当局の弾圧はすさまじいものであった。しかしこうした大弾圧のなかで法廷闘争への準備がはじめられた。当初から、姑息な手段による事件解決への道をすてて、真向うから権力の非違に対決しようとする積極的な道がえらばれたのである。
事件当初、〝かくのみの陥穽ありともしらずして正は邪に勝つものと思ひし〟〝死の刑も笑みてぞうけむ黒白のけじめ正しくわかち給はば〟と直日によって詠まれた歌のなかにも、神明にはじない信仰からほどばしりでた毅然たる態度と、権力の非道にたいするはげしいいかりがこめられていた。その道は長く、しかもけわしい。信者のなかにも大本事件は神の経綸であるとして、裁判にうったえることをよろこばないものがあったことも事実である。けれども王仁三郎・すみ・直日をはじめとする信者の決意にゆるぎはなかった。
東京の信者富沢効は弁護士の立場から、事件後ただちに強力な弁護士団の編成にとりかかった。しかし富沢は信者としていつ検挙されるかもしれないことを考慮して、富沢の親戚の田代三郎弁護士に協力を依頼した。
一方、大検挙以来の当局による人権蹂躙の暴挙を阻止するためには、いちはやく有力な弁護士をたてねばならぬと感じた伊藤栄蔵は、その資金を調達するためにひそかに九州に走った。まず佐世保の山県猛彦をたずねたが、山県は当局の横暴に憤慨し、断乎戦わねばならぬとの気慨で、差当り三〇〇〇円はいつでも用立てられるとこたえた。このほかに二、三人の有力者らと連絡し、当時まだ綾部の月光閣にいた出口すみ子に報告した。ついで年末には東京におもむいて、弁護士の富沢効と相談した。富沢は弁護団編成の資金にこまっていた矢先であったので、伊藤は、たまたま昭和神聖会総本部の金庫にのこっていた約二〇〇円を手付金として富沢に渡した。このとき東京にいた幹部の中野岩太が伊藤をたずね、浅野正恭が書いたパンフレット『大本教の叛逆思想』を弁護資料として伊藤に手渡した。伊藤はさっそくこれを富沢にとどけた。また二月には人類愛善新聞社の清算金約一〇〇〇円が、土居重夫から富沢にとどけられているが、東京では富沢・田代を中心に弁護団編成の工作がすすめられていった。
翌昭和一一年正月のはじめ、当局の暴挙を阻止する政治工作を依頼するため、伊藤は茅ケ崎に療養中の内田良平をたずねた。内田のところへは江口宏(東京毎夕新聞社の政治部長)もしばしばかよい、のちに大崎勝夫・日向良広らもたずねて連絡をとった。しかし弾圧の勢いはこうした工作で阻止しうるような、なまやさしいものではなかった。
二代すみ子は、事件が長期化することを覚悟し、昭和一一年の正月早々ひそかに、京都の信者藪内育子を月光閣にまねき、衣類の仕立と差入れを依頼した。王仁三郎らの衣類までがのこらず当局によって押収・焼却され、一枚ものこされていなかったのである。三月にすみ子が、検挙されてからも、藪内は王仁三郎の保釈出所する日までその仕事をつづけた。
信者であり弁護士であった三木善建・小山昇・根上信の三人は正月三日ひそかに綾部をおとずれ、月光閣ですみ子に面会し弁護にあたることの諒解を得た。三木は二月三日に京都検事局をおとずれ、「召喚すれば何時でも出頭し得る者に対して、突発的に而も物々しい武装で幾百の警察官が大挙襲撃したことは、いささか不審に堪へない。而も長日月に亘つて留置場に不法検束する事は当人等の健康上にも遺憾の点が多からうと思ふ。これがためその家族達は毎日不安な気持で過してゐる」(「中外日報」昭和11・2・7)と取調べの促進方を申入れた。三木は伊藤とともに三月内田良平を訪問して、三木が調査した『当局の不当検挙調』を示して当局の不当な弾圧ぶりを報告し、その対策を協議した。この『不当検挙調』は内田がこれを謄写刷りにして各方面に配布させた。さらに三月一七日、三木は書留内容証明郵便をもって内務大臣潮恵之助あてに上申書を提出して、「我崇祖祭祀ノ淳風美俗ヲ保持スル見地ヨリ祖霊社ハ決シテ破却スベキモノヽ中ニ入ルモノトハ信ジ難キ」旨をのべ「之ハ是非共分離シテ特別ノ御考察ヲ給ハル」よう、また「各信者自宅ニ自祭スル祖霊ノ祭壇モ御存置有之様万一ノ場合ニハ其旨明確ニ吏員ニ御命令置被下度」と願出たが、これも黙殺された。
なお三木は元男の入院療養に関し、杭迫特高課長にたびたび面会を求めて交渉したが、誠意ある応対は得られなかった。
出口すみ子が三月に検挙されたのち、伊藤は九州にふたたび山県をたずね、同道して大阪で三木と協議して上京した。山県の用意した三〇〇〇円のうち、一〇〇〇円は、『時代思想の顕現せる天理教と大本教』(前掲七八頁)の刊行費や発送費として伊藤から内田に手渡された。山県は富沢弁護士と面談し、弁護費用として富沢に二〇〇〇円をあずけ、さらに田代弁護士と会い、すでに田代から連絡のできていた林逸郎弁護士とも面会した。この事件を弁護しようとする弁護士にたいしても検束するという当局の意向がさかんに流布されていたときであったが、林は天皇機関説排撃運動などの行きがかりから責任を痛感し、大本事件の弁護を快諾した。ついで伊藤・山県の両人は綾部にいって出口直日に面会し、この間の事情を報告した。
三月二七日には大阪の足立進一郎、三月三一日には清瀬一郎が弁護届を提出した。四月一六日、王仁三郎は弁護士赤塚源二郎を中京区刑務支所にまねいて、大本関係財産の管理を依頼し、赤塚は三〇日これを受諾した(三節)。足立は第一次大本事件のおりの弁護人であった関係からであり、清瀬は林や田代が推薦したものである。清瀬は当時法学博士でかつ国民同盟所属の代議士であったが、大本事件の弁護をひきうけた事情について、後年、「私は弁護士として、人間の人格、自由を守ることが職業であり、不当に権利を侵害される人があれば、これを擁護するのが弁護士の任務」であると語っている(「清瀬談話」)。すでにのべたように、第二次大本事件の突発は天下の耳目を聳動させ、当局は不退転の決意をもって弾圧にのぞみ、「大本邪教観」はつぎつぎと社会に流布されていた。大本を弁護しようとする弁護士への圧力さえくわえられていたのである。こうしたさなかにあって、田代・清瀬・林らは、弁護士としての体験から、大本事件が当局の無謀な弾圧であるとの確信をもち、法の秩序と人権をまもる立場から、この事件はぜひとも無罪にしなければならないというつよい信念を当初からかためていたのである。また赤塚は第一次大本事件当時、王仁三郎が京都監獄に勾留されていたときの典獄であった。
弁護活動への準備がすすむにしたがい、弾圧の手はこの方面にもようしゃなくのびてきた。大沢晴豊は、山県をたずねたことが警察に知れて検挙され、一〇〇日間留置された。三月には大崎、四月には伊藤とあいついで検挙された。三木弁護士もついに五月七日に検束され、連日取調べをうけたが起訴はまぬがれた。しかし弁護活動の凖備に協力した山県猛彦は、大本側の資金源を封じようとする当局の意図によって、ついに検挙され七月四日に起訴された。
こうした当局の圧力のなかで、六月には田代弁護士が、東京から亀岡・綾部をたずねて破壊のあとを視察し、弁護士との連絡や弁護費用集めに奔走していた日向良広の案内で、月光閣ではじめて直日に面会した。直日は田代に事件の弁護を依頼し、資金の一部として五〇円を手渡したが、直日の積極的な態度に接した田代が、弁護への決意をあらかにしかことはいうまでもない。七月には富沢からの推薦により、赤塚のほかに田代と京都の前田亀千代弁護士を管財人に追加選任した。当時前田は京都府弁護土会の会長であり、田代が推薦したものである。
昭和一一年秋には「警察協会雑誌」の昭和一一年七月号(第四三四号大本事件特輯号)が入手された。この雑誌は警察官専用の月刊雑誌で、一般には手に入りがたいものであった。東京の信者佐土原民次郎がその写しをおくってきたのがきっかけで、日向が苦心のすえ現本を入手し弁護士にわたしたものである。七月号にはわざわざ「大本事件特輯号」として弾圧の責任者たちの手記─古賀強の「大本事件の真相に就て」、薄田美朝の「大本捕物陣覚書」、杭迫軍二の「大本事件日記」など、事件を解明するうえに必要な資料がおさめられていた。これは今後の弁護活動の方針をたてるうえに、きわめて有効となった。
昭和一二年には清瀬一郎・林逸郎が、破壊のあとを視察するために綾部・亀岡をたずね直日に面会した。田代・清瀬・林らがあいついで三代直日に面会したことは、弁護活動の準備に一つの転機をもたらすこととなった。王仁三郎をはじめ最高幹部を検挙されたあとの大本にたいする弁護人の不安が一掃され、王仁三郎らの死刑説がその筋より流布されていた状況下にあって、「向うの思いのままにもってゆかれるにしても、せめて(被告人たちに)一ぺんだけでもこちらの思いきりのことをいわしてやりたい」という直日らのぎりぎりのねがいが、弁護活動をとおして実現することとなったのである。こうして直日と弁護人との接触がかさなるにしたがって、弁護活動の準備は一段と促進されていつた。しかし一方では、東京・京都間の弁護人の往来もおおくなって、旅費や打合わせなどの費用もかさんできた。
京都での差入れにはお多福と山科の鳥羽甚を介したが、すでに相当の費用がだされていた。それらの事務は大検挙の直後から大本の京都分院でおこなっていたが、昭和一一年一月一五日に分院は閉鎖をよぎなくされた。さらに三月二七日その責任者の一人であった中邨新助が検挙されるにいたって、四月一日からその事務所は一時他にうつされた。その後中京区竹屋町柳馬場の差入弁当屋お多福(今井嘉三郎)の近所の二階(今枝健藏)を借りたが、間もなく近くの西入ル南に二階建を借りてそこへうつされた。差入事務には当初から手伝っていた信者の山下八郎が主としてあたった。
同年五月一一日、管財人の赤塚弁護士は、警察当局の立会のもとに中村から大本会計の引継ぎをうけ、それより出口家その他の生活補助費や差入費用は赤塚の手で管理されていたが、事件が長びくにつれて会計もだんだん窮屈になった。そこでこの年一二月一〇日からは、被告人のうち差入弁当代の自弁できるものは自弁とし、自弁できない人にたいしては一日三食のうち一食なり二食なりは官弁ですませてもらうこととした。差入れの費用については、大本関係財産管理費のなかから昭和一二年末までに、二万八一八四円か支出されているが、そのほか信者が自分で負担した費用は相当な額にのぼっている。また同年末までに大本関係財産管理費のなかから支出された刑事弁護料はわずか一一二四円にすぎず、いきおい信者の献金にたよらざるをえなかった。
しかし、当局の監視はきびしく、なかには弁護費用を献金したことが再建運動とみなされて、検束される者も続出した。だが信者の献金活動はひそかにつづけられ、各地から直日や富沢弁護士のもとにとどけられた。
〔写真〕
○権力の非違にたいしては毅然たる態度をもってのぞんだ 不敬罪治維法違反さらになし…………出口すみこ p479
○内務大臣へおくつた三木弁護士の上申書 p481
○三代出口直日 綾部藤山の雑草居 p483
○くらい一年であったが苦難の頁はひらかれたばかりであった p484
○第一審のころの中京区竹屋町柳馬場あたり 京都 p485