一九三二(昭和七)年の二月六日には、綾部で大本開教四十周年祭がおこなわれたが、その前日の二月五日に大本瑞祥会第五回総会がひらかれた。その席上、全国総市町村支部設置運動と霊界物語拝読会設置の二件が本部から提案され決議された。第一次大本事件によって神諭の発表が禁止されてからは、本部も各宣伝使も『霊界物語』を基本として宣伝するようになっていた。そのこともあって物語の拝読かさかんになり、本部より指導のために講師を派遣し各地で拝読会がおこなわれていた(五編一章)。とくに霊界物語口述十週年を記念して『霊界物語』の拝読熱はいっそう高揚したが、さらにこれを真剣にすすめようとの本部からの提案であった。四月一〇日の第六回総会では、「抻の国」誌の拡張が要望されている。当時の発行部数は一万五〇〇〇部であるが、これを旧七月の生誕祭までに三万部に拡張しようというのである。四月一八日、亀岡天恩郷の緑生館に愛善幼稚園が聖師の命によって開設された。亀岡町には幼稚園がなかったので、その設置は、地域婦人会や町当局からも希望され、子供づれの大道場修業者から、修業の期間中託児する便宜を要望されていたことなどによるものであり、託児所をかねた幼稚園とし、日曜学校をもあわせて開設した。最初の入園児は一〇〇余人であった。昭和八年七月一日には、「愛善保育園」として京都府庁に正式の認可手つづきをとったが、聖師・二代教主をはじめ日出麿夫妻も幼児教育に力をいれたので、その後も順調な発展をとげていった。
一九三三(昭和八)年二月には、大本瑞祥会を解消し皇道大本と改称して、機構組織が大巾にあらためられた(五編二章)。そのため従来の瑞祥会総会は今後は信者総会と呼称することになった。そして三月二九日に第二回信者総会を開催し、「真如の光」「神の国」の拡張運動・国民融和運動への参加が指示された。八月三日の第三回信者総会では、皇道大本の主要人事として、総本部主事に岩田久太郎、本部統理補に高木鉄男・東尾吉雄、関東弁理に御田村竜吉が任命された。
また一九三四(昭和九)年二月には節分大祭とあわせて聖師入蒙十周年記念祭が執行された。本部からは、修業者送り出し運動をおこなうこと、籾種「朝陽」を広く宣伝配布することなどが指示された。この指示にしたがって、本部では四月一日から天恩郷大道場の講座を七日間とし、そのうちの二日間を予備講座として「開祖伝・聖師伝・筆先と物語」などの講座をもうけることになった。本講座は五日間で、「皇道大意・皇道大本運動、三大学則・霊界の消息、神と人・信仰雑話、四大綱領・皇道大本の使命、四大主義・神示と世相」を課目とした。しかし再修業者や地方の別院などですでに大本講座をきいたものは、予備講座はうけなくてもよいことにされていた。籾種「朝陽」は穴太産の瑞穂種で、中生系と晩生系の二種かある。品質が良く収穫もおおいので、信者が昭和五、六年頃から試作していた。また聖師によって「農は国本なり」といわれており、はやくから亀岡の中矢田農園で稲の二度作や三度作が試作され一般へも奨励されていた。こうして陸稲とともに水稲も熱心に研究され、その結果本部は「朝陽」を積極的に推奨頒布することにした。籾種の頒布はその後もつづけられ、本部で全国品評会を開催したりして奨励したので、品質改良・多収穫は全国的に成果をあげていた。
四月一六日第六回信者総会においても、かさねて信者・修業者の倍増運動が指令され、地方の各分所・支部から月一人以上の受講者をおくりだすようにとの指示があった。こうして、地方の宣教活動は一段と活発になっていった。
八月二一日の第七回信者総会において宇知麿統理は「昭和神聖会創立に伴ひまして、今後対外的活動は主として昭和青年会、昭和坤生会に移し、皇道大本は本来の使命の如く教の宣伝普及に主力を注いで極力活動することになりました」と方針をあきらかにし、皇道大本規定の一部を更改して教務部をもうけ、教務部長井上留五郎・次長桜井重雄、教務部員は大祥殿講師全員をこれに任命した。また特派宣伝使が昭和青年会・昭和坤生会の指導をもかねていたか、今後特派宣伝使は神教宣伝に専心することとした。そして必要におうじて宣伝使を特派し、地方に駐在していた駐在特派制は廃止された。一一月九日、五六七殿における分所支部長会議で、日出麿総統補は分所支部の自覚をつよく要望した。ちなみに昭和九年中の修業者は延二万二五七六人であった。翌年二月の節分祭以降は、大道場の予備講座を合併し、綾部参拝の一日をくわえて修業日数を八日間とした。
一九三五(昭和一〇)年四月八日、聖師は穴太の水上館で「大本教旨」の一部をあらためた。従来は「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の司宰者なり 神人合一して茲に無限の権力を発揮す」となっていたのを、「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の主体なり、霊体合一して茲に無限の神力を発揮す」とした。だがこの教旨については、「大司宰」(綾部鶴山の教碑)と書かれたものもある。なお昭和八年一一月二六日、たて六・七メートル、よこ二・五メートル、厚さ五〇センチ、重量三〇トン(八〇〇〇貫)の仙台石が亀岡駅に到着し、五〇〇人の奉仕によって天恩郷にはこばれた。この石は表に大本教旨・三大学則・四大綱領・四大主義、裏には聖師の歌が、昭和一〇年にきざまれてたてるところまでになっていたが、第二次大本事件で碑石は破壊された。その拓本には教旨の「神力」が「神徳」とかかれている。なお現在の教旨・学則碑(万祥殿裹)は、このときの拓本によったものである。
四月の分所支部長会議で日出麿総統補は、「昭和神聖会ができて吾々の舞台は一面の光彩を添へて来ましたが、それと同時に内的には信仰の向上といふこと、外的には信者を作るといふこと、この二つが根本的な基盤であります……信仰を向上さすには神業に奉仕することと、神書に親しむこと、この二つを出でんと思ひます」と、神業に奉仕し、信仰の向上につとめ、神書に真剣にとりくむことを訓話した。
八月九日の主会長会議において聖師は、「もし外国と日本が戦争を起すやうなことになり、国民兵まで出すやうなことがあれば昭和青年会員は少くなる。しかし坤生会員は減らない。故に青年会員も必要でありますが、坤生会員を増やす必要がある」と、坤生会員の増加を要望した。
一〇月一日には大道場講座のうち、「皇道大本大意・日本及日本人の使命・出口聖師と大神業・神霊について・皇道大本出現の由来・信仰と生活」など講題の一部をあらため、講座の充実をはかって修業者の倍増をつよくよびかけた。昭和一〇年一月から八月までの修業者は延一万六二八九人、一日平均六七人で昭和九年の一日平均六二人を上廻った。年令層では三〇~四〇才位がめだち、六月の修業者平均年令は三〇才であった。そのうえ再修業者よりはじめての修業者がはるかにおおく、諸運動の展開とともに修業者倍増運動もだんだん成果があがってきた。
一〇月二日、皇道大本本部統理・更始会会長には、宇知麿にかわって出口日出麿が就任した。一一月の総会において皇道大本会合所設置の要項がきまり、「戸数十戸未満でも会合所を設置することかでき、十戸以上になったとき支部に昇格の申請をすること。会合所の大神様としては、総本部および所属支部のご神前に奏上してその家の大神様にお願ひすることとする」ことになった。
大本および関係諸団体をあわせて本部の奉仕者数は一九三五(昭和一〇)年一一月現在で五九九人(亀岡三六五・綾部一九四・東京三九・その他)であったが、本部における奉仕者の教修活動も活発であった。神諭や霊界物語の拝読、常識講座や時局講座、信仰座談会、祭式講習会、弁論大会、和歌・冠句の会、エスペラントとローマ字の講習会、団体訓練や武道、その他神劇・みろく踊や礼儀作法の実習など、教義の研鑚を中心として、一般教養の修得や実技・実習など多方面にわたって積極的であり、修業者・参拝者の増加とともに本部はいつも活気にあふれていた。
〈大本の財政〉 大本の財政については、当時の文献が第二次大本事件によってうしなわれたので、正確にしることができない。ここでは第二次大本事件当時の予審での陳述記録を参考に、その概要をのべておこう。
大本の当時四ヵ年の平均収入の年額は、更始会の経常収入約五万四〇〇〇円、臨時献金六万六〇〇〇円、綾部の五六七殿および祖霊社の玉串料約四万円、亀岡の月宮殿および大祥殿の玉串料約一万円、天声社の出版物の純益金約三万円、安生館の実収入約五〇〇〇円、合計約二〇万五〇〇〇円で、このほか聖師の手許に直接献金されていたものは相当多額であったが、それは土地・家屋の買収費、建設費、活動費など臨時の費用にあてられ、その大半は本部会計に下付していた。右の臨時献金とあるのは主としてこれである。建築費はすべて臨時献金によるのを原則とした。
亀岡本部と綾部総本部とにそれぞれ会計をおいていたが、別院・分院・主会など地方における機関の経費は地方で負担し、本部からの補助はなかった。昭和神聖会はじめ人類愛善会・昭和青年会・昭和坤生会・明光社・大日本武道宣揚会などは、おのおの独立会計をもったが、不足額は本部会計や聖師の手許よりこれを補助した。天声社の純益金は本部会計に納入し、人類愛善新聞社は収支つぐなっていたが、余裕ある場合は本部へ納入することにしていた。
〔写真〕
○幼児の教育にも力がいれられた 愛善幼稚園開園式 亀岡 天恩郷 p227
○出口聖師の言霊学講座 亀岡 大祥殿 p228
○大祭での二代教主のお話 綾部 みろく殿 p229
○家族総出の献労奉仕 30トンの碑石が亀岡駅から天恩郷へはこばれた p231