事が出来(しゆつたい)するから、何事に由(よ)らず此(この)大本(おほもと)へ参りて、艮の金神の見止(みと)めを戴(いただ)かねばならぬぞよと云ふ、神諭が現(あら)はれて居(を)る所以(ゆえん)であります。

   (三) (モ)の言霊(ことたま)

(一)舫(もや)ふ也。モヤウは方舟(はこぶね)也。ノアとナオとの方舟の中心はス也。スは言霊の大本(たいほん)である。国の内外を問はず地の遠近(えんきん)を論ぜず、至誠至忠の紳士淑女の舫(もや)ひ集(あつま)り来(きた)つて、大家族的団欒(だんらん)の楽(たのし)みを味(あじは)ひつつ、神業(しんげう)に参加し、且(か)つ霊肉両方面の罪を救(すく)はるてふ言霊の活用である。

(二)塊(かたま)る也。大地を造り固め締(し)め、更(さら)に海月(くらげ)如(な)す漂(ただよ)える現代を修理固成して、天国楽土(らくど)の神代(かみよ)を来(き)たらしむる為に、国常立(くにとこたち)の尊(みこと)が此(こ)の大本(おほもと)に出現し給ふてふ、言霊の活用であります。

(三)亦(また)也。者(もの)也。亦(また)は再度(さいど)の意義である。大地の主宰神たりし国常立尊は、千座(ちくら)の置戸(おきど)を負ひて、永年(えいねん)間(かん)、艮(うしとら)へ退隠(たいいん)され、地上の主権に離れ、悔しい残念を克(よ)く堪(こら)え、克く忍びて、一陽来復(らいふく)の春光(しゆんくわう)を待たせ給ひしに、天運爰(ここ)に循環(じゆんくわん)[*底本は「循環(じゆんくわん)」ではなく「環循(じゆんくわん)」になつている。]し来(きた)つて、再び大地の主権者と現(あら)はれ、二度目の世の建設を経綸(けいりん)し給ふ事となつたのは、即ち亦也の言霊の活用があるからであります。又(また)者(もの)也は、智者(ちしや)も、学者も、聖賢者も、愚者(ぐうしや)も、若者(じやくしや)も、老者(らうしや)も、幼者(えうしや)も、強者も、弱者も、富者(ふうしや)も、貧者も、軍人も、法律家も、官吏も、商人も、農業者も、政治家も、教育家も押(をし)並(な)べて信者と成り、相(あい)和(わ)し相(あい)信(しん)じて、以(もつ)て一家の者の如く睦(むつ)び親しみ、大神(おほかみ)の洪慈(きやうじ)大徳(だいとく)に浴(よく)すべき、言霊の活用であります。

(四)累(かさね)也。与(く)む也。円満を司(つかさど)る也。この活用は前段の亦(また)也、者(もの)也の言霊の活用に近似(きんじ)して居(を)るから、重複を避けて説明を省略して置きます。

(五)下(した)に働(はたら)く也。敬神尊皇(そんのう)報国の至誠を尽(つく)し、君国(くんこく)の為に永年(えいねん)所在(あらゆる)辛酸(しんさん)を嘗(な)め、常に心身を消磨(せうま)しつつも、現代人の如く、栄誉の地位を望まず、依然として地平線下の活動を甘んじつつあるも、下に働く言霊の活用あるからである。総てモの言霊は語(ことば)の下に克(よ)く活用される。けれども、いへども、なれども、是(これ)も、彼(か)れも等(とう)の如し。

(六)世(よ)の芽出(めだし)也。神諭に三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。世の根(ね)の世の本(もと)の始(はじま)りの御用であるぞよ。九ツ花(はな)が十曜(とよう)に咲くぞよ。世の中の一切の悪木(あしき)を切り捨てて、新(あた)らしき神世(しんせい)の芽を出して、万古(まんご)末代(まつだい)栄えさすぞよ。芽出度(めでた)芽出度(めでた)芽出度(めでた)の花が咲くぞよと、現(あら)はれて居(を)るのは、世の芽出(めだし)也の言霊の活用を説かれたのであります。

(七)天(てん)の手(て)也。宇宙一切、森羅万象を掌握するは、即ち天の御(おん)手(て)である。モの言霊の幸(さちは)ふ大本(おほもと)は、宇宙一切を天津(あまつ)大神(おほかみ)の委任を受けて、之(これ)を統御し整理して、神政を成就し、之(これ)を天神(てんじん)の御(おん)手(て)に奉還するてふ言霊の活用であります。神諭に此(この)世の者は艮の金神が出口(でぐち)の神と現(あら)はれて、御(お)預(あづか)り申す経綸(しぐみ)であるから、他(ほか)の者の自由にはならぬと出て在(あ)るのも、天(てん)の手(て)也の言霊活用が在るからであります。神界の御(お)経綸(しぐみ)の尊(とほ)とき地面(ぢめん)を、個人の名義で所有し、管理するさえ御(ご)神慮(しんりよ)に叶(かな)はぬ位(ぐらい)であるから、取越(とりこし)苦労をして跡(あと)で取(とり)返(かへ)しの成らぬ事を仕出来(しでか)しては成りませぬ。何事も天(てん)即ち神の御(おん)手(て)の内(うち)に在(あ)るので、神様が人間を使(つか)ふて、経綸(けいりん)を成さるのであるから、御(お)仕組(しぐみ)の地所(ちしよ)を人民の自由にする如(よ)うな事では、到底大御心(おおみこころ)に叶(かな)はぬから物事成就しませむ。神界の仕組の判らぬ人は、余り先の事を思ひ過ごして、我(われ)と我(わが)手(て)に事(こと)を六(むづ)ケ敷(しく)するものである。人の手に依(よ)らず、何事も天の御(おん)手(て)に任すのが、艮の金神様の今度の世の建替(たてかへ)の仕組であります。

(八)数(かづ)寄(よ)り数(かづ)成(な)る義(ぎ)也。此(こ)の言霊の活用は、億兆無数の蒼生(さうせい)や霊魂(れいこん)が寄(より)集(あつま)つて、種々(しゆじゆ)の事業を成す事である。神諭に、三千世界の神と人民、守護神が寄(よ)りて来て、三千世界に外(ほか)には無い結構なことを致して、天地へ御目(おめ)に掛(か)けるぞよと出て居(あ)ります。故にこの大本(おほもと)へは因縁の御魂(みたま)が数え切れぬ程(ほど)、沢山に集(あつま)りて来て、世界一切の事を眼鼻を付けるてふ言霊の活用が有るのであります。亦(ま)た神界の御(ご)経綸(けいりん)も世界一切の事であるから、数々の活動方面があつて、八百万の神々が夫(そ)れ夫(ぞ)れ御(お)働(はたら)きに成つて居られるが、現実に大本(おほもと)の人々の神示に従(した)がつて、御用を勤める事も、沢山にありますから、人数(にんず)も多く要りますし、費用も従(した)がつて嵩(かさ)む[*底本のフリガナは「かさ」ではなく「たかし」。]と云ふ事になりますから、斯(こ)ふ云(い)ふ無限的の事業を為すには、何程(なにほど)金力(きんりよく)や学力があつても、現今の如き少数の幹部の人々の力のみでは、大海の一滴に等しき活動[*底本では「活」ではなく「治」。]より出来ぬのでありますから、神の綱(つな)の掛(かか)つた因縁(いんねん)の身魂(みたま)は、夫(そ)れ夫(ぞ)れの御陰(おかげ)を戴(いただ)いて、斯(こ)の大(だい)神業(しんげう)を助けて頂かねば成りませぬ。神諭に、因縁の身魂は世界に何程(なにほど)でも拵(こし)らえてあるから、一々大本(おほもと)へ神が綱(つな)をかけて引(ひき)寄(よ)して、因縁相応の御用を致さすぞよと出て在(あ)りますから、労力なり、物質なり、筆なり、口(くち)なりで、斯(こ)の千載一遇の大(だい)神業(しんげう)に心身(しんしん)を捧(ささ)げ、以(もつ)て日本(にほん)神国(しんこく)の神民(しんみん)たる本分を尽(つく)さねば成らぬので在ります。

 兎(と)に角(かく)モの言霊には、数(かづ)寄(よ)り数(かづ)成(なり)也の活用があるから、同じ大本(おほもと)修斎会(しうさいかい)の支部や会合所の中にも、太霊道(たいれいだう)や精神療法家の如(よ)うな事を専務に施行(しかう)して、肝心の神意(しんい)を忘れて居(を)られる方(かた)も在(あ)るさうであるが、是(これ)も過渡時代の産物で、数々(かづかづ)の行(や)り方(かた)になるのも止(や)むを得ないのであります。併(しか)し可成(なるべく)一日片時(かたとき)も早く大神(おほかみ)様の真意を了解し、個人の病気直しのみに心(こころ)を労(らう)せず、モツトモツト偉大なる神業に、統一的に従事され度(た)きものであります。

(九)伸縮(のびちぢみ)有(あ)る也。神諭に、三千世界の立替(たてかへ)立直(たてなを)しと云ふ如(よ)うな、大謨(たいもう)な経綸(しぐみ)であるから、神の申した事でも、チツトは伸びる事もあり、思ふたよりも速く出来上(あが)る事もあるから、チツト位(ぐらい)日時(ひにち)が伸びたと申して、御陰(おかげ)を落(をと)す人民は、信心が足らぬのであるぞよ。何事も神の申すやうに致して、時節を待ちて下され。毛筋(けすじ)の横巾(よこはば)ほども事実に於(をい)て間違いは無いぞよ。斯(この)大本(おほもと)は神界から引掛(ひつかけ)戻(もど)しの仕組(しぐみ)が致して在るから、何程(なにほど)智慧(ちえ)ありても学力(がくりよく)ありても、人民(じんみん)力(りき)では見当(けんとう)が取れん仕組じやと、現(あら)はれて在るのも、モの言霊の伸縮(しんしゆく)自在なる活用であります。大本(おほもと)の事業は常に惟神(かんながら)の行(や)り方(かた)でありますから、意外(いぐわい)に迅速(びんそく)[※フリガナ「びんそく」は底本通り。]に物が片付いたり、又(また)意外(いぐわい)に渋滞する事も、今迄(いままで)に幾度(いくど)か有(あ)つたのも、此(こ)の言霊の活用に由(よ)るのであります。伸縮(しんしゆく)自在の有る言霊であるから、修斎会のみの活動でも行(ゆ)かぬ神界の経綸(けいりん)がありますから、教主たる私(わたくし)として、専断的に事(こと)を決行し、会長其(その)他(た)の役員に小言(こごと)を頂戴する事も有りますが、素(もと)より覚悟の前であります。神諭にも、今度の仕組は三千年余りての神秘的事業の戸が開(ひら)くのであるから、一通(ひととほ)りや二通(ふたとほ)りや三通(みとほ)りや五通(いつとほ)りでは、物事成就致さぬから、小さい心を出さずに、変性女子の為(す)る如(や)うに為(さ)して置いて下されよ。神が日々(にちにち)守護いたして居(を)るから、別条(べつぜう)は無いぞよと出て居りますから、一々人間界の規則に由(よ)つて律(りつ)しられると、実に困る事が沢山あるのであります。

(十)遂(つ)ひに凝固而(かたまつて)物(もの)と成(な)る也。神諭に、谷々(たにだに)の小川(こがは)の水も大河(おほかは)へ、末(すへ)で一つに為(す)る仕組(しぐみ)と出て居りますが、綾部の大元(おほもと)には川に因縁ある瑞(みづ)の御魂(みたま)が出現して、三千世界の泥水(どろみづ)を清めるのであるから、今度の神政成就に付(つい)ては、瑞(みづ)の御魂(みたま)の大河(おほかは)へ、一つに纏(まと)めて了(しま)はねば成らぬのであります。故(こ)本田先生の門弟に長沢氏あり。之(これ)も水に言霊上縁(えん)あり。大石凝(おほいしこり)先生の名亦(ま)た、遂(つい)に凝固して物を成す也に意義あり。其(その)遺弟(いてい)なる○○、○○○にも水に因縁あり。諸々(しよしよ)の小川(こがは)を集めて和知(いすず)の大河(おほかは)を成し、由良川(よるだん)の洗礼を施(ほどこ)すてふ言霊の活用であります。神諭にも、今度の二度目の世の立替立直しは、日本(にほん)国(こく)中(ぢう)に因縁の身魂(みたま)が配置(まぐばり)てあるから、其(そ)れを変性女子が調べて、経綸(しぐみ)の御用を致せよと出て居りますから、苟(いやし)くも教祖の御(お)筆先(ふでさき)に現(あら)はれた御(ご)神示(しんじ)に近き教理は、之(これ)を小川(こがは)の水として、大本(おほもと)の清流に朝宗(ちやうしう)[※朝宗(ちょうそう)とは「①諸侯が天子にお目にかかること。②多くの川が海に集まつて流れこむ。」〔漢字源〕]すべく、努力をして来たのであります。故に駿河へも走り、東京へも行き、美濃へも、尾張へも駆け、神政成就の為に奔走(ほんさう)しましたので在ります。世界に立替立直しを唱(とな)へて居(を)る所は、一切艮(うしとら)の金神(こんじん)様の御(ご)経綸(けいりん)の発祥であるから、天の岩戸開きに就(つい)て必要な教理や説明は、自由に之(これ)を神明(しんめい)の代表たるものの採用し、且(か)つ応用すべき特権があるとおもふ。中には神界の深き経綸(けいりん)の判(わか)らぬ人が現(あらは)れて、我々の惟神(いしん)的行動を罪悪視し、以(もつ)て反対の口実とするものが出来て来るのであります。神諭にも、東京で経綸(しぐみ)をするが美濃(みの)尾張(をはり)、大和(やまと)玉芝(たましば)国々へ、神の柱を配り岡山と、出て居(を)るのを曲解して、出口王仁(わに)の身(み)の終(をは)りだと言ふて居る人もあるらしい。大本(おほもと)の神諭は、途中から輸入したものの如(よ)うに言つたり、思つたりして居る人も在りますが、細工は流々(りうりう)仕上げを見て貰(もらは)むと解(わか)らむぞよと出てあるから、疑ふ人は疑ひ、反対する人は極力反対しても、大本(おほもと)の経綸(しぐみ)には少しも差支(さしつか)へは無い。色々と海月(くらげ)如(な)す漂(ただよ)ふて、遂(つひ)に凝固而物と成也の言霊の活用が在るから、是(これ)も天地自然の神界の思召(おぼしめし)に因(よ)るのである。明治二十五年からの神諭に、出口王仁三郎は世界の新聞や書物を調べて、之(これ)を一つに纏(まと)めて、世界を救ふ変性女子の御魂(みたま)であるから、辛(つら)い御役(おやく)と出て居(を)るのであります。故に小心(せうしん)な教信徒は、今春以来の神諭に在る如く、内外(ないぐわい)の人々から疑(うたが)はれ、罵(ののし)られたり、反対されたりする運命の役に在る変性女子の身魂(みたま)に愛想(あいそ)をつかして、逃げて行く者が出て来るので在ります。明治維新に際しても、世界の智識をあつめて、以(もつ)て皇基(くわうき)を守り、国礎(こくそ)を定(さだ)められた如くに、我々も神の御意志に反せない限りは、モの言霊の活用を頼んで、数(かづ)を寄(よ)せ、数(かづ)を成すてふ大活動を為(し)て居(を)るのであります。元来大本(おほもと)の教祖に由(よ)つて現(あら)はれたのは、二十七年間の世の立替立直しの神諭斗(ばか)りであります。其(その)他(た)の鎮魂(ちんこん)帰神(きしん)法(ほう)も言霊学(げんれいがく)も古典の解釈も、私(わたくし)が参綾(さんりよう)と同時に綾部の大本(おほもと)の教(をしへ)に同化されたのであります。併(しか)し是(これ)も皆(みな)艮の金神大(おほ)国常立(くにとこたちの)尊(みこと)様の御(ご)経綸(けいりん)であります。又(また)私(わたくし)が国々の因縁ある賢哲を尋ねて一種の大観念を築き上げ、之(これ)を社会へ発表する事にしたのも、艮の金神様の古(むかし)からの御(ご)経綸(けいりん)であります。世界の事は何に由(よ)らず、一切万事大本(おほもと)へ集めるぞよ。世界に変(かわ)つた事や、大きな事や、種々(しゆじゆ)の事の出来るのは、皆(みな)艮の金神の仕組(しぐみ)じやと出て居りますから、吾々の意見と一致した教理は、自分の者として差支(さしつか)えない。神諭を十分に解釈すれば当然の行動であります。此(この)大本(おほもと)は普通の人間では、神の深い経綸(しぐみ)は判(わか)らぬぞよと出て居(を)るのは、茲(ここ)等(ら)の事であります。神界の深遠なる御(ご)経綸(けいりん)を知らずに、浅心(せんしん)薄慮(はくりよ)の○○○○派とか、何とか云ふものが現(あらは)れて、神霊界の読者名簿を写し、一々読者に吾々の行動を非難した書面を送(をくつ)て、一生懸命に反対して居(を)る人々でも、遂(つひ)には神界の深き仕組(しぐみ)が判(わか)つて来て、言霊の活用に左右され、元(もと)の大橋へ帰つて来るやうに成るのであります。

(十一)本元(ほんげん)也。モトの反(かへ)しモ也。世の大本(おほもと)の意である。凡(すべ)て名は実(じつ)の主(しゆ)でありますから、大本(おほもと)の言霊活用して凡ての本元(ほんげん)と成るのであります。大本(おほもと)の名は人民の所名(しよめい)では無い、艮の金神様の御神示に由(よ)るのである。故に何事も皆この大本(おほもと)が根基(こんき)を為(な)さねば、万事が完成しないのである。静岡の長沢(ながざわ)氏の神社経営に就(つい)ても、其(その)根本(こんぽん)たる敷地は、大本(おほもと)から拵(こし)らえたのであり、○○○○の前身なる皇風(くわうふう)宣揚会(せんやうかい)の基根金(きほんきん)[※「基根金」にフリガナ「きほんきん」は底本通り。]も、朝(あさ)○氏を通じて大本(おほもと)から出資したのである。総て本元(ほんげん)の霊(れい)あるを以(もつ)て、其(その)他(た)の種々(しゆじゆ)の事業を営んで居(を)る人々が、大本(おほもと)の保護の本(もと)に成功して居(を)るのであります。兎(と)も角(かく)も神界経綸の大本(おほもと)で、天神地祇の神集(かむつど)ひに集(つど)ひ、神議(かむはか)りに議(はか)り玉ひて、顕幽(けんゆう)一切の事物を定(さだ)め、之(これ)を宇内(うない)に施行(しかう)し玉ふ御(ご)神慮(しんりよ)より、大本(おほもと)の名称を付(ふ)せられたのであります。現今の大本(おほもと)を見れば、一から十迄(まで)皆(みな)このオホモトの四言霊(ことたま)の活用を実証して居ります。変性女子の御魂(みたま)の大化物(おほばけもの)を顕(あら)はし、世界の曝(さら)しものに致すぞよと出て居りますから、何(いづ)れ大化物の化(ばけ)の皮を脱(むかれ)る時が出て来るので在りませう。併(しか)しこの大化物は何程(なにほど)むかれても極めて平気の平左(へいざ)で居ります。斯(こ)んな大謨(たいもう)な御用が、一人や二人の力で出来る筈(はず)はないから、悪く方々(ほうぼう)から言はれて、段々に大きく成らねば、最後の艮(とど)めは刺せぬのであります。本元(ほんげん)也の言霊活用が顕(あら)はれて、大化物の弥々(いよいよ)面白き時期が到来して来ました。併(しか)し世間一般の人々から色々と攻められ、化(ば)ケの皮を脱(ぬ)がれて、本元(もと)也の蚯蚓斬(みみづきり)の蛙(かへる)飛ばしに成るかも知れません。旧七月十二日も無事であつたと思ふて居(を)ると、教祖の神諭に出てある通り、悪の鏡の御用を勤める大化物の変性女子の行(や)り方(かた)、現世(げんせい)の体主(たいしゆ)霊従(れいじう)の写つた行動に、胆(きも)の小さい、尻の細い英雄豪傑(ごうけつ)がアフンとして、開(あい)た口が塞がらん如(よ)うに成るぞよと云ふ、神諭其(その)ままの事が実現して来ました。反対者の中には、大八洲(おほやしま)号(ごう)は出口の作(さく)でないと云つて、鬼の首でも取つた様に思ふて、反対の種(たね)に為(し)て居(を)るが、巻頭にも出して在(あ)る通り大石凝(おほいしこり)翁(をう)の著(あらは)した天地萌抜の巻から抜粋したり、又は訂正したりしたものだ。○○氏の神典(しんてん)から借用したものだと云ふ人があるが、その神典釈義(しやくぎ)も矢張(やは)り先師(せんし)の著(あらは)された天地(てんち)萌抜(はえぬき)の巻(まき)から出たものである。左(さ)すれば譬(たと)え神典釈義から出しても、矢張(やはり)大石凝(おほいしこり)翁(わう)の著作を、○○氏が借用したものである。況(いわ)んや同じ師説(しせつ)を学んだものの、意義の一致するは当然である。又(また)出版の遅速(ちそく)と著作の遅速に由(よ)つて真偽の判(わか)るべき筈(はづ)が無いのである。大本(おほもと)の神諭の上から見れば、大石凝(おほいしこり)翁(わう)も矢張(やは)り艮の金神の仕組(しぐみ)で、世の立替の前駆(ぜんく)と成つて御(お)出(いで)ましに成つたのである。大本(おほもと)の経綸(けいりん)の深くして、広く大(だい)なるを知らぬ信者は、是(これ)からは色々の誘惑にかかる恐れが無いとも言ひ兼(かね)る。人の中傷的言筆(げんぴつ)に迷はず、何事も神の教(をしへ)に任して、腹帯(はらをび)を〆(しめ)て居つて貰ひたい。然(しか)る時は信仰と至誠の凝固(ぎようこ)力(りよく)で、立派な物に成ると云ふ言霊の活用ある大本(おほもと)教(きやう)であります。併(しか)し東京でも駿河でも尾張でも何処(どこ)でも、八九分(ぶ)の神界の仕組(しぐみ)は判(わかつ)て居(を)るが、肝心(かんじん)の一分(いちぶ)の処(ところ)が誰にも分(わか)つて居(を)らぬから、一旦迷ふた人も、反対して居(を)る人も、肝心の艮(とど)めの際(さい)には、本元(ほんげん)の言霊活用ある綾部の大本(おほもと)へ、頭を廻(めぐ)らし帰つて来ると云ふ、神諭は動かすべからざる生証文(いきしようもん)であります。

(十二)[*底本では「(十一)」。前項と重複している。]土(つち)の上面(うはつら)也。私(わたくし)が斯(こ)んなことを書くと、読者諸氏は不思議に思はれるであらう。神様に奉仕して居(を)る大本(おほもと)の教主と云へば、可成(かなり)神聖な役目であるにも拘(かか)はらず、傍若(ぼうじやく)無人(むじん)の言葉を弄(ろう)する、人格の卑劣、真(しん)に唾棄(だき)するべきものと怪しみ、且(か)つ卑(いや)しまれるかも知れませぬ。否(いな)定(き)まつて諸氏に愛想を尽(つか)されませう。大化物(おほばけもの)かと思つたら、天下一品、古今無双の大馬鹿物だと言はれるで在(あ)ろう。夫(そ)れも私(わたくし)は百も承知(しやうち)千も合点して居(を)るのである。併(しか)し大本(おほもと)にはモの活用、土(つち)の上面(うはつら)の言霊が幸(さちは)ひ玉ふに由(よ)つて、上面(うはつら)から見れば実に醜(みぐ)るしいでせう。併(しか)し土(つち)の上面(うはつら)と云ふものは、色々の汚穢物(をわいぶつ)に浸(し)みて居(を)りますが、是(これ)を三尺斗(ばか)り掘つて見ると、自然の真土(しんど)が現(あら)はれて来る。此(この)土こそは真(しん)に美(う)つくしいもので、森羅万象を載(の)せて重(をも)しとせぬ、金剛力(こんごうりよく)を保有して居りますが、此(この)真土(しんど)は余り綺麗(きれい)過ぎて、総ての物を生成(せいせい)補育(ほいく)するに適せない。上面(うはつら)の土は幾ら汚なくても、万物を生育する力(ちから)を持つて居ります如(よ)うに、私(わたくし)の行(や)り方(かた)は何時(いつ)も上面(うはつら)の土(つち)である。四方八方からの肥料を吸収して、而(しか)して万物を生育するのが変性女子の天職である。教祖の神諭にも瑞(みづ)の御魂(みたま)の使命が明(あきら)かに出て居りますから、読者は既に御承知の事と察しますから、爰(ここ)には省いて置きます。人間の最上最大の欲望は善の名(な)である事は、真道(しんだう)問答の明文(めいぶん)で御承知の通りであります。其(その)人生の最大目的を捨(すて)て、神様の命に従がひ、天下国家の為に、所有(あらゆる)悪の名を負ふ事を甘んじて、千座(ちくら)の置戸(おきど)や十字架に近づいて居(を)るのであります。凡(すべ)て大本(おほもと)の仕組(しぐみ)は、神勅(しんちよく)を実現実行する大地の中枢であり、言霊の活用に従はねば、二度目の天の岩戸は開(ひら)く事が出来ぬ仕組(しぐみ)であるから、私(わたくし)は天からの命と信じて、此(こ)の不利益な役目を甘んじて居ります。併(しか)し其(その)代(かは)りに、浅野会長以下の役員信者の方々(かたがた)は、実に至善、至美、至忠、至愛の善者(ぜんしや)斗(ばか)りでありますから、修斎会の幹部なり[*底本では「なり」ではなく「也」。]、又(ま)た教祖の御威徳なり、二代三代の御世継(およつぎ)の言行(げんこう)を信じて下さつても、決して別条は有りませぬ。私(わたくし)は堂(どう)しても、埃溜(ごみため)の約(つま)らむ役目を、天賦(てんぷ)的に命じられて居りますが、併(しか)し是(これ)でも神界の御用と確信して、日々(にちにち)勇(いさ)んで暮(くら)さして戴(いただ)いて居(を)るのであります。

(十三)水(みず)の坐(ざ)也。水は方円(ほうゑん)の形に従(したが)ふは、自然の道である。極めて従順にして、融通の利くものは水の性(せう)である。此(こ)の大本(おほもと)には水の坐(ざ)に位(くらい)する変性(へんぜう)女子(によし)の御魂(みたま)が神界から現(あら)はして、色々の御用が命(さ)してあります。四魂(こん)の性能から言へば、火(いづ)の御魂(みたま)の変性(へんぜう)男子(なんし)は火の役であり、瑞(みづ)の御魂(みたま)は水の役で、天地万物に潤(うるほ)ひを与えて、克(よ)く之(これ)を生育せしむるものである。又(ま)た四魂(こん)に経緯(けいい)ありて、荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)を経(たて)即ち厳(いづ)の霊(みたま)と云ひ、奇魂(くしみたま)、幸魂(さちみたま)を緯(よこ)即ち瑞(みづ)の霊(みたま)と云ふ。而(しかし)て厳(いづ)の霊(みたま)は本田先生の真道(しんだう)問答にも在る通り一々万々、確固(かつこ)不易(ふゑき)にして、瑞(みづ)の霊(みたま)は操縦(さうじう)与奪(よだつ)、其権(そのけん)有我(われにあり)と示されたる如く、教祖と私(わたくし)との霊魂(れいこん)の使命は、正反対の活動を致すのが御魂(みたま)の使命であります。夫(そ)れで大抵の人々は、教祖様の厳直(げんちよく)にして犯すべからざる言行(げんこう)を感心して、尊敬を払はれますが、之(これ)に反して、私(わたくし)の言行(げんこう)は、十人が九人迄(ま)で批難をされます。是(こ)れは何人(なにびと)が見ても当然の次第であります。併(しか)し火斗(ばか)りでは天地万物の安息は出来ぬのと同様に、大本(おほもと)教(きやう)にも火と水との役が必要であります。火と水と合体して、茲(ここ)に神の体(たい)が成り、火水(いき)となつて生神(いきがみ)の活動を全(まつた)ふするのであります。道(みち)の大原(たいげん)にも、天主(てんしゆ)一物(いちぶつ)を創造す、悉(ことごと)く力徳(りよくとく)に由(よ)る。故に善悪相(あい)混じ、美醜(びしう)互(たがひ)に交(まじは)るとある如く、何事も善斗(ばか)りでは物事は成就せぬのである。論性(ろんせい)題号(だいごう)にも、霊魂(れいこん)より言へば善也、体(たい)より言へば悪也、力(ちから)より言へば善悪混交(こんこう)也と示されてある如(よ)うに、一種の勢力を造るに就(つい)ては、霊(れい)と体(たい)と合致した実力の必要を感ぜざるを得ぬのである。そうして私(わたくし)は体系であつて、体主霊従に近いのであるから、神界の経綸(けいりん)を表面から浅く見たり考へたりして居る、清き友からも手を切られたり、鬼にも仏(ほとけ)にも一旦は見放される事が出来て参りませう。然(さ)れども私(わたくし)は少しも恐れも歎(なげ)きもせぬ、自分の使命だと感じて居(を)るからである。大海の水は低きに居(ゐ)て深く広く際限(さいげん)なくして、其(その)底(そこ)を見る事が出来ぬやうに、大化物の正体も中々(なかなか)容易に判(わ)からぬかも知れませむ。併(し)かし私(わたくし)が神界に於(おい)て不必用であり、又(ま)た経綸(しぐみ)の邪魔に成るものなら、何時(いつ)神界から召捕(めしとり)遊ばしても構ひませぬ。天下万民の為になら、如何(いか)様(やう)の運命に陥(をちい)るも、敢(あへ)て辞(じ)せない覚悟は、二十年以前に心中(しんちう)に既に固まつて居(を)るので在ります。私(わたくし)は元来学(がく)無く、識(しき)無く、徳も無く、位(くらい)も無い、一介(いつかい)の蛮骨(ばんこつ)でありますから、只々神命(しんめい)に従(した)がつて、実行方面に心力(しんりよく)を竭(つく)して居(を)る積(つも)りである。併(しか)し昔から学者の取つた天下無しと云ふ事がある。豊臣氏でも徳川氏でも織田氏でも、皆(みな)余り学者では無(なか)つたと思ふ。故に私(わたくし)は全力を挙げて、五六七(みろく)神世(しんせい)の完成を期待し、世界と共に安楽な世の来(く)るのを楽しみ、微力(びりよく)の限りを尽しつつ在るので有ります。オホモトの四言(げん)の活用に依(よ)つて、斯(こ)んな約(つま)らん役割の貧乏クジを曳(ひ)かされたのも、身魂(みたま)の因縁で、如何(いかん)ともする事が出来ないのであります。

(十四)分子(ぶんし)の精(せい)也。分子(ぶんし)と茲(ここ)で云ふのは、上帝の分霊(ぶんれい)と地主神(ちしゆしん)の分体(ぶんたい)を享(う)けて、生(うま)れたる人の事であります。分子の精斗(ばか)り、所謂(いはゆる)神界の御心(みこころ)に叶(かな)ひし真人(しんじん)の神業(しんげう)を助け奉(まつ)るてふ言霊の活用である。誠の神慮に叶へば如何(いか)なる大事業を始(はじ)むるも、少しも心配せずに、箱(はこ)差(さ)した如くに行くが、之(これ)に反して、神界の事を思(をも)ひ過(すご)し、我(が)を出さば大変なる困難の来(く)るてふ言霊でありますから、大本(おほもと)は一々神慮を伺(うか)がつて事を為(な)さねば、ドンナ智者の考へも、却(かへ)つて神界経綸の邪魔に成りますから、大本(おほもと)幹部の役員は、十分の注意を払つて戴(いた)だきたいのであり在(ま)す。モの言霊の活用は、未だ未だ限り知られぬ程(ほど)ありますけれども、余り永く成りますから、後日の説明に譲つて置きます。

   (四) (ト)の言霊(ことたま)

(一)男(をとこ)也。男々(をを)しく偉(たく)ましく、勇壮活発なる言霊である。男は手力雄(たぢからを)の活動である。故(ゆへ)に大本(おほもと)教祖は、肉体は婦人なれど、実に雄々(をを)しき変性(へんぜう)男子(なんし)の霊性を具備して出現された。亦(ま)た二代[※出口澄子のこと。]も男性(なんせい)的(てき)の霊性を具備し、殊(こと)に第三代の直霊(なをひ)嬢(じやう)[※出口直日のこと。]は全く先天的の男性である。二度目の天(あま)之(の)岩戸(いわと)開(びらき)の神業(しんげう)は、堂(どう)しても男性的霊性を具備せる手力雄(たぢからを)の神力(しんりき)で無くてはならぬ。故に此(こ)の大本(おほもと)に立(たち)寄(よ)る人士は、何(いづ)れも進取(しんしゆ)的の気性に富み、至清(しせい)至潔(しけつ)の行動を取るてふ言霊の活用であります。

(二)艮(とどめ)也。艮(うしとら)の金神(こんじん)、大(おほ)国常立(くにとこたちの)尊(みこと)の出現して、神政を樹立し、三千世界の艮(とどめ)を刺すてふ言霊の活用で在るので在ります。神諭に世界の事は何事も艮の金神の赦(ゆる)しなくては、九分九厘の処(とこ)で覆(か)へりて了(しも)ふから、神の力で無ければ、人間の力では到底物事の艮(とど)めは刺せんぞよと出て在るのも、艮(とどめ)也の言霊の活用であります。

(三)轟(とどろく)也。雷鳴(らいめい)[*底本では「電名」に「らいめい」とフリガナ。]遂(つひ)に宇内(うない)に轟(とどろ)くてふ言霊の活用である。国祖(こくそ)数千年の大(だい)経綸(けいりん)完成の暁(あかつき)を語るものである。併(しか)し何と言つても世界に二つとない、神界の大経綸を完成する、地(ち)の高天原(たかあまはら)であるから、二度目の天之岩戸開きに就(つい)ては、体主(たいしゆ)霊従(れいじう)方面の大々的活動も来(くる)べきは当然で、彼(か)の素盞嗚(すさのをの)尊(みこと)が一時の活動の為に、山川(さんせん)草木(さうもく)皆(みな)動揺し天地震動せし如く、大々的変動あるべき言霊の活用であります。然(さ)れ共(ども)今回の御経綸は、数千年間の永き神界の経綸(けいりん)でありますから、大本(おほもと)の役員信徒は、至誠一貫、神諭の精神を呑み込み、至誠的活動を続けてさへ居(を)れば、仮令(たとへ)天柱(てんちう)裂け、地軸(ちぢく)砕(く)だくるの大変事来(きた)るとも少しも恐(を)それず、悠々(ゆうゆう)として天下修斎の神業に参加し、芳名(ほうめい)を千載(せんざい)万秋(ばんしう)に轟(とどろ)かすべき活用ある、言霊が備(そな)はつて居(を)る、世界の大本(おほもと)であります。

(四)解(とくる)也。神諭に世界の事は何なりと問(とふ)て下され、何一つ知らん事の無い、世の元(もと)の生神(いきがみ)が、出口(でぐち)直(なを)の後見(こうけん)を致して、ドンナ事でも説いて聞かせる、世界の大本(おほもと)であると示されたる如く、宇宙一切の事、世の太初(たいしよ)の事から世の行先(ゆくさき)の事の解決を与(あた)ふるてふ言霊の活用であります。八咫鏡(やあたかがみ)の明鏡(めいきやう)八方に光り輝き、天地万物を照(て)らし明(あき)らむる、霊地の言霊であります。

(五)基(もとひ)也。大地の基礎を固め、神政成就の根基(こんき)を開く、国の太祖(たいそ)、大(おほ)国常立(くにとこたちの)大神(おほかみ)は、昔の世の基(もと)からの因縁の身魂(みたま)を顕(あら)はして、今度の御用に御(お)使(つか)ひ遊ばすと云ふ事は、二十七年間の神諭に幾度(いくど)と無く現(あら)はれて居(を)るのでありますから、昔の神代(かみよ)の基礎を固めた、因縁の身魂(みたま)斗(ば)かりを、世界の大本(おほもと)地(ち)の高天原(たかあまはら)に引(ひき)よせて、五六七(みろく)の神代(かみよ)の基礎を御(お)定(さだ)め遊ばすてふ言霊の活用であります。故に私(わたくし)は何事も綾部に基(もとゐ)が神界から築かれてある事を、深く信じて居ります。就(つい)ては何事も皆、出口の名に依(よ)りて完成する事も、神諭に由(よ)つて確信して居ります。故に世界から数千万の強敵が現(あら)はれて来て、私(わたくし)なり大本(おほもと)教(きよう)へ攻め寄せ来(く)るとも、皆(みな)神界の御経綸の一部分の実現せしものと感じ、神示の確固(かくこ)不易(ふえき)、動かす可(べ)からざる大権利を、衷心(つうしん)より感歎して止(や)まぬ次第であります。変性女子の千変万化の行動に就(つ)いて、種々(しゆじゆ)の批評を試み、且(かつ)又(また)新聞雑誌等(とう)にて、何程(なにほど)の迫害を持ち込み来(く)るとも、変性男子の一々万々確固不易の神教(しんきやう)の根基(こんき)は、微駆(びくつ)とも動かぬのであります。綾部の大本(おほもと)は神諭にも出て在る通り、月の形の御簾(みす)の内、日に日に代はる、引掛(ひつかけ)戻(もど)しの経綸(しぐみ)であるから、体主霊従の鼻高(はなだか)は、引掛(ひつかけ)戻(もど)した時に結構な御陰(おかげ)を落(をと)すものが出来るから、大本(おほもと)は筆先を基(もと)として開く処(ところ)であるから、外(よそ)の教(をしへ)は混ぜられんと出て居りますから、他(よそ)からの教理は、緯糸(よこいと)として参考として、或(あ)る期間は、私(わたくし)も応用して来たので在ります。併(しか)し宇宙(うちう)の真理は、宇宙(うちう)[*底本では「字宙」に「うない」とフリガナ。]に一つより無いのであるから、誠の教(をしへ)は、世の元の誠の神の御心(みこころ)に基(もと)づくもので在ります。私(わたくし)は何(な)んと言はれても、世界中から反対されても、例之(たとへ)生命(いのち)を取られても、私(わたくし)の行動が結局世界を救ひ導く、神的(しんてき)行動となるものと信じて居(を)る以上は、少しも痛痒(つうやう)を感じないのである。斯(こ)う言(い)ふ事を書くと亦々(またまた)反対者側から減らず口(ぐち)をたたくとか、負け惜(をし)みを言ふとか、強情だとか、横着者だとか、色々と評されるであらう。併(しか)し左様な小(せう)問題に、仮令(たとへ)一時間でも一分間でも精神を使ふやふな小さい魂性(こんぜう)では、到底今回の大任を果(はた)す事は、夢にも及ばぬので在る。今春以来の神諭にも、私(わたくし)の今日(こんにち)の面白い境遇が示諭(じゆ)されてあり、且(か)つ又(また)節分が過ぎたら、大本(おほもと)の内部の立替(たてかへ)を始(はじめ)ると、神示があれば寸分(すんぶん)も違(たがは)ず、諸氏御承知の通り、其(その)筋(すじ)の調査と各新聞紙の攻撃的行動が在つて、大本(おほもと)の内部の立替が完成しました。世界の立替、即ち改造問題は、天下を風靡(ふうび)するやうに成つたのであります。又(ま)た神諭に、今年(こんねん)の旧七月十二日から、世の立直し、神と学(がく)との力(ちから)競(くら)べの始(はじま)りで、大本(おほもと)の中が大変(おほがは)りする事も示されたが、是(これ)も又(また)神諭の示す通りに成つて居ります。故に私(わたくし)は大本(おほもと)の根基(こんき)たる神諭の確実不動なるを、層(さう)一層(いつさう)深く感激し敬服する次第であります。今後の大本(おほもと)は緯(よこ)の私(わたくし)の御用は漸次(ぜんじ)必要が無くなり、只(ただ)一筋(ひとすじ)に教祖様の神諭や、裏の神諭一点張りの御用を為(さ)して戴(いただ)く時節が到来しまして、神の御(お)仕組(しぐみ)の完成が日夜(にちや)に接近しつつあるを歓(よろ)ぶ次第であります。世界の立派な賢明な智者、学者の総攻撃が何程(なにほど)襲来しても、唯々(ただただ)天職の使命を実行しつつ、自信(じしん)力(りよく)を有する私(わたくし)には、蚊(か)の鳴(な)く声位(ぐら)いより感じない。夏の最中(さいちう)に四角な蚊帳(かや)を釣(つ)つて、其(そ)の正中(せいちう)に安臥(あんぐわ)しながら、帳外(ちようぐわい)の蚊群(ぶんぐん)の泣く声を聞きつつ、団扇(うちわ)を使つて浄瑠璃(じやうるり)でも唸(うな)つて居(を)る様(やう)な心持(こころもち)である。古語(こご)にも喬木(けうもく)は強き風に克(よ)く中(あ)たると云ふ事がある。善の名にもせよ悪の名にもせよ、ソンナ事には懸念しない。神諭にも悪く言はれて良くなる経綸(しぐみ)とあるから、私(わたくし)はいよいよ変性女子の天職の発揮されたる事を満足に思ふのであります。又(また)私(わたくし)を退隠(たいいん)さして、大本(おほもと)の根本的大革正を実行せうと云ふ、ヱライ御方(おかた)も現(あら)はれて来るが、其(そ)うなれば実に我々は気楽でよいが、神界から許(ゆるし)て下さらぬので、堂(どう)も致方(いたしかた)がありませむ。大本(おほもと)の幹部の役員をオダテ上げて、大本(おほもと)乗取(のつと)りの妙策を講ずる者も出て来るのは、神界所定の事実であります。斯(こ)ふ言(い)ふ人に限つて真(しん)の確信がないから、洞(ほら)ケ峠(とうげ)を極(き)め込むものである。大本(おほもと)は行く行くは宗教にする心算(つもり)であるとか、何(な)んとか云ふて、神の御心(みこころ)を知らぬ連中が、攻撃をする事も出来て来るなれど、基也の言霊の活用は如何(いかん)ともする事が出来ぬのである。教祖の神諭は人作(じんさく)だとか、文章が卑近(ひきん)なから、尊(とほと)い神の教(をしへ)で無いとか、天理教祖を守護して居た狐で、十七番目の伝九郎(でんくろう)だとか、本田(ほんだ)親徳(しんとく)[※フリガナの「しんとく」は底本通り。]が神憑(かんがかり)して言ふたとか、色々と草の片葉(かきは)まで言問(ことと)ひして神界予告の通りに、邪魔者が現(あら)はれて来て居(を)るが、何程(なにほど)理屈を言ふて、一生懸命に反対した所で、結局は矢張り大本(おほもと)の大橋へ後戻りするより他に道は無いのである。世界一切の事は、艮の金神様の永久(えいきう)の御(お)仕組(しぐみ)であるから、一時悪霊(あくれい)に誑(たぶ)らかされても遂(つひ)には道が無くなるから、又(ま)た基(もと)へ立帰(たちかへ)らねば成らぬのは、基也の言霊の活用である。

(六)人(ひと)也。神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰者である。故にトの言霊あり。トは経綸(けいりん)の主宰(しゆさい)即ち艮(とどめ)の義である。霊主体従の行動を為(な)すものを、ヒト(霊主(れいしゆ))と曰(い)ひ、体主霊従の行動を為すものをニウ(入(いる))と曰ふのである。人は即ち字形(じけい)より曰ふも、左(ひだり)(火(ひ)也霊(れい)也)が現(あら)はれ、右(みぎ)(水(みづ)也体(たい)也)が下位(かい)に在(あ)る。之(これ)に反して入(にう)は右が先に現(あら)はれ、左が下位にある。故に日本人の言(ことば)にてヒトと曰へども、体主霊従の外国人は之(これ)を、ニース又はニユスと曰ふ。ニユスの霊反(たまかへ)しは即ちニユである。この大本(おほもと)には変性男子の人と、変性女子の入とが出現して、日本と外国との実地の像(かた)をして見せてあるので在ります。故に人(ひと)と入(いる)とをアヤなす時は文(あや)となり、十二となるから、大正八年の一月号の神霊界には、七月即ち(文月(ふみづき))の十二日から、神界の御用が変(かわ)りて、此(こ)の大本(おほもと)にもいよいよ霊主体従の人の御用と変(かわ)つて来たのであります。今迄は変性女子の役は、苟(いやしく)も斯(こ)の大本(おほもと)の教(をしへ)に幾分でも適当した論説は、悉皆(しつかい)之(これ)を一つに纏(まと)めて、大本(おほもと)へ輸入したのは、即ち体主霊従(入(にう))の言霊の活用であつたのであります。又(ま)た大本(おほもと)の教(をしへ)に、一旦入信したものも、入の守護神になると、一つの目的を立(たて)て、利己的の行動に出(い)づる者が現(あら)はれて来て、大本(おほもと)の深遠なる経綸(けいりん)を、知らぬ入道者が、力(ちから)一杯反対をして、大本(おほもと)へ入(疵(きづ))を付けるものが沢山に現(あら)はれる言霊であります。盤古(ばんこ)の悪霊(あくれい)が肉体を駆使して、大本(おほもと)教(きやう)の教祖も教主も、金毛(きんもう)九尾(きうび)じゃ四(よ)ツ足(あし)じゃと隠口(かげぐち)をたたひて、真(しん)の神人(しんじん)まで迷(まよは)せに掛(かか)る事もある。今度は○の御魂(みたま)や○の御魂(みたま)までが○○を加(くわ)えんとするなれど、九分九厘で手(て)の掌(ひら)がかえりて、谷底へ落ちて苦しむ者も、現(あら)はれるてふ言霊でありますが、是(これ)が暗黒の世界の現状が、大本(おほもと)へ映写して居(を)るので在ります。此(この)七月十二日以後になると、誠(まこと)の人と誠の入とが明白に判りて来て、神と人との共同の大(だい)神業(しんげう)が行(おこな)はれる、人也の尊い言霊の活用があるのであります。

(七)昇(のぼる)也。旭日(きよくじつ)昇天(しやうてん)の勢(いきほひ)ある、言霊の活用である。神諭に暁(あけ)の烏(からす)に近よりて、日出(ひので)の守護となるから、此(こ)の大本(おほもと)は日々(にちにち)結構になりて、艮の金神の威勢が天までも届くぞよと、出てある所以(ゆえん)であります。又(ま)た神諭に昇る御魂(みたま)と、降(くだ)る御魂(みたま)との立替で、一旦は混雑に成るぞよと出て居ります。大本(おほもと)の教(をしへ)を守り、霊主体従の行動をするものは昇り、亦(ま)た神の教(をしへ)を聞かずに、体主霊従の行動をする者は、地獄のドン底へ陥(おちい)ると云ふ言霊の活用である大本(おほもと)でありますから、身魂(みたま)も研かずに、我(わが)身(み)の昇る事斗(ばか)り考へて居(を)ると、地獄の底へ落(を)とされて、万劫(ばんご)末代(まつだい)苦しまねば成らぬ様に成るのであります。

(八)万物の種(たね)を宰(つかさど)つて、一より百千の数(すう)をなす也。一とは日(ひ)也、霊(れい)也、火(ひ)也、ヽ(ほし)也。即ち天授(てんじゆ)の日本魂(やまとだましい)なり。この日本魂(やまとだましい)の一つの種を元にして、三千世界の御魂(みたま)を日本魂(やまとだましい)に捻(ね)ぢ直す、大神の経綸場所であります。大本(おほもと)の太初(たいしよ)、即ち教祖開教の時は、教祖様が只(ただ)一人(いちにん)相談相手も無く、大神様の御命令を遵奉(じゆんぽう)して、種々(しゆじゆ)の艱苦(かんく)を嘗(な)めつつ、日本魂(やまとだましい)の種を養(やしな)ふて居られたのが、今日(こんにち)に至り、数万の帰依者(きえしや)が集(あつま)り、日本魂(やまとだましい)の人士が追々(をいをい)と現(あら)はれて来たのも、一より百千の数(すう)を成す也の言霊の活用であります。亦(ま)た一切万物の種を宰(つかさど)る言霊あれば、世界一切の事物は、此(こ)の大本(おほもと)でなければ、因縁が判らぬのであります。

(九)十(とを)也。十は─(か)│(み)の二息(にそく)合(がう)して神と成るのである。又(また)左右十指(ゆび)の活用で霊体(れいたい)合一の言霊である。皇道大本(おほもと)の神旗(しんき)は十曜(とよう)である。十は円満(ゑんまん)具足(ぐそく)完成の意義である。キリスト教は十字架を標章とし、仏教家は十字を化して卍(ともゑ)となし、法華(ほつけ)教(しう)は十字の尖(さき)を割(わり)て標章となすも、皆(みな)完全無欠の意を表(ひやう)したものである。私(わたくし)は茲(ここ)に大本(おほもと)の十曜(とよう)の神紋(しんもん)に就(つい)て少しく書いて見ようと思ふのであるが抑(そもそ)も十曜の神紋に就(つい)ては、種々(しゆじゆ)の意味が包まれて在つて一々之(これ)を説明せむとすれば、到底百頁や二百頁では充分に徹底的に説く事は出来ませぬから、十曜の紋のことは後日に譲ります。

(十)能(よ)く産み出す也。高皇(たかみ)産霊(むすび)(男(をとこ))神皇(かむみ)産霊(むすび)(女(をんな))の火水(かみ)の言霊活用に依(よ)り、経緯(けいい)の二霊顕現して、万物一切を産(うみ)出(だ)す意義あれば、トの言霊を活用してオホモトの名を付け、天地経綸の神業を完成し玉ふ神意であります。

(十一)結(むす)び徹(とほ)り足(た)る也。因縁の糸に吉(よ)き身魂(みたま)が引(ひき)付(つ)けられ、一つに成つて世界万民の為に心身を投ずる至誠が天地に貫徹して、大神(おほかみ)の神慮(しんりよ)に叶(かな)ひ、君国(くんこく)に報ずる円満具足の行動を成すてふ言霊の活用であります。

(十二)皆(みな)治(をさま)る也。神諭に、昔の元の生神(いきがみ)が、竜宮館(りゆうぐうやかた)の地(ち)の高天原(たかあまはら)に現(あら)はれて、三千世界を一つに丸めて、日本(にほん)神国(しんこく)の一つの王で、何時(いつ)までも天下泰平に治めるぞよと出て居りますのも、トの皆治る也の活用であります。

(十三)結(むす)びの司(つかさ)也。処々(ところどころ)方々(ほうぼう)に教(をしへ)の射場(ゐば)が建てられ、誠の人が集(あつ)まつて、神仏(しんぶつ)の慈徳(じとく)を拝受(はいじゆ)し、且(かつ)又(また)神理を研究する団体がある。其(そ)の各種の団体を、時節が到来して之(これ)を統一し、之(これ)を主宰する言霊の活用である。

(十四)形(かたち)の本源(ほんげん)也。神諭に三千世界の一切の出来事は、斯(こ)の大本(おほもと)の中で、神から形をして見せるから、世界を見ないでも、大本(おほもと)の中に在りた事を気を付けて見て、腹の中へ入れて置きさえすれば、世界の事が手に採る如く明白(ありやか)に判る、世界の大本(おほもと)であるぞよと現(あら)はれて在るのも、形(かたち)の本源(ほんげん)也の言霊の活用であります。

(十五)八咫(やあた)に走(はし)る也。八方を明(あきらか)に知らすと言ふ意義である。神諭に今度の二度目の天之岩戸開きに就(つ)いて、綾部の産土(うぶすな)様(さま)に御苦労になりて、八方の神々様へ御(お)披露(ひろう)が致してあるから、此(こ)の事が天晴(あつぱ)れ世界へ判りて来ると、何(いづ)れの神様も我(わ)れ一(いち)と、丹波の綾部じや大本(おほもと)じやと申して、今度の御用を御(お)手伝(てつだい)遊ばす為に、皆お起(こ)し遊ばす如(よ)うに成る、尊い霊地であるぞよと現(あら)はれて在るのも、八咫(やあた)に走る也の言霊の活用で在ります。

(十六)[*底本では「十六」ではなく「十四」。]世の位(くらい)也。世界の最勝妙(さいしようみやう)中心の地にして、宇宙の権威たる神霊の、神集(かむつど)ひに集(つど)ひ給ひて神律(しんりつ)を議定し、神都(しんと)を開き、世界万民を安(やす)きに導き玉ふ言霊の活用であります。神諭にも綾部の大本(おほもと)は地の高天原であるから、三千世界の事は皆(みな)判る結構な所(とこ)であるぞよ。斯(この)大本(おほもと)は世界の鏡(かがみ)の出る、外(ほか)に無ひ尊ひ処(ところ)であるぞよ。世界中の結構な身魂(みたま)は、皆(みな)爰(ここ)へ出て来て御用を致す如(よ)うに成るぞよとあるは、世の位(くらい)也の言霊の活用であります。

 以上オホモト四言(げん)の言霊の活用に就(つい)て略解(りやくくわい)を施(ほどこ)しましたが、読者の中には、私(わたくし)の解説を以(もつ)て、大本(おほもと)の尊き事を知らさん為(た)め、殊更(ことさら)に牽強(けんきやう)付会(ふかい)せし者と見做(みな)される方々(かたがた)も有るかも知れませぬが、決して根拠無き解説では在りませむ。杉庵(すぎいほ)思軒(しけん)[*底本では「庵」ではなく「奄」。]先生の水穂伝(みづほでん)や、中村(なかむら)孝道(こうだう)先生の真寸美(ますみの)鏡(かがみ)などの言霊を根拠とし、且(かつ)又(また)た私(わたくし)が廿余年間実地に就(つい)ての研究の結(むすび)であります。殊(こと)に教祖様の御(ご)直話(じきわ)なり御(お)筆先(ふでさき)なり、其(その)他(た)の事柄等(とう)を総合して、断案を下(く)だしたもので在ります。何(いづ)れ未熟極(きは)まる私(わたくし)の研究上の解釈[*底本では「釈」ではなく「譯」(「訳」の旧字体)。]で在りますから、不完全な穴だらけで在る事は、私(わたくし)自身としても能(よ)く感じて居りますから、賢哲諸彦(しよひこ)の御(ご)添削(てんさく)を願へば、実に望外(ぼうぐわい)の幸福で在ります。
 オホモトの霊返(たまかへ)しオの一言(げん)に帰(き)する。オを更に解説すれば、オの言霊は天神地祇の昇降(せうこう)遊(あそば)さるる天(あま)の浮橋(うきはし)ともなり、天(あま)の橋立(はしだて)ともなるのである。祭官(さいかん)が祓戸(はらいど)四柱(よはしら)の神、又は特に奉仕の神霊を送迎する時に、オオオオと高唱(こうせう)するのは、神界と現界との大橋を、言霊に依(よ)りて架(か)する神事(しんじ)であります。故(ゆへ)に降神(こうしん)行事(げうじ)の時には、侍者(じしや)が最初は細く、漸次(ぜんじ)に太く、オオオオと奉唱するは、天上より漸次(ぜんじ)地上に近づき降(くだ)らせ玉ふ意味であり、又(ま)た昇神(しやうしん)行事には之(これ)に反して、最初は太く、漸次(ぜんじ)声を細く奉唱するは、神霊の天(てん)に帰り玉ふに就(つ)き、地上を遠ざかり玉ふが故に細く聞(きこ)ゆる意義であります。近くに在(あ)る友人(ゆうじん)、又(ま)た家族に対して、オオイと大声を発して招いたり、又(ま)た招かれて、オオオと答ふるは、凡俗(ぼんぞく)より見れば、実に失敬な、粗雑な言辞(げんじ)の如くに聞こえ、又(ま)た普通(ふつう)人(ひと)からは然(し)か思(をも)はれますが、実際は神国(しんこく)自然の言霊の妙用で、神様扱(あつか)ひにした、非常なる敬語であります。故に人を呼ぶに、オオイ、オオの言(ことば)の贈答(ざうたう)は、却(かへ)つて使用すると恐れ多い位(くらい)で、少しも不敬とか粗雑と云ふ意義にはならぬのであります。可成(なるべき)は人間社会の呼応(こおう)には、モシモシとハイハイとが、適当した言葉でありますから、天(あま)之(の)浮橋(うきはし)は神事(しんじ)に携(たづさ)はる時の外(ほか)は、用(もち)ゐない方が穏当(をんとう)であります。
 畏(かしこ)くも大嘗祭(だいぜうさい)の御時に用ゐらるる鎮魂祭(ちんこんさい)の八首(しゆ)の秘歌(ひか)も、一首一首に、オオオオと言ふ言葉が在ります。如何(いか)にオの言霊の至尊、至貴、至重(しちやう)なるかは、左(さ)に発表し奉(まつ)る、八首の神秘歌(しんぴか)に由(よ)つて、伺(うか)がひ奉(まつ)る事が出来るのであります。

(一)アチメ オオオオ アメツチニ キユラカスハ サユラカス カミハカモ カミコソハ キネキコウ キユラカス
(二)アチメ オオオオ イソノカミ フルノヤシロノ タチモカトネカフソノコニ ソノタテマツル
(三)アチメ オオオ サツヲラガ モタキノマユミ オクヤマニ ミカリスラシモ ユミノハスユミ
(四)アチメ オオオ ノボリマス トヨヒルメガ ミタマホス モトハカナホコ スヱハキホコ
(五)アチメ オオオ ミワヤマニ アリタテル チカサヲ イマサカエテハ イツカサカエム
(六)アチメ オオオ ワキモコガ アナシノヤマノヤマヒトト ヒトモミルカニ ミヤマカツラセヨ
(七)アチメ オオオ タマハコニ ユウトリシデテ タマチトラセヨ ミタマカリ タマカリマカリ マシシカミハ イマソキマセル
(八)アチメ オオオ ミタマカリ イニマシシカミハ イマゾキマセル タマハコモチテ サリタルミタマ タマカヤシスヤナ

 次に ヒフミヨイムナヤコト の数歌(かづうた)を十回唱(とな)へらるるのであります。以上の神秘歌(しんぴか)なり数歌(かづうた)を拝読しましても、オ也、ト也の言霊の活用が備(そな)はつて在る、オホモトの天賦の使命が分(わか)るので在ります。

 杉庵(すぎいほ)思軒(しけん)[*底本では「庵」ではなく「奄」。]の水穂伝(みづほでん)に現(あら)はれた言霊学(ことたまがく)は、火水(かすい)の体(たい)を説き、中村(なかむら)孝道(こうだう)の真寸美(ますみの)鏡(かがみ)は、火水(かすい)の用(よう)を説いたもので在りますから、水穂伝の所説を大本(にほん)言霊学(ことたまがく)と称し、真寸美鏡の所説を日本(にほん)言霊学(ことたまがく)と称して、私(わたくし)は体用(たいよう)両面に区別しました。併(しか)し私(わたくし)が永年(えいねん)研究の結果、双方共(とも)実地に就(つい)て応用するに当(あた)り、余程(よほど)不備の点を感じましたから、二十余年間、学理の如何(いかん)に関せず、実用に適する説を採つて来たのであります。大本(おほもと)の言霊閣(ことたまかく)に安置する天津(あまつ)金木(かなぎ)は大石凝(おおいしこり)翁(わう)一派の運用法とは、余程変(かわ)つた点があります。如何(いかん)となれば、人間の説を根底(こんきよ)[※フリガナ「こんきよ」は底本通り。]として立てた教理と、神界直授(ちよくじゆ)の真理とは、凡(すべ)ての点に於(をい)て、深遠(しんえん)浅近(せんきん)の区別があるからであります。

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