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大本のエスペラント運動

インフォメーション
題名:大本のエスペラント運動 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:1279 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195402c8523
 第二次大本事件によって一〇年間の空白をよぎなくされた大本のエスペラント運動は、新発足後前述のように、着実な発展をつみかさねてきた。エスペラント普及会(Esperanto-Propaganda Asocio 略称EPA)は世界的視野にたって、エスペラント関係諸団体との提携のもとに活発な運動を展開している。この節をおわるにあたって、世界および日本のエスペラント運動を展望し、あわせて大本におけるエスペラント運動の立場をふりかえっておこう。
 エスペラントの歴史は、一八八七(明治二〇)年七月、創案者L・L・ザメンホフが「エスペラント博士著・国際語」を発表したときにはじまる。それから一八年をへた一九〇五(明治三八)年、フランスのブローニュ・スル・メール市でエスペランチストの第一回世界大会が開催された。この大会ではじめて各国から数百のエスペランチストが一堂に会し、これを契機としてエスペラント運動は、はじめて世界的規模をもつ組織的な運動へと発展していった。一九〇八(明治四一)年には世界エスペラント協会(Universala Esperanto-Asocio 略称UEA)が組織され、爾来五〇有余年、エスペラント運動を代表する世界的な統一運動団体として今日にいたっている。現在、本部はロッテルダム(オランダ)におかれており、協会加盟の団体は四六ヵ国、各種専門団体は二一、個人会員は八四ヵ国におよび、ヨーロッパ、アジア、南・北アメリカ、アフリカ、オーストラリアの各地域にわたっている。独自の制度としてデレギート(都市代表者、専門別代表者)制があり、現在五八ヵ国に配置され、情報の提供、旅行の世話、学問的交流などの諸事業が、デレギートの奉仕活動によって常時おこなわれている。その他、二〇ヵ国に加盟団体をもつ全世界エスペランチスト青年機構や、職業専科別エスペランチスト、労働者エスペランチスト、平和運動者の国際団体がそれぞれ組織されて、活発な活動をつづけている。また純粋にエスペラント語学の研究をおこなう統一機関として、エスペラント学士院がもうけられ、大本からは中村陽宇が会員に選出された。
 日本におけるエスペラント運動はどうであったか。日本人でエスペラントをはじめて学んだのは、動物学者の丘浅次郎博士で、一八九一(明治二四)年ドイツ留学中のことであった。その後一九〇三(明治三六)年ころから国内での学習熱もさかんとなり、第一回世界大会のひらかれた翌年の一九〇六(明治三九)年には、はやくも第一回日本エスペラント大会が東京で開催され、その年には、全国組織である日本エスペラント協会が、黒板勝美・吉野作造博士らによって創立された。明治の文豪二葉亭四迷による教科用・独習用テキスト「世界語」も発行されるにいたった。こうしてエスペラント熱は国内にもしだいに滲透し、エスペラント運動はヨーロッパ、日本を基盤として世界的なひろがりをみせはじめた。とくに第一次世界大戦後は大正デモクラシーの波にのって、日本のエスペラント運動も急速に進展し、一九一九(大正八)年には、日本エスペラント協会にかわって、日本エスペラント学会(財団法人Japana Esperanto-instituto,略称JEI)が小坂狷二・藤沢親雄・浅井恵倫らによって設立され、翌一九二〇(大正九)年一月からは機関誌を発行して、エスペラントの普及につとめることになった。全国主要都市に支部(二八)をおき、毎年一回日本エスペラント大会を主催し、一九六二(昭和三七)年には四九回(この年の世界大会は四七回)をかぞえている。
 国内には各エスペラント団体の統一団体はなく、現在日本エスペラント学会が日本を代表して世界エスペラント協会に加盟している。学会支部のほかに全国各地に独立したエスペラント地方会があり、その協議体として北海道・東北・関東・北陸・東海・関西・中国・四国・九州の各地域に連盟が組織され、地方大会を毎年開催している。その他学生、青年、職業専科別、労働者、平和運動者などの各全国組織がある。宗教団体がエスペラントをとりいれているのも特色で、大本のエスペラント普及会のほか、日本仏教徒エスペランチスト連盟、日本カトリック・エスペラント会、日本キリスト者エスペラント会、世界救世教エスペラント会などがある。
 エスペラント運動には、エスペラントの言語普及活動と、エスペラントの普及を介して人類の幸福・平和という理想の達成に寄与しようとする思想活動の二つの側面がふくまれている。これはザメンホフが、人間が人間を支配し相争う現状に反対し、人類の平和・世界一家の理想を実現するためには、「中立的な言語の基礎」とともに、「中立的基盤」がなくてはならないとかんがえ、エスペラントをつくり、同時に人類人主義(世界同胞主義、エスペラントの内的思想という)をとなえたことに端を発している。ザメンホフ自身は人類人主義の確立につよい意欲をしめし、エスペラントの普及はその理想を具現するための方法手段にすぎないとすら考えて、そのために生涯をささげたのである。
 だが、一九〇五(明治三八)年の第一回世界エスペラント大会では、「エスペラント主義」は「エスペラントという人類にとって中立的な言語を世界に拡めんとする努力」であり、「エスペラント精神はこれのみである」との宣言が採択された。そしてエスペラントの内的思想については、「それは単にその人の個人の見解のみであって、何らエスペラントそのものには関係はない」と規定されるにいたった。この宣言は若干のエスペランチストが、ザメンホフの提案にしたがって公表したことになっているが、事実は、ザメンホフの人類人主義の思想に反対したエスペランチストが、ザメンホフの思想的なものをエスペラントから切りはなすよう強要したものであった。
 ザメンホフは、翌年ひらかれた第二回世界エスペラント大会で、「もし初期エスペラントの闘士たるわれわれをして、われわれの行動の上に一切の思想的なものを避けしめるよう強要するなら、われわれは憤然として、われわれがエスペラントのために書いた一切のものをひき裂き、焼き捨ててしまおう。……われわれは胸につけた緑の星を遙か遠くに投げすてて叫ぼう。そんな、ただ商売や実用の目的だけに役立たなければならないようなエスペラントなら、われわれとは何のかかわりもないものだ!」とのべて、第一回大会のエスペラント宣言をはげしく批難し、自己の本心を吐露した。それ以来エスペラント運動の内部には、この二つの流れが複雑にからみあっているが、現在では、おおまかな線ですべてが抱擁され、運動がすすめられている。
 「エスペラント」とは、本来「希望する者」をいみし、もともと「世界の平和を、人類の幸福を」という人類共通のねがいにつながるものなのである。大本がエスペラントをとりあげたのは一九二三(大正一二)年であったが(上巻六九五頁以下)、それ以来一貫しておこなってきた大本のエスペラント運動は、たんなるエスペラントの言語普及活動にとどまるものではなかった。そこには経綸への自覚があり、エスペラントを介して共通の理想達成に邁進しようとする決意にもとづくものであった。このことは、つぎの愛善エスペラント会発足の挨拶にもあきらかである。
聖師様はかつてお地蔵さんの絵をおかきになって、それに和歌を一首お詠みになりました。〝エス語地蔵と全地の上に現はれて吾は緑に世を生かすなり〟。また宣伝歌のなかに、〝エスペラントやバハイ教 紅卍字教や普化教も 残らず元津大神の 仕組給ひし御経綸〟と示されてあります。これらのお歌によってもあきらかなように、……エスペラント運動そのものが御経綸の一環をなすばかりでなく、われわれにとりましては社会の愛善化、世界の愛善化への力強い実践運動となるのであります。……神業の世界的発展の上に一大推進力となるものであります(「愛善苑」昭和25・2)。
 ポーランドの一角に生まれた国際語エスペラントは、七五年間にたえず発達してきた。創案当初九〇四個にすぎなかった公用語根は、七八六六個(『エスペラント大辞典』)となり、その語根から形成される単語は一万から八万語にふえた。時代の進展とともに「計画言語」から「生きた言語」へと進化をとげ、今日では論理的思考・芸術的表現・通信などの要求をみたしつつある。しかも、戦後におけるエスペラント運動には、社会主義国・新興国や若い世代にむかって、新生面がきりひらかれつつあり、教団を背景とする国際的文化活動として、大本のエスペラント運動によせられる期待とその課題は、今後ますますおおきなものとなりつつある。
〔写真〕
○エスペラント人口は100余ヵ国におよび若い世代にも浸透している 世界大会 p1280
○一つの神… 一つの世界… 一つの言葉… 大本エスペラント広場の碑 亀岡天恩郷 p1283
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