奉告祭をおえた翌々日の一二月一〇日、聖師は鳥取の吉岡温泉に清遊した。二女むめの・内海健三、ほか四人が随行し、逗留した吉岡温泉の高田貞治宅には、付近の信徒筧守蔵・田中道臣・網沢義秀・山本石太郎その他があつまって奉仕した。聖師によって色紙や短冊、屏風や半折などへの揮毫がなされ、一〇数本のみ手代も染筆して、面会の信徒たちにわたされた。吉岡温泉で越年した聖師は、一月六日吉岡を出発、鳥取市外浦富海岸の旅館竹間義雄宅につき、信徒たちに面会して二泊ののち、一月八日夕には綾部にかえり、さらに一月一四日亀岡にかえった。
聖師の吉岡温泉滞在中に、「大阪朝日新聞」の記者が聖師をたずね、聖師に、敗戦日本の冷厳な姿についての感想、神道の変革や信教の自由についての見解をもとめた。この談話は「予言的中〝火の雨が降るぞよ〟─新しき神道を説く出口王仁三郎翁」との見出しで、一二月三〇日付の同紙に掲載された。
自分は支那事変前から第二次世界大戦の終るまで囚はれの身となり、綾部の本部をはじめ全国四千にのぼった教会を全部たたき壊されてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけて来だので、すでに大本教は再建せずして再建されてゐる。……
自分はただ全宇宙の統一和平を願ふばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、そのため弾圧をうけた。〝火の雨が降るぞよ〟のお告げも実際となって日本は敗けた。
これからは神道の考へ方が変ってくるだらう。国教としての神道がやかましくいはれてゐるが、これは今までの解釈が間違ってゐたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない。ただほんたうの存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。殊に日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀ってゐることが間違ひの根本だった。しかし大和民族は絶対に亡びるものでない。
日本敗戦の苦しみはこれからで、年毎に困難が加はり、寅年の昭和二十五年までは駄目だ。いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれてゐる。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときにはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。
日本の敗戦後のくるしみは昭和二五年までは如何んともすることができぬと述べたのは、占領がそれまではつづけられることを予言したものであろう。とくに注目されるのは、日本は世界平和の先駆者たらねばならぬ、世界の軍備撤廃による世界平和の実現のときが近ずきつつあるとの、大本の平和主義に立脚した、確信にあふれた聖師の発言であった。
〔写真〕
○呵々哄笑 鳥取の吉岡温泉で静養される出口聖師 p734