しかしながら、この第一回調査ではなお不充分な点があるとして、藤沼はその約三週間後の三月一八日から二一日まで、四日間にわたって、王仁三郎と浅野を京都府庁に召喚し、第二回の調査をおこなった。
大正八年三月一九日付「京都日出新聞」には、「悪い所は改める」という見出しで、藤沼警察部長の尋問をうけた後の王仁三郎の談話が、つぎのように掲載されている。
十八日警察本部に召喚、藤沼部長より取調べを受けたる大本教教主出口王仁三郎は、同日午後六時過ぎまで引続き訊問を受けたる後、井上書記と共に、同教信徒が普及の目的にて組織せる修斎会京都支部なる東洞院夷川下る梅田常次郎方に引取り宿泊したり。同支部にては十余名の長髪の信徒集りて、神に「高天原」の善言を奏し混雑を極め居たるが、折柄往訪の記者に対し出口教主は洒然として語る。
「大本教は一口に言ひますと、皇祖皇宗の遺訓を遵奉し国体の尊厳を維持し国民の団結を鞏固にする」と言ふのです。素より邪教でも何でもなく、何と攻撃されても道の為め神の為めなら私一人となつても尽すつもりです。大正十年に立替があるとか多少過激な事を流布したのは私の口からでも何でもなく、信徒が普及の為めに設けて居る修斎会で発行の雑誌及び綾部新聞の編輯主任をして居る友清九吾さんが書いたもので、私は昨年の八月十五日から十月末まで病臥して居て少しも知らなかったのです。(王仁三郎は七五日間の床縛りの行として臥床中であったことを指す)ソリヤあんな事は私としても善くないことと信じて居ます。私は大正十年は辛酉の歳で恰度神武天皇の御即位と同じ歳に当るから、必ずや日本の国にお芽出度いことがあると言ふことは申しました。私は皇典古事記等を勉強して、神の国はどうしても大本教によらねば不可ぬと信じて居ます。而し何れにするも悪い話が伝はったのは自分の責任です。斯様に取凋べを受けますのも全く神の御旨による事で若し少しでも思い所がありましたら神様が許して置きません。既に教祖のお筆先にも書いてありますから何時でも改めるつもりです。私は光格天皇の御製『神様の国に生れて神様の道がいやなら外国へ行け』……是れを固く信奉して居る外には何の考もありません。」
第二回目の調査では、王仁三郎ははじめの三日三晩は言を左右にしてすこしも語らなかったが、最後の一日になってすらすらと話し、第一回調査の回答をほとんど全面的に否定して、筆先の解釈について自己のあやまりを認め、従来の大本がある点では浅野教であり、浅野の言動による宣教の内容および方法をあらためるとのべたのである(前掲京都府警本部発表)。
第一、「世の立替に関し、世界の立替立直も三千年以前より神の仕組により既定せられおりしや」との質問にたいして、王仁三郎は「御筆先にもある如く、三千年以前よりと謂ふことは、太古からと謂ふ意味であって、だんだんと世が進歩改善さるることを謂ふので、現実に立替立直が行はれて、三千年来から予め仕組まれたものだと解くのは嘘です。」と弁明し……
第二、綾部の帝都に関し、「神諭に依れば、綾部は『みやこ』とのみありて、帝都、遷都、又は神と人との集合所にて、世界経綸の大中心等とはなきにあらずや」の質問にたいして、王仁三郎は「書いてありません。只『みやこ』と謂ふ文字に拘泥して、帝都等と謂ふのであって、都会とか、あるひは蚕都(綾部)とか、あるひは神都(宇治山田市)とか指称するのと同様であります。つまり解釈の仕方に依るのです」と陳述す。
第三、世の立替後の状況に関し、王仁三郎は「神諭には私有財産制度の廃止、世界大家族制度実現等のことは一つも書いてありません。『神も仏も人民も勇んで暮す様になるぞよ』とあります。これを私有財産制度廃止、世界大家族制度等誤解しているのです。私も他の人が言ふがまま誤解しておりました。神の世になるといふことは、世界の人が神世の様な純朴な精神の人ばかりになるといふことであります。それを未開時代に還る様に誤解しておるのです……職業の世襲と謂ふことは、お筆先を能く調べると何処にも出ておりません。全く私の考へ違でありました」
「お筆先は私のみが解いて世間に発表すべき神の教示であったのを、それをうっかりしておって、私以外の者に解説させたり、又著述しておるのを傍観し、且つ発行させて黙っておったのは、全く私の失策で神様に申しわけがありません。今後は私が全責任を負ふて、神示の通りに実行する決心を致しました」云々「既に発刊した部分に付いて誤っておる点は全部改めます」とその前回の陳述を取消したり。……「然らば従来発表したるは皆神意に背きたるにあらずや」と問ひしに、「さうです。皆取り違へ又は間違はして、不知不識神意に背いたのです。合っておる処も、間違っておる処もあります」と答ふ。故に「神意に惇りしとすれば従来の方法は廃止するや」と問ひしに、「勿論廃止します。又私の言ふことを用ひなければその人は罷めて貰ひます。今後背水の陣を布いて、絶対に遂行します。今迄のものは、ある点から謂へば浅野教であります」と陳述し、従来の宣伝に対する内容及方法に付ては、殆んどその全部が、浅野和三郎の言動に依るものなることを、弁明せり。……
そしてこの調査の結果もただちに内務・文部両省に報告され、各府県警察本部に通報されて、弾圧の準備は徐々にととのえられていった。
〔写真〕
○岩戸幽斎室 p533
○第二回調査の報道記事 京都日出新聞・中外日報 p534