まず当時の社会情勢を一べつしておこう。第一審から第二審へうつされた第二次大本事件は、このきびしい社会的条件のなかで、朦朧と弁護の活動をすすめねばならなかったのである。
一九三七(昭和一二)年七月七日、盧溝橋事件を契機として起こった日中戦争は、大本営発表の「輝かしい戦果」にもかかわらず、事態は日ましに悪化し、ねばりづよい中国民衆の抵抗によって、戦争は解決のない泥沼へと追いこまれていった。国民生活への影響はしだいに顕著となり、軍事費も雪だるま式にふえて、昭和一二年度から一六年度までの国家予算における累計は三一一億一八〇〇万円となった。これは、その期間における「文治費」(通常会計から陸海軍省費を差引いたもの)一三七億三三〇〇万円の二・三倍にも相当する巨額であった(『毎日年鑑』)。こうしたばくだいな軍事費はあいつぐ増税と公債の濫発によってまかなわれ、一九四一(昭和一六)年における租税総額は四九億三〇〇〇万円、公債発行額は八七億八二〇〇万円に達し、租税は昭和一二年の二・八倍、公債は昭和一三年の二倍強になっている。
国民の生活は戦争経済にまきこまれ、一九四〇(昭和一五)年の六月には六大都市で砂糖とマッチの家庭配給制がはじまり、七月には「ぜいたくは敵だ」のスローガンのもとに、「奢侈品・賛沢品」の製造および販売が禁止された。米の消費規制もはじまる。
同年八月には、政府は「国民生活新体制」をうちだし、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」のスローガンをかかげて、国民に耐乏生活を強要した。そして生鮮食料品の配給制がとられ、一一月には木炭が配給制となり、米の強制買上げがおこなわれた。衣服についても統一的な「国民服」が制定された。一九四一(昭和一六)年四月には、米の不足がさらに深刻となり、ついに六大都市では家庭配給制が実施されて、大人一日一人二合三勺となった。主要な生活必需物資が統制下におかれることとなったのである。いわゆる切符制による「配給生活」が本格化してくる。
一九二九(昭和一四)年八月、独ソ不可侵保約が締結され、それまで対ソ作戦をすすめながら日独伊三国軍事同盟の交渉をすすめていた平沼内閣は、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職した。平沼内閣のあとをついだ阿部内閣の組閣直後の九月一日には、ドイツかポーランドに侵入し、三日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦を布告して、ここに第二次世界大戦が勃発した。一九四〇(昭和一五)年の一月、米内内閣が成立したが、軍事インフレはますます進行し、国民生活はいっそう悪化した。
一九四〇(昭和一五)年二月の「第七十五帝国議会」では民政党の斎藤隆夫代議士が代表質問にたって、政府の対中国策をするどく批判した。この斎藤演説は「聖戦を冒涜するもの」とする軍部の攻撃にさらされ、議会はその圧力に屈して斎藤隆夫の議員除名を決定した。これを契機として三月には聖戦貫徹議員連盟が結成され、「挙国一体国策の完遂に邁進」することを申し合わせた。七月から八月にかけて日本革新党・政友会各派・社会大衆党・国民同盟・民政党があいついで解党し、議会はついに、その自由にして良心的な批判と発言をみずから封じてしまったのである。
七月には、第二次近衛内閣が成立し、「基本国策要綱と世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。これは「国防国家体制の完成、大東亜新秩序建設、新国民組織の確立」などを骨子とし、「日独伊枢軸の強化、仏印および蘭印の主要資源確保、仏印の軍事基地化」など南進政策を具体的にのべたものであった。そして九月には日独伊三国同盟が調印され、ここに「日独伊枢軸国」と「米英中の反枢軸国」との対立が決定的段階をむかえた。
このような情勢に対応して九月には部落会・町内会・隣保班・常会の整備など末端の組織化がはじまり、一〇月には大政翼賛会が結成された。そして大日本産業報国会・農業報国会・大日本青少年団・大日本翼賛壮年団などがつぎつぎとその傘下に吸収されてゆく。こうして民衆は「上意下達」の巨大な統一的支配組織のなかにくみこまれ、「国体護持」「戦争協力」へとかりたてられていったのである。
支配・統制が強化される一方、権力に抵抗するものにたいしては、ようしゃのない弾圧がくわえられた。一九四〇(昭和一五)年の五月から六月にかけて共産主義運動にたいする弾圧はつづき、七月には左翼関係出版物は一切発禁となり、版元や古本屋の在庫品までが押収された。労農団体にたいする取締りは日中戦争以来一段ときびしさをくわえ、各組合は綱領や運動方針をあらため、国策に順応しつつ組織の防衛をはかったが、昭和一五年七月にはついに総同盟も解散においこまれた。これをきっかけとして各労働・農民組合の解散かあいつぎ、組織運動は終止符をうたれた。
弾圧は文化関係にもおよび、昭和一五年三月には津田左右吉事件がおこり、その著書『神代史の研究』『古事記と日本書紀の研究』などが発禁となり、七月には生活綴り方運動、八月には新協・新築地の両劇団が解散させられた。そして一〇月には文化思想団体の政治活動が全面的に禁止された。さらに翌年の一月には新聞紙等掲載制限令が公布され、民衆は事実を正しく知る自由をうばわれた。
国家権力による統制と弾圧は宗教界にも大きくおおいかぶさってきた。宗教団体法をたてに各教宗派は教義・教則の改編をよぎなくされ、国策に順応しない宗教行為や結社は、宗教団体法によっても制限・禁止の処置がとられることとなった。昭和一五年秋以来教宗派の統合が強行されていたが、翌年の七月には、各宗派は神道一三派・仏教二七派・キリスト教二派に再編成され、宗教にたいする権力の支配も強化された。
司法・内務当局の態度はきびしかった。昭和一五年七月には内務事務官であった古川寛が、宗教運動取締りの重点は「第一に反国体的反国家的邪道に逸脱したる邪教・邪宗の宗教運動を剪除掃滅し」「第二に反社会的不法の宗教運動又は宗教行為を防遏する」の二点にありとし、「直接其の衝にある吾等警察官は、不当なる信教絶対自由の妄論に顧慮することなく……殊に戦時下における宗教運動取締の任務は重且大である。皇国の進運を阻碍するが如き邪宗教は蹂躪殲滅して進むべきは当然」(「警察協会雑誌」)であるとのつよい決意をのべている。
また同年の五月、時を同じくしてひらかれた司法省思想実務家会同(控訴院判事・予審判事・思想係検事)において、秋山刑事局長は「不逞宗教はその教説が現実的現世的であります為、所謂宗教運動よりは寧ろ社会運動乃至政治運動を示唆し、又特定の個人を天啓者若は神格者と為し、之を中心とする理想社会の建設を目的と致しますところより、畏くも我が天皇統治を否定し奉る結果を生み、或は、社会不安若は天災地変を目して統治組織が神意に反する為なりと做し、無智蒙昧なる大衆を煽動誑惑すること等を其の共通的特徴となすのでありまして、之が根絶の必要なることは、左右両翼の詭激思想と何等択ぶところがない」と訓示し、取締りの強化を指示した。ここで注意すべきは、この会合において「実務上ノ経験ニ徴シ治安維持法ノ改正ニ付考慮スベキ事項」が、司法省から諮問されていることである。
昭和一〇年の第二次大本事件以来、法規に不当な「拡大解釈」をくわえて、無謀な流用をくりかえしてきた当局は、これを合法化する必要を感じつつあった。諮問は第一条ないし第三条の規定の拡張、強制捜査に関する規定の設定、予防拘禁制度や類似宗教取締規定の新設など詳細にわたっていたか、この諮問の線にそってさらに詳細な具体案が答申された。
〔写真〕
○昭和16年12月8日ついに太平洋戦争がはじまった 速報をみつめる群衆 p576
○この一瞬! 信者のよろこびは爆発し再建の意欲が全国的にもりあがってきた 保釈出所した左から出口伊佐男 出口王仁三郎 出口すみ子 大阪のさぬきや旅館 p577
○巨大な歯車にくみこまれた民衆には一片の自由もゆるされなくなった 各戸にもれなく配布された戦時生活の心得を示すビラと常会のしおり p579