王仁はかつて、天国は昇りやすく地獄は落ちがたし、と宣言したことがある。
大慈愛の神は宇宙万有を創造したまい、各自にその善所をえせしめんと種々の御経綸を不断的に行なわせたまいつつあり。
人は天地の花、万物の霊長としてとくに神の意を用いて創造したまいしもの。一人たりとも地獄に生涯を送らせんとはなしたまわない。神は愛善の徳を充たして天国を開き、信真の光を照らして霊国を開きたもう。ゆえに人間は一人ものこらず、天界の住民たりうる資質を惟神に具備しているものである。ただただ天界の籍をはなれ、天の八衢または各段の地獄界に陥没するものは、偽神をもつて神の子たる人間を誑惑し、私利をいとなむところの神職、僧侶、牧師、または神をみとめない科学万能主義者、自己愛の精神に強きもののみの永遠の住所である。
厳の大神、瑞の大神は、最高天界にありて愛善の徳と信真の光に充ちたまう。ゆえに人間は神の子たる以上、主の神に帰依したてまつる精神をあくまで発揮し、神を愛し、道を愛し、神柱を愛するの念慮さえ十分ならば、別にむつかしい教理を研究せなくても、霊肉ともに天界の生涯を永遠に送りえらるるは当然である。神の聖場を愛し、大神人に絶対服従の至誠をもつて仕えたてまつる時は、なんらの障害もなく、現実身のまま天界に任し無限の歓喜と悦楽にひたり、現世のすべての事業に光栄と喜悦をもつて従事し、地上にありながら天界にあるの情動をもつて、社会に卓越したる生涯を送りうるものである。あたかも赤児の心、意志の無邪気なるものは、すでにすでに天界の住民である。一日も早く、神の愛を覚り、すべての世塵を払拭し、人生の幸福と平和に生活すべきである。
(「瑞祥新聞」大正14年9月1日)