霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第八節 信教宣伝使心得

インフォメーション
題名:第八節 信教宣伝使心得 著者:
ページ:457 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195502c2108
宣伝使心得
大本瑞祥会宣伝課
宣伝使に対する出口聖師の教示

(以下大正十五年十一月八日於宣伝使会合)
 神様の道に限らず世の中のことは一切、顕幽一致して居るのであります。霊界には霊国と天国とがあつて、主神(すしん)は霊国では月の大神と現はれ、天国では日の大神と現はれ給ひ、そして霊国は主として信真(しんしん)の光、天国は主として愛善の徳から成り立つて居るのであります。此の大本は霊界の移写として、綾部が天国となり、亀岡天恩郷が霊国となつて居り、霊界の天国は神を信じて居つた人(信者)の精霊、即ち普通の天人の居る所であり、霊界の霊国はエンゼル(天使)の居る所であります。此のエンゼルと云ふのは一名媒介天人と云つてあちらの団体からこちらの団体に、或は(うへ)の団体から(した)の団体に往来して団体相互の連絡を計り、そして神様の徳を総で、の天人に伝へると云ふ重き使命を有するものであります。天人にも色々と階段があつて百八十一段もあり、それで向上する事ばかりを天人は考へて居り、それを楽しみとして居ります。エンゼルは天国ばかりでなく中有界、地獄へまでも下りて、種々救済に努むるものであります。就いては此の大本の宣伝使と云ふものは、人間が拵へるのではなく、皆神様の御意志に依つて任ぜらる』のであつて、霊界に於てはエンゼル即ち媒介天人として、あなた方の霊魂は働いて居るのであります。それですべて宣伝使の行動は、他の人よりも非常に速く霊界に響いて来ますから、余程注意して貰はねばなりませぬ。
  ○
 それから宣伝使同志の心得でありますが、一方の宣伝使が(まは)つたあとへ他の宣伝使が廻つて行く。宣伝使の話でも浅かつたり深かつたり説きやうに色々ありますから、今深く説いた宣伝使のあとへ浅く宣伝する人が行くか、又浅く説く宣伝使いのあとへ深く説く宣伝使が行くかすると信者の方が迷ふ。迷ふから自然その話が出る。その際あの宣伝使の言つた事は違つてゐると(けな)すやうな宣伝使がタマにはあると聞いて居りますが、それは善くない事であらうと思ひます。宣伝使は総て一体のものでありますから、自分より浅く説いて居つても、それは同じ高嶺に登るにも道が色々あるのと同じで間違つて居るのでないと懇切に宣り直して置かねばなりませぬ。若しもそれが実際間違つた説であつたり、又不都合の行為があつたとすれば、之を記憶して置いて本部に内報するが宜しい。それを自分が直接に言挙げしますと、怒つたり不快に思ふたりする事があります。何と云はれても怒らぬやうになれば本当のエンゼルであるが、調べて見ると未だ多、んな処まで行つては居らぬ様であります。宣伝使は大神様の肢体、分体であるから分体は本体に合し、本俸は分体に合すると云ふ考へを常に持つで、居て貰はねばならぬ。
  ○
 宣伝使の方が霊国即ち此処へ来られた時は、是非共宣霊舎二参拝して貰はねばならぬ。来られた時と帰られる時、又宣伝に出かける時は宣霊舎に参つて貰ふ。そうすると霊界に於て大活動をして居られる宣伝使が祀つてあるのでありますから、その守護を受けて宣伝がより以上に出来るものであります。又そうする事が在霊界の宣伝使に対する礼儀の一つでもありますから、これも間違はぬやうにして貰はねばなりませぬ。
  ○
 霊界には神の家と云ふものがあつて、現界では分所支部がそれである。
 霊国にある花鳥山(くわてうざん)、そこに建つて居る神殿はエンゼルの集まる所で、之は大本で云ふと神集館である。神集ひの館で八百万の神々の集合所である。此の上の方に出来るのが神集殿、も一段上が月宮殿で、四十八の石の宝座と共に霊界と少しも違はぬやうに写し築き上げるのであります。
 信真といふのは霊国の自体であつて、そして石に相応するものであります。又愛と善は天国の自体であつて植物に相応するから、それで綾部の方は樹木が非常に良く繁茂して居るのであります。そしてあちらでは家でも皆木で拵へてある。霊国は大抵石になつて居ります。惟神に神様が秘して置かれた石が先繰りに現はれ来りて、本当に名実相伴ふた所の霊国の姿が成りかけて居りますが、之も一つの不思議であります。
  ○
 宣伝使が宣伝に行つて信者又は未信者の家に泊つた時、あまり早く起きると家人が迷惑するし、又家人が起きたら間もなく起きないと、あまり遅くなると之も亦いかないから、家人に次で起き、神様に祈願をするのが結構であります。食物は凡て贅沢しないやう、漬物や何かで済ますやう心がけねばならぬ。あまりに御馳走されたならば箸をつけないで、その中の簡単なもので快く済まして置けば、先方も後には御馳走も出さなくなります。すべて腹が減らなんだら良いといふ位にして居ると、何処の家でも非常に都合がよく、喜ばれるものであります。又用もないのに三日も四日も泊つて居ると云ふやうな事は、深く慎まねばならぬと思ふ。
  ○
 又霊界物語によつて御承知と思ひますが、斎苑(いそ)(やかた)から派遣されて居るる治国別(はるくにわけ)照国別(てるくにわけ)は正宣伝使で、玉国別(たまくにわけ)は准宣伝使である。それであるから玉国別はあれだけ苦労したのであつてエルサレムに行つて初めて正宣伝使になつたのであります。神様の名は(じつ)の主であつて、それだけの価値が附いて居り、名で仕事が出来るのであります。又名で非常な敵をも撃退する事が出来るものであります。
  ○
 准宣伝使が正宣伝使と一所に居つた場合は、正宣伝使の命令を遒奉して貰はねばならぬ。試補が准宣伝使と一所になつた時も無論同様である。
 かかる場合に於て、上級の宣伝使がたとへ馬鹿のやうに見えたり、自分より力が足らぬと思はれても、神様の方から力を貰つて居るのであるから、其心得で居つて貰はねばならぬ。又試補であるからと云ふて心配をしなくても良い。一生懸命に働いて居れば、先繰(せんぐ)先繰(せんぐ)りに霊界の資格が上つて行くから、階級も昇つて行くものであります。
  ○
 兎に角順序と云ふ事が神界では非常にやかましいので、順序を乱すと総てが乱れて了ふ。神様の方で御気(おき)に入つて、之は宣伝使にしてもよいと御考へになつて居つても、宣伝使の方から見て自分の気に合はぬとか何とかで、あんな人を宣伝使にしてはならぬと言つたり、又神様の御気に入らぬ者でも、自分の気に入ると宣伝使に推薦するといふやうな事が、今迄時々あつたやうでありますが、総て感情に左右されないで、力のある人と思つたら推薦してよろしい。宣伝使にするか、しないかは神様の方で決められるので、その中から、神様の方から時期が来れば任命して下さるのであるが、半期もしてから下るか、何時になるかそれはわからぬ。それから昇級さしたらよいと云ふ場合には、准宣伝使の方から正宣伝使の方へ内報する、任命は神様がなさるのであるが、宣伝使の方でも常に心がけて居て貰ひたい。霊界が非常に迫つて居りますから、順序の下に沢山宣伝使が出来る程結構であります。
  ○
 相応の理で、第一天国と一番底の悪の強い地獄(第三地獄)と相応し、中間の天国は中間の地獄に、最下層即ち第三天国は一番浅い上層の地獄(第一地獄)に相応して居りますから、第一天国の宣伝使は、最低の地獄へ宣伝に行つて其時一旦智慧証覚が下つても、又忽ち元の通りに向上して来るものです。此の理により、中間天国の宣伝使は上層又は中間地獄より行けない。それは宣伝使の智慧証覚が少ないから、最低地獄へ行つたら帰つて来られんことがあるからである。悪の強い処は余程勝れた人でないと犯されて了ひます。
  ○
 『(たま)(いしづえ)』に農工商等世間的職業に従事するのは宣伝使の聖職を冒漬するものであると云ふ事が書いてありますが、これは今日の場合は許されます。宣伝使と云ふのは霊界の事であり、肉体のある間は現界的の仕事をする事を許されて居ります。併し五六七(みろく)の世になればそうではない。宣伝使が他の仕事をする間があるやうでは宣伝使の聖職は勤まらぬ。
  ○
 正宣伝使は第一霊国に、准宣伝使は第二霊国に、試補は第三霊国に相応して居るのであります。大宣伝使も正宣伝使と同様である。つまるところ大のついてゐるのは宣伝使の取締といふやうな意味である。
  ○
 天国には罵詈(ばり)とか讒謗(ざんぼう)とか怨恨(えんこん)とか、そういう情動は一切無いから、宣伝使は一言もそういふ事がないやうにして貰はねばならぬ。信真と愛善と善言美詞(ぜんげんびじ)ばかりでなければならない。罵詈讒謗された時いやな気持がしたり、腹が立つと云ふ事は悪いといふのでは無いが、腹が立たぬようにならねばならぬ。霊界から見ると罵詈讒謗を云ふ人間は人間の風をして居らぬ。人間と思ふと腹が立つ。向ふを買ひ被つて居るのだ、獣畜(けもの)のサツクと思ふて暑ればよい。霊界物語にサックと書いてある。

  ○
 (あま)の数歌はその結びの句が総て百千万(ももちよろづ)といふ事になつて居りますが、『ふるべゆら』といふのは喜ぶ、祝福する、勇む言霊で、病気癒しだけに唱ふるのであり、神様や祖霊(みたま)等を鎮める時は皆百千万(ももちよろづ)と奉唱するが良ろしい。
  ○
 お取次のとき発動して来た場合には、それは鎮めておいたら良い。それを問答をして白状さして了ふと、その精霊が、人間の体中に入つてゐるといふことに気がついてその人を殺さうとするものである。邪霊はその宿主を自分と思ふて居るのであります。又人間の方も入つて居る邪霊が思はせる事に気がつかないで、自分の考へのやうに思つて居るものであります。邪霊は邪霊で自分の体と思つて居るから、その人間を大事に守つて居るのであつて、万一その邪霊が自分は他の体中に入つて居るのであると云ふ事に気がつくと、その人間を亡ぼさんとするものでありますが、此の事は霊界物語に書いて置いたと思ひます。
  ○
 魂返(たまがへ)しの鎮魂には(あま)の数歌でよい。帰る人は帰つて来る。生死簿について居ない人は活きて来るものであつて、死なない人は何うしても死なぬ。まだまだ現界で使はうと思召すと決して死ねないものであります。
  ○
 お取次をする際、痛み処が益々痛むといふやうな事があるが、それはそれで良いのである。例へば腫物などでも切り取る間際は非常な苦痛を感ずる如く、()うなる前には一時痛みが増す事があるのは当然の理であります。
  ○
 自分の腹の中から声のするのを感じ、所謂霊肉問答をして、中の霊が人間の体内に自己が這入つてゐると云ふことを覚り出したら悪い。何か(うつ)つて居る事が判つたら、おさへるやうにすればよい。それを叱りつけたりなどすると、その時はよくても後は不可ぬ。是は前に云つた他人を鎮魂すると同じ事である。

以下昭和二年四月六日於宣伝使会合)
 人間の霊魂の中に、人間の内的の戒律として、(かへりみ)る、(はぢ)る、(くゆ)る、(おそ)る、(さと)る、の五ケ条があります。此の中の省るといふ事に就いて、非常に深く考へ過ぎてゐられる様な傾きがあります。中には昔の聖人が言ふたやうに、三(あし)行つては一足後へ戻つて考へて見る、吐哺握髪(とほあくはつ)とか云つて、一遍食た奴を亦一遍ロヘ出して見て噛んで査べるといふ風に、省るといふ事を解釈して居る人がありますが、併し省るといふ事は良い事と悪い事とある。大本では進展主義であつて退嬰主義でない。省るといふ事は取違ひすると退嬰主義となる、霊的の戒律ですから天の方を向いて省るのです。上さへ真直にあつたら、足下は見なくても決まつてゐる。
 省るといふ字は、少いといふ字と目といふ字が書いてある。目といふ字は月といふ字の中に日といふ字を入れたのです。一の字は之は日といふのです。目は(つま)り左と右が日月。月の中に日が入つて居る。省るといふ事はそういふやうな意味です。少し見る。上を少しづつ見るのが省るので、後を向くといふ事は退嬰、或は引込思案。それで宣伝に行つても、初一念といつて、初めに此の人は何ういふ病気だとか、此の家にはこういふ障りがある、といふやうな事がフツト浮んで来るものだが、それを率直に言出し兼ね、若し違つたら神様の名を汚すだらうなぞと考へる。
 此処が悪いのですと言つて、万一それが間違つて悪い事があつたら笑はれる、といふ様に遠慮して居るのは決して省るのではない。初一念といふ事があるが、一といふのは神であリヒである。即ちヒは(れい)であり神である。初めといふ事は矢張神といふ事です。それで何でもフツト感じた事を直ぐにその通り言挙げすべきである。之は違つては居ないだらうかなぞと躊躇する、それが退嬰主義となる。何事も神様に任して行くのだ、宣伝使は神がお使ひになるのだから、初めに感じた事をドシドシ言へば良い。足下を省みたり後へ手を廻したりすると、他の方に気がうつり、何もわからなくなつて来る。神様は初一念に何でも浮ばして下さるのだから、若し間違つたらどうしやうといふやうな考へを起そうものなら却て何でも間違ふものだ。従つて勇気が出なくなつて了ふ。宣伝に行つて銘々に新しい宣伝使が感じる事でせうが、あゝ言つとけば良かつた、矢張あすこが悪かつたのだ、といふやうに感じる事がある。それ故に初めに思つた事を言い放つて了へば良い。考へ直すと二念三念四念となつて、神の考へではなく自己心に代つて了ふのである。其処の処を良く考へて貰はねばならぬ。
  ○
 宣伝使は人間の顔色が見えぬ様では駄目です。宣伝使だからと云つて、誰も彼もつかまへて言ひさへすれば誰でも信仰すると思つて居ると失敗する。私は信仰の無い人に対して宣伝するに、年に三遍位其人の家に行つて、十五年目に初めて手を合さした人もあつた。神に従ふ事の早い人と遅い人、神に近い人と遠い人とがある。さういふ人を早く入れてやらうと思へば思ふ程、向ふが遠ざかつて了ふ。さういふ処をよく考へて見て──今まで既成宗教には入つて居つた処の教導職、坊主といふやうなものは、百人千人に一人位は可成の人物があるやうだが、大抵は商売になつて居る。即ち営業宗教家になつてゐる。そんなのが大本へ入れて呉れといふて何んぼ来たか知れぬ。永遠無窮の神の国を造る宗教は大本を措て外に一教派もない。大本の宣伝使は大本の中でも特に選ばれた方々ですから、よく考へて宣伝して貰はなければならぬ。
  ○
 宣伝使の中には、同じ大本内の他の宣伝使の事を余り良く言はない、否悪罵(あくば)の矢を向ける人がある。他の宣伝使の行つた後へ自分が行つて、なんとか彼とか攻撃をやる連中は、内裏から大本を破るものである。要心堅固な栗でも柘榴(ざくろ)でも中からはじけるのです。皆敵は外に居らぬ。家の中に、押入れの中に敵は居るのです。人間を災に導き殺し、人間を苦しめるのは、皆人間の心の中に居る曲津神(まがつかみ)です。外から来る災は防ぐ事が出来るが、内部の敵は防げない、大本の中でもさういふ宣伝使がありましたから、銘々に気を附げ合つて貰はなければならぬ。宣云使で無うても信者同志でも、さういふ事を言つてはならない。
  ○
 今までの宗教家は汽車の中だらうが大道だらうが、人さへ見れば教義を説いたけれども、余り面白くない様です。人間でも尊い人に対し、汽車の上で出逢つたを幸ひとして、序に話するといふやうな事は失礼なことである。本当の神様の事は、おさまつた処で話をせねば聴くものではない。汽車の中では新聞や何かを参考として与へる事は良いけれども、其処で教理を説くといふやうな事は、神様の方では禁物なのです。その代りに瑞祥新聞が拵へてある。それを渡して置けば良い。公会堂で宣伝すれば演説会のやうな気分になり、劇場でやれば聴衆は只そめく事許りを考へてゐる。何うしても神様の前か神社か、さういう処でなければいけない。神様の話は時所位(じしよゐ)、即ち時と所と位置を考へねばならぬ。四辻に立つて太鼓をたゝいて車輪に活動してもその割に悪口云はれる丈で実を結んだ事はない。人家の奥座敷に坐つて恭々しく説いた事は、神様の御守護があるけれども、道端に立つてやつたり、或は公会堂でやつたりしても少しも功顕がない。要するに宣伝の場所が相応しないから聴かないのである。相応のない場所に於て、何程教理を立派に説いても何にもならない。ようしやべる人とか、弁のよい人だといふ位なものである。饒舌るのは下手でも、誠と熱心さへあつたらそれで宣伝使は良い。
  ○
 それから一寸腹が立つとか憎らしくなるとかいふやうな心が出て来た時は、其時こそ省る必要がある。其の時は曲津(まがつ)が憑いて、自分の心を左右せんと企らんでゐるのだ。要するに天国には憎みとか妬みがない。天国の宣伝使は愛許りである。その外に憎みとか妬みがあつたら、それは地獄界、八衢(やちまた)に自分が墜ちたといふ事に気がついて、その時自分を省なければならぬ。
  ○
 自分に対しての迫害や罵声は、馬耳東風的に見遁し聞遁し、平和の心になつて居なければならないが、万々一神の道を(こぼ)ち破らうとした時は、大いに怒つても良い。大いに戦ふても良い。それは防ぐための神の国の宣伝使でもあり兵士でもある。霊界物語を読んで行くと照国別等は宣伝使であつて、一方には軍隊に加はつたりする事がある。阿弥陀でも弥陀の利劔といつて片方に劔を持つて居る。之は魔を払ふためである。その時に毀たれて黙つて居るといふ事は出来ぬ。それは生命(いのち)を的に行かなければならぬ。


(以下昭和三年四月二十六目於宣伝使会合)
 宣伝使としての使命は、霊界に於ては媒介天人の役であり、現界にては大神様の御恵みを世界隈なく宣べ伝へるのが宣伝使の役であることは云ふまでもない事であります。宣伝使は現界に於ては、布教宣伝の外に冠、婚、葬、祭の役も()なければなりませぬ。
 媒介天人といふものは媒介人(なかうど)のやうなものでありまして、宣伝使は出雲の神さんのやうに縁結びもせなければなりませぬ。神の道では、遠近、上下、貧富の区別は無く、霊魂(たましひ)の合ふた信者と信者とはドシドシ結婚するやうにしてもらひたい。そして成るべく大切(だいじ)な信者を外道の者の手に渡さぬやうにして貰はねばならぬ。外道の者の手にといふとおかしいが、どうしても此の道を信じない人は神様の方から見ると外道であります。
 霊界に行けば、天国天人が祭典をし、霊国の天人は宣伝をすることになつて居りますが、現界は型の世の中、顕幽一致の世の中でありますから、宣伝使は宣伝はいふに及ばず、葬も祭もせなければならないのであります。冠といふのは、廿一歳になれば昔は冠をかぶり一人前になるといふ意味であります。冠婚葬祭、この四つは宣伝使の最も必要な努めであります。
  ○
 大本は敬神、尊皇.愛国を説き、皇室大中心主義をモツトーとして活動して居りましたので非常に頑迷固陋な団体の様に思はれましたが、却て『よく泳ぐ者はよく溺る』といふ喩の如く、唯一の尊皇団体が不敬罪といふ事にせられたのであります。是は我々として精神的には非常に痛痒を感じて居るけれども、誠といふものは何時か現はれるものであると思つイ、居つた所が、(いよいよ)その雲も晴れました。その間兎も角、神様の事さへ云へばよい、神様以外のことをいふからこんな目に遇ふのだといふ様な具合で、神様の教斗り唱へて来ました。然し、今日では当局者も大分目が醒めて、共産党事件等で各府県共に種々神主などを頼んで国体の弁明に努めて居ります。かういふ風に世の中が変つて来ましたから、敬神、尊皇、愛国の旨を体し神国の国体を守るべく、相共に充分の宣伝をして貰ひたいのであります。
  ○
 大本の前途はまだまだ是からでありまして、千里の道なら未だ一歩踏み出したばかりであります。漸く弥勒が下生した所で、未だ一、二年にもなりません。否一日にもなるかならぬか位の所でありますから、皆さんの是から先の仕事が肝腎であります。三歳(みつつ)四歳(よつつ)の子供に、二十貫も三十貫もある荷物を持てと云つたところでそれは出来ぬ。私から見ると皆三歳か五歳、十歳(とう)位の人ばかりでありまして、今では分相応、その人の力相応の御用が言ひつけられて居るのであります。霊界は現界と(ちが)つて、一ぺんにでも俄に歳をとらうとま丶であるし、一ぺんに二十歳にでも三十歳にでもならうと思へば、心の持ち方一つで変つて来るのでありますから、尤も天界では三十歳より以上の年寄りは無いが──充分に一時も早く大きくなつて、二十一歳の成年式のお祭りの出来るところまで、早く進まれる事を希望いたします。
  ○
 筆先に就きましての点も、なかく本当に解釈は出来ないが、是は永遠の謎だと思ひます。我々が口で説く事は出来ませんが、この筆先は一生懸命に念じて研究されたならば、ただの一頁ででも、一ででも解つて来るのであります。未だ皆誰も是がなかなか解つて居りませぬ。是も充分注意してよく考へて貰はねばならぬ。今の人は文字に拘泥したり、非常に言葉に拘泥して仕方がないが、実際お筆先のすべての言葉の中には密意が含まれて居るのであります。現代の人にこの神様の事を充分解るやうにしやうと思へば、太平洋、太西洋、南極洋、北極洋、印度洋、世界中の水をすつかりインキにして皆(から)になる所迄書いた所が未だ書けぬ位のものであります。天国の天人ならば僅か二口か三口で解る事が、現界の人は其れ位、智慧証覚が衰へ霊魂(れいこん)が曇つて居るのであります。そんな事をしなくても解る唯一の方法は唯信仰であります。信仰の念を起して筆先をさういふ考へを以て、書外の書、言外の言をよく考へることと、そうして世界中の事と筆先とを考えて見たならば大抵の見当が付くのであります。九分九厘まで見当がつけば、一厘の所はつかなくても、それは神様に任して置けばよいのであります。


(以下昭和三年十一月十六日於宣伝使会合)
 大本は今日迄に世間から非常な誤解を受けて居りました。然し乍ら総ての宗教の起る時には宗教家として又は宗教の勃興時代としてあり勝な事であつて、少しく新しい教理を唱へても既成宗教の方面からは、異端者とか邪説とか色々な攻撃を受ける。又随つて一般の人々よりは、尚々不思議がられ怪しまれるものであります。然し乍ら天地の真理は鉄棒の如きものであつて、是は如何なる勇気と雖も、如何なる力と雖もまげる事は出来ない。真理はどこ迄も真理であります。中にはそれが世間から誤解を受け、或は大本は不逞の団体の様にも誤解された事もある。不敬漢の大将を戴いて居る様に思はれた事もありますが、是が為に宣伝使の中には、未だ世の中に憚つて、大本を公然と布教することを躊躇して居る人がある様にも思はれます。昔から電気だとか燈明の様なものは、あかりをとぼして床の下に隠して置くものはない。一段高い所にかゝげてそこら中を照す為に、光りと云ひ、明りと云ふものがあるのであります。
 それで吾々大本人及び宣伝使は、特に世の中の光りとなり、花となり、塩となつて地上一切を浄めねばならぬのであります。
  ○
 我帝国憲法の第二十二条には信教の自由を許されて居るのであります。然し乍ら信教が自由だといつても、それは国民の義務に背かざる範囲に於て自由であります。たとへば汽車が二本のレールの上に乗つて居る間は進行は自由自在であるけれども、二本のレールを離れたり、脱線したならば顛覆するより仕方がない。その如く日本の人民はどうしてもニホンの道の上をはづれては信仰は自由ではない。外国の教でもかまはぬ、或はマルクスでもかまはぬ、といふのでは、ニホンのレールを脱線して居るのであります。
 それで日本の神道はどこ迄も皇室中心主義である。そして吾々の尊敬する神様は皇室の御先祖にあらせられるのであります。所謂神を敬ふ事は皇室をたつとむ事であります。敬神尊皇といふ事になるのであります。
 敬神も尊皇も落着く所は一つであります。
 それで是からは、今迄の様な因循姑息な考へのある人は是をすつくり捨てゝ了ひ新しく生れ変つて、呱々の声を挙げねばならぬ時が来たのであります。大いに獅子吼すればよいのでムいます。

(以下昭和四年二月五日於宣伝使会合)
 宣伝使といふことに就いて少しくお話致します。今迄の既成宗教は、之に教正とか教師とか講義とか色々の名を付けて居りますが、(けう)といふことは今日の人間の知識を以てして知るべからざることを、或は天啓により、神示によりて教ふるといふ事が、初めて(をしへ)の字の意になつて来るのであります。──学校で教へて居るのは教育であつて、人間の持つて生れた慣性を真直な方に育てゝ行く、之が教育である。
 この宗教といひ(をしヘ)といふて居るのも、その祖師が天啓を受け、神の(をしへ)を受けて、世の中へそれを伝達したものであります。人間の分際として、人間が人間に教へるといふことは出来ない。自分の心、自分の勝手に教へるのでなくして、一定の神様から(をしへ)へられた御旨(みむね)を人に伝へる。祝詞の中にも『宣伝使(をしへつなご)(をしへ)(わざ)に己が向々(むきむき)有らしめず』とあり、己が向々(むきむき)といふのは自分が自分勝手のことを教へることであります。それで大本の方では、教師といふことは非常に僣越な様に感じるので、神様の(をしへ)を伝達する、つまり宣り伝へるお取次といふ意味から、宣伝使と称してゐるのであります。故に大本の宣伝使は神様の(をしへ)ばかりを宣り伝へるのであるから、自分の我意は少しも用ひられません。それがために教師とか教導師のやうに(をしへ)とか師匠の師とかを用ゐないで、()り伝へる使『宣伝使』と名が付いてゐるのであります。
  ○
 それから沢山の宣伝使の中にも、地方々々によつて選出され、推薦された人がありますが、この宣伝使といふものは決して階級でもなければ単なる名でもない。勲何等とか、位階の何位といふのとは違ひます。た父神様の御旨を真面目に宣り伝へる人が宣伝使である。けれども今日の宣伝使の中には、之を階級の様に感じて宣伝使になることを喜び、肝腎の宣伝は少しもしない人も沢山ある様に私は見受けます。それでは名実相伴はない。宣伝の出来ぬ人は矢張宣伝使といふ名はないがよい様に考へます。宣伝使になつた人は矢張色々の方面から宣伝をすることが必要である。然し乍らこの大本の宣伝使はそれ許り専門にかゝつてゐる人はない。
  ○
 私は神道十三派の内幕もよく知つてゐる。御嶽教に三年ほど居りましたが、何処の宗教も、仏教であらうが神道であらうが、寺を建てるとか教会をこしらへて、それを営業の様にして食ふてゐる所の宗教即ち営業宗教になつてゐるものが多いのでありますが、大本では綾部と亀岡には特別に御用があるから其れ許りにかゝつて呉れる人が選抜しておいてはあるけれども、(おのおの)全国に亘つて、分所、支部一ケ所と雖も、それを商売にしてゐる人は無い。みんな百姓なり何なり一定の自分の職業を持ち、或は恩給があつて遊んでゐる人などそういふ人が宣伝使となつてゐるのでありまして、(よそ)の宗教とは非常に変つてゐる。代りに(よそ)の宗教は又教導職になるのには、義務金とかなんとかいふて金を出して買ふのである。
 商売の鑑札のやうに思つてゐるのだから、金を出す筈である。大本のはそうでない。ただ神様に奉仕する。国家の為に人類の為に、神の真の正しい道を、我が同胞及び世界の同胞に伝へたい。かういふ真心から、支部なり分所なりが出来てゐるのであるから、支部なり分所なりによつて生活してゐる人は今の所では一つもない。是は大本として世界の宗教に誇るべきことであります。然しながら如何なる宗教と雖も、創立の際初まりの時は、正しくそういふ具合になつて居りますが、是が年と共に堕落して、そればかり商売にして行く様になる。そうなればこの大本の生命はなくなるのであります。
 吾々も神様の御用をして信者に食はして貰ふてゐるやうな事では、大きな顔をしてお話が出来ぬ。それがために自分の家族の食ふだけの百姓はして居る。亀岡は亀岡でさういう具合にして、皆、人が寄附されたのは大神様の為め、宣伝の為めにされたのだからその方に使ふ。そして仮令一銭のものでも、人から寄附して貰つた金で食ふことが出来ないといふのが神様のお戒めであります。それが大本の変つた所であります。それを大本は実行してゐる。また支部も私が廻つて見るのに何処も皆そうなつてゐる。是は大本として誇るべきことゝ心強う思ふて居る次第であります。
 どこ迄もこの精神を継続して、そして既成宗教のやうな営業宗教にならないやうに御注意願つておきます。


(以下昭和四年四月十五日於宣伝使会合)
 大本も宣伝使各位の舎身的活動によつて追々と発展をしまして、今日では旭日昇天の勢になつた事を喜びます。
  ○
 支部には宣伝使が行くことを困る所と、喜ぶ所とある。又行つて喜ばれる宣伝使(ひと)と嫌がられる宣伝使(ひと)とある。それば皆その宣伝使(ひと)の心の配り
方一つであります。で、よほど宣伝使といふものは目から鼻へ突き抜けるくらい気が附かぬといかぬ。向うの迷惑にならないやうに心得て喜ばれるやうにせねばならない。それに迷惑がらすといふことは却つて宣伝の邪魔になる。これは一つ心得てもらはねばならぬ。
  ○
 他の宗教では、管長もしくは管長の代理くらいの人はみな大教正になつてゐるが、一方に公職のある人は大参教といふことになつて居ります。
 大本の(をしへ)は其れ以上に超越して居るのでありますから、大本では准宣伝使が他の宗教の大教正即ち大参教に当てゝあるのであります。その上の正宣伝使は神界に宣伝使の籍が出来てはじめて正宣伝使になるのであつて、現界のみで宣伝するのは准宣伝使までであります。それで未だ准宣伝使であるなどゝ不平に思うて居る人が中にはチョイチョイありますけれども、これは大きな事であつて、准宣伝使は他宗(よそ)でいふ──大僧正、大教正に位するものであります。それより上は神界と現界との御用に共に仕へて居るのであります。然し誰でも活動とその人の年功と信仰とによりまして、大宣伝使にまで皆(あが)る道は開いてあるのでありますから、何時までも准宣伝使で居らねばならぬことはない。だんだんどこ迄も(あが)られるのであるから、その考へで活動してもらひたい。
  ○
 宣伝使も一寸そこまでいかぬといふやうな人も試補にしておいたやうな次第であります。それで未だ宣伝使は充分研究をしてもらはぬといかぬ。第一、人の心を見抜くといふことは一番肝腎でありますから、それを知らずに、盲目(めくら)滅法に歩いて居つたら、何時まで経つても開けない。

(以下昭和五年四月四日於宣伝使会合)
 宣伝使といふ聖職は非常に尊いものであつて、これは地上のみならず永遠無窮の天国迄響いて居つて、所謂天国にも籍があり、霊国にも籍があるのが宣伝使であります。霊国に籍があれば、無論媒介天人といふ事になつて居るから天国にも籍がある。それで常に言行心一致といふ事に注意して貰はねばならぬ。
 宣伝使の一(げん)(かう)は燎原の火の如きものである。一本のマッチを以て千里の原野を焼く如くに、宣伝使一人が言葉をあやまつたならばどれだけ悪い影響を及ぼすかわからぬ。又宣伝使の言葉が良かつたならばその言葉によつてどれほどよい効果を齊すかわからないのであります。その通り言葉のみならず行ひも同じ事であります。
 あの回々(ふいふい)(けう)の教祖マホメツトがメッカ市で四十になる迄駱駝を曳いて、今で言へば馬方のやうな事をやつて居つた。それがメッカ市に於て始終基督の話を聞いて居つたが、霊感をうけて自分は救世主であるといふ事を知り、直ぐに郷里へ帰つて駱駝売りを止めて了つて、自分は本当に救世主であるといふ事を名乗つた時に、その村中の人は或は親族、知己、朋友迄が馬鹿にして、誰も相手にならぬ。マホメツトは気違ひになつたと云つて非常に攻撃をしたのであります。その時第一マホメツトの困つたのはマホメツトの妻君であります。妻君がどうしてもかうしても、信じない。一番に夫の美点を知つて居るのも妻君であり、弱点を知つて居るのも妻君であります。それでこの妻君がこんな人になに神様が(うつ)るものかといつて非常に攻撃した。其時にマホメツトは、肝腎の家内が自分を神様の如く手を合はす様にならなければ、天下に主張しても駄目だと思つた。それでマホメツトは妻君の前に行く時にはまるで帝王の前に行く様に、或は本当の生きた神様に仕へる如くに、そして浄玻璃の鏡の如く自分の言心行はこの家内にうつる、家内にうつる如く天下にうつるに違ひないから、どうしても家内が自分を神様だといふ所迄気ばらねばならぬと覚つた。所が愈々十年目に妻君が、自分の主人は本当に神様ぢや神様ぢやと言つてふれて歩く様になつた。それからマホメツトが今日の大宗教を開いたといふ事があります。
 それで女の宣伝使は夫が感心する様に、男の宣伝使はその妻君が感心するやうに、神様の様に思ふ所迄の言行心一致の行動を取らねば、何時迄かゝつても、本当の道は開けないと思ひます。
(以上)
宣伝使としての注意
これは新任宣伝使の方々に五六七(みろく)殿御神前で辞令と共にお取次致してゐますお話の条項であります。
(昭和六年二月四日、大本教団所蔵)

   
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