人類愛善会の再発会とともに、機関紙「人類愛善新聞」(新聞全紙判)が一五年ぶりで復刊された。第一号は一九五〇(昭和二五)年一月一日付で月刊とし、発行部数は二万部であった。ついで総本部講師の任命、研究資料『戦争はなぜ起る』『世界政府運動と出口王仁三郎』『平和への道』『人類愛善運動とは何か』(いずれもA6判)の発行、地方支部の結成、会員獲得のよびかけをおこなって急速に態勢をととのえ、「戦争の防止」と「世界平和の確立」にむかって精力的に運動を展開していった。
当時の世界ならびに日本における平和運動として、世界連邦運動がもっとも有力であった実情や、人類愛善会再発足の事情からして、人類愛善会がまず重点的にとりあげた対外活動は世界連邦運動であった。昭和二五年三月二二日には、はやくもパリにある世界連邦政府建設世界運動本部(のちの世界連邦主義者世界協会)への正式加盟手続きをおえ、国内においては四月二〇日世界連邦運動団体協議会に正式参加し、また「人類愛善新聞」には世界連邦運動についての論説・解説やニュースをおおく掲載して、その啓蒙と運動の推進につとめたのである。
しかしながら人類愛善運動が、そのまま世界連邦運動であったのではない。「人類愛善新聞」の紙上においては、つねに人類愛善運動の根本精神である絶対平和主義を主張し、「家庭を楽しく、社会を明るく、世界を平和に」をモットーとして内外の平和運動の動きや、宗教情操をやしない社会をあかるくする題材をひろくとりあつかっていた。世界連邦運動との関係について、「人類愛善新聞」(昭和25・5・1)の「主張」は大要つぎのようにのべている。
人類愛善会は「一つの世界」実現の理想を発会当初から伝統的に持っており、その意味において世連運動に共鳴し協力するのである。しかし愛善運動即世連運動では断じてない。愛善会は権力至上的法治主義でなく、宗教的大愛の精神から出発するのである。われわれは平和社会が単なる精神運動のみで招来できるとは思わず、従って世界政府が権力をもち法律を行使する必要のあることを十二分に認める。しかし唯物的な形式主義では真の人類の幸福はあり得ないことも同時に主張するものである。
昭和二五年六月二五日、ついに朝鮮戦争が勃発した。その前夜ともいうべき六月九日、人類愛善会は創立二十五周年をむかえていた。記念式典ののち会長出口伊佐男は、「世界の大難局に直面し日本民族興亡の岐路に立って、今一度日本憲法の真精神を内省して、世界と日本の進むべき正しい方向を真剣に考え……なお且つ世界一家の理想を唱え、地上万世の大平和実現を唱道するわれわれの運動は、最も熱烈に実践されねばならぬ」と強調して、人類愛善運動の本質と方向をしめし、さらに「国民の総力を結集して世界平和の大運動を起すことは、日本民族に与えられた唯一至高の聖なる使命である」とのべて、世界平和運動の展開をつよくうったえた。
八月二五日には、全国から三千数百人の会員が参加して、人類愛善会主催の世界連邦運動平和大会が亀岡天恩郷でひらかれ、出口会長を「第一回世界憲法人民代表者会議(世界憲法制定会議)」に、また「世界連邦政府樹立世界運動」第四回総会にも代表を派遣することが決定された。大本が新発足してから約五年、人類愛善会が再発足してから一年たらずで海外渡航の機会がおとずれたのである。人類愛善会は、この会議がもつ意義をたかく評価し、一般大衆にその主旨を普及徹底させるため、九月から一二月までを特別運動期間として、講師を全国に特派し、「世界憲法シカゴ草案」の全文を掲載した「人類愛善新聞」特集号を五六万七〇〇〇部発行した。また、八月二八日には大本愛善苑総長出口伊佐男は、今後の教団の大方針として、「1、対外活動は全教団をあげて人類愛善運動に集中すること。2、対内的には信仰即奉仕の観念を徹底せしめるため大本更始会員の増加を図ること」を指示し、ことに人類愛善会の特別運動には総力をあげて協力するよう、地方各機関へ通達をだした。
会員の胸には、〝愛善の道をひろむる第一の神器は愛善新聞なりけり〟(聖師の歌、昭和7年)との自覚と情熱がよみがえり、「人類愛善新聞」の特集号は、会員の街頭宣伝や戸別訪問による一部売りによって全国に頒布された。この一部売りは、一面においてその売上げ益金をもって代表の海外派遣費をまかない、他面において五六万七〇〇〇人の賛同者をバックとする人民代表たる意味をにない、さらに大衆にたいして人類愛善運動・世界連邦思想の啓蒙宣伝をめざすものであった。二代総裁自身が新聞をかかえて街頭にたち、また家々を訪問して一部売りの実践を身をもってしめした。そのときの二代総裁の歌には、〝神ながら信者の誠に胸うたれわれも今日より新聞売りに行く〟とうたわれている。全会員はおおいに勇気づけられて、その頒布に信仰の実をしめした。一〇月一三日には人類愛善会の努力が実をむすんで、綾部市が世界連邦都市宣言をおこない、日本での第一号の名のりをあげた。
こうしたかがやかしい成果と大衆の支持を背景にして、人類愛善会・大本愛善苑を代表して出口伊佐男は、日高一輝(人類愛善会講師・世界連邦日本国会委員会事務局長)および衆・参両院議員、県知事、市長ら一六人とともに日本代表団の一人として、昭和二五年一二月二九日空路羽田を出発した。
世界憲法制定会議は、一九五〇(昭和二五)年一二月三〇日から翌年一月四日にかけて、ジュネーブで世界四三ヵ国から四一四人の代表が参加して開催された。この種の世界会議にアジア地域から代表が参加したことは今回がはじめてであり。会議における「世界連邦の建設とその運動の推進は、人類が神より与えられた愛善の精神にもとづいて、緊密に団結してこそ可能である」との出口会長の主張は、各国代表の共感をよびおこしたが、出口会長は現地から「会場にはエスペランチストの出席か非常に多く、私の出席したことを心から歓び迎えてくれた。なかには西村光月氏の消息をきく人もあり、エスペラントを通じて大本や出口の名が意外に広く海外に知られているのに驚いた」と会場の雰囲気を報じている。
出口会長は会議に出席の前後、ローマ(イタリア)、パリ(フランス)、ブリュッセル(ベルギー)、ボン(ドイツ)、ジュッセルドルフ(同)、ロンドン(イギリス)、ニューヨーク、ワシントン、テネシー州、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコ(アメリカ本土)、ホノルル(ハワイ)等をまわり、各国の平和団体・平和主義者・連邦主義者と意見を交換し、大本関係者と会った。その間、一月二日にはローマのバチカン宮殿をたずね、当時異例とされていたローマ法皇ピオ一二世に面会し、人類愛善運動のパンフレットを贈呈した。三七日間の旅をおえて、出口会長らは昭和二六年二月三日に羽田に帰着した。なお、四月にローマで開催される世界連邦政府樹立世界運動第四回総会には、二代総裁自らが出席を決意されていたが、諸種の事情で中止された(五章三節)。二月四日の節分大祭当日、綾部の彰徳殿で開催された帰国歓迎大会に出席した出口会長は、亀岡・綾部での帰国報告をおえたのち、松江市での一般大講演会を皮切りに、四月は茨城、五月岡山・高知・徳島・香川・愛媛、六月静岡・東京、七月愛知・兵庫、九~一〇月鳥取・広島・山口・島根、翌昭和二七年三月には長崎・佐賀・福岡の各県を、「一つの太陽の下一つの世界へ」「果して一つの世界はなるか」「世界及び日本の将来」「世界平和への歴史的前進」などの演題のもとに、ジュネーブ会議の報告をもかねて精力的に講演行脚をつづけた。会場は公会堂・公民館・劇場・学校・商工会議所・会館など主に公共施設がつかわれた。
朝鮮戦争をめぐる東西両陣営の対立激化、原爆をふくめた世界的な軍備拡張など不安な内外情勢を反映して、どの会場も真剣な聴衆によってうずめられた。とくに昭和二六年九月八日には対日講和条約・日米安全保障条約が調印されたときだけに、こうした講演会への関心と期待がたかまっていた。講演会の前後には新聞記者との共同会見、有力者との懇談会、名士の来訪があり、翌日の新聞にはその内容がくわしく報道された。たとえば岡山市での懇談会には県知事・市長・市助役・教育委員長・県会議員・市会議員・岡山大学教授・新聞社関係者など二一人が出席し、また広島市では、広島大学学長・市長・県会議員・市会議長・同副議長・広島放送局長・中国新聞社など二五人が参集して、熱心に意見の交換がおこなわれている。
出口会長の海外渡航はおおくの成果をのこしたが、これを契機として海外への宣伝が活発となった。すでに一九五〇(昭和二五)年の九月一四日には、はやくもブラジルの人類愛善会南米本部が同国の法令によって公認され、昭和二六年には支部がつぎつぎに設置されて活動も軌道にのってきた(八編四章)。
昭和二六年五月二四日、戦後強調されてきた「信教の自由」に憂慮すべき事態がおこった。「宗教団体といえども純宗教的目的を逸脱し政令(団体等規正令)に該当する行為をなすときは政治活動と解する」「宗教団体が純然たる宗教信条から平和運動を行い政治の浄化を強調」する場合でも、それが「政府または地方公共団体の政策に影響を与える点」があれば、団体等規正令が適用されるとの法務府の見解があきらかにされたのである。しかし八月一三日の第二回会員総会では「一部には平和運動が弾圧されるとして、運動に消極的言動をなさんとするものがあるやにみうけられるが、本会の精神と実践は断じてかかる懸念は無用である。ますます盛大に運動を起して、平和のかく乱を防止せねばならぬ」との指示があり、人類愛善運動は、その後いよいよ強力に推進されてゆく。
こうした運動は海外にも反響をよび、ヨーロッパ諸国の同志からも「人類愛善会の再現に最大の喜びと敬意を表する」との祝意がよせられ、「日本でもっとも活動力のある平和団体」であり、「運動の基礎をなす愛善は……今日もっとも進歩した精神体系をもつもの」で、「この会が現代に果すべき任務は大きい」との期待がもたれるにいたった。
運動の展開にともなって内部の充実がはがられた。昭和二六年五月には牧野虎次(同志社大学総長)、真溪涙骨(中外日報社主)、湯浅八郎(国際キリスト教大学総長)、R・I・シーベリー博士(アメリカ外国伝導教会教育部長、女性)を人類愛善会の顧問に委嘱した。八月、大国以都雄が土井三郎(昭和26・1・1就任)にかわってふたたび事務局長に就任し、総本部の機構も宣伝部・編集部・国際部・総務部と整備された。「人類愛善新聞」も五月上旬(一七号)から旬刊、一一月第一週(三五号)から週刊へと発展し、支部結成・会員の増加・新聞拡張にも努力した結果、一九五一(昭和二六)年末には支部二六七ヵ所、連合会二四ヵ所、会員約三万六〇〇〇人、「人類愛善新聞」は約三万五〇〇〇部の発行となった。
〔写真〕
○人類愛善新聞の復刊 第1号 p884
○世界連邦運動平和大会 亀岡 天恩郷 p886
○先頭にたって人類愛善新聞の一部売りをされる二代総裁 p887
○はやくも海外発展の口火がきられた 渡欧米する出口会長 東京羽田 p888
○帰国後の講演会は各地でひらかれ平和運動への関心をたかめた 壇上にたつ出口会長 上 熊本 下 鹿児島 p889