弁護活動への準備は、大検挙の直後からすでにはじまっていた(二章)。昭和一一年には、ほぼ弁護団の陣容もととのい、準備公判のはじまった一九三八(昭和一三)年以降、その活動は本格的となった。公判は第一審で一〇五回、第二審で一二〇回にもおよび、さらに上告審と民事事件をふくめて一〇年間にわたり、清瀬・林・田代・前田・高山らの有力な弁護士一八人が活発な弁護活動をおこなったのであるから、裁判に要した費用はばくだいなものとなった。
しかし、当局のきびしい監視の下では一々記録することができなかったので、その総額はあきらかでない。のこされた唯一の記録として、前掲の『元大本教関係収入支出毎月決算表』(いわゆる「赤塚会計」)がある。まずその内容をみてみよう。前章でもあきらかなように、ぼうだいな大本の動産や不動産は、当局の方針によって極端な安値で強制的に売却され、売却による収入金の使途についても干渉と圧力がくわえられて、総支出のうち刑事・民事弁護費として支出された金額は五万四九八九円にすぎなかった。その内訳は刑事弁護料一万四六〇〇円・旅費二万一一九五円・宿泊費一二七二円・会合費一八一五円となっており、その他は保釈金・記録調整費・民事訴訟費などで、直接刑事弁護に必要な活動費としては、三万八八八二円となっている。しかもこれは昭和一三年一月以降に支出されたもので、弁護活動の準備期にあたるそれまでの一年有余のあいだは、わずか一一二四円が支出されたのみであった。
この赤塚会計は、「元大本教」関係の財産を処理するものとして警察の監督下におかれていたので、支出される訴訟費も、公判の開廷されるときなど表向きのやむをえない場合にかぎられていた。公判のとき以外におこなう調査・準備・打合わせなどにつかわれた費用はふくまれていない。その費用は前記公表の金額を上回るものであろうが、これはすべて信者の献金によるほかはなかった。しかも赤塚会計は当局のおもわくどおりはやくも第一審で枯渇し、昭和一五年五月に閉鎖されたのであるから、六月以降の第二審、土地返還の民事訴訟、上告審などはすべて信者の献金によってまかなわれたのである。献金の金額や送達方法は、弾圧下の潜行運動であるからまちまちであったが、これらの献金は、第一審当時は三代直日と富沢・赤塚両弁護士のもとに、第二審当時は直日と東尾吉三郎の手許にあつめられた。もっともくるしかった第一審から第二審当時は、三代直日がその中心にあったことはいうまでもない。
大検挙直後から弁護活動への準備がはじめられ、しだいにその陣容がととのえられてゆく状況は本編二章でのべたとおりであるが、当初は田代・清瀬・林ら東京側弁護士の動きが主であったため、富沢や上倉三之助らの奔走によって東京近在の信者の献金があつめられていた。一九三七(昭和一二)年一二月、出口伊佐男ら三〇人の予審が終結し、翌年五月には準備公判がひらかれることになって、弁護活動の準備も本格的となった。しかし当局はいかなる名目にしろ弁護料の募金は絶対に許さぬ方針で取締りをいっそう強化していたので、募金は思うにまかせず、「弁護料ノ捻出ニ困リ居リ候 去ル者日々ニ疎シデ時利アラズ」と富沢が王仁三郎への書簡(昭和13・4)でのべているように、弁護活動資金の不足がめだってきていた。また昭和一二年九月に綾部から亀岡へうつった三代直日の歌に、〝のどのかわきに水欲る如く金ほしき思ひ一途なり路あるく間も(弁護費用なければ)〟とよまれているが、準備公判を前にして弁護費用の捻出が切実な問題となっていた。そこで昭和一二年の暮、直日の意をうけた側近の日向良広はまず九州へ潜行した。ついで翌年の春には島根へ潜行し安本肇・木村一夫から各一万円の献金をうけることができた。これを皮切りに直日を中心とした弁護資金活動は本格的となり、長期間にわたる法廷闘争をたたかいぬく原動力となったのである。一方このころには、保釈出所した幹部たちから取調べの内容をきかされ、事件の様相と当局の態度の見きわめもつくようになり、公判をとおして、大本の正当性をあきらかにしようとする信者も増加してきた。弁護活動への献金も事件直後にくらべて広範囲になり、各地域の有志が計画的につみたてたり、あるいは集金してゆく組織的な献金の方法がとられるようになった。他方、これまでどおり個人でその都度、機会あるごとに何らかの方法で献金するものもあった。広範囲にしかも組織的におこなった例としては、島根県がもっとも典型的である。すでに事件直後の一九三六(昭和一一)年一月から、旧能義連合会では「法難後入用費送付記」という帳面をつくり、各支部からの献金をこれに記入している。なおアンケート(昭和39年)の結果では、県内で七三人が各支部や地域ごとの定期的集会をおこなって費用をあつめ、これを松江の旧島根別院にもちよったことがわかる。そしてその代表として三上三樹がこれをとどけたのである。これについで組織的であったのは、北海道・茨城県である。北海道では宮本惇一郎であり、次城県では地元はもとより東京・埼玉・千葉などにわたって野口如月が費用をあつめてとどけている。このほか小グループ、小地域的にまとまって献金をつづけた例はきわめておおい。たとえば青森・山形・宮城・静岡・三重・石川・兵庫・岡山・山口・鳥取・徳島・長崎・熊本の各府県下および中国の上海などにおいて、五、六人から一〇人前後のグループが頼母子講とか、物品購入資金のつみたてなどと名目を加えて献金をつづけていた。とくに更始会費として、事件解決後にいたるまで終始一貫してつづけた青森・熊本その他のいくつかの例があることも特筆すべきである。
送金の方法としては元特派宣伝使、保釈で出所した幹部、地方の役員、そのほか熱意のある信者などがそれぞれ地方を巡回して、グループあるいは個人から、献金をあずかってとどけた例がおおい。また京都・亀岡・綾部などに在住する郷土出身の信者あてに送金して献金を依頼するもの、三代直日をたずねて手わたすものなど、その時々の機会をのがさずけんめいに献金がつづけられた。
地方との連絡の役割をはたした顕著な人としては、比村中がある。比村の場合は、東北・関東・近畿・中国・四国・九州と広範囲にまわる一方、満州・中国など海外の信者とも連絡をとり、五〇〇人以上の献金を取次いでいる。日向良広は島根の安本・木村をはじめ、九州・東北・関東その他の献金を取次ぐ一方、昭和一二年以降、出口直日の側近として活躍している。また宮本惇一郎は北海道一円の献金を、大谷敬祐は主として近畿一円を、池田千秋は関東・東北をまとめた。これらは出口直日に取次がれ、直日の意をうけて日向・比村・大谷がそれぞれ匿名で銀行に預金し、そのつど弁護費用にあてられていた。また島根の錦織貞雄・金田たつは木村らの献金をもってたびたび直日の許に潜行してきた。その他特派であった大沢晴豊は主として北九州と北陸を、保釈出所した鈴木常雄は宮城・青森・岩手の三県下を、森国幹造は岡山をというように、それぞれの地域で献金がまとめられている。また出水湧三は亀岡にあって地方からの献金の取次ぎをした。
その他青森では佐藤雄蔵、山形では小笠原富三郎、宮城では八巻市三郎、石川・富山では嵯峨保二・浜中助太郎、大阪では山本祥三郎・野間田真道、和歌山・三重では大谷瑞淵・真砂幸一郎・岡房一郎、兵庫では中野高秋・西村能理雄、岡山では西口満・松永友吉、山口では植田瑞穂、鳥取では生田恒市・平木稜威美、徳島では美馬邦二、福岡では宇都宮襴治、長崎では松本時於、熊本では松浦教友・同貞女、木野春恵、宮崎では菊池真英らが、それぞれの地域で活躍している。その下部にはいくつかのグループが旧支部あるいは市郡単位にあって、旧支部役員たちが集金の役割をつとめている。大本の信仰に生きる数おおくの信者の力が、こうして結集されていったのである。
海外の状況はどうであったか。ブラジル、メキシコ、欧州、東南アジアとは連絡ができなかったので、献金の範囲は日本の近隣諸国にかぎられていた。台湾、満州(中国の東北)、朝鮮、中国の各地から献金がとどけられているが、その方法としては、集金したものを内地の縁故者に送金したり、日本内地へ旅行する人に託したり、また自分が帰国したさい面会して直接とどけるなどの方法がとられた。
台湾の場合は信仰歴の古い信者もおおく、それらの人々は第一次大本事件を体験している関係から、信仰の熱度もさめなかった。主会長であった木下雅楽麿が地元をまとめ、かなりの献金が高橋喜又らをとおしてとどけられている。
朝鮮では昭和一二年二月以降、元特派であった畑(長原)光郷が朝鮮の有志に働きかけて献金をあつめ、京都の児島広は鎮南浦の支部長をしていた関係上、朝鮮の半島南部の信者および畑との連絡・取次ぎもしていた。山岡国太郎は借金の返済という名目で度々送金しており、事件直後には元特派であった石丸順太郎が募金をおこなったという。
満州では、昭和一一年春には土屋弥広が、昭和一三年二月には出口むめのが資金工作に出向いているが、有力な信者たちは、献金活動には自粛の態度をとっていたので、大口献金はなく、一般信者による小口の献金がとどけられた。中国では上海において阿部多利吉・土屋弥広らを中心に七人の同志が結集し、毎月集金しては京都の比村を通じて献金がつづけられた。
国内での献金の額については種々であったが、大口の献金をしたうちには島根の安本肇・木村一夫、福岡の桜井愛三・同たね、群馬の朝倉利喜、東京の山下友吉、神奈川の東又吉、石川の嵯峨保二・瀬領貞通、和歌山の大谷瑞淵らがあり、そのおおくは直日の手許にとどけられた。しかし一般にはとぼしい家計のなかから五〇銭、一円とつみたてて献金をつづけたものがおおい。新潟では事故で左手を切断し、妻が土工に出てえた日給七〇銭のなかから、月三円の献金を五年間つづけている人があるし、京都では月収の一〇%を六年間献金にあて、亀岡では、くるしい生活のなかで内職の仕立物でえた賃金を竹筒にためては献金をつづけたという人々もある。茨城では娘の結婚の式服を売ったり、新築の家の白壁をぬらないで献金にあてた信者もあった。聖師・二代教主の出所まで毎月差入れをつづけた者もおおかった。島根の信者のなかには満州へ応召中も献金をつづけた人がある。これらは多数の中のほんの若干の例にすぎない。
『社会運動ノ状況』(昭和13年)によれば、「大本事件関係弁護人清瀬一郎、富沢効等四名は、本年六月中旬内務省に出頭して『大本連座の被告人自身又は其の代理人が訴訟進行に要する費用の贈与を友人知己より受くる行為を黙許せられ度合』旨申出づる所ありたるが、其の要旨は概ね (1)募金総額は十万円乃至三十万円程度とす。(2)募金の範囲は友人知己(旧信者を含む)又は親族等の有力者に限る。(3)募金の方法は各被告人別に被告自ら又は其の代理人(主として弁護人)より予め醵金の可能性のある有力者を物色して交渉すべきも、広範囲より零細なる資金を蒐むる方法は之を避け、可成少数者より大口調達を期す。と謂ふにありたり」とあるが、結局これは許可されなかった。それだけではなく、献金をし、または献金の世話をしていることがわかると、大本再建運動として検挙されたり、厳重訓戒の処分などがおこなわれた。
当局は大本抹殺の方針を貫徹するため、弁護活動へも圧力をくわえたのである。第一審判決後の昭和一五年五月、司法省思想実務家会同で大阪控訴院の岩田判事は、第二次大本事件について「公判の立場で非常に考へなければならぬのは、教団の者が非常に弁護の資金を有って居るといふことです」とのべているが、その線にそって改正治安維持法(昭和16・3・10公布)では、弁護士の国による指定およびその人数や調書閲覧の制限に関する規定が設けられ、自由な弁護活動が封鎖されるにいたったのである。これをみても第一審における弁護活動がいかに当局を悩ましたかが推祭される。一二月八日大検挙を敢行したいきおいで一気に大本を押しつぶそうとした権力の出鼻をくじいて、第一審判決までの暗黒の四年間をささえ、さらに事件解決までの五年余の歳月をささえとおした信者の献金は、事件の解決にきわめておおきな役割をはたしたのである。
信者のなかには、大本事件は神の経綸であるとして、法廷で黒白をあらそうことをあからさまに批難し、また傍観するものがかなりあったことも事実であった。権力による強圧、戦争の長期化による経済事情の悪化、社会の迫害にくわえて、こうした内部からの抵抗のなかにあって、黙々としてつづけられた献金への血のにじむような努力には、大本信仰の根強さと護教への情熱が感じられるのである。
信者の献金状況については、その総人数も献金総額も資料不足で、あきらかでない、金額については、赤塚会計に昭和一三年五月九日から昭和一五年二月二九日までの間の献金として一万二七七八円、また高見京太郎名儀(日向良広管理の一部)の預金通帳に、昭和一四年一二月一九日づけで四万二一六九円一三銭の記録がのこされている。もちろんこれは一部であるが、この金高から推して献金総額はかなりな額であったことが推察される。また総人数については、大本七十年史編纂会でおこなったアンケート(昭和39年)によれば、回答のあった三三二二人のうち、六三七人が献金・献物・献労などの奉仕をしている。しかし実際にはおそらくその数倍にも達していたと考えられる。あの徹底した弾圧下でこれだけの奉仕者があったことは注目されてよい。その地域分布は近畿・中国地方か全体の四〇%をしめているが、数の多少こそあれ、国内全道府県にわたり、とおく海外にもおよんでいる。
〔写真〕
○三代直日を中心に弁護活動が本格化した 亀岡中矢田農園 p559
○献金活動は弾圧下の大本をささえ裁判をたたかいぬく原動力となった 島根県旧能義連合会の法難後入用費送付記 p560
○献金活動は大検挙と同時にはじまり戦時下の苦しい生活をきりつめ全国各地で自発的につづけられた 送金の布袋 小為替領収書など…… p561
○歌にたくした三代直日の献金にたいする礼状 松の実一つは100円 p563
○献金には信者のまことがこめられていた 匿名の預金通帳 p565