なおが福知山から来て結婚したころの綾部は、九鬼氏二万石のささやかなる城下町であった。一六三三(寛永一〇)年、九鬼氏は鳥羽から綾部二万石に転封させられ、下市場に陣屋をきずいたが、これは一六五〇年に焼失し、本宮山を中心に陣屋と武家屋敷をつくった。これが旧綾部町の起源である。藩政時代の綾部は綾部組と称し、綾部・坪内・田野・寺・野田・新宮・神宮寺・井倉・井倉新・青野・中・味方の一二ヵ村からなっており、一八一五(文化一二)年の記録によれば、一二ヵ村の総石高は三三七一石、家数八〇一戸、総人数三四七一人、牛一六疋、馬一疋であった。藩政改革のために招かれた佐藤信淵の『巡察記』(一八四〇年)の記載も、これとほとんど同じであるが、このうち綾部村と坪内村は「町屋」であるとしている。両村の戸数は約四〇〇戸であったが、商工を業とするものは百数十戸位で、それも農業を兼ねているものが多かったと思われる。商工を業とするものの戸数や業種についての詳細はわからないが、その中心勢力は羽室・大槻一族に代表される大商人であった。彼ら大商人たちは酒造・油商・質商などをいとなみ、のちには生糸や木綿の問屋をいとなみ、藩の勧業政策と結合して木綿や煙草販売の利益を独占して巨大な利潤をおさめ、また土地を集積して寄生地主となっていった。しかし、大部分の商工民はごく零細な規模のもので、小間物・荒物・豆腐・魚・菓子のような日常用品をあきなうか、大工・左官・傘屋などのように、ごく普通の生活に欠くことのできぬものをつくっていた。のちに、なおがいとなんだささやかな饅頭屋もそういう典型の一つだった。
他の村々はほぼ純粋な農村で、綾部組全体で田一二六町、畑一三六町を耕作していた。主な作物は米と麦と木綿であった。佐藤信淵の計算によれば合計一四〇町で木綿をつくり、繰綿にして九千八百貫、四千両余を産していた。一戸当たりの平均耕作面積は、青野と井倉以外は五反以下、寺三反、野田二反九畝、新宮三反、中二反、綾部・坪内は二反以下で、きわめて少ない。だから米や麦は、とうてい領外に販売するほどはできず、不足がちであった。しかし、商品作物は木綿が中心で、ほかにはわずかの生糸・茶・煙草があるのみだった。こうした経済状態のために、早くから出稼ぎ人が多かった。出口家が所在した坪内村(一八七六年に坪内村と新宮村が合併して本宮村となり、のち本宮村と本宮町にわかれた)は、田一三町、畑一五町、石高三二〇石、家数一七五戸、人口六五五人(『巡察記』)の半農半商工業の村であった。そして出口家が所在したあたりは、町なみを少しはなれて、農家と商人の家がまじりあっている地域であった。
なおが出口家の養女となった一八五三(嘉永六)年は、ペリーが軍艦をひきいて浦賀に来航した年であった。欧米の資本主義列強から、開国を迫られた幕府は、翌年、日米和親条約を結び、同様の条約を英国・ロシアとも締結した。こうして幕府は鎖国の政策を捨てたが、これを契機に、幕藩体制の矛盾は一挙に顕在化しはじめ、幕末の政治的・社会的動乱の時代に突入する。幕末の政治運動のなかで、綾部藩は大勢に順応して大した動きをしなかったが、福知山藩にあっては、飯田鈎太郎らの佐幕勤王主義の運動があった。飯田は重臣の子で、一八六〇(万延元)年、桜田門外の変があった年に職を辞して東上し、水戸・長州の志士たちと交わり、尊皇攘夷運動に参加したが、一八六四(元治元)年、少壮気鋭の藩士たちとはかって在府の重臣を斬殺し、藩政の大改革と勤王を要求した。彼らは捕われて死罪を宣せられたが、のちに許されて飯田は慶応期の藩政改革の推進者となった。しかし福知山藩が譜代であったためか、彼らの立場は佐幕勤王であり、のちには佐幕派の首領である会津藩に近づいた。一般に、丹波は小藩ばかりで、幕末維新期には、右の福知山藩の動向をのぞけば、この地方にはめだった政治運動はなく、一八六八年一月、山陰鎮撫使によって平穏に帰順した。
〔写真〕
○九鬼藩主邸の表門(綾部市小学校の旧校門) p47