霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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椿の寝床

インフォメーション
題名:13 椿の寝床 著者:出口和明
ページ:315 目次メモ:
概要:明治38年(1905年)5月、出口直は祈願のため沓島に篭もる。 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2018-07-26 23:59:17 OBC :B138908c13
0001 十九世紀末よりロシア帝国は皇帝(ツアー)専制政治を強化し、0002特別な権限と役割を与えた貴族を皇帝権力のよりどころとして、0003国民の窮乏をかえりみなかった。0004国民の不満は高まって社会主義思想を生み、0005そこには現状の改善に絶望した革命的気運が急激に燃え上がっていた。0006革命的危機を国外に振り替えるために、0007日本との戦いに突入しながら。
0008 明治三十八(一九〇五)年一月一日、0009難攻不落を誇った旅順要塞が陥落したことは、0010ロシアにとってたいへんな衝撃であったろう。0011敗戦の報あいつぐ一月二十二日、0012首府ペテルブルグのある工場で起こったストライキをきっかけに、0013十数万の人々が冬宮(とうきゅう)へ向かって示威行進をはじめた。
0014「正義と保護をもとめて陛下のみもとにまいりました。0015……専制政治と暴圧のため、0016息がつまりそうです。0017この苦痛を続けるくらいなら死んだ方がましです……」
0018 そう請願書に訴えた群衆に、0019近衛兵の一隊が発砲した。0020聖像と皇帝の肖像をかかげて逃げまどう罪なき三千余名を殺傷したいわゆる『血の日曜日』である。
0021 皇帝ニコライ二世はこの事件に関して「彼らの犯行を許す」と演説。0022人民が血を流して訴えた窮状も、0023皇帝の目には犯行でしかなかったのか。0024悲憤の涙をのむ民衆は、0025何が本当の敵かを知らされたのだ。
0026 この悲劇を導火線として第一次ロシア革命が勃発、0027意外に手強い日本軍を前に、0028ロシアは全力を傾注できない状態に追い込まれていく。
0029 三月十日、0030日本軍は奉天占領。
0031 破竹の進撃を続けながら、0032軽量級の日本の出血も大きかった。0033戦力はすでに涸渇し、0034立つ足元すらよろめきかねない。
0035 ついに、0036日本艦隊殲滅を期して、0037強大なバルチック艦隊が動き出した。0038これを迎え撃つ海軍は、0039制海権を守って、0040日本の興亡を負わねばならぬ。
0041 五月下旬、0042安南(あんなん)沖に近づいたバルチック艦隊の航路は、0043その後、0044(よう)としてつかめなかった。0045東郷指令官以下参謀、0046幕僚の悩みは、0047かかってこの航路の判断にあった。0048対島海峡を通るか、0049太平洋を迂回して津軽海峡に出るか。0050ウラジオへ入る四航路八海峡のうちどれを選ぶか。0051去就不明の敵艦隊を求めて必死にさまよう哨艦(しょうかん)
0052 国民は知らず、0053天皇は積もり積もる心労に回復おぼつかないまでの病の床にあったという。
0054 ――上田は心で往生しておりても負けることのできん霊魂(みたま)性来(しょうらい)であるぞよ。0055素盞嗚尊の霊魂は表役のでけん霊魂であるが、0056表役いたそと思うから、0057この世いまの体裁であるぞよ。0058素盞嗚尊の霊魂がはびこりたら、0059この世に口舌(くぜつ)はいつになりても絶えんぞよ。0060この世がくるのは、0061むかし泥海の中に善一つの月の大神さまおいで遊ばすおりからよくわかりておりての、0062日本の仕組みであるぞよ。0063露国の極悪神のわるきたくみにいたすのがよくわかりておりての、0064長い大神さまの御艱難(ごかんなん)0065この極悪霊魂をたいらげるには、0066日本の国には素盞嗚尊の霊ではでけん仕組みがしてあるから、0067往生いたさなならん時節が参りてきて、0068隠居役とあい定まりたぞよ。0069駿河の稲荷講社の神には、0070綾部の大本から給仕はでけんから、0071その方の系統(ひっぽう)から給仕をさすぞよ。0072改めてみたら、0073今では位田の村上房之助、0074四方藤太郎二人。0075(明治三十八年旧三月二十六日・新四月三十日)
0076 高々と読み上げつつ渡り廊下を行ったり来たりしていた中村竹吉が、0077臥竜亭の障子を引きあけた。
0078「先生、0079今出た筆先ですで。0080バルチック艦隊が日本を狙っておるこの大事な時に御隠居役。0081やれやれ改心でけんもんは仕方ない」
0082 中村竹吉は筆先を机辺に置き、0083寝転んだなりの王仁三郎を哀れむ風に眺めて出て行った。0084王仁三郎は筆先を引き裂こうとして、0085手を止めた。
0086 露国の極悪神を平げるには素盞嗚の霊が邪魔……わしを隠居役にしてまず表の活動を封じる。0087そして……何を考えているんだ艮の金神は……。
0088 起き直って、0089何度も筆先をむさぼり読んだ。
0090 その方の系統から給仕をさす……やと?
0091 房之助、0092藤太郎の心が筆先を離れてわずかながら王仁三郎に傾いていることを、0093さすがに艮の金神は鋭く見抜いている。0094筆先を悪魔の所産と決めつけたわしの心など、0095とうに見破っていよう。0096田中善吉を使って、0097京都、0098伏見の拠点をつぶしわしの手足までもぎとっておきながら、0099この上、0100何をしでかそうというのだ。
0101「先生、0102うち、0103もうどうしてよいか分からんわ」
0104 澄が投げ出すような坐り方をして、0105王仁三郎を見上げた。
0106「またあいつら、0107何かやらかしたか」と、0108うんざりした顔を妻に向ける。
0109「教祖はんですわな。0110海の底に住む龍宮の乙姫さまが改心できて、0111今度、0112龍門館へお上がりになる時節が来たげな。0113それで教祖はんは、0114乙姫さまをお迎えに龍宮へ行ってんやげな」
0115「あほらしい。0116まともに聞いとれんわ」
0117「けど母さんにとっては冗談やないもん。0118まず沓島(めしま)まで行けば、0119それから先は神さんが連れて行ってくれてんやげな」
0120「つまり沓島参りか、0121ちっとは年を考えたらええのに。0122もう七十やさけ、0123あの荒海ではのう」
0124「それも今度は普通の参拝やござへん。0125『供がいると気が散るさかい一人で参る。0126誰もついてくることはならん。0127お籠りは四十日間ほどと神さまが言うてなさる』……と」
0128「無茶な、0129沓島は水一滴出ん無人島やで。0130温泉に逗留するのとわけが違う。0131若い元気者でも、0132一晩だっておれるものやないわい」
0133「やっぱり先生が考えても無茶じゃろ。0134うちも無茶じゃと思うさかい、0135毎日止めてたんですわな。0136うちらが反対したからというて聞く人やござへんでなあ」
0137「待て。0138言い出したんは今日やないのか」
0139「四、0140五日前から……」
0141「何故わしに……わしに隠しとった。0142役員は知っとるのか」
0143「へえ、0144知っとってです。0145先生に言うたらまた喧嘩になると思うたさかい……十日立ち(旧四月十日)じゃさかい、0146もうなんぼも日がござへん」
0147 伏見、0148宇治地方の宣教から帰って以来、0149王仁三郎は臥竜亭に閉じ籠って、0150役員ばかりか教祖直の前にすら顔を出さなかった。0151それにしてもこれほど重大な問題を、0152同じ家内にいながら知らされなかったのは心外だった。
0153「隠居役に定まりたぞよ」の筆先を早速実行に移しやがったと腹が立つ。
0154 爆発を押える王仁三郎に頓着なく、0155澄は筆先を示した。
0156 ――末代に一度ほかできん変性男子の大望な御用に連れ参るものであるから、0157実地の神が世に出る大望な御用であるから、0158留守をしっかり頼むぞよ。0159(明治三十八年旧四月三日)
0160 ――何が大望や。0161勝手に日本海の荒潮に吹きさらされてこい。0162……待てよ、0163日本海。0164そうか、0165近づきつつあるバルチック艦隊や。0166日本の戦勝祈願か。
0167 神の子たる人と人とが命を奪い合う戦争を、0168王仁三郎は憎む。0169絶対否定の立場に立つ。0170が、0171現実に日露が戦火をまじえると、0172皇軍の勝利を祈願せずにおれぬ自分を発見する。0173まして、0174権勢の世界に権勢を否定し、0175黄金の世界に黄金を蔑視する直である。
0176 神が露国を極悪神と決めつける以上、0177日本の危機は純粋に鋭く直に迫り、0178ただ一人立ってバルチック艦隊を引き寄せ叩きつぶす悲壮な幻想にでもとらわれているのであろう。
0179 その感情には共感もできるが、0180わが身を生死の竿頭(かんとう)におき祈ることによって国難を回避できるなど、0181いかにも直の考えそうなことだ。0182祈りはどこでもいつでもできるはず、0183祈る場所や状態を極限に置かねばならぬなど、0184むしろ体主霊従的行為ではないのか。
0185 直のすることに一々ダメを押さずにおれぬ、0186おのれが悲しい。
0187「いよいよ大望成就や言うて、0188役員さんらは喜んどってやで。0189先生、0190止めさしとくなはれ、0191うちの手にはおえまへん」
0192「やれやれ、0193厄介な婆さんじゃ」
0194 つぶやきつつ、0195王仁三郎はゆらりと立ち上がった。
0196 神前では役員たちが何やら協議していたが、0197王仁三郎が上がってくると警戒するように黙した。
0198 王仁三郎が来ることを予期したのか、0199直は襖をあけ、0200穏やかに迎えた。0201久し振りの直に対して、0202王仁三郎は虚心になれぬまま、0203不機嫌をむき出しに坐りこむ。
0204「教祖はん、0205今度龍宮へ行かはるそうやが、0206わしは反対ですで。0207夢物語に誘われて行先も確かめずに年寄りを出すわけにはいきますかいな。0208第一、0209沓島やいうても、0210何十日籠るなんて、0211なんぼ神さんの命令か知らんが、0212正気の沙汰とは思われまへん」
0213 直は微笑を返した。
0214「先生、0215神さまはこうおっしゃるのやで。0216『今度の龍宮行きは変性男子の行の上がり、0217つらいが百日の行をせよ』、0218わたしはそのつもりでいましたら、0219後になって『その覚悟ができたら、0220四十日でよい』と言いなされた。0221神さまの御都合でまた縮まるやら知れまへん。0222それに、0223さっきお筆先が出て、0224供を二人連れて行くことになりましたで。0225先生のことも書いてござるさかい、0226拝読しておくれなされ」
0227「――変性男子の身魂が龍宮のお宝を受け取りに、0228後野市太郎と大槻伝吉を連れ参るぞよ。0229上田もこれまでは御苦労なおん役でありたが、0230変性男子との戦いでこの中の役員も気苦労でありたなれど、0231坤の金神の守護とならんと和合はできんぞよ。0232澄はこの先は金勝要(きんかつかねの)大神(おおかみ)となりて、0233さっぱり心を変えれば仕組み通りになりてくるぞよ」
0234 王仁三郎の腰に引き裂くような痛みが走った。0235持病の神経痛の再発だ。0236三十代半ばにして神経痛に悩む王仁三郎には、0237七十歳で無人の岩山に四十日の行をしようという直が不気味な妖怪にさえ思えた。
0238 王仁三郎の力でも、0239直の決心をくつがえすことはできなかった。0240筆先は次々に出て、0241中村竹吉が三方に捧げ、0242腰の痛みに呻吟(しんぎん)する王仁三郎の枕元へ持参した。
0243 ――種まきて苗が立ちたら出てゆくぞよ、0244刈込みになりたら手柄をさして元へかえすと筆先に出さしてあろうがな。0245ほのぼのと出てゆけば心さむしく思うなよ、0246力になる人用意してあるぞよと申してあろうがな。0247(明治三十八年旧四月七日)
0248 老体を案じる王仁三郎や澄の心弱さをさとす如くにである。
0249 神言を信じて、0250隣村へでも行くように平静な直。
0251 ――上田は(よこ)のおん役。0252(たて)に敵対う役はすみておるぞよ。0253坤の金神の御用にならんと世界の人民が長く苦しむぞよ。0254経から出たことをそむいて何いたしても、0255一代ならんぞよ。0256(旧四月七日)
0257 ――善一つをつらぬくのは、0258今の人民から見ると悪に見えるなれど、0259今の世界のやり方は極悪神のやり方であるから、0260良いようにあるなれど、0261一日ましに世界はいったん悪くなり世界の人民がみな苦しむから、0262みろくのやり方に変えねば、0263これまでのやり方ではもういけんぞよ。0264(旧四月七日)
0265 直や筆先に深い懐疑にとらわれている今、0266艮の金神は、0267横役が経役に敵対う役はすんだと宣する。0268また王仁三郎の疑惑に答えるが如く、0269今の人民の視点に立てば善が悪に見えるとさとす。
0270 腰の(うず)きに耐えつつ、0271だまされまいぞと自分に言い聞かすのであった。
0272 出発の前日、0273即ち五月十三日の夜、0274大槻鹿蔵が血相変えてどなりこんできた。0275直に向かって、0276鹿蔵は開き直った。
0277「いくらお前さんのお腹を痛めた子でも、0278大槻へくれたら大槻の世継(よつぎ)じゃ。0279その大事な息子を龍宮やらどこやら命も保証できん海の底なんぞやることはできん。0280それでもどうでもつれて行くと言うなら、0281命がけの大事じゃさかい、0282命とひき合うだけの高い日当を払うてから連れて行け」
0283 要約すれば、0284こういうことである。0285役員たちは、0286ひっそりと二人の応対を眺めている。0287鹿蔵のがなり声は、0288王仁三郎の寝ている臥竜亭にまで聞えていた。0289対する直の声は平素と変わらず、0290はっきりと聞き取れぬが、0291沓島行きの意義を説き大槻夫妻の改心を迫っている模様、0292行燈の火に照らされて、0293二つの影が揺れる。
0294 王仁三郎は仰臥したまま動かなかった。0295心の奥底で鹿蔵の言い分に加担し、0296同情している。
0297「どんなことがあってもお前らに伝吉は渡さん」
0298 捨てぜりふを残して鹿蔵が帰ったのは、0299もう夜半であった。0300後で聞くと、0301澄がそっと鹿蔵の袖の中に金を入れたらしい。
0302 五月十四日(旧四月十日)、0303綾部ステーションに時ならぬ人の群れ。0304蓑笠付けた出口直、0305大槻伝吉、0306後野市太郎の一行三人とそれを送る家族や役員信者たちであった。
0307 選ばれた喜びを白皙(はくせき)の頬に輝かせた後野市太郎と対象的に、0308大槻伝吉は沈んでいた。
0309 実際、0310伝吉にとって、0311今回の旅ほど迷惑至極なことはなかった。0312いくら出口直の実子とはいえ、0313大槻家の頽廃(たいはい)した空気に育てられた伝吉は、0314信仰とは縁遠かった。0315神の存在を否定するわけではないが、0316積極的に母にかかる神を信仰する気などなかった。0317それが寝耳に水の龍宮行きの供である。0318龍宮へ行って乙姫と対面する興味など、0319さらさらない。0320白羽の矢が立って人身(ひとみ)御供(ごくう)にされたようなものだ。0321それに義父鹿蔵は、0322「ぜったい許さん。0323行きたきゃ勘当しちゃる」と言う。
0324 昨夜まで断わるつもりであった。0325が、0326突っぱねて見ると、0327不安が狂おしいまでに募った。0328もし供が後野市太郎一人ならば、0329いや迷信家の役員どもの誰が幾人行こうとも、0330直が龍宮へと言えば、0331喜んで共に海へ飛び込むだろう。0332そんな時、0333腕づくでも引き止められるのは、0334わししかいない。
0335 伝吉の旅立ちの決意を聞いて鹿蔵は怒ったが、0336最後には意外とあっさり折れた。
0337「しゃっちもない、0338それなら勝手にせい。0339いざとなったら、0340お前だけは逃げ帰れよ。0341まあ、0342日当だけはわしががっちりもろといてやるわな」
0343 伝吉が供すると聞いて、0344米の顔に安堵の色が浮かぶのを、0345伝吉は見逃さなかった。0346日頃、0347母となると目の仇にする米だが、0348やはり肉親の血が勝つらしい。0349見送り人の群れの背後に、0350米と妻みつ代が二人の子を連れて、0351遠慮がちに立っていた。
0352 綾部発午後十時四分の下り列車は、0353三人をのみこむと、0354汽笛を残して去っていった。
0355 澄の肩にすがっていとも情けない恰好で見送りに来ていた王仁三郎は、0356去りがたげにしている米に声をかけた。
0357「お米はん、0358伝吉さんのことは心配いらんで」
0359「海の底の龍宮へ行くげなが……阿呆につける薬はないわな」と、0360吐き出す米。
0361「龍宮というのはたとえなんや。0362世の元の正真(しょうまつ)の神が艮の孤島に押し込められていた。0363その神々を世にお出ししたのが三十三年の冠島(おしま)開き、0364沓島(めしま)開きや。0365筆先では、0366龍宮の入口が冠島、0367龍宮海をへだてた沓島が龍宮と教えられとる。0368つまり、0369(あげ)の龍宮が大本の龍門館なら、0370海の龍宮が沓島や。0371教祖はんも自分で書いた筆先じゃで、0372知らぬはずはない。0373わしはのう、0374今朝、0375神さんから教えられたが、0376一週間か長くて二週間もすれば帰ってきますで」
0377 四方平蔵が聞き咎めた。
0378「いやいやどうして、0379そんなちょろこいことやござへんで。0380人間では行けん所じゃと神さまが言うちゃったさかい、0381沓島から海の底の龍宮へ渡ってんに間違いござへん。0382龍宮城へ行ってすぐ帰るのも愛想がないさかい、0383乙姫さんの歓迎を受けたりしとると、0384四、0385五十日はたつじゃろ。0386どっさり宝物(たからもん)を持って帰ってですわいな。0387お米はん、0388あなたは教祖さまの実子じゃけれど、0389鬼と(じゃ)の夫婦の型をさせられとる御苦労なおん役、0390それまでに改心しとかんと、0391あいた口がふさがらんことになりますで」
0392 舞鶴の大丹生(おおにゅう)屋についたのは午後十一時近かった。0393かねての手はず通り、0394後野市太郎の父滝三郎が用意した梱包はすでに真倉より届いていた。0395沓島へ持参する携帯品と食糧一切である。
0396 船頭はもうすっかり馴染みとなった田中岩吉と橋本六蔵の老練二人。0397空にはいっぱいの星、0398渚には夜光虫がきらきら夢幻の光をただよわせていた。
0399 博奕(ばくち)岬を通る頃から、0400初めての海で伝吉は酔い、0401夜じゅう浪に揺られて舟底に伏した。0402その(みの)の上に冷たく波しぶきが降りかかる。
0403 海上を火色に染めてさし上る日輪を拝み、0404朝八時頃、0405鯖鳥の大群の歓迎を受けつつ冠島に上陸、0406石の鳥居をくぐり、0407老人島(おびとじま)神社の社前で長い祈祷を捧げる。
0408 再び舟に戻り、0409龍宮海を越えて沓島へ向かう。0410冠島と沓島の距離一里余り、0411その中間点の白く泡立つ中津神岩を過ぎると、0412沓島はぐんぐん大きくなる。
0413「不思議や。0414今頃、0415まだ雪が積もっとるでよ」
0416 初めて沓島へ渡る伝吉は、0417荒い波に舟端(ふなばた)をにぎりしめつつ首をひねった。0418沓島の中腹以上が雪をかぶったように白い。0419()をこぎながら、0420岩吉が波の音に負けまいと、0421塩辛声をはり上げた。
0422「あれは自然ばえの菜種ですわ。0423ちょうど今が花盛りやでよう」
0424 沓島の岩壁に近づくと、0425海猫(カモメ目の海鳥)の声が耳をつん裂くばかりかまびすしい。0426五年前、0427地獄の上の一足とび、0428王仁三郎が守宮(やもり)のように吸いついた釣鐘岩を迂回して、0429船は波浪に浸蝕された深い洞穴の中に吸い込まれる。
0430 明治三十三年の冠島、0431沓島開き以来、0432大本の人たちによって毎年参拝が繰り返されているので、0433その度に名指しで雇われる岩吉、0434六蔵は、0435島の案内に詳しくなっていた。0436彼らの経験は、0437風向きの関係で、0438今、0439この場所が一番静かで上陸に適しているはずと判断したのだ。
0440 沓島全体は紫褐(しかつ)色の巨大な岩だが、0441この地点の岩肌は深い(とき)色、0442深緑色がまじり合い、0443その神秘で微妙な色合いは想像のほかであった。
0444 大波から大波の律動をはかり、0445その間の小波のうちにうまく船を操り、0446岩壁にすり寄せる。0447六蔵が切り立つ絶壁にしがみつき、0448よじのぼる。0449上から投げる綱を岩吉がしっかり受けて、0450船にくくりつける。0451また小波の間に直が岩壁に取りつき、0452誰の力も借りずによじ上った。0453沓島に近づくにつれ戦慄を禁じえなかった伝吉は、0454恐怖に膝の震えが止まらぬまま、0455市太郎や岩吉に手を引かれ尻を押されて、0456必死で上陸した。
0457 全員が上陸を終わり、0458梱包を解くと、0459直は船頭に労を謝してから言った。
0460「どうぞ気をつけて帰って下され。0461二十日たったら迎えに来ておくれなされ。0462そしてわたしらの姿が見えなんだら、0463あと二十日して迎えに来て下されや」
0464 船頭は耳を疑った。0465最初から言えば船頭は船を出すまいという懸念から、0466直は沓島籠りの決意を彼らに打ち明けていなかったのだ。
0467 改めて後野市太郎から説明を受けて、0468二人は愕然となった。
0469「この島には大きな長ものがおるというので、0470昔から誰も恐れて近づかぬ島やでよ」
0471「長ものは神さまのお使いです。0472なに怖いことがありますやろ」
0473「それでも水一滴もなし、0474こんな岩の上で五日はおろか一夜も寝ることはできまへん。0475どうぞこの舟で帰って下され。0476わしらだけ戻るわけにはいくかいな」
0477 訴える岩吉の眼に、0478涙が光った。
0479 直は微笑を浮かべる。
0480「この度は神さまの御用ですさかい……」
0481 人を引きつけずにおかぬその微笑が固い決意の盤石の上に張りついたものであることを、0482岩吉と六蔵はこれまでいやというほど思い知らされてきた。0483もしかするとこの人は生神やないかという、0484素朴な信仰すら芽ばえていた。
0485 二人は返す言葉もなくひざまずき、0486祈るように頭を下げた。
0487「それではどなたも御機嫌よろしゅう……」
0488 船頭は、0489この世で生き別れする思いで、0490振り返り振り返り去っていく。
0491 伝吉はまさに鬼界島(きかいがしま)に流された僧俊寛(しゅんかん)の心境であった。
0492「わしを連れて帰ってくれ」と、0493遠ざかる船に絶叫したかった。0494が、0495実母への愛がそれに()った。
0496 海の際には丹後半島がうす紫にけむってはいても、0497孤島の寂蓼(せきりょう)感は変わらなかった。0498直七十歳、0499大槻伝吉二十九歳、0500後野市太郎二十一歳、0501合わせて百二十歳の年輪はこれ以上数えることなく終わるのではないかと、0502伝吉はもだえて思った。
0503 気がつくと、0504市太郎は直の傍にはべって、0505墨汁と筆をさし出している。0506上陸地点上方の窪みに立って、0507直は筆にたっぷりと墨を含ませ、0508力をこめて岩壁に神号を書き付けた。
0509うしとらのこんじん ひつじさるのこんじん きんかつかねのかみ りゆうぐうのおとひめ いわのかみ かぜのかみ あめのかみ じしんのかみ そのたのこらずのこんじん
0510 筆は踊るように速度と力を増す。0511凹凸の激しい岩肌に墨は流れ、0512かすれる。
0513 直はその神号に向かって伏し、0514長いこと岩に額をつけたまま頭を上げぬ。0515市太郎は土器(かわらけ)がないまま、0516岩の小さな窪みに油をそそいで、0517神火をともした。
0518 伝吉はまだ呆然と立ったままだ。0519一つとして平たい場所のない、0520土さえもない岩穴だらけのどこに坐れよう。0521潮騒が島全体を揺り動かさんばかりの勢いで打ちかかる。
0522「まず、0523島の探検にかからんなりませんなあ」と、0524市太郎が言った。
0525 震える足を励まして、0526伝吉は先を行く市太郎の後を追う。
0527 船を着けたすぐ上に畳二枚分ほどのやや円形をした水たまりがある。0528始終、0529潮を打ち上げていた。0530恰好な天然の水行場となろう。0531次に(ねぐら)を求めて島の頂上を目指した。0532岩は軽石状で、0533はだしで歩いてもさほど痛くない。
0534 中腹から上は一面に丈高い菜種が密生していた。0535菜種に没しつつ体でかきわけて進む。0536足裏の感触が妙に柔らかいと思うと、0537不意にずぶずぶと膝まで沈む。0538泥ではなかった。0539海猫の糞の、0540沓島始まって以来の堆積なのだ。0541この糞と海猫がくわえてきた貝殻が最高の肥料となって、0542どこからか運ばれた菜種を化物ほどに成長させた。0543軸の太いところで直径一寸五分、0544高さ七尺もあるのだから、0545欝蒼(うっそう)たる菜種の密林だ。
0546 花の香りで息がつまりそうになりながら、0547ふいに市太郎と二人、0548小人になったような心細さであった。
0549 ようやく頂上に達すると無数の海猫の群れ。0550恐れげもなく足元まで近寄ってくる。0551海猫の卵がそこここに転がっていた。0552種々の樹々の生い茂る冠島と違って、0553全島岩ばかりの沓島には、0554菜種の他に僅かに(かや)ばかり。0555が、0556頂上の八畳ばかりの間だけ椿の木が茂っていた。0557それも上には伸び得ず、0558葡萄(ぶどう)棚のように横に枝を張っている。0559雨露をしのぐにあつらえ向きだ。0560枝の下は天然のまま、0561人の手を入れたことのない蒲団であった。0562落葉が積もり積もってザクザク、0563ふかふか。
0564「ここや。0565ここを寝場所に決めよ」
0566 伝吉が嬉しそうに叫ぶと、0567市太郎がこわい顔になった。
0568「あきまへん。0569ここは水行場に遠すぎる。0570それにこの絶壁を一日に何度もよじ上るのは、0571教祖さまには御無理や」
0572 実の子伝吉がそこまで察しもせぬのに、0573八歳も年下の他人の市太郎が直の身になって案じる。0574恥ずかしくて伝吉は黙した。
0575 寝場所を求めつつ帰途についたが、0576どこにも平坦な場所などなかった。0577横になれば転げ落ちるばかりだ。
0578「寝場所はあそこしかないでよ」
0579 市太郎は、0580沈痛な顔で直の祈っている場所続きの一部を指さした。0581水行場のすぐ上で、0582牛の背の形をして海中に突き出した岩である。0583屏風岩の影に、0584三人が重なり合うようにして身を寄せねばならぬ。0585下手に寝返りを打とうものなら、0586牛の背をすべり落ち、0587たちまち海底へ転落するではないか。
0588 抗弁しようとして、0589伝吉はあたりを見回した。0590しかし、0591そこしかないことは、0592伝吉にもよく分かっていた。
0593 寝場所の片側は船の入った深い洞穴の入口である。0594紫色の水が淀んでいて、0595ものを言えば奇妙な響きがはね返る。0596自分の声とは信じられぬ不気味さ。0597洞穴の奥には、0598この世ならぬ生き物が眼を光らせていそうである。
0599「さあ、0600御膳(ごぜん)にしましょう」
0601 祈り終えた直が二人を手招きした。0602伝吉は急に空腹を感じた。0603もう陽は頭上に傾いている。0604正午はとっくに過ぎたろう。0605不安のあまり忘れていたが、0606朝食さえ食っていなかったのだ。
0607 伝吉は市太郎に手伝って、0608いそいそと荷を開いた。
0609 ――半紙一〆(二千枚)、0610筆、0611墨、0612種油一升、0613燈心、0614火くち、0615火打ち金、0616それに三人分の茣蓙、0617笠、0618朝顔茶碗、0619さじ、0620次に食糧品としては煎り米二升、0621麦粉(はったい粉)二升、0622砂糖一斤半、0623直径三寸五分に長さ一尺六寸の竹筒一杯の水。
0624 直は茶碗に麦粉を小さじ三杯、0625砂糖一杯分づつ盛り分けた。0626市太郎が自分の茶碗に汲んできた海水で三人分をとく。
0627「あの……昼飯は……」と、0628伝吉が訊いた。
0629「昼御飯はこれですわな」
0630 初めは冗談かと思ったが、0631冗談を言う直ではなかったと気がついた。0632かすれた声で伝吉は念を押す。
0633「おかずは……ないんじゃろか」
0634「おかずと言うても、0635海の水は程よう塩味がついてござるし……」
0636 まだ信じきれぬ思いで、0637伝吉は茶碗の底の焦げ茶色のどろどろを眺めた。
0638 食後、0639市太郎が岩の上に携帯品と食糧品を並べて計画を始めた。
0640「何しろ桝物(ますもの)というては全部で六升きり。0641四十日お籠りして三食いただくとして、0642三人で三百六十食じゃろ。0643割ってみると、0644伝吉はん、0645一人一食が二勺にあたらん勘定になるでなあ」
0646 当然のように言う市太郎の口元を、0647伝吉はまじまじとみる。
0648「二(しゃく)1勺は10分の1合で、米だと約15グラム。2勺は約30グラムで、大さじ2~3杯。いうたら……あの……」
0649 こらえていた嘔吐(おうと)が、0650鼻から、0651口から、0652否、0653耳や肛門からも一度に噴き出した気分であった。
0654 迂闊なことだが、0655直の供をすべきかどうかということばかりに気をとられていて、0656どんな準備を整えているのか確かめようともしなかった。0657沓島へ着いてからさえ、0658荷物といえば梱包一つしかないことにも気を止めなかった。
0659 祈る思いで、0660伝吉は市太郎に向う。
0661「まさか……荷物はこれだけじゃなかろ」
0662「これだけや。0663教祖さまが言うちゃった通りの物をきっちり計って、0664父さんに用意させたんやさかい……」
0665 頭に血がのぼって、0666伝吉は思わず舌がもつれた。
0667「いくら教祖さんの命令でも……考えてもみい、0668これっぽっちで四十日も食いつなげるか。0669母さんはよいか知らんが、0670わしらが……なぜ気をきかして……」
0671 伝吉は絶句した。0672情けなさに言葉も続かぬ。0673市太郎は困ったように言った。
0674「もし、0675神さまのお許しなさった以外の物が入っていたら、0676海の底の龍神さまにお供えせんならんことになろうなあ。0677物見(ものみ)遊山(ゆさん)に来たのではない。0678教祖さまの最後の行の上がりやさかい……」
0679 伝吉は頭を抱えこんでうめいた。
0680 麦粉をなめ終わったあと、0681すごくのどが乾いていた。
0682 竹筒をつかんで、0683市太郎が言った。
0684「水はそれ一筒やでよ。0685一日に一滴半といいたいところじゃが、0686二滴……掌に受けて、0687大事になめとくなはれ」
0688 立ってきた直が、0689市太郎の後を引き取った。
0690「食べるものがのうても一月ぐらいは生きておれるが、0691お水だけはのう。0692この竹筒一杯の水が命やで。0693辛抱なされ。0694そのうち雨が降れば、0695神さまのお恵みじゃと思うて、0696なんぞで受けるなり、0697口をお空にあけるなりして、0698好きなだけ飲んでもよいのやで」
0699 生よりも死を、0700伝吉はずっと身近に感じた。0701船頭が「一夜も籠るのは無理だ」と言ったはずだ。0702その一夜がまだ傍へもこぬのに、0703伝吉はあせって食物を、0704水を求めて歩き回った。0705危険をおかして波打ち際に手をのばし、0706海草をひきむしってかじった。0707小さな蟹のはさみに似た貝がびっしり岩にこびりついているのを石でこそげ落として、0708殻ごとかじった。
0709 後野に貝を食べることをすすめると、0710悲しげに首を振った。
0711「貝は生き物じゃでなあ」
0712 島へ上がる時、0713この島で虫ケラ一匹命をとることはならぬと厳命されていたのだ。0714市太郎は、0715若布や海苔なら申しわけなさそうに食べた。0716食べれば食べるほど、0717塩けがのどをひりつかせ、0718(かつ)は増えた。0719すいすい草を発見して、0720それをかんでわずかにのどをうるおした。
0721 夜、0722波浪に浸蝕された穴ばかりの岩上に茣蓙(ござ)一枚を敷き、0723蓑をかけて横になった。0724算盤の上に寝たように背が痛い。0725寝返りを打てば海底に落ちるという意識があるから、0726筋肉は緊張のしっぱなしだ。
0727 五月とはいえ、0728潮風吹きすさぶ夜半の孤島は、0729厳冬にもまして寒かった。0730ごつごつした岩角を握るようにして、0731伝吉は無理にも眼をつぶる。0732疲労でまどろんでハッと目覚めた。0733ここがどこか思い出すのに手間どった。0734何か固い黒い甲羅の上にいて、0735それが波の間を動いていく。0736荒波を一人で海の中に入っていく。0737叫びだそうとしてもがいた。0738市太郎の体にぶつかって、0739我にかえる。0740脂汗(あぶらあせ)をぬぐって起きあがった。
0741 直が岩の上に端座して、0742心持顔を上向け、0743遠い星空を眺めている。0744燈明が揺れて、0745荒い岩肌に直の影を浮かせる。0746幽玄とも崇高いともいいようのない光景が、0747我が母とも思えず空恐ろしかった。0748直は一人ではない。0749直に寄り添ってそこにある神霊が……ただごとではない光が恐ろしかった。
0750 このままでは狂い死ぬ。0751かたわらの市太郎の衣の端を握って引き寄せたが、0752彼は安らかな寝息を立てているのだ。0753伝吉は孤独に堪えかねて、0754岩に爪を立て、0755忍び泣いた。
0756 直の揺るぎない態度、0757若い市太郎の安心立命、0758それはどこから来るのか。0759神への燃ゆるような憧がれと信仰、0760それ以外にはない。0761どうせ死なねばならぬなら、0762せめて彼らの半分でも心の安らぎを得たい。
0763 翌日から、0764伝吉は朝、0765昼、0766晩の三回の水行にも進んで参加した。0767神から水行を止められている直も、0768この時は特別に参加。0769伝吉は足の痛みにも耐えて正座し、0770礼拝した。0771雨を祈るために、0772口をあけて思いきり雨水をのみこみたいために。
0773 十五日、0774十六日、0775十七日、0776十八日、0777晴れ。0778風は強くても、0779雨雲の一片すら吹き寄せてはくれぬ。
0780 一日二滴のつもりが三滴、0781四滴、0782余分になめる。0783竹筒の水は急速に減りはじめていた。0784噴き出す汗の塩辛さ、0785苦さ。0786乾くと塩の結晶になって、0787体中かさかさした。
0788 さすがの市太郎も体が痩せ細った。0789白い肌は日焼けで褐色となり、0790眼ばかりがぎらっと光を強めている。0791笑うことも、0792もの言うことも億劫(おっくう)だった。0793それでも市太郎は声を上げて祝詞を奏上する。
0794 伝吉はこっそり耳打ちした。
0795「育ち盛りの若者が若布と麦粉だけでしのげるものか。0796乙姫さまの御馳走ずくめの龍宮とは話が違い過ぎるわな。0797阿呆正直もよい加減にせいよ。0798どんな物事にも影と日向がある。0799わしみたいにこっそり貝を食え。0800少しは力がつくで」
0801「教祖さまにすまんけいど……」
0802 恥ずかしそうに市太郎がつぶやいた。0803それで覚悟はできたのか、0804伝吉のさし出す貝に殻ごとかじりついた。
0805 市太郎が自分の手の届く所まで落ちたのは、0806伝吉にとって、0807予期せぬ喜びであった。
0808 ――やっぱりあいつも人の子や。
0809 貝をむさぼる市太郎の子供っぽい姿が哀れにもいじらしい。
0810 分からぬのは直である。0811若者たちには黙認しても、0812自分では最初に規定した以上の水も食物も取ろうとはしない、0813それでいて、0814健康も気力も少しも衰えず、0815祈りと水行のあいまはいつも同じ岩上に正座して筆先を書き続けている。
0816 直の坐る岩の底ばかりは特別なしかけがあって、0817大地に生えた木のように、0818水や栄養や生命力を吸い上げているのではないかと伝吉は疑った。0819試みに、0820直のいない隙にその場所に坐ってみた。0821固く冷たいただの岩肌だ。0822五分と坐り続けるのを拒むように、0823岩角は(すね)に食い込んでくる。
0824 翼のある自由な海猫を、0825伝吉は(うらや)んだ。0826あの白く光る美しい翼で丹後の浜まで飛んで行けるのだ。0827近づいて来るとぼけた奴をしめ殺してやりたい。
0828 はっとして身を起こした。0829沓島に着いた日、0830頂上に海猫の卵がごろごろ転がっていたのを思い出したのだ。0831水行から上がってきた市太郎に、0832声を低めて伝吉は言った。
0833「市太郎はん、0834海猫の卵や。0835あいつをとって食おうかい。0836いっぺんに精がつくでよ」
0837「はて、0838教祖さまのお許しが出るかなあ」と、0839ものうげに市太郎が答えた。
0840「そこを頼んでみるのや」
0841「わしには願いかねますで、0842あんた、0843頼んでみておくれなはれ」
0844「よっしゃ」
0845 伝吉は直の様子をうかがった。0846直は厳しいまなざしで、0847日本海の遥かを凝視していた。0848筆先を書くか礼拝している時以外は、0849いつもそうであった。
0850「教祖さん、0851ちょっとお願いしてみますが、0852わしら若いさかい、0853腹がへってたまらんのじゃがええ……」
0854「伝や、0855あの卵もみな生きとるのじゃで」
0856 伝吉が言い出す前に吐き捨てるように直は言い、0857また海の向こうをにらみつける。0858取り付く島もない感じだ。
0859 伝吉は市太郎の傍へ戻った。
0860「市はん、0861あかん」
0862「わしも……それはあかんと思うてました」
0863 よくしつけられた聞き分けのよい子供の口ぶりであった。0864けれど伝吉は、0865直の腹から生まれただけで、0866しつけられた覚えはない。0867誘惑には勝てなかった。
0868「薪をとりに行きますで」と断わって、0869一人で頂上へ這い上った。
0870 卵を取ろうとすると、0871十数羽の海猫が飛んで来て、0872先の曲がったくちばしで頭をこづく。0873怒り声はまるでいがみ合う猫の泣き方だ。0874こちらは一人、0875それにやましい心があるからたじたじとなった。0876が、0877餓えのためには、0878ひるんでばかりはいられない。0879菜種の茎を頭上でふり回しつつ、0880卵を獲った。
0881 懐に隠して逃げて岩影に入り、0882いきなり七つ、0883八つ、0884夢中ですすった。0885魂がとろけるほどうまかった。0886涙が流れた。
0887 十九日、0888竹筒の水は底の方に僅かになった。0889今日も五月晴れ。0890この調子では四十日どころか、0891今日一日どうして生きのびられよう。0892水、0893水、0894のどが焼けつく。0895まぶしい青空が憎い。0896伝吉よりも市太郎の憔悴(しょうすい)はいたましかった。0897潮風にさらされ(ほう)けて首筋までおおう長髪。0898痩せて一層背は高く、0899手足ばかりひょろ長く見える。
0900 伝吉はその骨ばった肩に手を置いて、0901やさしく囁いた。
0902「市はん、0903このままでは飢え死んじまうでよ。0904人間が水分なしには生きとられんことぐらい、0905神さまかて御存知やろ。0906雨も降らしてくれんのやさかい、0907あとは卵しかないわな。0908生きて帰って教祖さんのお供しよう思うたら卵を食え、0909うまいでよ。0910わしは昨日、0911もう内緒で食うたのや」
0912「教祖さまが食べてじゃないのに、0913わしが内緒で食うわけにいきまへん。0914お水かて、0915わしは教祖さまの三倍ほどはいただいてしもたのに、0916その上……」
0917「それなら、0918教祖はんのお許しが出たら食うかい」
0919「そらもう、0920いただきますわな」
0921 伝吉はまた直の傍へ行った。0922どうしても市太郎に卵を食わしてやりたかった。
0923 直は荒い波頭のしぶきを頭から受けて、0924泰然と水行していた。0925水行の終わるのを待って、0926伝吉は気負い込んだ。
0927「教祖はん、0928わしはもうやりきれまへん。0929あなたは神さまに一生懸命で来とってんじゃさかい、0930三十日や五十日の行もできますやろ。0931けどわしらはその供やし、0932まんだそこまで御神徳もろてしまへん。0933どうしても海猫の卵食わんと、0934もう水はあんまりないし、0935今日一日体がもちまへんで。0936市はんとわしにどうぞ卵を食うことを許しとくなはれ」
0937 直は眼を閉じて考えていたが、0938あきらめて言った。
0939「それでは仕方がないで、0940神さまにようお願いして、0941鳥にもお詫びしていただくのやで」
0942 伝吉は思わず市太郎に向かって大きく手を振った。0943叫びたくても声はしゃがれる。
0944「おーい、0945許してもろたでよう」
0946 市太郎はにっこり笑った。0947よほど嬉しかったのか、0948伝吉に手を合わせている。
0949 よじのぼる力もなくなっている市太郎を励まし、0950手をひいて二人は頂上への絶壁を登った。0951椿の木の下で寝転んで、0952落葉の蒲団に十分足をのばした。
0953 のどの焼けつくばかりの痛みはかなりやわらいでいた。0954しかしそれは生卵のつるりとのどに流れ入る時の感触であって、0955水を欲しがる心はやはり変わらない。0956が、0957許されて卵をのんだことで、0958市太郎の若い心身は早くも元気を回復していた。
0959「ああ、0960教祖さまにも、0961こうやって手足をのばしてお休みいただきたい」
0962 市太郎は心の底から呟いた。0963寝返ってさえ海底へ転げ落ちる岩上の寝床では、0964一夜として熟睡できるものではなかった。
0965「教祖さんをここへ連れてくるのが無理なら、0966椿の枝を運んで寝床を作ってあげたらどうやろ」と伝吉が提案、0967市太郎はとび上がって喜んだ。
0968「そうや、0969なんでそれに気づかなんだのじゃろ」
0970 歩くのも大儀だった二人が、0971椿の寝床への夢にふるい立った。0972刃物がないので、0973力をしぼって椿の枝をへし折り、0974それぞれ両手に抱えた。0975両手がふさがっていては、0976菜種の密林を通り抜けるのは無理だった。0977洞穴の上まで出て、0978そこから枝を下へ投げた。0979下への見通しは悪かった。
0980 急いで菜種林を通り抜け、0981洞穴の水際まで下りたが、0982椿の枝は見当らぬ。0983二人は腹ばいになって崖下をのぞいた。0984枝は真下に海底深く沈んでいる。0985声も上げ得ず、0986二人は無言で眺め入った。0987よく考えれば、0988生木だから沈むのは当然だった。
0989 三尺ほどに折った枝が一尺五寸ばかりに小さくなって、0990澄んだ水底に散らばっている。0991その鮮やかな緑の上を、0992色とりどりの魚が眼がさめるばかりに遊泳していた。
0993 二人は顔を見合わせた。0994また頂上まで上る気力は尽きていた。
0995「市はん、0996水くぐりして、0997あれを取ってくる勇気あるかい」
0998 伝吉は、0999市太郎の反応を待った。
1000「勇気ならあります。1001けどこの深さでは海の底に行くだけの呼吸は続くじゃろが、1002枝を拾うて、1003さて上がってくるまでの呼吸が続きまへんわな」
1004 伝吉は片頬で笑った。1005市太郎が本気で答えるのがおかしかった。
1006「けどやなあ、1007あの底のずっと向こう、1008洞穴の奥のまだ底に龍宮城があるかも知れん。1009教祖はんが行く言うちゃったらどないしてや」
1010「供やし、1011ついて行きます」
1012「息は続くかい」
1013 ごくんと市太郎が生唾を飲み、1014
1015「続かんでも仕方ない……」
1016 伝吉は笑えなかった。1017その時引き止めるだけの力が、1018ほんとうに自分にあるのだろうか。1019二人が底に沈んで残りの日々、1020自分一人がこの孤島に居残るくらいなら、1021共に沈んだ方がましではないか。
1022 浦島太郎がもらったという玉手箱の話を、1023伝吉は思い出していた。1024白い煙を浴びるまでもなく、1025ここでの一日は陸での十日、1026あるいは一年ぐらいに当たるのではないか。1027心細さに膝頭がぴくぴく震えた。
1028 市太郎は、1029岩から滴り落ちる水を見つめていた。1030岩は洞穴の海の左手、1031垂直な絶壁で、1032絶えず波が裾を洗っている。1033その岩の上部数ヵ所からぽつんぽつんとふくらんでは落ち、1034ふくらんでは落ちる水滴。
1035 塩水を飲めば、1036一層のどのひりつくのは知れていた、1037が、1038市太郎はたまらぬ誘惑を感じて上半身を上げ、1039首をのばして唇を寄せた。1040幾度かくり返し、1041市太郎は頓狂な声を上げた。
1042「大槻さん、1043ここに一雫(ひとしずく)だけ水が出とるわー。1044淡水(まみず)やでー」
1045 狂ったのかと、1046伝吉は思った。1047猫が好物をなめるように、1048市太郎がぺろぺろ岩肌をなめている。1049その岩の雫が塩水であることは、1050とっくに伝吉は試した後であったのだ。
1051「馬鹿言うな。1052阿呆らしい」
1053 振り返って、1054市太郎はもう一度叫んだ。
1055「ほんまやで、1056ほんまやで」
1057「ちょっと退いてみい」
1058 いらだたしげに市太郎をどけて、1059伝吉も腹ばった。1060その足を市太郎が押える。1061数ヶ所から滲み出る水滴のうち、1062ただ一ヶ所だけが確かに淡水なのだ。
1063「教祖さま、1064ほんまに淡水が……」
1065 惑乱したように二人が叫んだ。1066直は落ち着いて答えた。
1067「椿の木を龍宮さまへお供えしたさかい、1068神さまがお水を与えて下さったのやで」
1069 三人は感謝の祝詞を奏上した。
1070 底に残ったわずかな竹筒の水を、1071分け合って飲み干した。
1072 市太郎と伝吉は元気を取り戻し、1073再び頂上へ上って椿の枝をへし折った。1074今度は伝吉が先に立って菜種の花を分けて道を作り、1075市太郎が椿をかかえて下りた。
1076 椿の枝を弓張りして岩と岩に渡し、1077蔓をとってきて竹筒をしばり、1078水滴が的確に中へ落ちるように工夫した。1079次に椿の枝で海側にどうにか柵をつくり、1080菜種の軸と茅を利用して三人の寝床をこしらえた。1081日暮れまでにそれだけ仕上げるのは大変な労力だったが、1082お水を得た喜びが二人をかり立てていた。1083岩のでこぼこがじかに背にこたえず、1084海への転落の怯えもやや薄らいだ。
1085 その夜半、1086海猫の声が子供の泣き声に聞えたのであろう、1087「おみつ、1088おみつ……おみつ」と伝吉は夢心地に妻の名を呼び、1089驚いて目がさめた。1090中空には十五夜の月がくっきりかかっている。1091直は相変わらず端座したまま月を見上げていた。
1092 伝吉は起き上がって竹筒を調べに行った。1093竹筒から、1094水があふれてこぼれ落ちるのが、1095月の雫かと思うばかり美しい。1096朝顔茶碗にお水を受けて押しいただき、1097のどに流した。1098満月の精が、1099岩の根の大地から甘露を汲み上げているように思えた。
1100 気がつくと、1101市太郎も月を仰いで合掌していた。
1102 月の輪が波の表に照り輝く時、1103直はつぶやいた。
1104「おお、1105もったいない。1106市さん、1107あの海の底にござる御神体が拝めるかい」
1108 のび上がって探したが、1109二人の目には、1110ただ月光にうねる夜の海だ。1111けれど合掌して耳を澄ますと、1112海の底からリヨンリヨンと微かに玉の響くような音色が流れてくる。
1113 伝吉は幻聴かと思って市太郎に確かめると、1114市太郎は頬に涙をこぼしていた。1115二人は手を握り合い、1116その音に魅きこまれていった。