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幼年期

インフォメーション
題名:幼年期 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:109
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195401c1312
 はじめての男児の誕生であっただけに、その誕生後六ヶ月目、祖父吉松は、喜三郎の両親を枕辺によんで、遺言し、一八七一(明治四)年一二月二七日、五八歳で帰幽した。その遺言は「この上田家は、古来七代目ごとに偉人があらわれている。あの有名な画家の円山応挙は、本名を上田主水といって五代前の祖先である。上田治郎左衛門が篠山藩士の娘を妻とし、その間に生まれたもので、今度の孫は、応挙からちょうど七代目にあたる。必ず、天下に名をあらわす者になるだろう。先日も、亀山(亀岡)の易者をよんで孫の人相を観てもらったところ、この児は、あまり学問をさせると、親の屋敷におらぬようになる、ということであった。いずれにしても、異なった児だから、充分気をつけて育ててくれ。私は死んだのちも、霊魂となって孫の行くすえを守ってやる」という趣旨のものであったという。昔は、富農だった上田家も、喜三郎が物心ついた時には、先祖の残した良田もすっかり人手にわたり、わずか一五三坪の敷地の西よりに、六畳・四畳・三畳二間のわらぶきのあばら家と、三三坪ばかりの水田があるだけとなった。
 父の上田吉松は、戸籍によれば、丹波の国船井郡川辺村字船岡の佐野清六の次男に生まれ三男つまり吉松(梅吉)の弟が佐野家を継ぎ清六を名乗った、一八九六(明治二)年の時に二五才で上田家へ婿入りし、よねと結婚した。息子の喜三郎は、かねがね、祖父が遺言した「応挙からかぞえて七代目に当たるので、この子は上田家を興すであろう」という言葉を聞かされていたが、彼自身深くそのことを信じていた。一八七四(明治七)年一月四日、弟の由松が生まれた。そこで、喜三郎の養育は主として祖母にまかされることになった。喜三郎は四才のとき、痺疳(ひかん)(慢性の消化器病、大食するがやせ、腹だけがふくれて皮膚が青白くなる)にかかった。腹が太くなり、手足は骨ばかりとみえるぐらいやせ衰えてきたので、両親も非常に心配し種々手をほどこしたが、病気は日々重くなるばかりであった。ある夜、祖母宇能の夢に祖父の吉松があらわれ、「孫の喜三郎は神様のご用をつとめる立派な人間にするのじゃ。孫の病気は産土の神様からのおとがめだから、一時も早く小幡神社につれて詣れ。今後は神を敬う道を忘れぬよう梅吉(父吉松の別名)やよね(母)におしえてやれ」といったという。そこで、祖母はただちにそのことを喜三郎の両親につげたので、両親はすぐさま喜三郎をゆり起こし、背におって、家から百メートルほどはなれたところにある小幡神社に参詣し、いままで神信心を怠っていたことをわびた。喜三郎は、翌日からおいおいと快方に向い、さしもの重病も二ヵ月ほどで全快したという。これが動機となって、一家の小幡神社にたいする信仰が深まった。祖母の宇能は中村孝道(船井郡八木ノ島─現在の八木と吉富との中間─に居住していた言霊学者で『日本言霊学』の著者)の家に生まれ、田舎ではまれにみる教養人であった。喜三郎は、この祖母に訓育された。幼少のころから喜三郎の記憶力は鋭く、霊感力にもみるべきものがあったので、村人たちから「喜三やん」は神童だ・地獄耳・八ツ耳だなどといわれた。
 西南戦争で人心が騒然としてくる一八七七(明治一〇)年の秋に、六才の喜三郎は父につれられて、船井郡雀部八木と園部の中間で、無病息災のためにと、漆を腹に一〇数点差してもらった。漆差しというのは、「万病除け」のため身体の要所要所に漆を塗っておくものである。ところが、喜三郎は皮膚が弱かったためか、身体一面、漆にかぶれて赤く腫れあがった。かゆくて辛抱ができず、かくと、さらに腫れ、それがひろがって、手足も胴も頭も顔も(かさぶた)になって、手も足も動かぬようになった。そのため、学齢にたっしても小学校に行くことができなかった。学業のおくれることを心配した祖母が、五〇音単語編・百人一首・小学読本などを順序よくかんでふくめるようにおしえた。これで、喜三郎は非常に読書力がつき、入学こそおくれはしたが、まもなく特別進級ができるようになった。
〔写真〕
○円山応挙筆の絵馬(小幡神社蔵) p109
○上田家の戸籍(明治10年代) p110
〔図表〕
○聖師の生家・上田家系図 p111
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