一八九八(明治三一)年五月、喜三郎は、第二回の駿河行きをおえて丹波に帰ってきた。すでにその頃には、園部と亀岡に、霊学を修業するための支所が設けられていたので、それらの支所を中心に信者をあつめていった。だが、周囲の人たちの反対はかえって強まり、そのうえに、稲荷講社へ行く手引きをした三矢はその功をほこって、下司熊吉らと結んで喜三郎を排斥しだした。右の支所のうち、亀岡のものは、その後瓦解したが、園部の支所は内藤半吾ら有力信者を中心に、ながく喜三郎の活躍の重要な基盤となった。
下司は博奕打ちであったらしく、最初の幽斎修業に参加した斎藤静子(斎藤仲一の叔母)を妻としていた。そのころ、下司は他方において、その子分とともに金銭横領で訴えられようとしているといって、喜三郎に泣きついたりもしていた。そこで、喜三郎は一頭残っていた精乳館の牛を売って下司を助けてやった。ところが、それは下司のたくらみで、金を下司にだましとられたことがわかった。そのために、生活のもとでを失った弟の由松は、いきどおりのあまり、喜三郎の神は「めくら神」とののしって、喜三郎がまつっていた祭壇をたたきこわしたこともあった。喜三郎の霊力はしだいに認められていったが、気のよい喜三郎は人からだましとられることがしばしばあった。そのことを後年聖師は「これも神からの修業であった」と述懐している。こうして幽斎にたいする無理解や、喜三郎への信望がたかまってくるのをねたむ反感などもあって、喜三郎にたいする周囲の風あたりは日ましに強くなっていった。弟や親戚からも孤立して苦境に追いこまれた喜三郎は小幡神社に参拝し、その苦しみを打開するために幽斎修業をはじめた。幽斎に入るや、小松林の命(素盞嗚尊の分霊)が神懸りして「一日も早く西北の方をさして行け、神界の仕組がしてある。お前のくるのを待っている人がいる。仕事にもとんちゃくすることなく、すみやかにここをたって園部の方へ行け!」と告げられた。喜三郎は、この神示にしたがって故郷を出る決心をした。この年の旧六月、老祖母や修業者に別れをつげると、喜三郎は穴太をあとに、一路園部をめざして布教の旅に立った。八キロばかり歩くと、船井郡の入口の虎天堰(井根)のそばにきた。かたわらの茶店で休んでいると、「お前さんは、印地(現亀岡市旭町)の里の狐でも調べとる人かね」と声をかけるものがあった。喜三郎が異様な風態をしていたからであろう。「私は神さまを判ける役で、さにわ(審神)をするものです」と答えると、それを聞いた茶店の女主人は「お客さんは、神さまを判けるといわれましたが、じつはおりいってたのみがございます。わたくしは綾部生まれのものですが、実家の母に神憑きがおこりまして、もう六年にもなりますのに、いっこうにおさまりません。母についている神さんがいいますには『この神を判ける方は東から来られる』というので、こうして茶店を出して三年も待っているのです」という。そして、綾部へ行って、母に憑いている神を判けてもらいたいと頼み、母が書いているという平がながきのバラバラの半紙をいく枚か持ってきてみせた。
喜三郎は、半紙に書きこめられた「うしとらのこんじん」の筆先を読み、自分が高熊山修業で見聞した内容と共通した点のあることや、また幽斎での神示を思いうかべて、感ずるところが大いにあったので、「近いうちに行ってみましょう」と約束して茶店をでた。
この茶店の女主人というのは、開祖の三女で、八木の福島寅之助にとついでいた、ひさであった。ひさは、当時京都で開催されていた内国勧業博覧会の見物にでかける人をあてこんで、虎天堰のそばに茶店を出し、「神のお告げの人」を待ちうけていたのである。ひさの茶店は、喜三郎に開祖のことを依頼したのちに、ほどなく、山陰線敷設工事のため立退きとなった。
八木を過ぎ、さらに、西北に向かった喜三郎は、第二の故郷でもある園部に立ちより、南陽寺を訪ね、広田屋旅館に逗留して、友人や旧知を歴訪しながら、霊学の普及につとめた。ある日、人力車をひいて通る八木の福島と出あい、「早く綾部に行ってくださらんか」というさいそくをうけた。喜三郎は、八木の茶店での福島ひさとの約束を忘れていなかったので、すぐ思い立って、その日のうちに桧山をへて綾部に向かった。
〔写真〕
○〝かみのしぐみ〟(二代 すみ子) p164
○喜三郎 八木の茶店にて福島ひさに会う(京都府船井郡) p166
○京都-園部間の開通(記念弁当の包装紙) p167