愛善苑の組織化かすすみ、その態勢がしだいに整備されていくなかで、一九四六(昭和二一)年には、山陰と紀州へ出口聖師夫妻の巡教の旅がおこなわれた。夫妻は五月八日綾部を出発し、松江につき、もとの島根別院に入った。ここを松楽苑と命名し、聖師夫妻をむかえるために新築された居館が新静館と命名された。このとき聖師によって、〝別院は見るかげもなく壊たれて後に残るは諸木のみなる〟〝上段の十二本松伸びたちて十年昔をしのばれにけり〟、またすみ子夫人によって、〝かへりみれば十一年の夢ぞかし花咲く春にあひにけるかな〟〝かへりみれば昔が夢か今夢か夢のなかなる夢の世のなか〟との感懐の歌がよまれているが、第二次大本事件でとらわれの身となったゆかりの地を、一一年ぶりにおとずれられたのである。一二日には聖師夫妻臨席のもとに松静館で祭典がおこなわれ、一五日まで滞在したが、その間新聞記者がつめかけ、また連日信徒が面会をもとめた。その数は二〇〇〇人をこえ、その六〇%が二〇才台の青年子女であった。聖師はつぎつぎと色紙・短冊に染筆して面会者に手渡し、随行の出口伊佐男委員長は講話や座談をうけもって、毎日多忙をきわぬた。
夫妻は一六日松江を出発し、もと別院のあった地恩郷の吾郷勝哉宅に二泊した。その間聖師は信徒の面会のほか、絵絹に綾部大観・富嶽の図などがえがかれ、扁額や衝立にも雄渾な筆がふるわれた。一八日には地恩郷を出発して、一行は出雲大社に参拝し、松江の松楽苑に帰着した。
五月一九日一行は松江を出発し、自動車で米子の藤田武寿宅についたが、さっそく各新聞の記者がたずねてきた。二〇日夫妻は米子城址にのぼり、市の公会堂にたちよって信徒約六〇〇人に面会した。滞在中聖師によって襖四枚に出雲路の風景のほか色紙・短冊に多数染筆された。二一日夫妻は米子を出発し、城崎のはしもとや旅館(安田悦彦宅)で休養した。
翌二二日、聖師夫妻は城崎をたち、自動車で八鹿から福岡までゆき、そこから山かごで大笹の西谷進宅につき、隣家の田淵省吾宅の庭にある巨岩・竜宮岩(八座岩)のうえに建てられた竜神の神祠にもうでた。五月二三日には、聖師夫妻と竹田からおもむいた出口直日夫人をはじめ、数十人の信徒が随行して鉢伏山にのぼり、奇岩・怪岩たちならぶ山頂で礼拝して下山した。これより鉢伏山は「陸の竜宮」の奥の院として、大本の霊場の一つにくわえられることになった。この日西谷家の襖四枚に鉢伏山全景、大幅二枚が染筆された。二四日、夫妻は大笹を出発、但馬竹田のもと別院で二泊し、二六日綾部にかえった。
〔写真〕
○廃墟のなかから新しい国づくりがはじまった 昭和21年10月制定の文部省教科書 p750
○新発足して2ヵ月後には聖師夫妻の巡教がはじめられた 松江 松楽苑 p751
○鉢伏山 標高1231メートル 山開きを記念して現地参拝がおこなわれている 兵庫県美方郡 p752