宣教が活発化するにつれて、神苑の拡張整備も一段とすすんだ。一九一九(大正八)年に入ると、二階建の建物がつくられて、修斎会本部がおかれ、出版印刷の工場が増築されて、九月六日には教主殿が竣成した。教主殿は平家瓦ぶき建坪六六坪で、八敷四室、一〇畳敷四室よりなる。こうして設備態勢もいちおうととのった。
一九一九年中に買収された土地は総計二万三四〇坪あまりであり、そのうちの一万八二一二坪は二月二五日に入手された本宮山である。本宮山のいわれについては、王仁三郎によって、
「丹波は昔丹波の泥海といって全部が湖水であり、綾部も亀岡も勿論その泥海のやうな湖水の中にあった。本宮山もその湖水の水面に頂上だけが出ていて、太古に素盞嗚尊が出雲から出て来られた時に、この本宮山の上に素盞嗚尊の母神であらせられる伊邪那美尊様をお祀りになったのであって、これを熊野神社と名づけられた。その後素盞嗚尊は紀州方面に御進発になり、紀州にもまた本宮・新宮・那智といふ熊野三社をお祀りになったのである。本宮山は桧のよく育つところで、明治維新当時はこの山の樹といふ樹は凡て桧ばかりであったが、大本の手にはいってからでも直径三、四尺位の株が出て来た程である。聞くところによると前の持主であった改森六左衛門氏が九鬼家から買ひ取った時は六百円だった。これを大本へは三万五千円で売ったのである」と「昭和」誌(昭和10・11)にのべられている。一九一九(大正八)年の九月一六日には、大本で本宮山の山開きがされ、山口祭がおこなわれ、雑木の伐採がはじめられた。
大正八、九年においてもっとも重視され期待された造営は、黄金閣と五六七殿との建設であった。黄金閣は、はじめ言霊閣とよばれ、言霊の神威を発揚される神聖な建物として、一九一八(大正七)年一〇月下旬に基礎工事が開始されていたが、一九一九(大正八)年の四月三日には地鎮祭があり、七月一〇日には上棟祭がおこなわれた。王仁三郎は「神霊界」で、「いよいよ言霊閣の落成と共に、神軍の活動は益々激烈の度を加へて来た。神の生宮たる大本の信者は、神軍の活動に後れないやう言霊戦の大活動を始めねば成らぬ場合である」(大正8・11・15)と指示したが、そのこともあって、このころからさかんに言霊の実習がはじめられ、各地の山々に言霊踏査隊が派遣されるようになったのである。黄金閣の用材には桧がつかわれ、三階建の高層で、屋根の頂上には金色にぬった瓢がのせられた。地面から瓢までの高さは六七尺におよび一階・二階はともに五間四方で、三二畳を四室にわけ、三階は三間半四方で、一二畳一室に天津神算木を安置し、天井には七五個の鈴がつるされた。棟梁には水口圧司がなり、毎日五〇人あまりの大工が作業に従事して竣工したものである。こうして一一月四日には落成祭がおこなわれた。周辺に金竜海の水をたたえてそびえ立つ黄金閣のたたずまいは、まさに神苑内の偉観であった。旧元旦にはこの黄金閣で六合拝がおこなわれ、教主輔王仁三郎は七五声の鈴をならして、天津神算木を運用した。
五六七殿は一九一九(大正八)年四月三日に地鎮祭をおこない、翌年の二月に竣工している。それは建坪四四四坪よりなる瓦ぶきの拝殿で、なかに六本の太柱を用い、広間は五二〇畳敷、上段の室をくわえて合計五六七畳敷のおおきな建物である。二月四日の節分当日に、王仁三郎は斎主として竣成祭を執行した。そしてさらに午後一時より節分祭がおごそかにとりおこなわれ、人型二万が壺におさめられて、和知川の清流に流された。この行事は甘酒の接待とともに、一九一〇(明治四三)年以来おこなわれてきたものである。
五六七殿は拝殿であったので、神殿をその奥につくることとなり、渡り橋をへて別棟の至聖殿を造営する運びとなった。とうして一九二〇(大正九)年三月二二日には斧始式があり、九月二四日に竣工した。神殿は桧皮ぶきで建坪三〇坪よりなる。一九一九(大正八)年四月三日、統務閣から金竜殿に遷座されていた大本皇大神の神霊は、至聖殿の竣工とともにここに遷座された。あとの金竜殿は、一九二〇年一〇月一〇日から祖霊社にあてられることになる。なおこうした黄金閣や五六七殿の造営については、各地の信者の熱心な奉仕があったが、なかでも牧寛仁・吉田竜次郎の献木・献金奉仕が目立っている。
このほか神苑内における造営関係では、金竜神社(大正7・6・28)・御住神社(大正8・3・29)・三社大社(大正8・5・30)・護国神社(大正9・2・5)・治総神社(大正9・6・30)などの神社が建立されており、さらに天王平にある開祖の奥都城も、神域が拡張され、改築工事や玉垣工事などが、あわせおこなわれている。
一九二〇(大正九)年から翌年にかけては、とくに本宮山上の神殿造営が、真剣におこなわれた。本宮山神殿の造営については、大正六年一〇月一六日の神諭に「……立替を急激にしても、後の立直しが中々大望であるが、立直しに就いては御三体の大神様を、モ一つ上へ御上りを願わねば成らぬ。それに就いては何彼の仕組は為てあるから、天地の先祖の経綸通りに致すぞよ。……金竜海の神島に御宮を建て下さりて、三体の大神様に御鎮りに成りて貰うて結構であるなれど、モ一段上に上りて守護を致して、本宮山に御宮を建て、三体の大神さまが御鎮りに御成りなされたら、地の先祖が神島の(一名大八洲)御宮へ鎮りて、天のミロク様と地の先祖とが、末代の世を持ちて治めて行かねば、外の神魂では末代の世は続いては行かん斯の世であるぞよ……」と示されていたが、本宮山造営はとくに重視され、信者もまた重大な意義を感じ、全国の信者によって献金と労務奉仕の至誠がささげられた。とくに献金については中野岩太をはじめとして、東京の確信会や台湾の信者からの奉仕がいちじるしい。
夜を日につぐ建設の努力によって一九二〇(大正九)年四月一六日には、地鎮祭が執行され、七月二二日には神殿の上棟式が盛大に挙行された。参拝者はおよそ三〇〇〇人であり、五石六斗七升の紅白の餅まきや大がかりな仮装行列、あるいは大阪相撲時津風門下による奉納大相撲などの諸行事がくまれた。拝殿の上棟式は、一二月五日におこなわれ、これらの工事は翌年の秋までつづいている。
〔写真〕
○五六七殿 (上)建築中(下)内部 正面の額は昭和5年にかけられたもの p441
○人型 p443
○(上)教主殿 (中)至聖殿 (下)祖霊社 ──金竜殿 p444
○本宮山神殿 (上)地鎮祭 (下)上棟式 p445