霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第四章 素破抜(すつぱぬき)〔一〇一六〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第37巻 舎身活躍 子の巻 篇:第1篇 安閑喜楽 よみ(新仮名遣い):あんかんきらく
章:第4章 素破抜 よみ(新仮名遣い):すっぱぬき 通し章番号:1016
口述日:1922(大正11)年10月08日(旧08月18日) 口述場所: 筆録者:松村真澄 校正日: 校正場所: 初版発行日:1924(大正13)年3月3日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
勘吉が手打ちの宴会場に指定した呉服町の正月屋には、お愛という勘吉なじみの芸者がいた。勘吉は、次郎松の一件では喜楽が往生して詫びを入れにくるのだ、とふかしていた。
喜楽は次郎松と、嘘勝の弟・長吉と三人で正月屋にやってきて、勘吉と盃を交わして宴会が始まった。宴会の最中に長吉は正月屋の階下へ下りて行き、お愛に本当の事の次第や今日の宴会の予算をしゃべってしまった。
お愛から文句を言われた勘吉は、長吉に対して怒りだした。自分はそれをなだめ、明日は朝早い用事があるからと次郎松と長吉の二人を連れて、正月屋を抜け出した。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2022-10-17 16:07:06 文字数:5812 OBC :rm3704
愛善世界社版:44頁 八幡書店版:第7輯 46頁 修補版: 校定版:46頁 普及版:20頁 初版: ページ備考:
001『広(ひろ)い亀岡(かめをか)の十三町(じふさんまち)に
002後(あと)を見返(みかへ)す女郎(ぢよろ)はない』
003と俗謡(ぞくえう)に唄(うた)はれて居(ゐ)る亀岡(かめをか)の町(まち)には、004芸者(げいしや)仲居(なかゐ)に至(いた)る迄(まで)、005皆(みな)京都(きやうと)の田舎下(いなかくだ)し、006パチ者(もの)の仕入(しい)れ者(もの)ばかりで、007三味線(さみせん)を引(ひ)くと云(い)つたら、008たすきの紐(ひも)でもくくりつけて、009座敷中(ざしきぢう)引(ひき)まはす位(くらゐ)が関(せき)の山(やま)の不見転(みずてん)ばかりである。010股(また)で挟(はさ)んで金(かね)をとる釘抜(くぎぬき)女(をんな)がザツと三打(さんダース)計(ばか)り、011あちらこちらの料亭(れうてい)にうろついて居(を)つた。012勘公(かんこう)のお宿坊(しゆくばう)にして居(ゐ)る呉服町(ごふくまち)の正月屋(しやうぐわつや)には、013鄙(ひな)には稀(まれ)な渋皮(しぶかは)の剥(む)けた、014一寸(ちよつと)小意気(こいき)な、015三味(さみ)を能(よ)う引(ひ)かぬデモ芸者(げいしや)が二三(にさん)人(にん)抱(かか)へてあつた。016何(いづ)れも春(はる)を売(う)るのが目的(もくてき)である。017其(その)中(なか)に年(とし)は二十(はたち)位(くらゐ)で、018お愛(あい)といふ女(をんな)が始終(しじう)河内屋(かはちや)に馴染(なじみ)を重(かさ)ねて、019機嫌(きげん)克(よ)く年期(ねんき)を務(つと)めたら、020夫婦(ふうふ)にならうとまで、021約束(やくそく)をして居(ゐ)たのである。
022 勘公(かんこう)は五(ご)人(にん)の乾児(こぶん)を総揚(そうあ)げして、023意気(いき)揚々(やうやう)として、024正月屋(しやうぐわつや)に乗込(のりこ)み、025裏(うら)の六畳(ろくでふ)二間(ふたま)の古腐(ふるくさ)つた座敷(ざしき)に、026真黒(まつくろ)けに垢(あか)で光(ひか)つた柱(はしら)を背中(せなか)に、027自慢話(じまんばなし)に耽(ふけ)つてゐる。028そこへお愛(あい)が茶(ちや)を酌(く)んで来(き)て、
029お愛(あい)『哥兄(にい)サン イヤ親方(おやかた)サン、030あの次郎松(じろまつ)事件(じけん)は如何(どう)なりました。031きままとか喜楽(きらく)とか云(い)ふ奴(やつ)、032割(わり)とは度(ど)し太(ぶと)い奴(やつ)だと此(この)間(あひだ)も言(い)はれましたが、033何(なん)とか巧(うま)く片(かた)はつきましたかえ』
034勘吉(かんきち)『サア俺(おれ)の威勢(ゐせい)に恐(おそ)れて、035流石(さすが)の喜楽(きらく)も、036とうとう泣(な)きを入(い)れよつて、037今日(けふ)はあやまりに来(く)るんだ。038今晩(こんばん)の七(しち)時(じ)頃(ごろ)には喜楽(きらく)、039次郎松(じろまつ)、040長吉(ちやうきち)の三(さん)人(にん)がここへ謝罪(あやまり)に来(く)る筈(はず)だ』
041お愛(あい)『そりや心地(ここち)よい事(こと)ですなア。042一遍(いつぺん)喜楽(きらく)が親方(おやかた)にあやまる所(ところ)を見(み)せて欲(ほ)しいもんですな』
043勘吉(かんきち)(河内屋)『アハヽヽヽ、044侠客(けふかく)は侠客(けふかく)としてそれ相当(さうたう)の礼式(れいしき)があるのだ。045女(をんな)なぞの見(み)に来(く)る所(ところ)ぢやない。046どうぞ二階(にかい)に席(せき)を拵(こしら)へて、047誰(たれ)も来(こ)ない様(やう)にしておいてくれ。048其(その)式(しき)さへ済(す)めば手(て)を叩(たた)いてやるから、049其(その)時(とき)にあがつて来(き)て酌(しやく)をするんだ』
050お愛(あい)『一番(いちばん)に喜(き)ままサンとか喜楽(きらく)サンとかに、051お酒(さけ)を注(つ)ぐんですか』
052とそんな事(こと)は云(い)うたか云(い)はぬか、053喜楽(きらく)は丁度(ちやうど)其(その)時分(じぶん)に穴太(あなを)を出立(しゆつたつ)しかけてゐる位(くらゐ)だから、054何程(なにほど)エライ天耳通(てんじつう)でも、055聞取(ききと)ることは出来(でき)なかつた。
056 午後(ごご)七(しち)時(じ)頃(ごろ)、057一寸(ちよつと)腰(こし)の具合(ぐあひ)の悪(わる)いヨボヨボした次郎松(じろまつ)サンと、058小男(こをとこ)の長吉(ちやうきち)とを伴(つ)れて、059正月屋(しやうぐわつや)の門口(かどぐち)を潜(くぐ)つた。060例(れい)のお愛(あい)は顔(かほ)に冷笑(れいせう)を泛(うか)べて、061此方(こちら)が御免(ごめん)なさいと言(い)へば、062厭相(いやさう)に『へー』と答(こた)へて背中(せなか)を向(む)けた。063喜楽(きらく)は……此(この)スベタ奴(め)、064大事(だいじ)のお客(きやく)さまを捉(とら)へて馬鹿(ばか)にしやがる、065そんなことで商売(しやうばい)が繁昌(はんじやう)するか……と云(い)ひたくなつた。066されど何(なん)とはなしに一方(いつぱう)は無頼漢(ぶらいかん)を相手(あひて)のこととて、067稍(やや)不安(ふあん)の雲(くも)が心(こころ)に往復(わうふく)してゐたので、068ワザと笑顔(ゑがほ)を作(つく)り、
069喜楽(きらく)『河内屋(かはちや)サンは来(き)て居(を)られますか?』
070と問(と)ひかけた、071お愛(あい)は、
072お愛(あい)『へー親分(おやぶん)ですか。073昼(ひる)頃(ごろ)から乾児(こぶん)をつれて遊(あそ)びに来(き)てゐられます。074お前(まへ)サンは喜楽(きらく)サンですか。075とうとう河内屋(かはちや)ハンに負(ま)けなはつたのですやろ』
076と冷(ひや)やかに笑(わら)ふ。077其(その)態度(たいど)に又(また)むかついた。
078喜楽(きらく)『オイ長吉(ちやうきち)、079次郎松(じろまつ)サン、080こんな所(ところ)に立(た)つて居(を)つても仕方(しかた)がないぢやないか。081女中(ぢよちう)サンに案内(あんない)して貰(もら)つて奥(おく)へ通(とほ)らうかい』
082と稍(やや)甲張(かんば)つた声(こゑ)で呶鳴(どな)り立(た)てた。083庭(には)の上(うへ)に八畳(はちじやう)ばかり二階(にかい)座敷(ざしき)がある。084そこの段階子(だんばしご)をトントンと下(お)りて来(き)たのは与三公(よさこう)であつた。
085与三(よさ)『あゝ喜楽(きらく)サン、086早(はや)く上(あが)つて下(くだ)さい。087親方(おやかた)が待(ま)つて居(ゐ)ます。088約束(やくそく)の時間(じかん)が遅(おく)れたと云(い)うて、089大変(たいへん)に御(ご)立腹(りつぷく)ですよ。090サアサア早(はや)く』
091と先(さき)に立(た)つて段階子(だんばしご)をあがる。092三(さん)人(にん)も後(あと)に跟(つ)いて二階(にかい)へ上(あが)つて見(み)た。093チヤンと足(あし)のない膳(ぜん)に、094五(いつ)つ六(む)つの菓子碗(くわしわん)や皿(さら)が並(なら)べられ、095盃洗(はいせん)までがランプの影(かげ)を映(うつ)して、096三(さん)人(にん)ののぼつた響(ひびき)に、097ランプの月(つき)を盃洗(はいせん)の海(うみ)がゆらつかしてゐる。
098勘公(かんこう)『喜楽(きらく)サン、099遠方(ゑんぱう)御(ご)苦労(くらう)でした。100ズイ分(ぶん)お前(まへ)サンも世話好(せわずき)ですなア。101余(あま)り人(ひと)の事(こと)を構(かま)うもんぢやありませんぜ。102今(いま)の人間(にんげん)は叶(かな)はぬ時(とき)は神仏(しんぶつ)のやうに言(い)うて頼(たの)み、103チンコハイコするものだが、104やがて難(なん)が去(さ)ると、105素知(そし)らぬ顔(かほ)をするもんだ。106人(ひと)の世話(せわ)もよい加減(かげん)になさるが宜(よろ)しかろ』
107と何(なん)だか意味(いみ)ありげな事(こと)を云(い)ふ。
108喜楽(きらく)『河内屋(かはちや)サン、109これも止(や)むを得(え)ずだ。110乗(の)りかけた舟(ふね)で、111後(あと)へ引返(ひきかへ)す訳(わけ)にも行(ゆ)かず、112親類(しんるゐ)のことでもあり、113君(きみ)の商売(しやうばい)の邪魔(じやま)をしては済(す)まんのだけれど、114今度(こんど)の事件(じけん)ばかりは例外(れいぐわい)だと思(おも)つて貰(もら)はねばならん』
115勘公(かんこう)『さうでせう、116何分(なにぶん)次郎松(じろまつ)サンに金(かね)を借(か)つたり、117いろいろと世話(せわ)になつてゐられるさうだから、118こちらも推量(すゐりやう)はしてゐるのだ。119かう見(み)えても河内屋(かはちや)は血(ち)もあれば涙(なみだ)もある男(をとこ)ですよ。120チツとは可愛(かあい)がつてやつて下(くだ)せえ』
121と半分(はんぶん)ばかり侠客(けふかく)言葉(ことば)を使(つか)うてゐる。122元(もと)が土百姓(どびやくしやう)あがりの侠客(けふかく)だから、123箱根(はこね)越(こ)えずの江戸(えど)つ児(こ)を使(つか)はうとするので、124其(その)言霊(ことたま)にどこともなく拍子抜(ひやうしぬ)けがして、125余(あま)り怖(こは)相(さう)にもなく又(また)権威(けんゐ)もない。126何(なん)だかダラけた様(やう)な心持(こころもち)がする。
127勘公(かんこう)『次郎(じろ)ヨモさんイヤ松(まつ)さん、128ズイ分(ぶん)お玉(たま)が可愛(かあい)がつて頂(いただ)いた相(さう)です。129此(この)後(ご)もお見捨(みすて)なく御(お)世話(せわ)をしてやつて下(くだ)さい、130私(わたくし)も男(をとこ)一匹(いつぴき)だ。131一旦(いつたん)男(をとこ)に汚(けが)された女(をんな)を再(ふたた)び連(つ)れようとは思(おも)ひませぬから、132アハヽヽヽ』
133とワザと豪傑(がうけつ)笑(わら)ひをして肩(かた)をゆすつてゐる。
134次郎松(じろまつ)『イヤもう年(とし)を老(と)つて、135思(おも)はぬホテテンゴを致(いた)しまして、136皆(みな)サンに御(ご)心配(しんぱい)をかけ年甲斐(としがひ)もないことで御座(ござ)いますワイ。137ハーイ』
138勘公(かんこう)『オイ長吉(ちやうきち)、139貴様(きさま)もお玉(たま)に少々(せうせう)おかげを蒙(かうむ)つたといふ事(こと)だが、140有態(ありてい)に白状(はくじやう)せい! 返答(へんたふ)によつては此方(こちら)にも考(かんが)へがあるぞ』
141と長吉(ちやうきち)に対(たい)してはガラリと態度(たいど)をかへ、142強圧(きやうあつ)的(てき)に嚇(おど)しつけた。
143長吉(ちやうきち)『ハイ、144あの次郎松(じろまつ)サンが何(なん)で、145ヘエそしてヤツパリ松(まつ)サンがお玉(たま)サンの何(なん)です』
146とモヂモヂし乍(なが)ら、147ソロソロ震(ふる)ひ出(だ)した。
148勘公(かんこう)『コラ長吉(ちやうきち)、149貴様(きさま)故(ゆゑ)にこんなザマの悪(わる)い事件(じけん)が起(おこ)つたのだ。150此(この)責任(せきにん)は残(のこ)らず貴様(きさま)にあるのだ。151何(なん)だウソ勝(かつ)の哥兄(あに)を持(も)つたと思(おも)うて、152ウソ勝(かつ)の親分(おやぶん)はイロハ孝太郎(かうたらう)だと云(い)つて威張(ゐば)つてゐやがるが、153俺(おれ)は貴様(きさま)も知(し)つてる通(とほ)り、154島原(しまばら)のカンテラ親分(おやぶん)の兄弟分(きやうだいぶん)だ。155事(こと)と品(しな)によつたら、156貴様(きさま)の為(ため)に親分(おやぶん)同士(どうし)の一悶錯(ひともんさく)が起(おこ)らうも知(し)れぬぞ』
157長吉(ちやうきち)『オヽオウ河内屋(かはちや)、158そんなこと云(い)うたて、159シシ知(し)らぬワイ。160さう喧(やかま)し言(い)はずに、161今日(けふ)は仲直(なかなほ)りに来(き)たんだから、162ゆつくりと酒(さけ)でも呑(の)んで別(わか)れよぢやないか』
163勘公(かんこう)『コリヤ侠客(けふかく)の儀式(ぎしき)を知(し)つてるか、164俺(おれ)の盃(さかづき)を頂(いただ)かうと思(おも)うたら、165それ丈(だけ)の方法(はうはふ)を知(し)らなくては今日(けふ)の役(やく)は勤(つと)まらぬぞ。166モシも仕損(しそん)じをしよつたら、167それこそ承知(しようち)せぬから、168さう思(おも)へ』
169と喜楽(きらく)、170次郎松(じろまつ)に対(たい)する不平(ふへい)を、171弱(よわ)い男(をとこ)の長吉(ちやうきち)一人(ひとり)に集中(しふちう)してゐる其(その)可笑(をか)しさ。
172喜楽(きらく)『君(きみ)、173僕(ぼく)は素人(しろうと)だ。174君(きみ)は押(お)しも押(お)されもせぬ立派(りつぱ)な侠客(けふかく)サンだ。175侠客(けふかく)同士(どうし)ならば、176どんな六(むつ)かしい儀式(ぎしき)もあらうかも知(し)れぬが、177俺(おれ)達(たち)は素人(しろうと)だから、178前(まへ)以(もつ)て断(ことわ)つておく。179侠客(けふかく)の作法(さはふ)に叶(かな)はないと云(い)つて、180因縁(いんねん)をつけるのなら、181もう盃(さかづき)は貰(もら)はぬワ』
182次郎松(じろまつ)『私(わし)も喜楽(きらく)サンのいふ通(とほ)り六(むつ)かしいことは知(し)らぬのだから、183こちらの流儀(りうぎ)にして貰(もら)ひたい、184なア河内屋(かはちや)サン』
185勘公(かんこう)『あゝさういへばさうだ、186そんなら随意(ずゐい)に、187仲直(なかなほ)りの酒(さけ)を汲(く)みかはすことにしませう。188オイ与三(よさ)、189先(ま)づ第一(だいいち)に喜楽(きらく)サンに注(つ)いで、190それから俺(おれ)に注(つ)ぐのだ、191俺(おれ)の盃(さかづき)を松(まつ)サンに注(さ)すのだ、192それから後(あと)は勝手(かつて)に注(つ)いで呑(の)んだがよい』
193与三(よさ)『へー』
194と云(い)ひ乍(なが)ら、195燗徳利(かんどくり)の握(にぎ)れぬやうなあつい奴(やつ)から、196朝顔(あさがほ)の花(はな)の形(かたち)したうす平(ひら)たい盃(さかづき)にドブドブドブと注(つ)ぐ。197喜楽(きらく)は一口(ひとくち)にグイと呑(の)んで、
198喜楽(きらく)『失敬(しつけい)!』
199といひ乍(なが)ら勘公(かんこう)に渡(わた)した。200勘公(かんこう)は巻舌(まきじた)まぜりのドス声(ごゑ)で、
201勘公(かんこう)『ハーイ宜(よろ)しい』
202と云(い)ひ乍(なが)ら受取(うけと)り、203与三公(よさこう)に注(つ)がせた。204与三公(よさこう)が注(つ)がうとするやつを無理(むり)に盃(さかづき)を上(うへ)の方(はう)へ上(あ)げて一滴(いつてき)も入(い)れさせず、205呑(の)んだふりをして……ヘン貴様(きさま)の盃(さかづき)を表面(へうめん)は兎(と)も角(かく)、206実際(じつさい)誰(たれ)が呑(の)むものか……といふやうな面付(つらつき)をしてゐる。207河内屋(かはちや)は盃(さかづき)を次郎松(じろまつ)の前(まへ)に猿臂(ゑんぴ)を伸(の)ばしてグツと差出(さしだ)し、
208勘公(かんこう)『サア色男(いろをとこ)の松(まつ)サン、209ワツちの盃(さかづき)はお気(き)に入(い)りますまいが、210今日(けふ)は仲直(なかなほ)りの式(しき)だから、211ドツサリと受(う)けて下(くだ)さい。212イヤ十分(じふぶん)打(うち)とけて酔(よ)うて貰(もら)はねば、213仲直(なかなほ)りの精神(せいしん)が貫徹(くわんてつ)しません』
214と云(い)ひ乍(なが)ら、215与三(よさ)の徳利(とくり)をグイと引(ひき)たくり、216ドブドブドブと松(まつ)サンの持(も)つてゐる盃(さかづき)へ注(つ)いだ。217松(まつ)サンは、
218次郎松(じろまつ)『エヽモウ結構(けつこう)結構(けつこう)、219ちります ちります、220こぼれます』
221と言(い)つてゐるのを構(かま)はず、222燗徳利(かんどくり)をグイと向(むか)うへつきつけ、223膝(ひざ)の上(うへ)に一杯(いつぱい)の酒(さけ)をダブダブとこぼして了(しま)つた。
224次郎松(じろまつ)『あゝ勿体(もつたい)ない、225此(この)結構(けつこう)な酒(さけ)を』
226と云(い)ひ乍(なが)ら、227膝(ひざ)の上(うへ)や畳(たたみ)の上(うへ)にこぼれた酒(さけ)を平手(ひらで)にすはしてはチウーチウーと吸(す)うてゐる。
228勘公(かんこう)『コレ松(まつ)サン、229わつちの盃(さかづき)が気(き)に入(い)らぬのか、230皆(みな)づちあけて了(しま)うとは、231余(あま)り馬鹿(ばか)にした仕打(しうち)ぢやねいか』
232と無理(むり)難題(なんだい)を吹(ふ)つかけて、233引(ひ)つかからうとしてゐる。
234喜楽(きらく)『オイ君(きみ)、235そんな冗談(ぜうだん)を言(い)ふもんだないよ。236君(きみ)の親切(しんせつ)があふれて出(で)たのだから、237松(まつ)サンも感謝(かんしや)してゐるんだろ。238僕(ぼく)も感謝(かんしや)してゐる。239何分(なにぶん)燗酒(かんしゆ)だからな、240アハヽヽヽ』
241と笑(わら)ひに紛(まぎ)らす。242主客(しゆきやく)双方(さうはう)九(く)人(にん)は表面(へうめん)仲直(なかなほ)りといひ乍(なが)ら、243非常(ひじやう)に深(ふか)い溝渠(こうきよ)を中(なか)において、244危(あぶな)い丸木橋(まるきばし)を渡(わた)る様(やう)な心持(こころもち)で、245仲直(なかなほ)りの盃(さかづき)を汲(く)みかはしてゐた。246ソロソロ勘公(かんこう)は当(あ)てこすりだらけの都々逸(どどいつ)を唄(うた)ひ出(だ)した。
247 其(その)間(ま)に長吉(ちやうきち)は少(すこ)しく酒(さけ)がまはり、248階段(かいだん)を無断(むだん)で下(くだ)つて了(しま)つた。
249 下座敷(したざしき)には勘公(かんこう)の思(おも)ひ者(もの)お愛(あい)を始(はじ)め、250二人(ふたり)の不見転(みずてん)芸者(げいしや)が長火鉢(ながひばち)を囲(かこ)んで河内屋(かはちや)話(ばなし)に耽(ふけ)つてゐた。251長吉(ちやうきち)はヒヨロヒヨロし乍(なが)ら三(さん)人(にん)の前(まへ)にドツカと坐(すわ)つた。
252お愛(あい)『コレ長吉(ちやうきち)ヤン、253とうとう喜楽(きらく)安閑坊(あんかんばう)も始(はじ)めは偉(えら)い男(をとこ)だつたが、254尻尾(しつぽ)を出(だ)しよつたぢやおへんか。255そんなことなら、256体(てい)よく始(はじ)めからあやまつておくといいのに、257何程(なにほど)力(ちから)があると云(い)つても、258河内屋(かはちや)の旦那(だんな)にかけたら、259到底(たうてい)駄目(だめ)なことはきまつて居(ゐ)るのに、260本当(ほんたう)に喜楽(きらく)といふ男(をとこ)は安閑坊(あんかんばう)だなア』
261長吉(ちやうきち)『何(なに)、262尾(を)をまいたんでも何(なん)でもない。263此(この)前(まへ)にも河内屋(かはちや)と下河原(しもかはら)で喧嘩(けんくわ)をした時(とき)に、264河内屋(かはちや)の方(はう)は子分(こぶん)や野次馬(やじうま)で三十(さんじふ)人(にん)ばかりで、265一人(ひとり)の喜楽(きらく)を取(とり)まいたが、266それでも喜楽(きらく)は五六(ごろく)人(にん)なぐりたふして甘(うま)く逃(に)げよつた位(くらゐ)だから、267今度(こんど)だつて負(まけ)たんぢやない。268マアマア五分(ごぶ)々々(ごぶ)にしとかうかい』
269お愛(あい)『何(なん)と卑怯(ひけふ)な喜楽(きらく)サンだなア。270何十(なんじふ)人(にん)相手(あひて)にしても、271叶(かな)はんやうになつたら逃(に)げるのなら、272あたいだつて、273そんな易(やす)い喧嘩(けんくわ)は出来(でき)ますワ。274次郎松(じろまつ)に、275何(なん)でも喜楽(きらく)サンは金(かね)を貰(もら)つたとか、276借(か)つたとか云(い)ふことだから、277それであれ丈(だけ)、278義理(ぎり)にでも骨(ほね)を折(お)らんならんのだと、279与三(よさ)ハンが云(い)うてゐましたよ。280事情(じじやう)を聞(き)けば、281喜楽(きらく)ハンも本当(ほんたう)に可哀相(かはいさう)なとこがあるなア』
282長吉(ちやうきち)『ナアニそんな事(こと)あるものか。283河内屋(かはちや)奴(め)が五(ご)人(にん)の乾児(こぶん)を伴(つ)れて、284あんな痳病(りんびやう)やみの次郎松(じろまつ)サンとこへ押(おし)よせて来(き)たもんだから、285今(いま)まで何回(なんくわい)も喜楽(きらく)サンが掛合(かけあ)つて居(を)つたのだけれど、286今度(こんど)はたまりかねて応援(おうゑん)に往(い)つたのだ。287河内屋(かはちや)も抜(ぬ)いた刀(かたな)が鞘(さや)に納(をさ)まりかねて困(こま)つて居(を)つた所(ところ)、288わしの兄(あに)の勝(かつ)ちやんが仲裁(ちうさい)に這入(はい)つて、289ソレから又(また)喜楽(きらく)が談判(だんぱん)をして、290次郎松(じろまつ)から十五(じふご)円(ゑん)、291河内屋(かはちや)から十五(じふご)円(ゑん)、292勝負(かちまけ)なしに、293仲直(なかなほ)りといふ相談(さうだん)が出来(でき)たのだ。294一方(いつぱう)は侠客(けふかく)の親分(おやぶん)、295一方(いつぱう)は安閑坊(あんかんばう)の喜楽(きらく)、296そんな者(もの)と喧嘩(けんくわ)をして、297五分(ごぶ)々々(ごぶ)の別(わか)れと云(い)ふのだから、298つまり河内屋(かはちや)が負(まけ)なのだ。299そこを喜楽(きらく)が折角(せつかく)売(う)り出(だ)した河内屋(かはちや)の顔(かほ)を潰(つぶ)しては可哀相(かあいさう)だと思(おも)うて、300ズツと譲歩(じやうほ)して五分(ごぶ)々々(ごぶ)と云(い)ふ所(ところ)で体(てい)能(よ)うキリをつけたのだよ。301今夜(こんや)の御(ご)馳走(ちそう)は三十(さんじふ)円(ゑん)の御(ご)馳走(ちそう)だのに、302なぜ又(また)これ程(ほど)高(たか)いのだ。303吉川(よしかは)の桑酒屋(くはざけや)へ行(い)つて五(ご)円(ゑん)出(だ)しや、304これ位(くらゐ)の御(ご)馳走(ちそう)はしてくれるが、305お前(まへ)とこもチト勉強(べんきやう)せぬと、306商売(しやうばい)が流行(はや)らぬやうになるかも知(し)れぬぞ』
307お愛(あい)『ソラ又(また)本当(ほんたう)ですか?』
308長吉(ちやうきち)『俺(おれ)はウソ勝(かつ)の弟(おとうと)だけれど、309生(うま)れてから嘘(うそ)と坊主(ばうず)の頭(あたま)とはいうたことがないのぢや』
310 お愛(あい)は顔色(かほいろ)を変(か)へて二階(にかい)へトントンとあがり、
311お愛(あい)『モシ河内屋(かはちや)の旦那(だんな)一寸(ちよつと)……』
312と目配(めくば)せした。313河内屋(かはちや)は『ウン』と云(い)ひ乍(なが)ら、314お愛(あい)のあとについて階段(かいだん)を降(を)り、315十(じつ)分間(ぷんかん)計(ばか)り姿(すがた)を隠(かく)した。316長吉(ちやうきち)は酔眼(すゐがん)朦朧(もうろう)として階段(かいだん)を四(よ)つ這(ばひ)になつて二階(にかい)へ上(あが)つて来(き)た。317そこへ勘公(かんこう)が顔色(かほいろ)を変(か)へて上(のぼ)り来(きた)り、
318勘公(かんこう)『コリヤ長吉(ちやうきち)、319今度(こんど)の事件(じけん)は貴様(きさま)が起(おこ)したやうなものだ。320俺(おれ)たちや、321喜楽(きらく)サンや、322松(まつ)サンがまだここに坐(すわ)つてゐるのに、323貴様(きさま)勝手(かつて)に席(せき)を外(はづ)すといふ事(こと)があるものか。324仲直(なかなほ)りの儀式(ぎしき)を破(やぶ)り、325侠客(けふかく)の顔(かほ)へ泥(どろ)をぬりやがつた。326オイ与三(よさ)、327徳(とく)、328長吉(ちやうきち)を引括(ひきくく)つて、329井戸端(ゐどばた)へつれて行(ゆ)き、330ドタマから水(みづ)を百杯(ひやつぱい)ほどかけてやれ!』
331と口汚(くちぎたな)なく罵(ののし)り乍(なが)ら、332酔(よ)ひつぶれてる長吉(ちやうきち)の頭(あたま)や腰(こし)を荒男(あらをとこ)が力(ちから)に任(まか)して、333踏(ふ)んだり蹴(け)つたりし始(はじ)めた。
334喜楽(きらく)『オイ河内屋(かはちや)、335仲直(なかなほ)りの盃(さかづき)がすんだ以上(いじやう)は、336長吉(ちやうきち)がどこへ行(ゆ)かうと構(かま)はぬぢやないか。337長吉(ちやうきち)に悪(わる)い事(こと)があるのなら、338後(あと)で何(なん)なつとしたがよかろ。339明日(あす)の朝(あさ)までは俺(おれ)は長吉(ちやうきち)の親(おや)兄弟(きやうだい)から、340身柄(みがら)を預(あづか)つてきたのだから、341指一本(ゆびいつぽん)触(さ)へさすこたア出来(でき)ぬのだ』
342勘公(かんこう)『許(ゆる)し難(がた)い奴(やつ)だけど、343喜楽(きらく)サンや次郎松(じろまつ)サンに免(めん)じて、344今晩(こんばん)は許(ゆる)しておく。345明日(あす)夜(よ)があけたら、346俺(おれ)の宅(たく)までキツと出(で)て来(こ)い』
347長吉(ちやうきち)『済(す)まなんだ、348どうぞ勘忍(かんにん)してくれ。349わしや別(べつ)にお前(まへ)の悪(わる)い事(こと)を言(い)うたのぢやない。350下(した)の女中(ぢよちう)が今晩(こんばん)の御(ご)馳走(ちそう)は五(ご)円(ゑん)がポチで十(じふ)円(ゑん)の御(ご)馳走(ちそう)だと云(い)うたから、351そんな筈(はず)がない、352三十(さんじふ)円(ゑん)だと言(い)うたのぢやから、353気(き)を悪(わる)うせんとこらへてくれ』
354勘公(かんこう)『喧(やかま)しいワイ、355仲直(なかなほ)りが済(す)んでからゴテゴテ吐(ぬか)すと、356又(また)一(ひと)つ物言(ものい)ひがつくぞ。357サア早(はや)く貴様(きさま)帰(かへ)れ……喜楽(きらく)サン、358松(まつ)サン、359どうぞゆつくり機嫌(きげん)を直(なほ)して夜(よ)が明(あ)ける迄(まで)呑(の)んで下(くだ)さい。360これから女(をんな)を上(あ)げますから、361前席(ぜんせき)が十(じふ)円(ゑん)、362二次会(にじくわい)が二十(にじふ)円(ゑん)といふ段取(だんどり)にしてあるのだのに、363訳(わけ)もきかずに長吉(ちやうきち)がそんな事(こと)言(い)ひやがつて、364本当(ほんたう)に仕方(しかた)のない奴(やつ)だ……オイお愛(あい)、365貴様(きさま)もよいかげんに喋(しやべ)つておけ、366これから第二次(だいにじ)会(くわい)の注文(ちうもん)をする所(ところ)だ。367仕様(しやう)もない事(こと)いふもんだから、368喜楽(きらく)サンにも痛(いた)くない腹(はら)を探(さぐ)られ、369男(をとこ)の面目玉(めんぼくだま)をつぶしよつた』
370と言(い)ひ乍(なが)ら、371最愛(さいあい)のお愛(あい)の横面(よこづら)をピシヤピシヤとなぐりつけた。372お愛(あい)は『キヤツ』と悲鳴(ひめい)をあげて段階子(だんばしご)をころげおち、373庭(には)に白(しろ)い尻(しり)をあらはしたまま平太(へた)つてゐる。374二人(ふたり)の女中(ぢよちう)はあわてて抱(だ)き起(おこ)し、375裏(うら)の別建(べつたて)の家(いへ)へ連(つ)れていつたやうである。
376喜楽(きらく)『君(きみ)、377僕(ぼく)は明日(あす)早(はや)く行(ゆ)かねばならぬ所(ところ)があるから、378二次会(にじくわい)に列(れつ)したいのだが、379これで失礼(しつれい)する。380どうぞ君(きみ)たち、381僕(ぼく)の代(かは)りに二人前(ににんまへ)飲(の)んで十分(じふぶん)騒(さわ)いでくれ。382松(まつ)サンも長吉(ちやうきち)も連(つ)れて帰(かへ)るから……』
383勘公(かんこう)『御用(ごよう)があらば仕方(しかた)がない。384そんならあと二十(にじふ)円(ゑん)がとこ、385君(きみ)の代(かは)りに散財(さんざい)をする。386オイ与三(よさ)、387徳(とく)、388兼(かね)、389下(した)へおりて注文(ちうもん)して来(こ)い』
390 勘公(かんこう)の意中(いちう)を知(し)らぬ三(さん)人(にん)はあわてて下(した)に飛(と)びおり、391此(この)家(いへ)の主婦(しゆふ)をつかまへて第二次(だいにじ)会(くわい)の注文(ちうもん)をして居(ゐ)る。392喜楽(きらく)外(ほか)二人(ふたり)は此処(ここ)を立出(たちい)で、393穴太(あなを)さして夜(よる)の道(みち)を帰(かへ)つて行(ゆ)く。394何時(なんどき)勘公(かんこう)の手下(てした)の奴(やつ)が先(さき)まはりをして、395どんな事(こと)をするか知(し)れないと云(い)ふ気(き)が起(おこ)り、396急(いそ)いで帰(かへ)らうとすれ共(ども)、397痳病(りんびやう)やみのヒヨロヒヨロ男(をとこ)が酒(さけ)に酔(よ)ひ、398又(また)長吉(ちやうきち)がヘベレケに酔(よ)うてゐるので、399同(おな)じ所(ところ)許(ばか)り蟹(かに)の様(やう)に歩(ある)いて居(を)つて、400根(ね)つから道(みち)がはか取(ど)らず、401十(じふ)時(じ)頃(ごろ)に正月屋(しやうぐわつや)を立出(たちい)で、402わづか十二三(じふにさん)町(ちやう)の松(まつ)の下(した)まで二(に)時間(じかん)計(ばか)り費(つひ)やして了(しま)つた。
403(大正一一・一〇・八 旧八・一八 松村真澄録)
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