霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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加藤明子「をりをり物語」

インフォメーション
題名:をりをり物語 著者:加藤明子
ページ: 目次メモ:
概要: 備考:『神の国』に不定期で連載された。ここには次の4回分を掲載した。(1)昭和8年12月号p44-48 (2)昭和9年1月号p56-60 (3)2月号p44-47 (4)3月号p46-48/「をりをり」は「折々」の意味だと思われる。 タグ: データ凡例:共通凡例S データ最終更新日:2023-10-26 04:36:23 OBC :Z9035
[#『神の国』昭和8年(1933年)12月号掲載分。]

霊界物語の思い出(一)

 もはや十二年になります。(ひま)行く(こま)足並(あしなみ)、早い事にはただ驚かさるるばかりです。編輯課よりの御希望によりまして、『霊界物語』御口述当時の記憶を辿って、思い出を書かして頂こうと存じますが、往時(ぼう)として夢の如く、折から手許に当時の日記も無いので、ほんの思い()ずるままを少しばかり書かして頂くことに致します。
 大正十年の十月十五日の午後三時頃、聖師様(当時は大先生と申し上げておりました)よりお使いがあって、ちょっと来てくれとの事で、大本に行きますと、
「すこし書きたいものがあるのだが、王仁(わし)が、筆を執るわけにゆかぬので書いてもらいたい。外山(とやま)さんと、あんたと、ほかに二人ばかりの人が入用(にゅうよう)なのだ」
とこんなようなお話で、並松(なんまつ)松雲閣(しょううんかく)で御口述が始まることになったのです。初めは三冊ばかり書いてもらったらよいのだとおっしゃっていました。
 いよいよ御口述が始まったのは十月十八日でありまして、外山(とやま)豊二(とよじ)底本では「豊次」。さんの筆録『天使の来迎』という章第1巻第13章。それ以前の章は、『神霊界』誌の大正10年2月号に掲載した「回顧録」を修正したもの。からでありまして、そのとき桜井八洲雄(やすお)、谷口正治(まさはる)底本では「雅治」。の二氏が参加されて、四人の筆録者がかわるがわる御用を(うけたまわ)ることになりました。
 松雲閣に移られても、なかなか口述は始まらず、よほど御苦心のように見受けられました。十七日の夕方うつうつと眠られておりましたが、ふと目を覚まされて、
「今教祖様が、それ今お前の坐っているそこのところに立たれて、梅の杖をもって畳を打ちたたきつつ御機嫌が悪い御様子なので、本宮山破壊などの出来事について怒っていらっしゃるのだと思い、お詫びを申し上げると、首を左右に打ちふってそうではないという意を示さるるので、物語の御神命をうけながら日をのばしていたのでそれかと気がつき、物語をすぐ始めますと申し上げると、口を四角にしてニコッと笑われ、そのまま消えてしまわれた。いよいよ始めねばならぬ」
とこんな事を仰せられて、翌十八日からいよいよ(ちゃく)せられたのでした。初めは聖師様もよほどお出しになるのがお苦しそうでした。筆者が慣れぬので、すらすらとは書けぬのがその一つですが、後より承りますと、悪霊(あくれい)の大妨害があってなかなか出て来なかったのだとの事でした。
 この物語は寝物語だとおっしゃって、横になられなければ出て来ないのですが、天地剖判の章を口述せらるる時だけは、紋服に袴をつげられて端座して口述せられました
 初めのほどは鉛筆をもって半紙に書き、それを原稿用紙に清書し直しておりました。二十六巻頃からは、いったん書いて清書しなおすことを神様が嫌われるから、すぐ原稿用紙に書けとの事で、原稿用紙にベタ書きにするようになりました。
 この頃から御口述は非常の速力をもって進みまして、とうとう水の流るるが如く慣れない者ではとうてい追いつかないようになって来ましたので、筆録者も自然一定の人に定まってしまいましたが、初めはこの物語がどういう風に出るかということをかなり沢山の人々に知らせたいというお考えであったらしく、多くの人々が参加するようになりまして、三十三人の人々が関係しております。
 もちろん一章だけ書かして頂いた者もあり、二、三章くらいお蔭を頂いた者もあります。単に筆録の現状のみにては無く、御口述の現場にも(はべ)る事を許されたのでした。これは局外者の目から見れば事実とは信じられぬような出来事を実際に見せておく必要上から神様が許されたもので、(のち)に至っては筆録者の(ほか)の者が立ち入る事は厳禁さるるようになりました。また全く、御口述者と筆録者との呼吸がピタリあって、間髪を入るるの余地が無く、動くはお口と手、サラサラと原稿紙の上を走るペンの音のみ、人なく(われ)なく森羅万象の総てが消滅している境地になった時、誰かが入って来るようなことがあれば、その物音にハーモニーがやぶれて筆録者は瞬く間に四五行くらいは(おく)れてしまうので非常に困るのでした。
 私はこの機会において御口述の有様をちょっと記さして頂きたいと思います。
 聖師様は、まずお(とこ)の上、あるいは寝台に横臥されます。おたばこのセットと、お茶盆が前におかれてあるだけで、何らの参考書もノートも用意されてはおりません。かくておたばこを一服か二服かめしあがるうちに、お口がほどけて、「大国常立の尊の御力(みちから)によりて天地は茲に剖判し、太陽、太陰、大地の分担神が(さだ)まった」というふうに口をついて()ずるまま述べ立てらるる。筆録者は一言も漏らさじと筆を(ふる)います。
 一日口述の量は二百字詰の原稿用紙に四百頁乃至五百頁であります。一冊が二日で出来上がった時は一日六百頁以上口述されました。もっとも一罫(いっけい)を置き一行置きにの意に書いているのですから実数は二百頁から二百五十頁であります。三日間に三百五六十頁の霊界物語が一冊完成する訳です。
 さて御口述の調子は早い時になると素晴らしく速く、速口(はやくち)の人が話する程度でして、速記ならではとうてい取れないような時もありますが、そういう時はまるで夢中で筆を飛ばします。それでも叶わぬくらい早くなって五行六行くらいも遅れる時があります。他の筆録者の体験はどうか知りませんが、かかるとき私は思わず心の中で「神様助けて下さい」と叫びます。そうすると、原稿紙の上にちょうどダイヤモンドと同じ光をもった小さな玉がパッパッと出て来ます。自分ではほとんど何を書いたか覚えぬような時でもちゃんと間違わずに書けているのに自分ながら驚いた事が幾度あるか分かりません。
 一番口の速いのは高姫さんで、豆がはじけるようにのべ立てられるに反して、初稚姫(はつわかひめ)様などはおちついて(しと)やかなゆっくりしたお言葉です。だから初稚姫様が物語中に出て来られると、筆録者はホット一息つきます。
 かくて書きあげたものはすぐ他の人が読みます。それを聞いておられて、違ったところがあれば、そこは違っていると仮名一字の間違いでも厳重に訂正されます。ですから筆録者の方では他人が読んで分かる程度に書かねばならぬのですからかなり苦心致します。
 だけれども調子は遅いよりもむしろ早い方が書きよいので、何かほかの事を考える余裕があるとかえって(おく)れるので、考える余地がないくらいの速力(はやさ)で、ハーモニーがよく取れた時が一番よいのです。
 漢字まじり文で書くのですが、全く忘れているような文字でもその時は押し出すように出て来ます。
 かくて口述せらるる方も筆録者も全く忘我(ぼうが)の境地に置かれております。
 ツルツルと水の流るるが如くに出て来るのですが、途中で分からない事などがあっても問いかえすわけにはゆかないので、問いかえすとその瞬間ハタリと御口述は止まってしまいます。そしてしばらくは出なくなってしまいますので、どんなにわからぬ事があっても問いかえすわけにはゆかず、済んでしまってから、あのところが分かりませんでしたから、も一度云って頂きたいとお願いすると、王仁(わし)が云うておるのではない、神様が申さるるのである。(あと)から聞いても分かるものか、と申さるる。その上一言でも書き漏らすと取りかえしがつかぬ、神には二言がないからと申される。かくなると人間業ではとうてい出来ないので、ひたすら神様にお願いして御神助を仰ぐほかないのでありました。
 七十二巻をものされるうちには種々の出来事もありますが、いずれ期を待ってゆっくり書かして頂く事に致しましょう。が、この物語がいかに霊界に感応してゆくかという事についてすこし述べさせて頂きます。
 言いおきにも書きおきにもない事を示すのであると御筆先にありますが、全く善悪にかかわらず神界、霊界のありさまを暴露せらるるのですから、兇党界には大恐慌をおこしたと見えて妨害につぐ妨害があって、そのたび聖師様はもちろん筆録者一同もずいぶんひどい目にあったことも一切ならずでして、あるとき物語に言霊別(ことたまわけ)の神様が毒殺されんとする場面が出て来ましたが、その御口述のあった日、聖師様はじめ十六人の人が吐いたり下ろしたりして大騒ぎになった事がありました。
 また私は松雲閣の記録場に入って行く事がとても苦しく、門を入る事は槍襖(やりぶすま)の中を歩むような心地で、屠所(としょ)の羊の()を運んだ事が、幾月日だか分らないのでした。某霊覚者が同じ経験を語って、霊眼で見れば正に槍の襖であると申しておりました。悪霊は自分の素性を霊界物語によって暴露せらるるを非常におそれて極力妨害したのであるとか承りました。筆録者すらかくの如しですから、聖師様のおなやみはまた格別で、筆紙に尽せぬ種々の出来事がありました。みな人間を使っての妨害でありまして、使われておる本人はもちろんそれと自覚してはおりませんでした。
 物語の初まった頃、大本は神の御試煉の(むち)がいや茂く下りつつあった時で、(こと)に天の御三体の大神様を(いつき)まつるため幾十万(きん)を投じて建立した本宮山の御神殿が、明治初年頃に定められた太政官令にふれたとあって破壊さるるという騒ぎ。この、破壊の(つち)の音、メキメキとなる柱の倒れ木の切られる音を聞きつつ、平然としてその山下なる松雲閣で「形のあるもものは必ず壊るる時が来る、我は人の心の奥深く(まこと)の殿堂を築くのである」とおっしゃって、せつせつと物語を続けられたのでしたが、私ども人間の身としてはその(おの)の音、(つち)の響きは、三十三間堂の柳ではないが、胸にこたえて堪え難さを痛切に感じつつ筆を走らせておりました。


[#ここから『神の国』昭和9年(1934年)1月号掲載分。]

虻刺し

 出産、寿命、福禄(ふくろく)等の総てが、神様の御手(みて)に握られているという事についての面白い話を聞きましたから御紹介致します。
 宮城県遠田(とおだ)不動堂(ふどうどう)現・美里町の一部桜井(さくらい)忠二(ちゅうじ)という人があります。この人が若い時に起こった話なのですが、ある時、村に病人がありまして、村祈祷をしてその人の平癒を産土の大神様にお祈りする事になりました。
 さて御祈祷もすみ、村人はそれぞれ家に帰りましたが、その(うち)にご神前にねむりこけてしまった青年がありました。この青年は非常に臆病ものであったので、村人は面白半分、その青年を置き去りにして帰ってしまったのでした。
 青年は夜半(よなか)ふと目をさますと、四辺(あたり)に絶えて人もなく(せき)として何の物音もありません。青年はぞくぞくと迫って来る物寂しさと怖ろしさにぶるぶる身慄(みぶる)いしながら、そこに敷いてある(むしろ)を被って板の間に喰らいついておりました。すると石段をことこと登って来る人の足音がハッキリと聞こえて来ました。青年はハッと心臓の血が一時に逆流するような恐怖に襲われて、呼吸(いき)をこらしておりますと、やがてその足音は青年がいる宮の拝殿に入って来る気配です。すると御宮の扉がギーッと()く音がして誰かが出て来られた様子でした。入って来た人はハッキリした声で、
「不動堂村の何の誰某(たれがし)(姓名を逸す)長男出生(しゅっせい)、寿命二十五歳、食い扶持(ぶち)底本は「扶知」。以下も同じ。一斗二升1斗2升は約22リットル。、病名(あぶ)()し」
と報告の如き事を申しますと、一方の声として
「御苦労」
と聞こえて来ました。そして扉がギーと閉まる音と、石段をコトコトくだる足音が聞こえて、(やみ)はまたもとの静寂に帰って来ました。
 青年は奇異の思いをなし暫時(ざんじ)呆然としていました。何故かなれば、誰某(たれがし)と二人の神人(しんじん)(?)の話題にのぼった人というのは自分のすぐ隣の人であったからである。そしてその隣人の妻が妊娠してその時はまさに臨月に当たっていた事をよく知っていましたから。そこで早朝帰宅するや否や隣家を訪れてみると、驚くべし、昨夜男子が出生したとの事である。さては自分は産土の神様と、お使いの神様とのお話を思いもかけず立ち聞きしたわけであると、何とは知らずゾッとしました。そして扶持一斗二升、二十五歳、虻刺しという不思議の言葉の解決を二十五年の後に待とうと心ひそかに思い定めました。
 星ゆき(とし)うつっても二十五年の歳月はかなり長かった。しかしながら彼は胸中深くこの神秘を蔵して黙々と二十五年の星霜の推移を気長く待ったのでありました。
 不思議や彼の息子が生長して二十五歳になった時には彼の家ではその日の生活に一斗二升の米を要するほどになっていました。扶持一斗二升の解釈はつきましたが、分からぬのは病名虻刺しという謎の言葉でありました。
 病名 虻刺(あぶさし)、虻刺と彼は心の中で叫び続けました。だがほどなくその解決がつく時が来ました。
 ある日その息子はすこし早く野良より帰って来ました。そして後から帰って来る家族たちに風呂をわかしておいてやろうと思い、(まき)を割りにかかろうとして手斧(ておの)を振り上げた途端、虻が飛んで来て横腹を刺しましたので、それを払はんとして手斧を横腹に深く打ち込みました。彼は手斧を持っている事を忘れていたのでした。サッと(ほとばし)る鮮血、突き起こる劇痛、悲鳴をあげて彼はその場に昏倒してしまいました。
 病名 虻刺!
 果然彼は二十五歳を一期(いちご)として、虻に刺されたが原因で遂に(たお)れてしまったのでありました。
 二十五年の年月をかけて神秘の実験をしていた彼青年、即ちこの物語の主人公たる桜井忠二氏は全く驚かされてしまった。
 小児(こども)が生まれると産土の大神様にお届けがあるという事、寿命も食い扶持もみな生まれると同時に(きま)っているものだという事をしみじみと知ったという事です。
 当事者の名を逸しましたが、桜井氏は現住所に達者で現存しておられるそうです。

第六感を誇る女

 私の第六感は決して間違わぬと誇る女がいた。彼女はそれが大変御自慢なので、私が推察した事は百発百中であると傲然(ごうぜん)人に臨んでいる。
 どんな六感か知らないが、彼女の悪気の回る事、嫉妬心の深い事、猜疑心の猛烈なこと、人々は恐れをなして、曲津の第六感と呼んでいる。しかし御本人は一向それを知らず、敏感なる特別神経の所有者と鼻を(うごめ)かしている。

自殺せんとした人

 昭和八年の七月某日、私は紹介状をもったさる紳士に会った。紹介状には「自殺の(うれ)いあり神様のお救いを願う、修行のため妻君(さいくん)をつけてやる」との気味悪い事が記されてありました。会っていろいろ話を交換してみますと、なるほど、よほど神経過敏になってはいるが、さほど危険な精神状態ではない、だが彼氏は実際自殺しようと思ったのだそうで、もはやあらゆる方面に失望して実際人生というものがつまらなくなったのだそうです。もっともそれは物質に対しての失敗でも失望でもなく思想方面の事であり、またもし残されたる唯一の方法、即ち大本修行によりても何ら得る所がなかったら私は自殺しますと断乎として言いきった。妻君はハラハラとして、後でソッと私に耳うちして、
「本当にここで救われねば彼は自殺します。途中がトテも危なかったのです、私は監視のためについて来ました、随分苦心しました。どうかお助け下さいませ」
という事でした。私は、
「まあともかくも一週間の修行を済ませて下さい、きっと心境の変化が来ましょう、万事その上でまた御相談にのりましょう」
というて別れました。
 さて一週間の修業を終わった彼氏は申しました。
「よく分かりました、今はほんとにいい気持ちで、何だか救われたような気がします。ですがしばらくするとまた元のような気持ちになりはせぬかと心配です、元来私は私の性格そのものが呪わしいので、非社交的の私の性格は常に私を不幸に導いて参りました。私自身がいくら修養してもこの性格は直りません。この性格の直らない限り、私はまた憂鬱の昔にひき戻されざるを得ない事になります、私はそれが心配です」
 私は答えて申しました。
「そこが修養と信仰の異なるところです。修養では性格はなかなかなおらないが信仰ではなおります。また性格が直らないでも神様に祈る事によって先方からよいように、よいようにと仕向けて来るようになりますから安心です。私は今、社交方面を司っておられる神様をお知らせ申します、朝夕のお礼の後にまた特別にこの御神名を称えて社交の円満をお願いなさい、また会合などに出席せんとする時にもお祈りなさい。その体験によりあなたは本当に神様のお力を知らせて頂きなさるでしょう」
と、こんな事を申して別れました。
 八月の頃その紳士を導いた方にお目にかかった時、
「本当に自殺しようとしたのですよ、今非常に喜んでいます、すっかり更生したようです。ありがとう御座います」
と申されていました。
 今日私は思いもかけず、忘れてしまっていた紳士からの手紙を手にしまして、御神徳のいやちこなるを今更ながら感じさせて頂きました。その手紙には()の通り書かれていました。

 前略
 特に御口授(こうじゅ)(こうむ)りました社交の神様の奉称によりて実に驚くべき数々の御神徳を頂いております。
一、諸会合に出席することが嫌でなくなった事
一、他人に対して抱く感情が極めて寛容になった事
一、何より嫌いだった講演が好きになり、にわかに進歩した事
一、他人との応対に苦痛を感じなくなった事
等々の如く、私としては珍しい変化を(きた)しつつあります。九月上旬に至り一層円満具足な、周囲の凡てが愉快ならざるはないという天国的気分に没入致しました。これこそ年来望みに望んだ真の法悦(きょう)ならんと歓喜に堪えざる所でございます。ここに改めて神様並びに御尊堂(そんどう)様に厚く御礼申し上げます、云々

 神様ですな、人間は修養とかいって苦しい思いをしながら血で血を洗うような役にも立たぬ事ばかりをして苦しんでいます。古人(こじん)がどう言うたとか、哲人の(げん)だとか、金言(きんげん)だとか、格言だとか、(ことわざ)だとか、座右(ざう)(めい)だとか、いろんなものをかつぎだして自己を矯正しようとしております。その努力や感ずるに余りあります。また古人(こじん)(げん)も大いに修養に資する場合もありましょうが、も一つドッと尖端を行って、人間を造り万有を造らせたもうた宇宙意志、即ち神様に教えを乞うたら一番()いではございますまいか。何だって、聖人、賢人、哲人とばかり言うて神様までよう行かないのでしょう。私は人を知って神様を知らぬ人々を心からお気の毒に思うのであります。


[#ここから『神の国』昭和9年(1934年)2月号掲載分。]

信仰総動員の秋

「海()かば水漬(みづく)(かばね)、山()かば草()す屍、大君(おおぎみ)()にこそ死なめ、(のど)には死なじ」
 これは我が八千万の大和民族が、一天(いってん)万乗(ばんじょう)の大君に対し(たてまつ)主一(しゅいつ)無適(むてき)の信念の表現である。いかに(うる)わしく、いかに尊く、いかに悲壮なる心意気で、それがある事よ! 信仰もまた、かくあらねばならぬと私は常に思うものである。
 神様はもと一株であるから、どの神様を拝んでもよい、というのは第二義的の申し分である。欧米人はエス様を通じて天の父様を拝んだらよかろう、印度人はお釈迦様や阿弥陀様を拝んでいたら満足であろう、それに文句は少しもないが、日本人は断じてそうはゆかぬ。日本人の信仰の(まと)は一に天照皇大神様でなくてはならぬ。いうなかれ、信教の自由は憲法によって、保証されているところであると。それは理屈というものである。憲法第二十八条には「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す」とあるので、安寧秩序を妨げず、義務に背かずという条件の(もと)に、信教の自由が保証されているのである。
 今や一九三六年を目前に控えて我が日本は空前絶後の大国難に直面しているのである。米国が親日的傾向をもって来たとか、蒋介石が日本に秋波(しゅうは)を送って来たとかいう、そんなおざなりの、その場逃れの甘い心持ちで安心していてなろうか。どうしても両立し得ない根本的の相違をもった二つの国、いや三つ四つの国に、どうか調和して、妥協してと勤めに勤めて来た六十年の年月であった。だがどんなに攪拌(かくはん)しても油は水と混合はしないでわかれて来る、その如くもはや外交辞令や、妥協々々ではいけない時がやって来たのである。
 油は水よりも比重が軽い、水の上に浮くべきがその本質である、上にあるべきものは上にあらねばならぬ、下におるべきものは下におらねばならぬ、それを攪拌する事によって油と水とを同等にしようというのが世界の現状だ。攪拌の手をちょっとでも止めたら最後油はすぐ上に浮いて来る、浮くべきものは浮かしたらよいのである、沈むべきものは沈んだらよいのである。上下の区別をハッキリと神様が立てておられるのであるから、その秩序に従ってさえ行けば何も面倒はないのである。
 閑話休題(それはさておき)、軽い油を水と同等、否、水よりも下に押さえつけてしまおうとする無駄な努力、換言すれば世界をリードすべくつくられている日本をドングリ並に扱おうとする(あやまち)を知らしむるために、やむなく巻き起こさるる一九三六年の非常時、吾らは大本神諭によってこの事あるを疾っくに知らされているのである。卑怯に逃れようとしたとて、逃るべからざる運命におかれてしまっているのである。悲壮楠木(くすのき)正行(まさつら)南朝に仕えた武将。楠木(くすのき)正成(まさしげ)の子。1348年没。底本では「木」が抜け「(くすのき)正行(まさつら)」になっている。が、
『さればこのたび師直(もろなお)足利尊氏に仕えた武将・(こうの)師直(もろなお)。1351年没。この話は1348年の「四條畷の戦い」(南朝側の楠木正行らと北朝側の高師直らが戦った)のことか?と、手痛き(いくさ)(つかまつ)り、彼が首を正行(まさつら)が手に打ち取るか、正行(まさつら)が首を彼に取らるるか、二つの中に(いくさ)の雌雄を(さだ)め申すべし』
と泣いて奏上したにも似通った場面に吾らは立たされてしまっている。この上はただ、愛するが故の戦い、物の順序を知らしむるがための戦い、日本の真価を世に知らしむる所以の戦い、速やかに真の平和を招来底本は「将来」。すべき道への戦いに吾らは(ほこ)を執って勇往(ゆうおう)邁進(まいしん)せねばならぬのである。
 非常時日本に於いて、真っ先に動員されなければならないのは思想動員であらねばならぬと思う。否、むしろ信仰の動員であらねばならぬと私は思うのである。
『虎と見て石に立つ矢の(ためし)あり』
『思う念力岩をも通す』
 すべて、ものは心次第のものである。魂が大事である。(たい)は従である。耶蘇教信者よ、国籍を異にするとは言え、同じ宗教を信ずる教えの友に銃を擬する時、何となき心をくれを感ずる事が断じてないと言い得るか。南無阿弥陀仏、寂滅為楽を宗とする仏教徒よ、活機臨々(りんりん)たる神軍に(けい)らは加わって、何となく影の薄きを感ぜざるか。神はもと一株(ひとかぶ)と言うのなら、小亜細亜や印度などに発生したものを取らなくても、日本には世の元の根本の神様天照(あまてらす)皇大神(すめおおかみ)様が(げん)として在坐(おわしま)すではないか、何を苦しんで教えを国外に求むるの()をあえてするのか、仏教も基教も今は日本化して日本のものとなっている、と言うのか。その日本がいけない、日本本来のものでなくてはならぬのである。
 国家非常時に当たって、吾らは何よりも第一に信仰の中心を天照皇大神様に置かねばならぬ、これが本当に第一義的のものである。基教徒も仏教徒も先ず家の最上位に天照皇大神様を奉斎せねばならぬ。次に各自信ずる所によって十字架をかけなりと、須弥壇(すみだん)をおいて礼拝するなりしたらよい。家に()神床(かむどこ)がないような事で、どうして神国日本が守れるものか。
 かくて信仰を統一し、信念を統一し、(かみ)に万世一系の大君(おおぎみ)を戴いて神国日本が立ち上がる時、世に何ら恐るべきものはないのである。
 神様の国に生まれて神様の道がいやなら外国(とつくに)にゆけ
 光格天皇の御製(ぎょせい)(りん)として秋水(しゅうすい)の如し。神様を信ぜざるものは勿論の事、エス様でなければならぬものは十字架を背負って、南無阿弥陀仏でなければ承知出来ないものは阿弥陀様を担いで、それぞれ魂の本国なる外国へ帰って貰いたい、非常時日本の邪魔になる。

お帰り遊ばせ

 先頃聖師様のお伴して大阪分院に着くと、吉野(よしの)時子(ときこ)氏が玄関まで出迎え敷台(しきだい)に手をついて、『お帰り遊ばしませ』との口上(こうじょう)をのべた。お帰り? 何を言うのであろう、ただし私の耳の間違いかしらと思いつつ、奥に通った。
 聖師様が座につかれると時子氏はまたあらためて、『よくお帰り下さいました、お久し振りで皆々大層喜んでおります』という挨拶をしている。ハテなと思いつつ、あてがわれた(しつ)で休憩していると、時子氏がやって来て『嬉しい事です、先頃本部へ参拝した時に久しくお帰りがございませんので皆が大層お待ち申しております、是非近いうちに一度お帰り下さいませと申し上げておいたら、思いがけず、こんなに急にお帰りになって、こんな嬉しい事はない』と話し出した。
 『エ、お帰り、?』と私が不審の小首を傾けると、時子氏は語をついで、『そうです、今と前の頃とは違いましたな、前々は聖師様が支部へおこし下さる事を皆「お帰り下さいませ」と申し上げたのです、その意味は神様をおまつりしてある(うち)は皆、神様のお(うち)だから、御自分のお(うち)へお帰り下さるという意でそう申し上げたものです』云々、
 私はこの話を聞いているうちに、眼の中が熱くなるのを覚えた。昔の人々の信仰の純真さが、いと尊いものと感ぜられて来た。感激とも何とも知れぬ涙が………。

金闕要之大神様

 今は昔。三角関係にいたく苦しんでいた若い奥様がありました。
『神様はこれをどう見たまうのでしょうか、彼女も矢張り信者なのですもの、そして主人と別れねばならぬくらいなら自殺すると言うているそうです』と思いあぐんで私への相談でありました。
金闕要(きんかつかね)大神(おおかみ)様の御名(みな)を称えてお願いなさいませ、この大神様、縁談を司っておいでになる神様です。だが自分の勝手ばかり言うて願うてはいけません。かかる事情で、私はひどく苦しんでおりまする、どうか神様の(おぼ)()しのままに、この地獄的境涯から私をお救い下さいませと、お願いしておきなさいませ。とにかくあなたのお気の休まるようにお繰り合わせ下さるでしょう』と申して別れました。
 越えて九ヶ月目に彼女にはほかに愛人が出来て天下晴れてその人と結婚したそうで、いずれもめでためでたの大団円を見ました。
 こうして、何ら斧鉞(ふえつ)の痕跡を残さないで凡てのものをしてその処を得せしむる御裁き、ただただ感謝のほかはありません。
(おわり)


[#ここから『神の国』昭和9年(1934年)3月号掲載分。]

一粒の麦

『一粒の麦死なずばただ一つにてありなん、死なば多くの実を結ばん』
という意味の事がバイブルに記されている。然り、一粒の麦をそのままでおいたならばそれは永久にそのままでいるであろう。しかしいつまでもいつまでも一粒である。これを地に(うず)め、光と熱とを与うる時、麦は地中より湿気を吸収して芽は遂に殻を破って地上に突出し、やがて茎は青々した葉をつけ、穂を出し沢山の実を結ぶにいたる。自己壊滅を行った一粒の麦の功績は実に実に偉大ではあるまいか。
 私はこの麦の譬えを多くの事にあてはめて考えてみるのである。大本に起こるところの沢山の事柄がみなそれである。そして聖師自らが、いつもこの一粒の麦の役目を演じておられるように思うのである。蒙古(もうこ)()りがその一つである。師が三人の従者と共に遠く蒙古の奥地に()らるるや、我らは予期の華々しい成功をのみ夢みていた。ところが事実は予想を裏ぎって、師は遂に囚われの身となって故国に送還せらるるのやむを得ざる場面に立たれた。故国には監獄が待っていた。満蒙の野に馳駆(ちく)して疲れ切った御体がただ一日の静養を許さるる事なくて獄裡(ごくり)の人となられたのだ。我らは血涙(けつるい)を絞って慟哭(どうこく)した。これが聖師蒙古入りの結末である。
 近眼者は恐らくこの時舌を出して笑ったに相違ない。『何というザマだ』と。日頃師を深く崇敬せる人達の中にも、何となく肩身の狭きを感じ、世間に顔むけがならぬと(つぶや)いた人もあったであろう。何ぞ知らん、これが一粒の麦の死に値する〓苦の一表現なのであって、この事あったがために、聖師が憂国の誠と、偉大なる経綸の腕と、溢るる人類愛善の慈心(じしん)とが、東亜に於いて認めらるる事になったのである。
 今日内地は勿論の事、満州及び蒙古の地に於いて、人類愛善会があの隆盛を(きた)し、最初の理想通りに真の日支親善が行わるるようになったのはみなその(たまもの)である。
 私は昭和六年満州事変直後、日出麿師に従って、満蒙の地を歴訪したが、至るところあまりにも不思議なる、共鳴者が現れて、燎原(りょうげん)の火の如き、愛善会の発展を見、みなこれが聖師入蒙の結果なるに驚いて、
『一粒の麦、死せずば遂に一粒にてありなん、死せば多くの実を結ばん』
と繰り返した。
 一見失敗の如く見ゆる大本の仕事は、みな死せる一粒の麦である。大正日日新聞がそれである。神殿破壊事件がそれである。大正十年大本事件がそれである。この事あったため、いかに大本が世界的に有名になったか、実に世間予想の(ほか)にあるのである。疑うものはこれを事実に見よ。当時百五十の支部をしか有しなかった大本は今や千八百余の支部と千余の愛善会支部と、八百の昭和青年会支部、坤生会支部とを持つに至ったのである。
 近眼者流にはこうした神の神算(しんさん)奇謀(きぼう)は分からない。だがその事あるたびに犠牲となって世間嘲笑の的となられ、忍苦に忍苦を重ねらるる、聖師の御身(おみ)の上を思う時、熱涙の滂沱(ぼうだ)たるを覚ゆる私である。
 これをしも『三千世界の(さら)しものであるぞよ』と仰せらるるのではあるまいか。死せる一粒の麦の尊さ、偉大さ、嗟。

名人の置く一石

 ポンと置いた名人の一石(いっせき)。いつその効果を現して来るのであろう。二手、三手………十手先になってピンと利いて来るその一石の重みが、到底ザル碁客(はい)に分かるものではない。
 敵が右に一石置いたら、その考えは左にあるくらいはちょっとした碁客にも分かるが、十手以上の先が分かる人は(すく)ないであろう。ザル碁のくせに名人の碁に横口(よこぐち)を出すものではない。いわんや助言をなすに於いておや、馬鹿らしさを通り越してむしろ滑稽である。
 碁盤の裏には四角な穴が彫られてある。真剣な勝負の時にあえて横口を利くものの首を斬ってその穴において血祭りにしたのであるそうな。時は昭和の世となって、首斬られる憂いがなくなったのは目付けものだ。横口を利かぬに限る。
 神の神算(しんさん)奇謀(きぼう)に、助言をなし、横口を利くものもまたこれに類するのではあるまいか。
(おわり)

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