顧れば大正五年旧三月、神政成就の為、皇宗神武天皇の奉祀されたる橿原神宮に、王仁三郎は神勅を奉じ、大阪出張所の役員其他数多の役員を引卒して参拝を遂げ、且つ畝火山を踏占めて、
『皇神の御言は美く鳴り渡る 時は来にけり鳴り渡る時』と
皇運発展の神歌を詠じて難波津に引返すや、大神は難波高津の宮に天の下知召し給ひし仁徳天皇に仕え奉りし王仁博士の作りたる
『難波津に咲くや木の花冬籠り 今を春辺と咲くや兄の花』と
皇運発展促進の歌を献りたるを、今や異人同名の王仁に口唱せしめ給ひて、皇運発展の促進者は大阪難波の地に存在する事を示させ給ひたり。茲に王仁三郎は御神慮を奉体し奉り、豊雲野尊の退隠し給へる瀬戸内海四十七島の上の島なる、播州宝楽島に航し、大正五年旧五月、村野教監を先導に、大阪松島町なる谷前氏を主任として、神霊を綾の高天原に迎え奉り、一先づ天の岩戸に安置し奉りたり。
神界にては瑞の御魂と現はれ給へる豊雲野尊の御神殿を、皇運発展の神策地たる難波の人士に建立せしめむとして、某氏に神勅を下し玉ひしが、某氏は大に歓こび、神島に坐ませし大神の神宮を、綾の高天原に建設し奉る事を神界へ約しながら、中途に至りて風変り俄然綾部大本に建設の志を転じて、神の永らく鎮まり給ひし神島に独力以て神祠を建立したり。然れど最早大神は綾部に上り賜へば再び神島に帰る事を好み給はず、従神をして大神の名に由りて旧霊地を守らせ給へるなり。然るに綾部の大本は末なり、播州神島は本なり。神島に社殿を建設するに如かずと誤解し、独断的に遂行し、社殿落成して十一月十九日の出向を請ひたり。王仁は人情上止むを得ず遷座式に列せんと其日を待ちしに、忽ち神勅あり本末を過る勿れと。茲に王仁は神勅には背くを得ず、参拝中止の止むを得ざるに立至れり。即ち大本金竜界大八洲神社の遷座式は本なれば、十一月廿八九両日の初祭典終了後と決定し、弥々十二月十五日神島に一先づ参拝せんと某氏に照会せしに、事業多忙なり同行為し難し、貴下自由に参拝あれと、只一言の許に跳ね付けて顧みざりければ、王仁も進んで島航する勇気も無く、其儘となれり。
○
神界にては斯る変心を前知し給ひ、皇運発展の神策地たる難波津に於て、至粋至純の身魂を選抜し、直ちに社殿建設の神業に着手せしめ給ひ、大正五年十月十五日を以て落成を告げたり。斯る大神業に奉仕せし義人は、今迄大本の神に仕え奉りし役員にも非ず、信徒にも非ず、純忠無比の兄弟にして嵯峨聖人の称ある小笠原義之氏、並に森禎造氏、嘉門文蔵氏の同胞なり。工費総計二万五千円、其内に天津御度衡を上嵯峨村に建立し、天心台と称し、天津神算木と恒天暦とを発見し、万世一系の皇室に奉らむと、寝食を忘れて兄弟三人が日夜に尽せし赤誠は、天地神明の嘉納さるる事と成りぬ。一名八咫鏡とも称し、天上の政治を地上に写し、且つ八方の事を明かに知悉すべき宝鏡なり。然れど此鏡は最初石凝姥命が鋳造せられ少しく欠けたるを以て、之を紀伊国国懸之宮に納め給へるてう宝鏡なり。然るに斯の兄弟は紀伊国の産なるは、紀伊の国魂懸り玉ひて最初の神事に仕え奉らしめ給ひしなり。二度目に造りたりといふは即ち綾部大本の霊地に建設さる可き天の御度衡台なり。アア美はしき身魂の兄弟三人は、今迄大本の神勅を一言半句も聞きし事無く、大本の所在さえ知らざりし人なり。奇びなる哉神界の御経綸よ。
○
且つ第一に奇びなるは皇道大本大宮支所長の渡辺氏は、斯の神社建設の一部分殊に桧皮葺を請合ひたるが、其時の資金は京都本部長兼大本教統梅田信之氏之を支出されたるなりき。然れども神界は秘して今の今迄発表し給はざれば大本の神殿なる事は梅田教統も渡辺所長も少しも感知せざりし也。又た小笠原兄弟も大本の神殿と成る事は今の今まで感知されず、敬神尊皇愛国の至情に駆られて是に従事されし也。開祖の神諭に水晶魂を選り抜て神の御用に使ふぞよ。斯経綸は後に成らねば判らぬ仕組であるぞよ。誠の者に神が憑りて誠の御用を致さすぞよ。我が為て居ると思ふて居るが皆神からさせられて居るので在るぞよ。斯神はチツトも身魂に曇がありたら、肝腎の御用には使はんぞよ。後に成りたらコンナ事でありたかと申して歓こぶ仕組が致して在るぞよ。一分一厘間違いは無いぞよとの御神諭、今更恐縮の外無き次第なり。
○
小笠原兄弟三人は三ツの身魂の代表也。梅田、渡辺両氏を加へて五ツの身魂と成る、又た奇なりと謂ふべし。
○
宮の棟、其他に三ツ巴の表徴あり。是れ霊力体の表現にして、須佐之男命の神紋なり。且又王仁が生家の定紋なるは、奇と謂ふ可し。次に梅田、渡辺両氏は八坂神社祭神須佐之男命の氏子なり、奇なる哉神縁の深甚なる。
○
神社の建設地は、九重の花の京都より西方の深山、嵯峨の奥深く神の仕組も清滝川の上流なる空也の滝の片傍り、最清最浄の霊地を選みたるは、瑞の御魂の御神慮なる可し。王仁は小笠原、森、牧、星田、谷高氏等と共に、大正七年一月四日午後の五時、石以て造れる大鳥居を潜り、百と六段の石階を登りて拝殿に着座するや、忽ち瑞の御魂の神憑在りて、二三の祝歌を読ませ給ひ、且つ豊国主神、神素盞嗚神是に歓び勇みて鎮まり玉ひしは、実に尊とさの限り成けり、神霊鎮座の幽式も目出度終了し、社務所なる小笠原氏の住居に休息の上、半丁足らずの距離にある滝の下に到れり。此の滝は昔し空也上人の修行せし所とて、俗称空也の滝と呼べ共、今に実の名称無しと云ふ。深山幽谷より流れ落つる此瀑布は高さ三丈三尺在りて其瀑声に一種の神韻あり。或は琴を弾ずるが如く、或は笛を吹くが如くにして、天女が美妙の音楽を奏づるに似たり。故に王仁は神界に奉伺して琴玉滝の名を下されたり。其形は恰も琴を立たる如く、手筋の水の細糸に一々水の玉散りて、美歓例ふるに物なし。
王仁は瀑の左側の断崖絶壁を辛くもよぢ上りて、瀑上の岩窟を探検せるに、菱田行者の近頃まで住み居りし形跡歴然として遺り、不潔の白衣松ケ枝に引懸りて、何と無く不快の念に打たれたれば、直ちに元の瀑布の所に下り、一行と共に再び小笠原氏の住居に引返し手厚き饗応を受けたりぬ。
○
それより神勅を拝し、神社の名称を、皇道大本八重垣神社と命名し、又た社務所をば皇道大本琴玉出張所と命名し、小笠原氏兄弟を神社の主管者と神定められたりしは、実に御神慮の深きに感激せざるを得ざりき。
○
因に当神殿には宮内大臣波多野敬直の自筆にて、八百万神社の金字扁額を掲げあり。神殿には璽鏡剣を造り、高御座の内に安置されたれ共、神霊の鎮まり給ひしは当日なりき。
大正五年十月に落成したる神殿に、今迄祭神確定せざりしも、皆神界の御経綸に因る事と拝察し奉りぬ。(をはり)