昭和神聖会が創立されたことについて、全国のおおくの新聞は、大なり小なり紙面をさいて報道し、その評論記事を掲載した。「万朝報」は「久しく丹波の山奥に雌伏していた一世の怪物出口王仁三郎氏の主唱により……これを機会に愛国諸団体との結合を図り漸次政治運動に入るものと観られ、今後の動向について各方面から多大の注目が払はれている」と報じ、また「日本評論新聞」は、「愛国運動の将来に於ける礎石となるべく……これを機会に愛国団体との結合を図り漸次政治運動に入る由」をつたえた。当時のジャーナリズムの報道には、愛国団体の結合、漸進的に政治運動にはいるであろうと観測したものがおおい。「二六新聞」は、「右翼の精神的大同団結をはかり、目標は国家改造」として「主唱者は祭政一致を主張する怪傑出口王仁三郎」との記事をかかげた。これと同様の記事か、「日本新聞」、「都新聞」、「政界・財界通信」、「東京日日」、「時事」、「東京夕刊」などにもみられる。かわった記事としては、「やまと新聞」の「待機の状態にあつた床次氏、大本教と結ぶ」という五段ぬきの報道がある。それには、「……床次系運動の新分野を担当するものとして最近成立した大本教の出口王仁三郎氏の発起にかかはる昭和神聖会があり、床次氏はかつて内相時代に大本教の綾部事件を取扱つた関係から出口氏と旧交あり、議会解散に際して大本教が全国に有する百万の信徒を政治的に動員せんがため、ここに昭和神聖会を組織せるものにして、更にこの団体には床次氏支持の関係と指導精神の点から共通する生産党の内田良平氏、明倫会、皇道会等の予備将官、秋田清、松岡洋右氏等が賛助員の名目で参加しつつあり、目下は啓蒙運動として全国的支部組織に邁進せんとしつつあるが、床次、出口両氏とも急速にこれが政治団体化せんとし、その資金と信者網と皇道主義の特異な存在として床次氏が大本教に着目し、一部の右翼運動をこれに合流させんとしつつあることは、床次派の外廓運動の端緒として注目されてゐる」と記されている。この記事は各地方新聞へも反映して、「高知新聞」はそのトップに「待機状態の床次氏、大本教と手を握る─昭和神聖会を組織─」という記事を書いた。さらに異なった報道として「東華新聞」の「黒竜会と大本教と固い握手、神聖同盟を結成する。紅卍字会へ武力と決行力を与へる」という見出しの記事がある。そこでは、「神聖同盟といふのは大本教の出口王仁三郎が提唱する皇国主義の精神団体で、これは朝鮮、満洲、支那にある紅卍字会と提携している東洋的一大勢力のものである……」と報じられた。また「函館新聞」は社説に「皇道経済大本」と題する一文を書いて昭和神聖会発会のいきさつをのべ、「右によらず、左によらず中道を進むは日本の教なりけり」というスローガンをとりあげ、「一、経済の根本革正なさざれば地上の国は滅び行くべし。一、経済の真意を知らぬ為政家の上に立つ世は浮ぶ瀬もなし。一、我国の経済根本革正は土地為本より良法なし」という皇道経済の立場を論評している。「岐阜新聞」は「大本教の御大、出口氏の大野心、満蒙の宗教界統一の計画、昭和神聖会の怪文書」という大見出しをつけて、「床次派と結んでいるとか政治的野心を持つとか故意の中傷と想像説は出口氏は関知せず、出口氏の大志は母国の昭和神聖会の結成に満足せず、さらに満蒙の宗教界思想界を打つて一丸として『中道会』なるものを組織し、大アジヤ思想統一の足場となさん大野心に燃えており、着々準備工作をすすめていると伝へられる折から、神聖会の内面暴露的怪文書の横行は、直接間接右新事業の計画に影響するところが尠くなからうといはれている」と報じた。
多種多様なにぎやかな記事が連日各地の新聞に掲載されたといってよい。それほどに昭和神聖会の活動は世の注目をあびたのである。
統管が地方本部・各支部の発会式にのぞむために、全国各地におもむくと、その地域の新聞は昭和神聖会の宣言・主義・綱領などを記事として、発会式の模様を詳報し、懇談会にておこなわれた質疑応答を特だねとして掲載するものがすくなくなかった。その内容とするものは、一に皇道経済論、二に日本の将来並に日米戦争・世界戦はおきるかどうか、三に東亜にたいする経綸などであった。しかし東北地方を旅して、冷害に苦しむ農村の情況をつぶさに見聞した統管は、その後の懇談会においては、必ず農山漁村の実情をかたり、その対策ならびに愛善陸稲の栽培について説明し、東北地方民衆の救済が急を要することをうったえたのである。そのことを各新聞も、おおきくとりあげて記事にした。
昭和神聖会運動がたかまりをみせつつあった時に、大本内部に、つぎのような批判的空気のあったことは注目すべきである。かつて昭和青年会が団体訓練をほどこし編隊の活動がおこなわれていたころ、三代直日は、夫の日出麿と北海道・東北地方へでかけたことがある。そのころ日出麿によってしるされているところをみると、「窕子(直日のペンネーム)は、青年会の号令をかけての敬礼や、信者の宣伝歌合唱を嫌がること甚だしく、みんなに声を加減するやうに注意」したとある。二代教主も「信者がかわいさうだ」と側近に語り、運動がはげしくなるにつれてそのゆきすぎに心をいためていたといわれる。昭和神聖会発会前には、総務会が政治的な運動にでもなったら問題であるとして大国が派遣され、聖師の構想をとりやめるようとの進言がなされた。昭和神聖会が創立したのちも、三代直日から夫の日出麿へ「けつして昭和神聖会のやうな政治的運動に参劃しないやうにして下さい」と書簡が送られたことがある。こうした空気を察知してか、聖師は、「私は大本の出口王仁三郎ではない、天下の野人で世界の出口王仁三郎だ」とか、あるいは「大本は日出麿にまかしてある」とその立場を説明するほどであった。「皇道は胎教だ、私は治教を説き実践する」といっていた聖師の行動を、わりきれぬ気持で批判的にみまもっていた人々も、大本の内部にはあった。
〔写真〕
○連日神聖運動は新聞紙面をにぎわした p185
○会旗を先頭に行進する昭和神聖会 東京駅から宮城へ p186