一九四〇(昭和一五)年の六月一五日に、京都地方裁判所民事部あて、綾部・亀岡における出口王仁三郎・すみ子名義の土地返還請求の訴状を提出した民事事件は、第二審・上告審と併行して審理がすすめられていた。昭和一六年八月に第九回の準備手続きをおわり(四章一節)、同年一〇月一日から、第一回の口頭弁論(公判)が開始された。公判は京都地方裁判所の第一民事部法廷でひらかれ、裁判長は第一回より四回まで石井平雄、第五回より一〇回まで原田左近、第一一回より終結までは中治武二の各判事があたった。
第二回の公判から証人の取調べとなり、中村純也・福田つな・五十嵐定七(元綾部警察署長)・木下和雄(元亀岡警察署長)・赤塚源二郎・三木善建らが出廷した。ついで佐賀では高橋誠治(元京都府警部)、仙台では杭迫軍二(元京都府特高課長)、米子では山口利隆を各裁判所法廷で訊問した。さらに湯口善之助(前亀岡町長)・遠坂憲治(綾部町長)の取調べののち、昭和一七年の一一月五日には、原告である出口王仁三郎を、昭和一八年の七月二八日には同じく原告の出口すみ子の訊問がおこなわれた。その間、原告側から九回、被告側の綾部町から五回、亀岡町から三回にわたり、準備書面を提出し、それぞれ代理人が、これにもとづく陳述をした。
昭和一九年四月一四日には、原告代理人として清瀬・前田・小山・今井・林の各弁護士の弁論がおこなわれ、同月二六日には、被告代理人として綾部町からは竹田、亀岡町からは守屋の両弁護士の弁論があり、これにたいして原告側から前田・小山の両弁護士が演述した。原告側の提出した準備書面や証拠をはじめ、証人訊問・本人訊問・代理人の弁論等によって、警察官の暴圧的事実や不法事実があかるみにだされたことはいうまでもない。
民事事件の判決は、はじめ昭和一九年の五月末に申し渡される予定であったが、裁判所の都合によって延期された。ところが翌昭和二〇年の六月にいたって、京都地方裁判所長より突如民事和解に関する申入れがあり、七月一〇日・二八日、八月一〇日と和議についての会合がかさねられ、原告・被告ともにその代理人たる弁護士が出席した。
原告(大本)側が綾部・亀岡の土地返還が根本条件であることを主張したのにたいし、被告の綾部町は小学校の敷地・広場および、水道利用のため本宮山を相当の代金をもって譲渡されたいと希望し、被告の亀岡町は広場三〇〇〇坪を町の名義で海軍に献納し、他は返却するとの申出であった。このような条件には応諾することができないとして、大本側は和議の会合をうちきり、公正な判決をまつこととした。しかし終戦となり、九月八日大審院での大本事件にたいする上告棄却の判決によって、民事事件の状勢は急変した。警察・町当局の態度は一変し、当事者間の和解によって、解決に拍車がくわえられることになったのである。
昭和一九年の二月に亀岡警察署長に着任していた山崎英雄警部は、大検挙後の警察における出口伊佐男らの取調べにあたったことがあったが、暴行・強圧には一度もかかわらなかった。そうしたことから伊佐男との間に親交があったが、大審院の判決がつたえられるとただちに、土地問題の解決について伊佐男と内談し、土地の返還を亀岡町側に勧告した。町議会ではこれをうけいれ、九月二六日に町長南江禎治・助役中田安次の両人が伊佐男に面会して、無条件土地返還を申し入れた。これにたいして大本側では、弁護士だちと協議のうえ、登記および引渡費用は町側の負担とすることを条件とし、山崎署長の斡旋によって示談は成立した。一〇月一五日町会で正式にこれを決定し、同月一八日に土地移転の登記が完了したので、大本側では即日亀岡町にたいする民事訴訟を取り下げた。なお昭和一一年四月の強制売渡しのさい、亀岡町が大本側に支払った代金は、大本から町側へ返却した。
ついで一〇月二二日には、綾部の商工経済会何鹿支所長木崎良吉と町会議員広田久太郎とが伊佐男に面会し、土地返還について話しあった。この二人と樋ノ本綾部警察署長が斡旋にたち、一〇月三一日に綾部町議会および何鹿郡町村長会が、大本への無条件土地返還を可決した。一一月二日には綾部の山水荘にて、綾部側の赤見坂綾部町長ほか三人と樋ノ本署長の立会いで、土地返還の申し入れがあり、大本側からは出口すみ子・伊佐男・東尾・桜井同吉らが応接し、これを受諾した。一応無条件返還のうえ、大本側より綾部町にたいし体育館の敷地を寄付し、町からは武徳殿(現在の彰徳殿)と弓場(現在の要荘の一部)の建物を寄付することとした。こうして一一月一三日には、綾部にたいする民事訴訟を取り下げ、同月一五日には土地返還の登記を完了した。なお大本からは綾部町からの建物寄付にたいし金一万円を、郡設グランドにたいし同じく一万円を寄付した。これで土地問題は両者合意のうえで全部解決したので、聖師夫妻と伊佐男・桜井の四人は、一一月二四日に赤見坂綾部町長はじめ綾部の有志者の招待をうけ、並松の「現長」(旧祥雲閣)において、土地問題解決祝賀の宴に列した。亀岡では一一月二九日に鍬山神社の社務所で南江亀岡町長はじめ有志者よりの招待をうけ、大本側より伊佐男・東尾がおなじく土地問題解決の宴に出席した。その後、町側の大本にたいする協力は積極的となった。
「京都日日新聞」は一〇月一八日に、「大本教天恩郷還る」と三段記事をかかげ、「大阪毎日新聞」も一一月四日に「大本教土地事件解決」との見出しで報道した。その記事には「天恩郷はこの度大本教検挙当時の京都府一調査官の深い反省と温情の結果、いま亀岡町にあって信農一如に生きる出口一家に再び返ることになった……検挙当時当局は綾部本山とともに徹底的に全運動施設を破壊し尽し、しかも検挙後四カ月を経ぬ未だ未決留置中の王仁三郎夫妻に譲渡委任状に無理矢理に署名捺印させ、亀岡署の手を通じ坪当り八銭という安価で亀岡町の手に売り渡されてゐたもの」(「京都日日新聞」)とのべられている。
〔写真〕
○土地返還訴訟も有利に解決したが聖場に昔日の面影はなかった 綾部本宮山上…… p678
○……………亀岡天恩郷の透明殿 更生館あと付近 p679
○聖地が大本の手にかえった 出口すみ子染筆 p680