ストーナ一夫人は言つている。
「すべての子供は生まれながら、第六の感覚──諧謔の感じを持つている。しかし多くの者は、その育つ環境のためにこの感覚を鈍らされ、あるいははやくから失つてしまうものである。楽しいものを見ても、笑う──心の底から笑うことができず、にが笑いやしのび笑いすることもできない人間ほど、哀れに思われるものはない。顔面筋肉の痙攣のために、冷笑したような表情に苦しむ人のごとく、たえず歯をあらわしている必要は少しもない。が、幼い時から愛とほほえみにとりまがれて育つた子供は、じつに自然に笑い、またユーモアに敏感である。彼は苦悩の真中にあつても、あらゆる事物のおもしろい半面を眺めることができる。彼はつねに楽天家である。そしてこのことは、世の中で成功する。男も女も、楽天家であるという事実を証明するものである。真の厭世家が勝利をうることはけつしてない」と。
実際、夫人の言つているように、「笑い」くらい人間生活にとつて貴いものはない。「笑い」は人間の本能である。ことに日本人は一般にユーモア好き、喜び好きで悲しみが嫌いだといわれる。われわれはいつまでも、ペシミズムの暗い室のなかにうめいている必要はない。「温かい笑いの波は一座を漂わす」ということがある。法悦の歓びは終に笑いとなる。笑いは天国を開く声である。福音である。しかし笑いは厳粛を破るもののようだが、その笑いが徹底すると、また涙がでるものだ。笑い泣きの涙が、もつとも高調された悲哀と接吻するような感じがするものだ。しかし法悦の涙と落胆悲痛の涙とは、天地霄壌の差あるはもちろんである。人間の笑う時と泣く時と、顔面の筋肉が同じように作用することを思うと、善悪、歓苦、笑哭不二の真理があやしく光つてくるようである。
(「昭和青年」昭和7年12月)