はじめての男児の誕生であっただけに、その誕生後六ヶ月目、祖父吉松は、喜三郎の両親を枕辺によんで、遺言し、一八七一(明治四)年一二月二七日、五八歳で帰幽した。その遺言は「この上田家は、古来七代目ごとに偉人があらわれている。あの有名な画家の円山応挙は、本名を上田主水といって五代前の祖先である。上田治郎左衛門が篠山藩士の娘を妻とし、その間に生まれたもので、今度の孫は、応挙からちょうど七代目にあたる。必ず、天下に名をあらわす者になるだろう。先日も、亀山(亀岡)の易者をよんで孫の人相を観てもらったところ、この児は、あまり学問をさせると、親の屋敷におらぬようになる、ということであった。いずれにしても、異なった児だから、充分気をつけて育ててくれ。私は死んだのちも、霊魂となって孫の行くすえを守ってやる」という趣旨のものであったという。昔は、富農だった上田家も、喜三郎が物心ついた時には、先祖の残した良田もすっかり人手にわたり、わずか一五三坪の敷地の西よりに、六畳・四畳・三畳二間のわらぶきのあばら家と、三三坪ばかりの水田があるだけとなった。
父の上田吉松は、戸籍によれば、丹波の国船井郡川辺村字船岡の佐野清六の次男に生まれ、一八九六(明治二)年の時に二五才で上田家へ婿入りし、よねと結婚した。息子の喜三郎は、かねがね、祖父が遺言した「応挙からかぞえて七代目に当たるので、この子は上田家を興すであろう」という言葉を聞かされていたが、彼自身深くそのことを信じていた。一八七四(明治七)年一月四日、弟の由松が生まれた。そこで、喜三郎の養育は主として祖母にまかされることになった。喜三郎は四才のとき、痺疳(慢性の消化器病、大食するがやせ、腹だけがふくれて皮膚が青白くなる)にかかった。腹が太くなり、手足は骨ばかりとみえるぐらいやせ衰えてきたので、両親も非常に心配し種々手をほどこしたが、病気は日々重くなるばかりであった。ある夜、祖母宇能の夢に祖父の吉松があらわれ、「孫の喜三郎は神様のご用をつとめる立派な人間にするのじゃ。孫の病気は産土の神様からのおとがめだから、一時も早く小幡神社につれて詣れ。今後は神を敬う道を忘れぬよう梅吉(父吉松の別名)やよね(母)におしえてやれ」といったという。そこで、祖母はただちにそのことを喜三郎の両親につげたので、両親はすぐさま喜三郎をゆり起こし、背におって、家から百メートルほどはなれたところにある小幡神社に参詣し、いままで神信心を怠っていたことをわびた。喜三郎は、翌日からおいおいと快方に向い、さしもの重病も二ヵ月ほどで全快したという。これが動機となって、一家の小幡神社にたいする信仰が深まった。祖母の宇能は中村孝道(船井郡八木ノ島─現在の八木と吉富との中間─に居住していた言霊学者で『日本言霊学』の著者)の家に生まれ、田舎ではまれにみる教養人であった。喜三郎は、この祖母に訓育された。幼少のころから喜三郎の記憶力は鋭く、霊感力にもみるべきものがあったので、村人たちから「喜三やん」は神童だ・地獄耳・八ツ耳だなどといわれた。
西南戦争で人心が騒然としてくる一八七七(明治一〇)年の秋に、六才の喜三郎は父につれられて、船井郡雀部で、無病息災のためにと、漆を腹に一〇数点差してもらった。漆差しというのは、「万病除け」のため身体の要所要所に漆を塗っておくものである。ところが、喜三郎は皮膚が弱かったためか、身体一面、漆にかぶれて赤く腫れあがった。かゆくて辛抱ができず、かくと、さらに腫れ、それがひろがって、手足も胴も頭も顔も瘡になって、手も足も動かぬようになった。そのため、学齢にたっしても小学校に行くことができなかった。学業のおくれることを心配した祖母が、五〇音単語編・百人一首・小学読本などを順序よくかんでふくめるようにおしえた。これで、喜三郎は非常に読書力がつき、入学こそおくれはしたが、まもなく特別進級ができるようになった。
〔写真〕
○円山応挙筆の絵馬(小幡神社蔵) p109
○上田家の戸籍(明治10年代) p110
〔図表〕
○聖師の生家・上田家系図 p111