「神諭」の発表とともに、社会の注目をあつめたものに、王仁三郎の「大正維新」の主張がある。王仁三郎は年来研究していた皇道論を発表する時はいまだとし、皇道論および大正維新論を「神霊界」誌上(大正6~10年)に発表した。
大正期において「皇道」を主唱したものはきわめてまれで、世間に公刊された皇道論はあまりなかった。そのために、とかく皇道と神道とは同一視されやすかった。そこで王仁三郎は、「世俗往々にして我が大日本修斎会の宣伝する皇道を目して、現代の所謂十三派の神道と同一視」するものが多いが、皇道はいわゆる神道とはちがい宗教ではないと説いて、「皇道の本義は、畏くも万世一系の皇統を継承し給ひて、日本神国に君臨し、地球上に於ける主、師、親の三徳を具備し給ふ天津日嗣天皇が、天下を安国と平けく知食し給ふ乾霊授国の御本旨を達し給ふ御経綸の神法神則を皇道と称え奉るなり」と定義し、天下を統治する神法神則が皇道で、それは「天理人道」でもあり、「人の世に処する根本律則」であると、その相違するところを明らかにした。したがって真の神道とは、皇道にもとづいて「世道人心を教導すべき根本的教育の本源」であるのに、一般の神道教義は「皇祖の教示し給ひたる真正の教義に非ず、実に一千有余年間に輸入せる儒仏の教義を、国体的に順化したる人工的教義なれば、実際的に世道人心を利益する能はざる教理にして、世界各国の宗教とほとんど異るところなし」とし、その説くところは、真正の皇道とはなしがたいとする。「真実世道人心を利導啓発するに適したる宗教は、天下に唯一あるのみ。是を天津誠の道と謂ひ、皇道大本教と称す。是即ち我皇祖及び神祖の教示し給へる天理人道の根本義にして、大日本国教の真髄とする所なれば、正に以て教育の大本となすべきものたり」とする論説に、そのいわんとする皇道の義は明らかである。だから、皇道大本教は、皇道を「根本的に奉釈」し、これを宣伝する機関であり、皇道の原理はすべて『古事記』に示されているというのである
さらに、「皇典古事記及び日本書紀の御本文には総て皇祖皇宗の御遺訓が現はされてあります。皇典古事記ば言霊の上からも、或は歴史上からでも、或は哲学、宗教、政治、文学、医学、経済学、天文学、暦法学、訪日目子、人類学、天津金木学、地文学、科学、理学、鉱物学等一切の方面より自由自在に解くことができて、実に種々に解釈され、多種多様の真実を包合せる天下無二の神書であります」とし、『古事記』にたいして自由自在に独特の解釈をほどこしている。(『記紀真解』『記紀真釈』)
『古事記』の解釈にさいしては神諭と言霊学を活用しているが、「言霊」については「我国は天地開闢の時に最初に造られたる真正無比の国土にして、地球の総領国なり。また言霊の法、清く美はしく円満にして朗かなり」とのべて、「日本神州神民の声音は円満清朗にして其数最も多く、清音のみにして且つ言霊に権威を伴ふ」と記述する。他国の言霊は「甚だしく混濁」しており、かつ、日本語の三分の一の音しかなく、不正の声音を発するものである。下級動物にしたがって「声音の数益々少なく」なる。日本は古来「言霊の幸ふ国、言霊の天照る国、言霊の助くる国、言霊の生ける国」であって、その故にこそ神国とも称きれてきたのだという。
その神国日本が外来思想にわざわいされたのはなぜか。それは「崇神天皇以後、二千歳の寛容的和光同塵時代」の政策にもとづくものであり、その時代は「日本国教の寛容時代であって、国家本来の偉大なる包容性を示された事実的立証」で、「今迄殆ど二千年来、和光同塵的御政策の結果として、皇道発展の時期が来なかった」と解釈し、その由来するものは「厳密に言へば、この寛容時代は、太古国祖国常立命が、艮へ退隠遊ばされたる時に創まる所であって、世界未製品時代の趨勢として、万巳むを得ざる次第であった」と論ずる。そして国常立命の退隠は「岩戸隠れ」であり、それゆえに、この世にありとあらゆる悪と汚濁が生じたとなす。「崇神帝の御宇」に「三種の神器の大権威を深く韜蔵遊ばされ、広く世界の文物に自由自在の発展を為さしめ」たとするが、そのいうところの三種の神器とは、玉・皇典古事記・大日本神国のことである。王仁三郎の論説によれば、崇神天皇は、「世界的経綸」として「和光同塵の神策」をはじめた天皇ということになる。
古事記中巻に「是に初めて男の弓端之調、女の手末之調を貢らしめたまひき」とあるように、租税制度をとり入れたのをはじめ、応神朝には百済から王仁が来て、論語・千字文をもたらし、欽明朝にはついに仏教が輸入された。さらに儒教がはいり「然して輸入されたる儒教的の虚儀の弊風」が上下にはびこり、仏教の人工的教義が堕落の道をひらいた。以後「我歴代の天皇が和光同塵の政策を継承されて、治乱興廃の波浪を凌ぎ、艱難を嘗め隠忍し給ふた事は歴史の説明する所」であると、歴史的にその由来を説明する。
このように、和光同塵策によって皇道は隠されてきたが、日本の根本的思想は「比較的之に浸潤せず」「円滑に之を消化し、日本化」して、「自家薬籠中のもの」としたのは、神国の「消化力の偉大なる事」を示すとともに、「国祖の蔭ながら御守護ありたる結果」で、「かく世界の人間が悉く痛苦を病む時代に当って、一旦退隠遊ばされし国祖を再び出現せしめ給ひ……天地神明の稜威八紘に充ちて、春光の凞凞たる松の世に大転換を行はれんとするのは、これ偏に皇祖の御聖慮に出でさせ給ふた」という。
国祖出現に法る立替え立直しの主張が、皇道維新によって成就するという王仁三郎の論拠は、そのような前提にたっていた。そのことについて王仁三郎は、つぎの筆先を引用して「時節には神も叶はんから、神は時節を待って、世の立替え立直しを致すぞよ。モウ何彼の時節が参りたから、昔の元の先祖の経綸通りに致して、天下泰平に世を治めて、昔の神代にねじ直し、松の代、ミロクの世と致すぞよ。今迄はわざとに暗黒の世に致して、万劫末代の経綸を致してありたぞよ」と、皇道維新の必然性を力説する。
さらに「ミロクの世」については「斯の皇道、即ち惟神の大道を実行し玉ふ時代には、国に天災地変なく、人畜に病災なく、政争跡を絶ち、戦乱起らず、人に盗欲の心なく、生活に困難を来さず、社会的に不平もなく」、「男女老幼共に、各自天賦の霊能を発揮して、人生の天職を全うし、各天賦の幸福を楽しみ、天国の生活を為すに到らば、是れ皇道実現の神世なり、極楽の世なり、天之岩戸開きなり、五六七の大神出現の世なり」とのベ、「皇道実現の世」こそ皇道維新の未来像であり、それこそが「ミロクの世」にほかならないとした。
〔写真〕
○綾部新聞 p364
○王仁三郎の居室 1919-大正8年 教主殿竣成後は食堂 p365
○ある日の王仁三郎夫妻と信者たち p367