神さまは人間を神ににせて造りたまうた。しかるに国祖御隠退以後の世界は、八頭八尾の大蛇や金狐の悪霊、六面八臂の邪鬼のすさびにおかされて、だんだんと神さまとはなれて悪魔に近い人間になつてしまつた。人道日にすたれ、世のため人のため国のためなど考うるものほなく、ひたすら私利私欲にのみふける世の中になつてしまつた。このままで進んでいつたならば、世界も人類も滅亡するよりほかはない。これはどうしても、ここに一大転換がきて、全人類がまわれ右を、断乎としておこなわなければならないことになるのである。悪魔を離れて神さまに向かわなければならない時がくる。かかる転換の期にあたつて、人類はかなり重大なる苦しみ艱みの上にたたせらるることは必然である。
日常神を信じ、神にしたがう大本信者のうえにも、同じ艱みはおちきたるのである。大本信者のみがひとりこの苦しみを脱れて、特別の場面におかるるような虫のいい考えをしていても、そういうわけにはゆかぬ。ただ真の信仰にあるものは、かかる際、神さまにおすがりすることのできる強味をもつている。そしてつねに教えられつつあつたことによつて、先がいかになりゆくかの見当をつけることができる。人間の力のみ頼みて生活しつつある人々が、人力をもつていかんともすることのできない事実に遭遇するとき、その艱みや名状すべからざるものがあろう。
人間はつくられたるものである。造り主たる神さまのご意志にしたがつて、行動してさえおれはまちがいないのである。来らんとする大峠に際し、信仰なき人々をそぞろに気の毒に思う。
(来らんとする世の大峠に就いて、「瑞祥新聞」 昭和8年8月1日)