旭形亀太郎経歴談及蛤御門の騒擾
談話者 旭形亀太郎君
明治三十一年十月八日 吉木竹次郎 速記
旭形君(亀太郎) 只今寺師さんから、お話しを下されましたので、畧ぼ私の経歴は大要あの位の事でござりますが.最少し精しく御咄しましよう。何処からお話し申して宜しうござりませうか。
寺師君(宗徳) 先日承りましたお祖父さんは京都北面の武士であつたといふことでござりますが、お祖父さんの事はお祖母さんから詳くお聞でござりませうから、其事から承りたうござります。
旭形君 私は祖父の顔は存じませぬが、旧京都仙洞付北面の武士で速水越後守と申して、其頃畏多い事でござりますけれども、厚く御所の御恩に預つて金も拵へましたが家を弟に譲つて、祖母と祖父が大坂へ行つたといふ事でござります、大阪の西横堀に酒造業を始めましたが、余程盛になりまして、商法も盛んであり相変らず御所の方の御縁故は弟が相続致して居りましたが、其後火災に罹りまして。それは丁度酒の仕込時であつた様子で、丸裸になつて、それから非常の困難になつて、祖父と祖母とが約束の上夫婦別れを致して、祖母は築後の有馬家に御奉公に上りました、其御奉公に上りますのは何でも祖母が筑後の久留米の魚屋町に中山といふ旧家があつて、其主人に思はれまして、其家へ参つたさうで本妻になつて居つたか、妾になつて居つたか分りませぬが、其中山といふは久留米藩の御用を聞て居る者でありましたが、祖母も其縁で国の殿様の御意に叶ふて、御家老や御用人から奉公に上げるやうにと云ふことで、これから上つたと云ふことでござります。
其頃は若い時であります。七十二三まで御奉公致して、それから老人になつて暇を賜はりて大阪へ帰り、殿様から養老金として年々何程か下され、帰るに就ても余程金を持つて帰つたことを承知して居ります、帰りまして大阪の北区曽根崎に於初天神と云ふがござります、其東の方に祖母が家を拵へて住ました。祖母の里は加州藩で前田と申しました。それから手習茶や花の師匠を致して居りました。其祖母に私は育てられました。
父は前申上ます通り少年より不仕合で、大阪で或る染物屋へ職を習ひに這入つて、長らく奉公を致して昔の別家を致して貰ひました。父は速水清兵衛と云つて、大阪島の内でござります、私は惣領で下に八人子がこざりました、私は七つの時迄祖母の手に育てられ、其年から仕事を致して居ります。尤も私は幼年から身体も大きく仕事も出来、親爺の手助けに働きまして、随分町内でも皆様からお誉めに預つて居りましたか、私の家の近くに昔の惣年寄姓は安井といふ人があつて、私が朝早く仕事に掛り、又夜業をなし、祖母は離れて居りましたが仕事が済むでから、祖母を連れて風呂へ参り寺へ参るといふ訳で、其頃非常なる困難の時でありましたから必至て働きましたのを総年寄が見てござります処から惣年寄から申立大阪東町奉行から御褒美を貰ました。
叔母は常々其方が成人をしたらば御所へ御奉公をせねばならぬど言聞せまして、人間は貧苦でも志を立て勉強し、武芸を以て出世が出来る。私の祖父は斯ういふものであると云ふ事を聞せました。本も稽古をせよと言ひましたけれども能う読みませぬ。手習も嫌で、唯力持をなし棒を振つたりすることが好で、遂に本は一冊も能う稽古を致さぬでござりました。御褒美を貰うてから評判も高くなつて人々も感心な奴であると言つて呉れました。
大阪の黒金橋の北詰の升屋名は水野弥兵衛と申しました。其時分は苗字はない。水野はお大名に出入して苗字を貰ひ居りました。其家に奉公を致して其息子さんに弥三郎といふ四十位の人がありました。其人は能狂言が好で又剣術も好で私は供をして稽古に行きました。それが剣術稽古の初りでござります。
それから十四の時まで奉公して、十四の時に私の爺の主人がござります、金満家で染物と質屋を致して居りました、爺も永く勤めても居り私は其忰であります所から、難波新地に朝日野といふ料理屋の跡式を買ふて呉れまして十四の時から商売しました、爺も染物業廃めて後見を致しました、其主人は大阪の船越町といふ所に居て、鷲尾といふ染物屋を廃めて質商となつて居りました、朝日野は大なる料理屋で精進料理専業であります。壹人前六十何文かで二の膳付の御馳走をするので、大辺流行つて、朝五時から始めて夜は当時の五時頃に仕舞ひます。それで勘定しまするに七八十貫の商で、金では二三十両になります、人も余程使ひました、それで私は日々金が廻つて余程結構になりました。
其間も好きな稽古を致して相撲取も四五人も置いたり、傍ら剣術の稽古をなし、朝は早く仕舞ふから相模の稽古もやりました、柔術は仙台浪人に中村弥兵衛といふ人があつて大坂へ来られました、家に永く居て貰うて、其人に稽古させて貰ひました、剣術は徳島藩の津山数馬といふ人、此人は前主人の先生で此人に習ひました、私は体も大きく早くより商売を始めても、毎日やつて十五に免許を貰ひました、柔術は半季か一年やつて負ける人がなくなつて柔術も十五の時に免許を貰うてござります、商売柄諸藩の人が遊びに見へまして、家の裏に稽古場を建ててごさりますから、稽古を致しました。
それから諸藩の方々に御愛顧を蒙つた初めでござります、其時異国攘夷の喧ましい時分で堺の住吉に土佐の陣屋がありまして、それが私の所から通行の場所でありますから土佐の方に馴染になつて、米を送るとか酒を送るとか人夫を送るとか云ふことをしてあげまして、それで馴染が厚くなつて、それから長州の人も薩州の人も沢山見られました。時によれば剣術をやらうと言つてやつて貰ふたことがござります。
其頃長州に力士隊と云ふものが出来て、其時から士になりたくつて溜りませぬけれどもなれぬ、力士隊になれば士同様といふ事で、家に於て世話をした力士の者も這入りましたから、私も這入らうと思ふて居ると相撲取にならねば這入れねと云ふことでありますから朝日野の朝日を取りて、朝日潟となつて、大阪の相撲頭取湊由良右衛門〔湊は江戸力士にして雲佐山と云へり湊と云ふ頭取の家を継ぐ頭取中の旧家なり〕の弟子になつて力士隊に加はり矢張り家では商売を致して居て、日々屋敷へ稽古に通ふことになりました、仲間の力士には私に勝つものもなくなりまして、士の方々にも稽古をやつて貰うたが、相摸取で剣術遣ひは珍らしいと言つて、御愛顧を蒙つて、それから京郡へ行くことになりました。
力士隊は戦争が起らねは要はない。それよりは京都へ出て御用を勤めては何うかと云ふ事で、何ういふことでも致しますと御請をして帰り、父清兵衛並に父の主人鷲尾へ志の程を話ました処が其方の素願を達する時なりと申し呉れ、尚主人よりは金員をも呉れまして、後の事は引受くるにより安心して行けと申し呉れました。
寺師君 其時重にお話あつたは誰々であります。
旭形君 長州の木戸さんが重でござります、大村さんもお話はありました、遊びに行く茶屋なども私が御案内致し、商売は抛つて置て、私は其方が好きで大小を指させて貰うて、京都へ行つて其時どういう事を致しませうと云ふと、成る可く会津始め諸藩諸公卿へ取入り、此方へ様子を知らせといふことでありました。それから京都へ行つて落付たならば用人まで知らせと云ふことで、私は手紙もよう書きませぬと云ふと、仮字でも宜いと云ふことででありました。
それから京都へ行つて最初は河原町の三条下る染物屋渡世の者で、諸家へ出入する者の家へ元と同業の好しみで一応落付ました。私も相模取でござりますから仲間部屋といふが何れにもある、之れに部屋頭といふやうなものもある、私は大坂を脱して来たから贔屓にして貰ひたいと言つて仲間部屋を廻りました。私が剣術が好きでござりますから、さう云ふ事で京都に於てもお屋敷の方々に御贔負を蒙るやうになつて、それから町尻家の仲間にも這入り、諸藩諸公卿方へも出入する様になりました。
其後でござりますが大阪の屋敷へ来いと云ふことで、力士菊ヶ浜が使に参りました。長州の屋敷へ行つて木戸さん初め他の方々にも御目にかかり同道して来いと云はれ、御供してお茶屋へ行きました。茶屋は大阪南区九郎右衛門町堺なつと申長州出入の遊茶屋へ行きました、お名前は一々覚えませぬが木戸さんは居られました、すると少く都合があつたから京都で力士仲間に這入つて貰ひたい。それから京都に角力頭取に懇意の者があるかと云ふ尋てござりました、銭形岩右衛門といふものの部屋へ日々稽古に参りて真ことに心安くして居りますと申ましたら、都合があるから京都で相模とつてはどうかと云ふことでありましたが、私は考へがゐるからと云つて斯く斯くであつたと申しますと、それでは銭形岩右衛門に計つて貰いたいと云ふことでありました、それから力士隊のことを京都相撲頭取銭形岩右衛門に咄し、仮りに弟子になつて御所に御用のあるときは働きたいから斯ういふ手続をして呉れと云ふと悦むで判を捺してくれました。
其前に近衛、正親町、三条、中山の諸家さんにも出入になつて居りますから、願書を大原さんへ出して貰つて許可になつて、それから御所へ這入ることになりました。許可にはなりましたけれども御用のあるときは御呼出になると云ふことで、それから禁裡御用力士といふ焼印鑑札を貰うて、それで御所へ出入したが初めでござります。
岡谷君(繁実) 然らば長州の依頼で、間牒のやうな訳でありますか。御所の様子を探つた訳でありますか。
旭形君 間牒ではありませんが、長州の内命は蒙りました、其時金三十両貰ひました。金は要らぬと申しましたけれども、これは依頼することであるからと云つて下されて、刀は備前の守光の宣い刀、鞘は金を巻いたやうな華美な刀で、鍔も象眼の這入つたやうな華美の品で、何処でも身は宜いと云ふことでござりました。
寺師君 住吉陣家の所で、土佐家より酒肴を賜はつたと云ふことはどういふことであります。
旭形君 それは堺の御陣家の普請の時に、予て同藩士の御贔屓を蒙りますから、米酒其外を献上を致しましたから、御留守居細井左多助と金子家吉と云ふ御用人どの申立により、河原町の屋敷で御馳走になつて、殿様の前で御挨拶でござりました、其後容堂公がお出になつてお気に入りまして、其時種々の御使をして居りました、京都の円山などへお供して芸者も来て居り酒の場所で短刀を戴きました。土佐の三ッ柏の紋が付て居て、身は正宗、あれは御家の履歴あるものと云ふことで後で喧しうござりました、けれども容堂公より下されて持つて居りました、坂本龍馬さんも京都に出て居られまして、河原町の大なる醤油屋の二階に居られました、其時分陸奥宗光さんも出て居られて兄さんの伊達五郎さんも贔屓にして呉れられました、それは御維新になると云ふ時分でありました。
岡谷君 仮字書でなり寄越せと云ふ事でどう云ふことをお遣りでありました。
旭形君 私は居所丈け書面で知らしました。用事は重に菊ヶ浜、矢筈山が使ひで弁じました。
岡谷君 長州への御内御用をお勤めでありましたか。
旭形君 左様でござります。
佐田君(白茅) 力士隊の人数はどの位のものでありましたか。
旭形君 初めて這入つたときは七八十人、後に二百人余りもござりました、長州の士の中でも色々派がありましたが力士隊に勤王家の方に附て居りました。若稲荷と云ふ力士は幕府の方へ附て殺されました、派違ひの者に内蜜を云つたと云ふので、長州の萩で松の木に括られて肉を斬られたと申ます。それで力士隊の方では剣術や鉄砲の稽古を致したりしたのは異国攘夷の為である、文久二年に京都へ参てそれから文久三年許可になりまして、大原さんの家来の北川彊正といふ人が私の方の事は扱ひました。認可証は松尾但馬さんが御認めになりました。
寺師君 其時分の御所の御用は如何なる事でありましたか。
旭形君 大原さんより議奏の方々御評議の上、御認可出入を許されたる御用力士でありますが、馬の掃除もなし、使ひにも行く、御庭御普請の時などは私が相撲取を呼むで来て、金も貰はずに唯御奉公を致して居るので、其時分代官小堀主膳と云ふ人が御所に詰めて居られまして、小堀さんの御贔屓にもなつて、裸体で石などを運むんだことで、それで何処でも出入をして居りました。
寺師君 蛤御門騒動のときに御所にお詰てありましたか。
旭形君 前申すごとく御印鑑を頂きましてからは、日々御所の方へ詰て居りまして、御所から剣術や槍の稽古に日々会津邸へ参りまして御贔屓になりました、堺町御門は会津の御固めで、私は其中に居りました。
所が元治元年七月十九日夜明けに長州方から大砲を打かけたが戦争の始りでござります、尤も最早長州とは是非戦争が起ると云ふお話しも伺つて居り準備も出来て居りましたけれども、其時非常の混雑でござりました、所が戦争の半ばに宮中へ私を召されまして、先刻からの働きは比類ない働きをいたして居る、そういふ風体ではいかぬからこれを着けよと云ふ事で、私に鎧薙刀を下されました、下されました御場所は克く記憶しませぬが侍従の間かと覚へます。
其時鎧を頂きて此方へ参つて鎧を着やうと思ふと身体に合はぬで着ることが出来ませぬ、其時菊の印の筒袖と鎖襦袢がござります、それを着けまして日の御門の方に行けといふ御指図でごさりまして、それから日の御門へ参りました所が、内庭に召されました、私の出ましたは御常御殿の次の間でござりまして、中山さんと大原さんとよりこれから紫宸殿の後の石壇の上に居て、外の戦況を見て一々申上げるやうにと云ふことで、清涼殿の前紫宸殿の後の石の上に薙刀を持つて私は坐つて居りました。中山さんが御出になつて外の戦況を見よと仰ッしやると戦況を見て申上げて居りました。
所が堺町御門も非常の場合になり、蛉御門も非常の場合になり、私の居る所までも鉄砲の玉が来るやうな有様でござりまして、それから堺町御門の戦況を中山大納言に申上げて、それから玉座の前に召されましてござります。
其時に正面に陛下が御立ちでござりまして恐れ多うござりますから詳しい事は拜しませぬでござりますが、私の記憶を致して居りますのは欝金色のやうな御服で龍のやうな形があつたやうに思つて居ります、正面に陛下が居らせられまして左の方に中川の宮様(後に久邇宮様と申上げる)片方は中山大納言、大原三位が居られ、其節もう一人束帯で襷掛て居らせられましたが誰方といふことを知りません、跡で人にきけば橋本侍従と云ふことでありましたが確と存じませぬ。
それから御前に召されまして中山大納言が先刻からの働きは、其方は容易ならぬことである。畏れ多いことであるが最早官軍は危い場合、其方からも申上げ、他の戦争を聞ても官軍が危うい、恐れ多い事であるが玉座を何時他に移させらるるも知れぬ。それに就ては御鳳輦の供奉を仰付らるるから身命を抛つて難有御請をせよと云ふことでこざりまして、私は遠い所で御辞儀を致して居りますと、近く来いと云ふ御声で縁側の下に居りましたら、御盃を下さると云ふことでござりました。
又其時には陛下の玉体は、これから(腰の辺り)下よりしか見えませぬ。玉座の前に御台がござりまして白木の桶〔或人の説に当時急遽の際御手水桶に酒を盛て賜はりしことありし由なれば此の桶は即水桶なりしならんと〕がござります、それから御土器を直様御持ちになつて御指上げになつて、其御盃を陛下が御召上りになつて御滴は桶の中に御滴しになつたやうに心得ます、恐れ多いので詳しいことを能う見て居りませぬ。
それから其御盃は中川の宮から中山大納言、それから大原三位、それから侍従に回はりまして、それから私が頂きました、それで其御盃で頂きまして其桶の中より御酒を汲むで頂きました、それで私が一ッ頂いて止めやうと思ひましたら酒が呑めるかと云ふ御尋でござりましたから、少々は呑めますと申しますと、重ねて呑めと云ふことで三四杯呑みまして、其土器を御縁側に載せましたら、それは其方に取らすると云ふことでござりますから、其盃を頂きまして懐中に入れて居りました。暫く致しますと御三宝の上に御旗と先刻御覧に入れました御守を載せて、中山大納言御持ちになされました、御旗は御発輦の時に之れお汝が持つて御供をせよ、御守は其方に賜つたから大事に肌に付けて居れと云ふことでござりました。其御旗には黒ひ長い捧がござりまして、私は御旗と薙刀とを持つは如何でござりますと申すと、其旗を薙刀に着けと云ふ御言でござりました。
私は御礼申上げて、再び旧の石垣の上の席に帰つて居りました。尚外は甚だ混雑して居るから猶ほ一応戦況を見て申上げと云ふ中山公の命でござりましてそれから再び日の御門へ参りました処が、長州の伏勢が抜刀やら鎗やらを持つて日の御門の傍まで進むで参りました。其時は非常の戦でござりました。日の御門に居られて御指揮の方がござりましたが後に慶喜公といふ事を承はりました、それから抜刀隊の処へ行つて加勢せよと云ふことに命令が下だつたものでござりますから敵の方へ参りますと、私が力士隊で一所に居た矢筈山、菊ヶ浜など力士隊のものが大分居りました、その前に薩州の兵が出ると云ふことを聞て居りました。薩州の兵が出軍になれば心配ないと云ふことを聞て居りまして、日の御門へ行つた時は薩州の準備が出来て今出ると云ふ事でござります。薩州ならば到底適はぬからと言つて諭しまして戦ふ顔して道を教へて九条さんの御門内へ追込みました。
それから再び帰りて其戦況を申上げました、他からも追々上申になつて居ります所が、薩摩の出兵を待つて居らるる形容といふ事で、私は日の御門を出て今出川御門まで行くと薩州の兵が大分見えました、其時の御留守居は確かに覚えませぬ、兵が少いから手伝せよと云ふことで、私は御内庭からと云ふと、それは構はぬから引けといふことで、私も引て参りました。其隊が今出川御門から入つて堺町御門に行き外へ打出すのと、烏丸で大砲をうたるると同時で、其事を再び帰つて中山公に申上げました、さうかうする内に長州が敗軍といふ事が分つて、御上にも御安堵あらせられたやうに考へて居ります。
外崎君(覚) 其御盃を頂戴になつたは七月十九日でござりますか。
旭形君 さうでござります。戦争の半ばでござります。大に鎮定さしたと云ふやうな事になつて、尚仙洞御所に長州の伏勢がある、仙洞御所に砲発をすると云ふことで、其事を中山公に申して、最早鎮定したけれども又仙洞御所に伏勢があると云ふことで、大砲を向けると云ふことでござりますと申しました、所がそれは以ての外の事である、此方から通知をする迄待つ様にと云ふことで私は願つて一番に仙洞御所へ参りますと、敵も何も居りませぬ、それから外はドンドン大砲の音が致しますし、京都市中は火事になつて、私は御所に詰め居つて、外の景況はそれからは存じませぬ。
平野君(長憲) 日の御門の戦ひは何時比でござりました。
旭形君 十二時頃でござります、日中で暑い時分でござりました。
外崎君 那方の紫宸殿の前を御警衛になつて居るとき、他の人も居りましたか。
旭形君 士は沢山に居りますけれども、私の居た所には誰れも居りませぬ、伏勢の来た時分は御常の御殿の前まで士で詰つて居ります。私の御盃を頂いた時は誰れも居りませぬ、それから後で御常の御殿の前まで人が詰りました。
佐田君 暫らくの御立退きと云ふは何方から御沙汰がござりました。
旭形君 中山さんから、身命を抛つて供奉せよと云ふことになつてでござりました、薩摩の兵が出てから一時間も経たぬで戦が済みました、長州はお気の毒な位でありました。其時分は御常御殿の前まで士が一杯になりました、初めは誰も居りませんでした。
佐田君 其時の鷹司邸内はどう云ふまでござりました。
旭形君 其辺は悉しく存じませぬ。
平野君 日の御門は何方の方角に当つて居ります。
旭形君 私は東へ向て居ると思ひます。
佐田君 若しお立退きの時はどこと極つて居りましたか。
旭形君 一向聞きませぬ、後に聞けば加茂といふ事でござりました、それから私は七日七夜一ト目も寝ずに前に此に居れと仰ッしやつた処に居りました、それから鎮定になつたから気儘にせよと云ふことで其後何事もございませなんだ、明治十九年に久邇宮殿下へ拜謁の時其御旗を見せよと仰ッしやる事で電報で取寄せて御覧に入れました、其時京都の日の出新聞其外の新聞に出ました。
依川君(百川) 兵糧は其間どうなされました。
旭形君 恐れ多いことでござりますが、陛下が召上りの御残りを下されましたやうでござります。御酒は五合ほど這入る錫の御徳利を下され御菜は焼豆腐や煮染のやうなもので入れ物に七八寸径位で地が白の御皿菊の御紋でござります、台は片木といふものであります、それに上せて侍従が持つて来て下さります、御女中は見たことはありませぬ、それを下されたからと云ふことで、御飯は茶碗に沢山詰めてあるのを頂きました、又紙に包むであつた事もござります。
外崎君 それから先刻拝見の御撫箱〔縦八九寸横四五寸高六七寸の黒塗金菊章を付けたる小函なり〕を下されたのは其後でござりますか。
旭形君 其後でござります、夫より後は御鑑札がござりますから御懐かしく存じまして毎日参りました、賄は自分で、旅宿は堺町の御門の前に檜皮屋源兵衛とか云ふ御所並に薩摩屋敷の出入商の者がござります、其家の座敷に居りました。服は着物に羽織刀は長州から一本貰うて差して居ります、袴は着けたり着けなかつたり、只今の仲間のやうなものである、御座敷へでも上るときは諸大夫の人に袴をかりる、皆贔屓の人でござりますから貸しました。御買物は御内事から局が申付けます、局は高野の局、広橋の局、伊賀の局で、女中はまだ生きて居る人もあります、私が彼の御箱を持つて御菓子なり御肴なり日に一度は御用がある、恐れ多いことでありますが、先帝御崩御のとき、今頃(日没頃)加茂まで参りました、それはお肴の事であります、慶応三年十二月二十五日と思ひます、其時ひがいが召上りたいと仰しやつた様子で参つた所がひがひ〔魚名〕がござりませぬ。所々をさがして漸く加茂の相模屋と申します料理屋にて調へて帰りました、それは陛下の御酒の肴と思つて居りますと帰ると陛下は御不例で御崩御になつたといふことで、誠に意外千万驚き入りました、其頃玉津島神社の神官某といふ勤王家がありまして、京都祇園神社へ逗留して居りましたが、其人が献上した歌も取次でやりましたことがあります。
佐田君 日の御門の調練の時は何処に居られました。
旭形君 其時は一ッ橋中納言が惣指揮官で、会津付禁裏守護職といふので堺町御門を固め私は其手に付て居りました、其時九門御固の諸藩は桑名が蛤御門、膳所が寺町御門、笹山石薬師御門、土佐が清和院御門等であつたと思ひます。
岡谷君 御所の方に御出ましは何時比でござります。
旭形君 文久三年と思ひます、元治元年の時は京都に出て余程経つてからでありました。それでまだ難有い事は御内々に金を頂き、羽二重も頂き、其後御内侍大典侍局、広橋局、伊賀局から御剣と玉と御歌と御手日記とを賜はりました。
其御歌は「照るかげをひら手にうけし旭形千代にかヾやくいさほなりけり」と御坐りました、それは大切にして保存を致すと岩倉さんが京都の三本木の料理屋茨木屋へ御出でて私を呼びに来て、行くと先達て局の取次を以て是れ是れを持つて居る様子であるが、それは恐れ多い、お前らの持つて居るものでないから差出せと云ふことで、其場へ持つて参りまして、御預致しました、其時代りに下されましたは此御羽織で〔羽二重黒紋付袷羽織紋は笹龍胆〕そのお剣は今日は持つて参りませぬが立派なものでござります。それを今度水晶の玉は三千五百円、御剣は千五百円で又買ひました。
斯ういふことは今日まで兄弟にも親子にも申しませぬ。水晶の玉は正味四寸四歩ありて、台は後藤宗利の作で金銀の龍でござります。御剣は彼の平行安で、三鈷と云ふもので、御剣は中身は一方に龍一方に不動の彫がある。それを今度買入れたものを昨年京都にて陛下の天覧に入れました。
佐田君 先帝御崩御の後はどうなりました。
旭形君 私はそれ切で御所へ出入は差留られて、長州の関係もそれ切で、其時御褒美に金拾両羽二重など戴きました、明治二年九月から又相撲になりました。其頃の御内情は恐多くて今日まで何にも言ませぬ。
寺師君 元治の戦の時は大内に居られ戦が済んでから長州は追払ふといふことになり、それから長州征伐となる、其前後はどうして居られました。
旭形君 長州征伐となつた時矢張り元の通り私は御所に居りましてあの戦争には関係はありません、丁度其時将軍家が京都の智恩院に御入になり御前で稽古をしたことがござります。講武所の人が御供でござりまして、御前で稽古をしたことがあります。榊原健吉さんが御出でござりまして槍と竹刀でやれと言ふことで、私は槍と竹刀では能うやりませぬと申すと稽古であるからやれといふことで、其時勝利を得て将軍家の前でも御盃を戴きました事がござります。
寺師君 大久保や西郷に御贔屓になられたは、どう云ふ手続であります。
旭形君 其時は相撲取でござりますから屋敷へも上がり、元治の時薩摩の兵隊といふことにして貰うて、それでお馴染の方が出来まして其時の留守居は内田仲之助さんかと思ひます、其後鎌田さんにも御贔屓になつて居りまして、それから近衛さんに附て居られた鎌田さん此方も御贔屓で、それから小松帯刀さんは京都に居られて、西郷さん大久保さんも御贔屓で相撲のことから始まつてでござります。
寺師君 それから慶応となつて其後長州との開係はござりませぬか。
旭形君 御所で長州と戦争しましたものであるから長州へよう参れませぬ、それから薩摩の人に助けて貰はねばならぬと思ふて、西郷さんの方へ贔屓になつて、鎌田さんは近衛さんの御姫様附で此方にも贔屓にもなり、それから土佐の屋敷にも参り、それから伏見の戦争のときは薩摩の兵で戦ひました、大淀といふ相撲も其内に居りました。
寺師君 大久保の家に泊つて居て、大久保の危険のあるたびに那方が踏入つて助けられた為に大久保が無事であつたと云ふことがありましたがどういふ事柄でござりました。
旭形君 大久保さんの所に居て、或時は家来と云まして用を足しました。其時の奥さんは京都の人でござりました、其頃西郷さんも京都でござります、黒田さん今の清隆さんも御出で、何の御用かも知りませぬけれども、清水成就院といふ寺に御出でお供して参り、それから東福寺の寺内にも行かれました。
それから下河原の快々堂にも行かれ、清水の曙などへも屡々寄られたことがある、其頃帰りに夜分一度下河原の金刀比羅前で、大勢出て切掛ましたが私は刀を抜て、無茶苦茶に斬つた、それで怪我もしませんでした。又竄都の宮川町橡栗横町でも切掛けられましたが、一生懸命に切立てました、其時私は鎗で突かれたけれど、鎗を握り引付けて向ふの髮の毛を掴むで頭を下に打附けたこともあります。
それから先斗町で夕方河原を歩いて居るとき切掛けられたことがある。其時無刀なりしに由り其処に建ててある制札を以て無茶苦茶に振り廻はしたら逃げました、それで怪我もなかつたが危い事は三遍であります。
それから仕返しに行つたことがある。それは先斗町の越後屋で遊むで居ると云ふことで、四五人の鹿児島の人と一人他藩の人があつて、それが言つて来て一同参りました、其時表に入口があつて私は勝手口から這入ると長いものを引抜て這入つたものでありますから女などが喫驚しました、其儘に二階に登り見ますと士が多勢居つたが驚き騒く奴を二階から掴むで下へ抛り落しまして下で切られました、非常の騒ぎで、それから早く逃げと云ふことで、一旦屋敷へ逃げて着物を着換へまして、再び其最寄へ行つてヱライ騒動があつた様子だと言つて居つた事があります、それは幕府の人と土佐の人でござります。壬生浪士ではない、隨分探索が喧しうござりました、七八人居たが屋根伝で逃げた、三四人は斬られました。それは先斗町の越後屋での事であります。
寺師君 慶応三年追討の綸旨を賜はり嵯峨実愛公へ御出になつたことがこざりますネー。
旭形君 あれは大久保さんの御使で、私に嵯峨さんへ行つて威かせと云ふ云付けでありました、どうも因循でいかぬ貴様行て今般の事を御実行にならぬと、姉小路さんの様な事が出来ると言つて威かせと云ふことでありました、行つて諸大夫の人に申すと一寸待てくれと云ふことでありまして、それから奥に通れと云ふことであつて直々に申上ましたらイヤ承知した已に運になつてあるからと申せとの御返事でごさりました。
それから岩倉村の中御門家の別荘に岩倉さんが御出でござりました、其処へ大久保さんのお供をして行きました。此時大久保さんも必死の心持にて若し途中にて妨ぐるものあるときは切つても宜しいと云ふ御言で行きました、御綸旨は其時御渡になつた事と想像致します、品川弥二郎さんも御出でござりましたから、御承知でありませう、中御門さんに岩倉さんの御親戚で、嵯峨さんは一番大事の方である、御料局長の岩村通俊さんも折々御出になりました。
寺師君 升屋に居られたとき夜鬢附元結など売りに出られたと云ふことはどう云ふ訳であります。
旭形君 鬢附元結などが商売で其時和船が沢山来て居て注文をききに行きます、鬢附御用と言つて注文を聞いて、別に御奉公を申して僅でも主人から貰う。其時分は困難の時でござりましたからそれで余程貰ひも出来まして、升屋を暇をとる時には其金が其頃の十五六両になつたと思ひます。
伏見の戦争は薩摩の大砲隊へ出て居ました其時御所へ御使を致したことがあります、それは伊知地さんご西郷さんと板垣さんとの御書面と思ふ、それに山田市之丞(長州)さん、此人等が御寄で御所へ使をやるけれども、関門で彼是言て行けぬ、それから書面を持て行つた事がござります、それで直に仁和寺の宮が鳥羽街道へ御出になりました、此時二条城へ水戸の余四郎丸君がお這入になつて居られたと思ふ。
寺師君 それでは御休憩になりまして午後又伺ひ申ます。
休憩
同日午後零時三十分一同着席
寺師君 先日伺つた中の壬生浪士の嫌疑を受けられて御捕れになられたと云ふことでござりましたが彼の事を今一応。
旭形君 あれは京都でありまして公卿方へ出入をなし勤王家の為めに奔走しますのが原因で、先刻お談し致しました西郷さんの使で、近衛家へ参りました事なぞは重なる原因でござります、私の居る所に捕へに来たので其時は祇園町の茶屋に遊むで居て、それは人に連られて行つて居りました、同席は有栖川の宮の家来で安藤、代官小堀さんの家来の林田と云ふ人などと遊むで居つた所へ、捕へに来て壬生の浪士屯所に連れられて行きました、それは寺か古屋敷のやうな所で、其時の頭分は近藤勇其上は芹沢鴨と云いふ人かと思う。
佐田君 其時は壬生浪士は少ないでありませう。
旭形君 大分居りました。大阪の万福寺にては大分居りました、それで種々浪士の使をしたと云ふので第一近衛さんへ使をしたはどういふ使をしたか言へと云ふ事で、私は近衛さんへは相撲取で御贔屓になつて御酒を頂き、其他公卿の方へも御贔屓で行きますと言つてもさうでない、確かに浪士の使をしたといふことである、誰れに使した云はねば斬ると云ふことで、云へば助ける、西郷とか大久保とかさういふ人の所へどういふ所から近附きになつた、それは相撲の贔屓で近附きになつて居ります。
それで使したことを言へといふことで、せぬと云つても承知せぬ。松の木に釣り上げて縛り仕舞には上ヘドツと引上げました、其時に肩骨が折れましたさうしては頭から水を浴びせる拷問である、それで近衛さんに聞いて下されても分る、近衛さんのみならす何処そこ何処そこへも行つたと言つても聞入れませぬ。何辺も刀を抜て斬りかかると一人の者が挨拶して呉れると云ふ事で伏見の与力で何とか云ふ人が心配してくれて五六日で助けて貰ひました。
交々天子の尊いことは勿論であるが、天子あつての将軍家であつて、これから将軍家のために御奉公をするなれば助けてやるといふことでありました、私はどんなことでも致しますと云うと、其方は大阪のことをよく知つて居るかと云ふことでありましたから、若ひ内に奉公したことも談して、主人が抹茶がすきで大阪の金持連が釜日に寄つては茶を立て向ふの釜日には此方からお供して行き金持を知て居るといふと、それならば其方に言ひ付けることがあるから、養生して来いと云ふことで、それから金を幾らか貰うて、着物も拵へて貰ひ廻しも着けて貰うて、それから大阪へ近藤勇へ供して参りました。
其外の人々は谷万太郎、谷三十郎、松原某それから大関某それ等と同行して大阪の下寺町万福寺に行き、それから大阪の金持を案内致して、その位の身代の者といふことは知つて居りますから、一遍案内して、夫れから金満家を万福寺へ呼出して御用金を申付けました、其頃八十万円から寄つたと云ふことである。証文は会津侯の御納戸掛りの証文になつて居る、書付は入れて取立たのであります。
寺師君 重に金を出しましたは何と申す人々であります。
旭形君 住友、鴻池、炭安、炭彦、米平、米喜、米多、それから中等以上の処で大阪中の金持は片端から痛めました、通常の町人でも金があると皆呼出す、一遍歩きまして私も一所に行き私は応対はしませぬ、其時は今度将軍家の方で、御国用で金が要る、それで御用を務めと云ふ話にて呼出す。其処で応ずるか応ぜぬか応ぜねと為にならぬと威しまして、篤と考へて御返答を申上げますと言つて去ると、明る日又呼出す番頭が来るか主人が来るか出さねば打殺すと云ふ勢である、大人しく応ずれば何であるが応ぜぬと斬りに行くやうな事をいたしました、堺の秋津川といふ相撲の頭取がある。それに案内をさせた斬られたものもある、中には珊瑚珠が四斗樽に一杯あつて、それを取上げた所もある、一軒で十万円も出したものがある、只今でも証文があるといふことであります、東京に行つたら会津家に催促して呉れと言つた仁もありました。
寺師君 壬生浪士は随分分つたものも居りましたか。
旭形君 近藤勇といふは中々分つたものでヱライ人と思ひました。物をいふことから字を書くと云ふことから何に一ツ抜目はない。女の好くこと此上もない、其時九郎衛門町の信濃屋と云ふ茶屋に毎日遊びに行き、それから一遍住吉参りに行きましたが町人が馬で乗打したと云ふことで、其町人が調べられて大分金満家であつて、五百円か出して助けて貰うた、其他相撲取で越の海と云ふものが居りました、正しいものも居れど博徒の上がりのやうの者も居りました、芹沢嘉門といふはこれは背の高い人で乱暴人の様子で心易くしたことはありませぬ、これは壬生浪士の内で島原の遊女屋にて暗殺した、それは谷三十郎と少原某、大関某、後藤某の四人で斬つた。
高原君(淳次郎) 近藤は四十位でありましたらう。
旭形君 四十にならぬ位で上品な人でありました、一寸見れば殿様のやうで品の好い人である。
高原君 アルコール潰で近藤の首が京都へ廻つて来た。
寺師君 壬生浪士が京都で暴れた時は皆怖れましたか。
旭形君 壬生浪士といふと慓ひました、諸藩の藩士でも怖れて居りました、況して幕府の与力同心などは大変怖れて居りました。
寺師君 那方が壬生浪士に這入つて内から報知なされたといふ事であります。
旭形君 坂本龍馬氏をやると云ふことで、それから云ふて来て那方を壬生浪士でやると云ふことであるからと云ふて何度も行きました、石川清之助氏が坂本さんはベッタリ這入つて居て言つたが、何度言つても頓着しませぬ。
寺師君 伏見の戦争に出られてそれから帰つて大阪へ供奉を命ぜられたと云ふことがありますが。
旭形君 其時は力士は旗持であるが、私は御鳳輦の側に薙刀を持つて御供をしました、中納言の近侍頭は身体の大きい者が宜しいと云ふので御供を致しました。
寺師君 明治二年に集義隊の隊長陰謀を企てたとござりますがこの事実は如何でありますか。
旭形君 京都府が初めて出来るとき集義隊と云ふ隊が出来て隊長は穂上照任といふ人で、これは剣術と学問との稽古を盛んにやつて居て、それが謀反の萠であると云ふので、越前の家来で赤松といふ人、これは元坊主で、その人が集義隊に加つて居りました、其人に私は馴染て集義隊には斯々の事ありて、それがために這入つて居る集義隊のものは乱暴な者が多くて危い、那方は種々の事をやつて居るが私を助けると思つて這入つて呉れといふことでありました。
就ては隊長の手続がないかと云ふ事で段々聞くと小堀数馬さんの家来の布施といふ人の次男が隊長の養子で、それから布施へ行つて隊長の方へ出入をさせて貰いたいと言ひますと何の為めに隊へ這入るかと云ふことで、私のやうなものが這入つても仕様がないが稽古させて貰いたいと言つて布施に連れられて隊長の所へ行きました、隊長は広島の御方で、其日これから稽古が始るから直ぐ来いと云ふことでありました、場所は会津の屋敷の跡で、それから其処へ稽古に行つて大勢と稽古をしましたら、隊長が角力取でこれ丈け出来るは珍らしいと言ひて御馳走になつて、毎日行きました、此隊中のものが市中の見廻りをして居る、それでそういふ時には附て行つたりして贔屓になつて居りました。
赤松は万一私の危い場合になつたら、此書面を兵部省へ届けて呉れと云ふことでありました、尤も同人は長屋があつて這入つて居た、其人は組長である、一夜隊長の家で酒が始つて九時頃参つて御馳走になつておりました、組長連中や隊長が酒を呑むで居る暫くしてもう肴を出しても宜かろうと云ふ所で何が出るかと思ふと、赤松が縛られて居る、既に斬るばかりであつた。
それから私は驚いてまあ待て下さい御贔屓になつて居て、私の前で首を斬られては耐らぬといふと、そんなことを云はずと貴様も斬れと云ふことで、私は責めて私の居らぬ所でして下さいと言つて逃げ出して、兵部省へ届けました、すぐ兵部省から大勢兵が出て残らず召捕になりました、それから赤松から申込むで下されて褒美を貰ひました。
其後赤松は名が与平と変りました。二条の大なる米屋に居られました、穂上は国へ引渡され切腹になつたと聞きました、事柄は分らぬが余程重大なることであつた様子でござります、私は相撲取で隊長の気に入りました、穂上は桜田騒動に加担人でござりまして薩州の有村などの事を始終談しがありました。京都府の内輪でも良い顔でござりまして、長谷信篤さんが知事で、槇村正直さんが権参事の時でありました。
寺師君 明治二年六月になつて御所付の方は断られて、其時は何とか云ふ御沙汰がござりましたか。
旭形君 其時これまで骨を折つて居るから、永世六石三人扶持をやるといふことで位階(六位)もほしければやると云ふことでござりましたけれども私はさういふものは何も要りませぬ。相変らず是れ迄通りに願いたいと言つて断つて、二年九月から相撲を取り七年まで取りました、前頭から上に抜けました、一方の大関は雷電で武蔵潟あたりとも角力をとりて勝つて居りました。
寺師君 それから大阪へ帰つて後は如何でありました。
旭形君 只今の兵庫県の内である但馬の豊岡県で県の役人が皆不正の事をする様子だから、其事を相撲取で行つて調べて報知せよといふことを岩倉さんから頼まれて、其時聞いたることは岩倉さんに報知しました。
其時豊岡県の役人は皆知て居りました、私は東洞院で宿屋をすると言ひましたら豊岡県の役人が残らず無尽講に這入つて呉れまして、宿屋をせよと云ふことで一ヶ村から一円づつを出して五万円貰ひました、本県は四拾万石以上の県にて村数も壹万近くござりまして県令始め役員、町村の用掛其他の用達等迄加はりまして多人数より集め貰ひまして此金高となりました。
其時分縮緬が安くて仕方がない丹後は縮緬の出来る処で、関取買うて呉れぬかと云ふことでありまして、十円もするものが三円か四円で買はれました、それを買うて持つて来ると道々価が上つて廿七八円に売れて一儲けいたしましたから京都に宿屋を致しましたが間もなく親共が大阪に戻つて呉れと云ふことでありましたから大阪へ帰りました。
帰ると金があるものでありますから、其時住吉の桜并新田といふが百何十町歩あつめてそれを二万何千円で買う約束をして之れを買うて安穏にやらうと思ふて居りますと、長州で世話になつた平原利兵衛といふものがある、其人が大阪に水道を拵へることを発起しました。
平原の申しますに自分は御用達して居たが金もなく顔が悪るくて行かぬから、其間の金方をしてくれといふことで、大阪の水道が出来たれば第一衛生に宜し、第二には消防の予備にもなるからせよと云ふことで、私は分らぬが兎に角一所に行つて見やうと云ふことで行きますと、其時の知事は今の会計検査院長の渡辺昇さんで、知事からも之れは国家事業であるからと云ふて、段々と勧められました、それにかかつて平原に同意をして出金いたしました。
西洋人を雇ひ入れて西洋人が絵図面も栫へて、今の鉄管、ではありませぬ、京都で土管を拵へるといふことで、それで京都も大阪も宜いと云ふことでありました、明治八年に之れにかかり十年に平原の死亡の為め無茶無茶にされ、それで金をなくしました、今の大阪の水道の設計は此時のものを余程に利用して居る様子であります。其時藤田伝三郎が私にさう云ふことをせずに用達業に従事せよ、水道は何時儲かるか知れぬと云はれたけれども何分国家のためになるといふ事で、其方にかかつて貧乏して仕舞ひました。
それから程々商法をやりました、西南事件のとき大久保利通さんも大坂に御出でござりましたから、此時分金もなくしたし、もう一遍兵隊で連れて行つて貰いたいと言つた、大久保さんから有栖川宮様に願ふて貰うて、軍夫の世話から用達を致して、請負は藤田がするが其周施をさせて貰うて金儲けもいたしました。陸軍の印しを貰うて商売をして居つたやうなものであります。
寺師君 十五年に久邇宮様へ参殿せられましたと云ふことでありますが其時分の事はいかかでありました。
旭形君 其時はこれ迄のお話をいたして、其時御旗を返上してはどうであるかと宮様が仰せられました、勲位の手続をしてやらうといふことでござりましたが、其時から海防費といふ事を聞て居て大なる業をやりかかつて居て、しつかり儲ける積りでありましたから海防費を献金をして、その上手続をお願い申しますと申上げましたら久邇宮様もさうせよと仰せられました。宮様の仰付に依り電報で御旗を取寄せ御覧に入れました。
それから西南の役に戦死したるものの紀念碑を建つることを三好鎮台司令長官が御発起されました、其処へ出入を致して居りますから、官民の間でやるものがなければならぬ、軍人が寄附金等の募集のことは出来ぬからと云ふことで、世話係を仰せられました、それから寄附金募集の事に歩きて十一年から掛つて、十六年に中の島に出来上りました、金は少しも私は受取らぬ。偕行社へ幾らか寄附するといふ事を申込むのであります。
寺師君 十八年に大坂に洪水があつて、其時御尽力になつたと云ふことがありますか。
旭形君 洪水で大阪の網島が崩れると大阪が皆流れると云ふことで、陸軍にても惣掛りで出られて枠を入れて留めると云ふことでありましたがそれでは留まらぬ、陸軍から手紙が来て水の事に就て馴れたものを連れて来て呉れと云ふ事がありました、それから百五十人水中の仕事をする船大工に話しました、人夫を募りまして寄附すと云ふことでありました、それからそれ丈けのものを寄附いたして、切処を留め、並びに舟渡しを拵へました、其時建野郷三さんが知事で大変御悦びで賞状を貰ひました。
寺師君 十九年四月に久邇宮へ御出がござりました様子を。
旭形君 それは紀念碑が段々盛んで各宗から参拝もありました、其時久邇宮殿下にも御参拝下さるれば人気も盛むになりますから、其事を願ふて殿下も御下向になると云ふ事になりましたが、日もなく準備が出来ぬで、来年に願ふて呉れと云ふ事で行きまして、御承諾になりました。
寺師君 明治二十年に慈恵病院の発起になられた事がござります様子を。
旭形君 それは大阪の府立病院と云ふものがありましたが、それを廢して医学校になると云ふことでありましたか、府立病院は大阪で寄附金からなつたものである、それで大坂の名医緒方惟凖初四十名ばかり寄りて発起人となり、病気の為めに徴兵に行く者も行かれぬと云ふは国家の為めに惜しむぺきものである、又一般貧民の難病を助けることにしたい、府立病院廃せられた上は、其代りに慈恵病院にしたいと云ふことを、其時の知事に請願しました所で御許可にならざりしは残念であるから、飽くまで之れを成功せんとて発起人一同色々と評議をこらし、遂に私が発起人惣代となつて慈善者より日に十銭づつの掛金を集め、三千株以上出来日に三百幾ら貰うことになりました、其外一時寄附金に余程出来ました。只今は立派の病院になつて居る。二十三年に皇后陛下大阪へ御臨幸の際病院維持費として御下賜金三百円を下されました。
寺師君 御宮を武豊に御建ての発端を承りたい、尾州に行つて住はれた発端はどういふことであります。
旭形君 それは私の家へ出入する心易きものがあつて、之れが周旋にて武豊に山林七拾町ほどの地所を持つて居る堀田久左衛門と云ふ者に話しました、其人は武豊は前途の見込があると思ふて買入れた所が、段々衰廃を致して、それで彼方でも御宮を建てて呉れるならば地所は寄附するといふことで見に行きますと宜い所で、それが武豊で拵へる発端であります、所が余り其堀田の地所は奥すぎるそれで所の者が折角造つて貰うならば余り奥では為にならぬから、武豊の近くで拵へて貰いたいと云ふことで、それから只今の御造営地所を自身で買入れたのであります、武豊は行在所があり、お手植の松があり、景色の佳い所で大磯辺りより宜しいと思ひます。全く土地に惚れたのであります、米も魚も易くて、其処で神社でも立てば土地も賑ひますると云ふ気を起しました。
又玉鉾の神号に付ては明治廿六年十月御旗返上の時御守再び御下賜の際伊勢の大廟へ家内も連れて御礼に参りまして鹿島宮司に面会した、此時鹿島さんに会まして御守を見せ申して御神号を付けて貰うて神様に出来ぬかと申しますと立派に出来る、けれども仮りにも御物であるか勝手にすることも出来ぬから母が死むで、忌服中で人に面会もせぬのであるが、忌が明くと東京へ行くから宮内省へ行つて伺つて神号を付けて上げませう、神号は立派に出来ると云ふ事で、十二日に神号は斯うしてはどうかご書面を贈りました、それに極めて土佐の友人で大阪の小楠公の宮司になつて居る、其人に頼むで御神号を御迎申しました、即ち御祭神孝明天皇御正体玉鉾大神と申奉りまして、其時は座敷に祭つて其時江戸堀北通一丁目に元九鬼の屋敷が私の宅でこざりました、それから立派に祭りたいと思つて居りましたが其前に平安神宮も出来、京都の人が何で先帝様を祭つて呉れぬと云ふ気もあつて色々計画して居りました。廿七八年戦争の時は私も広島に参つて居て、北白川宮、小松宮、伏見宮様にも其事を申上げて宮内大臣にも申上げてお非常の賛成を得、其事を計画しました。
寺師君 廿五年に二位局が御出と云ふことがありますが。
旭形君 これは銀婚式も済みて各御陵墓へ御礼に御出てになりまして、京都に御滞在でありましたから、私は箇様にして御守を斯うして居ると云ふと、御立寄下さる事になりましたが、御先着の役人が御荷物をまとうて一泊されたばかりで、局は汽車の都合で庭まで一寸御寄りで、其お送り迎をしたと云ふことでござります。其時私が御先導をして、市中の賑敷場所を腕車に御召しで御覧になりました。
寺師君 それから日清事件に就て海陸の御用を勤められてそれから廿九年に初めて御舎殿造営に着手なりましたか。
旭形君 廿九年二月でござりました、廿八年九月に大阪は仕舞ふて御宮を建てて自身は其処に永住する積りで、今日までも其経営の事は思ふて居りました。けれども金が先きで小さい金では世間の人に立派の御宮と言はるることは出来ず、戦争の時も儲けさせて貰ひ宮内省より御旗返納の際に一百円賜はりもあり有らん限り計画する考で、迚も自分の力で充分成功することは出来ぬと云ふ見込で利根川倍太と佐藤岩男、安中万一といふ三人に相談いたしまして、これが出来すれば宮内省へ御献上致したいと思ふ、結構なことであるから共々相談して出金しやうと云ふことで成立ちまして其前に木取りも大概出来て地所が彼方此方変更したり彼是して地所を買入れて宮内省へ地均らしの時写真を撮りて愈々着手致しますと言つて宮内大臣へ宛てて書面を出しました、其返事が来て誠に結構な事であると云ふ長崎秘書官から返事が来てござります。
時任知事へも斯う云ふ計画であると云ふことを言ひました。さうすると及ぶ限り世話をしませう芝居小舎が出来ても賑はふにそういふ御宮が出来れば武豊の繁華にもならうと云ふことでござりまして、出来上りは昨年七月で入費から十万円も掛つて居る寄附金は一文も頼みません、巳れの有つたものを皆入れて足らね所は私が信用で金を借りまして佐藤と利根川、安中など三名と都合四人である、其前に名古屋の新聞に旭形といふ人間が武豊に先帝の宮を造営した、これは立派のもので、伊勢大廟、熱田神宮を除くの外にこれ丈けの宮はないと云ふことが出て、内務省から県庁へ問合せがあつて、県庁から表向調べられて町長も其事を申し私も申上げて、其事を内務省へ申立て勤王篤志の士だと云ふことを県庁から御答をしたといふ事で、其儘になつて居りましたが、出来上て宮内省へ献上を願ひましたが不思議にも聞届にならぬ、それで内務省へ公認願を出すことになり佐藤が此方に来て其手続等内務省へ頼むで取調べ昨年の十二月に公認願を差出ました。
それが不幸にも本年三月不認可になりましたから、又々此方へ来て色々取調し上本年五月再願書を差出しました、それが今に結果がつきませむ、此度是非共認可を得度考にて居ります、昨年此方に参て小松宮殿下にも申上げ大きな額を上げたいと思ふて殿下に願うと御承諾下されましたが、御筆を下げるに就て宮内省へ御照会になつた所が、公認してないから殿下の御筆を下げると云ふことは出来ぬ、御神号は書くことは出来ぬと云ふことで、折角それまでに運だことであるから公認になるだらうと云ふことになつて居りましたが、後は佐藤と利根川が内務省の方の手続をして呉れまして内務省へ願出すといふことになりました。
岡谷君 玉鉾大神と謂ふはどういふことでござります。
旭形君 鹿島宮司が御神号選定の時の説明を見ますと、仏の方で杵といふは鉾の意味の様子でござります。夫れに玉といふ文字を附けられたのでござります。
それからもう一つ若州小浜酒井家に使を致しましたことがござります、慶応三年十二月廿六日でござります、酒井さんへお使をするを皆嫌ふて行かぬ、私が願ふて中山卿、正親町三条卿の書面を持つて行きました、殿様に拜謁を致してそれから御馳走になつて私が身分などをお尋で力士でござりますといふと、力士が斯ういふ使をするはといふことでござりましたから其訳を申しました。これは御所の使でござりました、何用か分りませぬ。
佐々木君(千尋) 平安の宮の例によれば出来ぬことはなからうとおもふ、旭形君一人で祀るといふことになると詮議が渋ると云ふことなれば信徒といふものが沢山なければならぬ、信徒が沢山あれば維持法もたつ、さうして旭形君が信徒の頭となつてやると云ふことになれば出来ぬことはない。
寺師君 なほ御尋残りがあるかも知れぬがそれは又後で伺ふことにいたしませう。
(一同立礼)