山陰道は丹波から始まる。老ノ坂峠(大枝山)をこえて、亀山(現在の亀岡)へ、そして園部・須知・桧山・菟原から、長田野をへて、二〇余里で福知山に入る。すなわち、江戸時代においては、亀山藩五万石、園部藩二万七千石が並ぶ亀岡盆地から、低い山々をこえて福知山盆地に入ったのである。福知山盆地には、東寄りに山家藩一万石と綾部藩二万石の城下町があり、西の端には、盆地の要地福知山があった。大本開祖出口なおは一八三七年一月二二日(旧暦・天保七年一二月一六日)、この福知山の地で生まれた。
当時の福知山は、一六六九(寛文九)年いらい、朽木氏の城下町で、由良川と土師川が合流する地点の丘陵には、平山城の福知山城があった。朽木氏は石高三万二千石、大藩のない丹波・丹後では、譜代の有力な大名として聞こえていた。
福知山は、由良川の水運を利用した交易の一中心地でもあった。この交易路は、丹後の由良から西廻り航路によって上方に通じ、福知山の船持商人が独占権をもっていて、茶・綿・漆・米穀・油実類などを積み出し、酒・油粕・干鰯・塩などを搬入して繁栄していた。大阪からの陸路も、西宮・柏原をへて山陰道に出る山路がひらけていた。
丹波地方での有力な大名の城下町であり、商取引きも活発であった福知山は、同時に文化面でも、この地方の中心をなしていた。一七八八(天明八)年の記録によれば、当時の福知山の町家数は九一五、人口三三〇三人、石高七三四石余で「福知千石」といわれて幕末までほぼ一定していた。ほかに三〇〇軒あまりの藩士がおり、一〇〇〇軒前後の町屋はほとんどが商工を生業としていた。
天保期の福知山藩は、極度の財政難で約一〇万両を大阪その他の商人から借り入れ、その危機を切りぬけるために民衆にたいする圧迫を強化していた。天保という時期は全国的にみても、江戸時代をつうじて百姓一揆がもっとも多く、幕府や藩の財政危機は、救いようのない深刻な様相を示すようになった時期であり、幕府および各藩による支配体制の危機が強く人々の心に感じられるようになった時期であった。こうした危機にたいして、支配者側は一八三八(天保九)年の幕府の倹約令にはじまる改革をおこなった。福知山藩でも一八四二(天保一三)年には幕府の倹約令をまねた禁令をしき、藩政の大改革に着手している。福知山藩では、この藩政改革のために、藩の権力と福知山の有力商人が結託して商業の統制や厳しい倹約の強制をなし、他に類をみないほどの苛斂誅求を実行したために、やがて一八六〇(万延元)年の福知山領全六三ヵ村におよぶ大一揆をみるにいたった。なおが生まれた一八三七年前後は、こうした民衆の反抗がこれまでにないほど激発した年であった。ちなみに全国の一揆件数は一八三六年で三九、一八三七年で二八におよぶ。一八三七年にはいるや、大阪で町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎が、苛酷で無能な役人およびこれと結託して暴利をむさぼる大商人を非難し、打ちこわしによって奪った金や米を貧しい人々に分配し、村々では村役人のもとにある土地や年貢の帳面類を焼きすてるように、「村々小前の者に至る迄」うったえて挙兵した。大塩は、こうした打ちこわしによって「神代」に「復古」させようとしたのであって、この反乱は「徳政大塩味方」などと称する一連の反乱を各地にひきおこし、そのなかには明らかに反幕府的な行動もふくまれていた。この乱そのものは、結局簡単に敗北してしまったけれども、大塩が各地に潜入し、やがて大反乱がおこるという噂がたえなかった。福知山藩はこの乱の報に接するや、ただちに塩津峠に出兵して警戒をつづけている。天保期に、こういう動乱がことにはげしくなった直接の原因は、天明の大飢饉とともに、天保の大飢饉が、民衆を苦しめていたからである。一八三六(天保七)年は春から雨天つづきで気温が低く、飢饉は全国に及んでいたが、奥羽諸国はことにはげしく数十万人の死者をだしたという。綾部地方を中心に福知山盆地の、近世中期から明治初期にかけての状況をつたえている『珍事掃集記』を主として、この地方の状況をみると、だいたい次のようであった。一八三三(天保四)年は春から冬まで雨がふりつづいて不作であり、綾部の蔵米値段は、一八三〇年一石六五匁、一八三三年には八七匁にはねあがった。一八三四年は小康を得たが、一八三五年は大雪のためこの地方では麦が不作だった。こうした不作続きのなかで、本格的な大凶年一八三六年をむかえる。この年は四月から九月まで土用に五日間日が照っただけで雨が降りつづき、真夏に重ね着するほど涼しかった。しかも福知山ではその前年、綾部ではその年に大洪水があり、米と麦は雨天と低温のために成育がわるく、木綿は育ちはわるくなかったが実がならず、種子をとることもできなかった。こうして米価は一八三六年の秋から翌年にかけて急騰し、一八三六年の冬には玄米一石が綾部で一四〇匁位、翌年三月には一九〇匁から二〇〇匁となり、田辺(現在の舞鶴)では二五〇匁にもおよび、麦も八〇匁から一二〇匁となった。福知山では一八三六年の末に米一石が二〇〇匁、翌年の三月には二八〇匁にもたっした。米麦だけでなくすべて不作だったから、人々は山野に自生する草木をたべた。一八三六年の冬には山々の葛を掘って食用としたが、春には掘りつくされてなくなった。この葛からつくる「葛よね」が一斗三分から四分で売買された。その他、よめな・れんげ・りょうぶ・よもぎ・ふき・えのき・やまなし・ぶどうの葉も食用とし、これらの葉を売り歩く者もいた。松の皮(内皮)さえ食べたという。そして乞食が多くなり、綾部・福知山の城下へはそれぞれ毎日数十人ずつおしかけてきた。福知山藩では、広小路の御霊神社の前で貧民に粥の施行をしている(「珍事掃集記」「天田郡志資料」)。
大本開祖出口なおが生まれたのは、このような年一八三六(天保七)年も暮れて、飢えと寒さにおののきながら新年を迎えようとしている旧一二月一六日のことであった。母そよは最初、なおを減児(堕胎)するつもりであったのを、姑が反対したので、なおを生んだという。堕胎はふつう間引きとよばれ、江戸時代の農民の生活では、なかば常識化していた。ことに江戸時代の後期には、困窮した民衆の堕胎があまり広範におこなわれたため、人口の減少がみられるほどになり、支配者は生産人口を確保するために、間引き防止の教育を強化しているくらいである。母そよが堕胎を計画した理由は、なによりもまず、この飢饉のためであった。
なおが後年記した「経歴の神諭」には、当時の事情について「なおの誕生の年は天保七年一二月一六日、福知山一宮神社の氏子なり、申年の大飢饉年、その年には昼夜降り通しにて作物はとれぬ故翌天保八年には金を枕にして国替え(死亡)いたしたものがたっぴつありたぞよ。因縁の身魂は生まるる年より、そういう不幸の年に生まれたのである」(明治35・9・26)とのべている。この神諭では、この年がおそるべき凶作の年であったという事実が、身魂の因縁としてとらえられており、最下層の民衆の苦難のなかから、その救済者としてたちあらわれる大本の運命的な出発点が意味づけられている。たしかにこの生誕は、なおの苦難の歴史にはもっともふさわしい出発点であった。
〔写真〕
○開祖の使用された石臼 p27
○福知山城址の一廓 p28
○打ちこわし(1866-慶応2年 江戸) p29
○開祖の産湯の井戸(福知山市上紺屋町) p31
○なおの出生に関する筆先 p32