愛善苑新発足の当時、本部機構のなかに農事課をおき、「信農一如」をモットーとして、農作物の増産運動をおこなってきた。その後、長野県で瑞穂会を主宰し米作りの篤農家として知られた黒沢浄と、愛善苑の農事面を担当していた出口新衛とのあいだに協力提携の話がまとまり、さらに梅村登・島本覚也・伊藤膳三ら増産技術指導者の参加をえて、食糧の増産・自給運動をかぎられた信徒間の運動でなく、全国民的運動として展開するため、あらたに愛善みずほ会が設立されることになった。
一九四八(昭和二三)年二月四日、綾部においてその発会式をあげ、本部を亀岡天恩郷におき、各地に支部をもうけた。さっそく二・三・四月には本部講習会を開催して、黒沢式稲作法、酵素農法、甘藷・蔬菜の栽培などの指導をおこなって、全国的に運動を開始した。その年の一一月一二日には社団法人としての認可があったが、発足以来わずか九ヵ月で会員一万二〇〇〇人、支部七〇〇を突破するという盛況であった。そこで支部を統括するために、各府県に地区事務所を設置し、さらに遠隔の地には本部の代行機関として地方事務所をおき、地方組織の充実をはかることとした。
設立の主旨として定款第一条に、「本会は農村に友愛協助の精神を普及すると共に、農村技術の向上並に農業経営の改良普及を計り、以て農民生活の安定と我国食糧自給体制を確立することを以て目的とする」とうたい、役員には、会長黒沢浄、副会長梅村登・出口新衛、理事武田向人・山本守三・菊池寿恵秋・北村林作・比村中、監事伊藤膳三・島本覚也がそれぞれ就任した。これによって愛善苑の厚生部農事課は発展的に解消し、社団法人愛善みずほ会となった。この年さらに、伊藤恒治・山中重信が技術指導陣にくわめった。
年々三〇〇万トン以上を海外から輸入しなければならないという当時の日本の食糧事情にもかかわらず、国内産米の反当収量は全国平均二二〇~二三〇キロ(二石二、三斗)を出ないという実態のなかで、黒沢式六石(六〇〇トン)取りの話は、じつにおおきな魅力であり、本部および全国各地でひらかれた講習会はいつも会場が満員の盛況で、その著書『改良稲作法』はとぶように売れた。発会後一年にして全国に一一〇〇ヵ所の支部が設置され、ひらかれた講習会は二〇〇〇回、その延聴講者は五〇万人を突破し、みずほ会農法の実施者は優に二五万戸にのぼると称された。一九五〇(昭和二五)年六月末には全国の地区事務所二八、支部は三〇〇二ヵ所、正会員三万二六〇〇人、準会員をくわえると四万余人をかぞえたほどの、おどろくべき急速な進展ぶりであった。
運動の躍進にともない亀岡に本部事務所・講堂の建設が計画され、総工費三五〇万円で、木造二階建延一七五坪・付属建物三〇坪の愛善みずほ会館が昭和二五年五月に完成した。
機関誌「愛善新聞」は、九月号より「愛善みずほ新聞」(B5判)と改題され、一九五〇年一月から、べつにグラビア版「農業グラフ」を刊行したが、一九五一(昭和二六)年二月からは右の二つを合併し、「みづほ日本」(B5判)と改題して月刊で刊行することとなった。
指導陣は、本部指導員八、地方指導員三一二人が任命されたが、「米の黒沢浄」「開拓経営の梅村登」「甘藷の伊藤膳三」「酵素の島本覚也」「米麦の伊藤恒治」「蔬菜および経営の山中重信」が主力で、いずれも席のあたたまるひまのないほどに全国各地の講習会に出講し、同時に実地指導にあたった。
会員中にはつぎつぎとすばらしい実績をあげるものも出て、愛善みずほ会の設定した「六石賞」の受賞が毎年幾人かずつあらわれた。また伊藤膳三は甘藷反当り一万貫の可能性を示し、会員のなかには反当五〇〇〇貫以上の成績をあげる者もあった。
しかしながら、運動がたえず順調にすすんだわけではない。一九四九(昭和二四)年の秋には、宮崎・岡山・和歌山等の暖地では黒沢式稲作法がかならずしも適しないという批判の声が出はじめた。またこのころは、戦後の農地改革(昭和21年2月と10月)で零細な自作農家が急増し、食糧の欠乏によって好景気にわいた農村にも、インフレの昂進・政策の貧困によって、窮乏、兼業、離農の現象がめだちはじめてきた。こうした悪条件もかさなって、一九五〇(昭和二五)年の六月を頂点に会員の増加も停滞し、やがて減少しだした。このような状況に対処するため、昭和二五年八月二四日に役員の改選がおこなわれ、黒沢浄は第一線をしりぞき、会長に梅村登、副会長に出口新衛が就任した。このとき黒沢は総裁に推されたが、実際的にはこのころから本会とは疎遠になった。翌年四月、島本覚也が副会長にくわわり、さらに専務理事には山中重信が就任し、伊藤恒治らと協力して愛善みずほ会の立直しの衝にあたった。
愛善みずほ運動の理念としては、日本の食糧自給は可能であり必要である。食糧自給は経済の基礎であり、これによって日本は経済的に自立できる。経済の自立によって真の独立を獲得し、世界平和にたいする独自の使命を果たすことができるという考え方が一貫していた。朝鮮戦争の影響から食糧や原料の輸入が困難になるにしたがって、この考えはさらに濃厚となった。そのため「農業技術の向上」と「農業経営の改良普及」をはかり、「農民生活の安定」と「食糧自給体制の確立」にむかって邁進したのである。とくに農林官僚や学究による農業技術が尊重されてきた日本農業界にあって、民間にうずもれている篤農家のすぐれた技術をほりおこし、双方の利点をとりあげてやさしく解説し、懇切な実地指導をとおして、その組織的普及につとめた愛善みずほ会の存在は、異色あるものとして注目された。こうした実績がみとめられ、昭和二四年一二月農林大臣官邸でひらかれた農民懇談会には、愛善みずほ会の代表がまねかれ、昭和二五年九月には、農林省の食糧増産推進本部の中央推進委員に梅村会長が任命されている。
会名には「愛善」の文字が冠せられていることにもうかがえるように、愛善みずほ運動は、単に、物質的な増産技術の普及運動のみにはとどまらなかった。農民層にたいするあたらしい精神運動たる側面をもになっていた。
大本神諭には「艮の金神のあっぱれ守護になりたら、大地からあがりた、そのくにぐにのもので生活るようにいたして、天地へお目にかける経綸がいたしてあるぞよ」(明治25)とか、または「少しでも食物の用意を致さねば、後で地団太踏んでも追付かぬ事になるぞよ」(大正7・12・22)などとしめされており、また二代苑主も、終始この運動の推進者として、〝増産にはげむ心はとうとけれかんじんかなめの神を忘るな〟〝天は父ちちよ父よと人はよべど母なる上をとく人ぞなき〟〝土の恩知りて増産いそしまば飢ゑて死にゆく人は世になし〟などと、あらゆる機会に「お土」を大切にし、増産にはげむべきことを信徒・会員にさとされた。大本には立教のはじめから、大地をうやまい農を本とする思想がやどっている。愛善みずほ会の結成も、いわれのないことではなかった。したがって教団もまた梅花運動の一環として、組織をあげて運動の面、運営の面に協力したのである。
〔写真〕
○講習会は盛況をきわめ農業技術の向上に寄与した 黒沢会長の講演 広島 p891
○社団法人愛善みずほ会本部 亀岡 北古世 p892
○愛善みずほ会機関紙 月刊 愛善みずほ新聞をのちにみづほ日本と改題した p893