霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第二章

インフォメーション
題名:第二章 著者:
ページ:18 目次メモ:
概要: 備考:2023/10/15校正。 タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-15 20:17:19 OBC :B115005c04
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正9年10月1日号(第128号) > 道の大原解説(一)
 天主(てんしゆ)一物(いちぶつ)を創造す、(ことごと)力徳(りよくとく)()る。故に善悪(ぜんあく)(あひ)(こん)じ、美醜(びしう)互ひに(まぢ)はる。
といふ一節があります。(この)世の中の総ての物、即ち無限大の宇宙と(いへど)も、(あるひ)は太陽でも、地球でも、()た月でも、星でも、吾々(われわれ)身体(しんたい)でも、或は山川(さんせん)草木(さうもく)に至る迄、総て一切の物が、()な善と悪とが(あひ)混じてをり、或は()(しう)とが(たがひ)(まじは)つてゐるのであります。(ぜん)(ばか)りでもいかぬのである。(また)(あく)(ばか)りでもいかぬのである。(しか)して()の善悪とは如何(いか)なるものかと言ひますのに、
善 (霊)
悪 (体)
霊体(力) 善悪混交
であります。善は透明体なる霊魂である。天帝から(たまは)つた所の、至粋至純なる、清い清い霊魂であります。凡て太陽でも、地球でも、其他(そのた)一切の物には()な霊があります。草木(さうもく)に至る迄、霊の無い物はない、(しか)して霊と()へば、必ず至善(しぜん)なるものであります。(また)(たい)とは物質そのものであります。それで(これ)を善と対象して、悪といふことになるのであります。(たと)へば人間が日々(にちにち)生存して行く上に(おい)ても、(あるひ)(うを)を取つて之を食料に供するとか、或は米を食ふ、野菜を取つて食つて了ふ。(これ)は一方から言ひますれば、破壊する方、殺す方であつて、悪であります。(しか)し、(その)霊の()る所の一切の物、即ち魚であるとか、米であるとか、之を食料にせなんだならば、吾々の身体(しんたい)は保つて行くことは出来ぬのであります。それであるから、人が本当の善(ばか)りを行ふと致しましたならば、米、(うを)一つも食ふことが出来なくなつて参ります。米、魚は決して大きくなつて、人に食はれやうといふやうな観念は()つてをりませぬ。又(かいこ)を大切にして()うてをりますが、此(かいこ)(まゆ)を作つて(さなぎ)となり、さうして孵化(ふくわ)して()となつて、()の子孫を(のこ)さうといふ(かんがへ)はありましても、熱い所で蒸されて殺されて了ふ。さうして絹糸(けんし)にされるといふやうな(かんがへ)は、持つてをらぬのであります。けれども()殺生(せつしやう)(あへ)てしなければ、世の中の用を足す事が出来ぬのであります。仏教では之を善悪不離、善悪一如と()つてをりますが、実際世の中の何事をするに(つい)ても、総ての物が()な善悪混交してをります。大魚(おほうを)小魚(こうを)を呑み、小魚(こうを)は虫を喰ふ、猫は(ねづみ)を食ひ、鼠は(つつが)といふ虫を捕ります。()ふいふ工合(ぐあひ)銘々(めいめい)職業がある。天職を持つてゐるのであります。さうして()の天職を果たさなければ、生存が出来ないのであります。()だ善(ばか)りを思つてをつたならば、霊界だけのことより出来ませぬ。霊界にヂツトしてゐるより()やうがない。(これ)では(れい)(ちから)が出て来ませぬ。(また)(ばか)りでもいかぬのであります。善の中に悪があり、悪の中に善がある、山を一つ見ても、(いただき)があれば(たに)もある。木を見ても(みき)があれば()もある。人間の身体(からだ)(また)さうでありまして、頭もあれば、足もある。(あるひ)は左右に鏡のごとき眼があるかと思へば、尻のやうな妙な所もあるといふやうな工合(ぐあひ)になつてをります。(しか)(これ)(いづ)れも必要なものでありまして、()な善悪(あひ)混じ、美醜(たがひ)(あひ)(まじ)はつて出来てゐるのであります。又(いん)があれば(やう)がある、鳴り鳴りて鳴り余る所の男があれば、鳴り鳴りて鳴り合はぬ所の女がある。又(ひる)もあれば()もある。何時(いつ)も昼(ばか)りあつて欲しいと思つた所が、昼(ばか)りであつたならば、草木(さうもく)は発育することが出来ない。()があつて始めて(つゆ)が出来て、草木(さうもく)の成育を助けるのであります。又人間も昼(ばか)りであつたならば、身体(からだ)を休めることが出来ないのであります。又月夜(つきよ)暗夜(やみよ)とあります。月夜には水気(みづけ)が地上へ(さが)つて、暗夜の時よりも余程多いのであります。併し月夜許りであつたならば、水気が多過ぎて植物に害があります。そこで暗夜があつて之を調節するのであります。(かく)の如く世の中の物は、善悪、美醜、上下、陰陽、明暗、()ういふ工合に総て裏表(うらをもて)で出来てゐるのであります。五六七(みろく)の世の中も丁度(ちやうど)さうであります。矢張(やはり)善悪(あひ)混じ、美醜(たがひ)(あひ)(まじ)はらなんだならば、五六七(みろく)の世の経綸(けいりん)は出来ぬのであります。五六七の世にするには、最も善なる鏡を出した、(ぜん)一筋(ひとすぢ)(いづ)御魂(みたま)(あらは)れて()る、(あるひ)は体系に属する所の、(よこ)の御用を勤める(みづ)の御魂が現れて来るのであります。善悪がなければならぬのであります。此(れい)を指して『チ』と謂ひ、(たい)を指して『カラ』と謂ふのであつて、所謂(いはゆる)霊体合致した所が、『チカラ』──(ちから)になります。此霊を何故『チ』と謂ふかと申しますと、吾々の身体(からだ)には大動脈が(かよ)つてをる。(また)血管細胞には、()な赤い血が流れてをります。此血の赤いのは()な霊魂であります。それで赤誠とか、赤心とか、或は自分の赤い血を、切つて見せてやりたいと言ふ者がありますが。此血には純良なる精神、霊魂が遍満(へんまん)底本では「偏満」だが誤字であろう。流通してをるのであります。医学上では、之を赤血球(せきけつきゆう)の集合体のやうに申しますが、又此中(このなか)に白い血─白血球(はくけつきゆう)(まじ)つてをります。此血は身体(からだ)を発育させるのでありますが、赤い血はさうではない、自分の霊魂精神の思ふ(まま)四肢(しし)五官(ごくわん)底本では「官」ではなく「管」だが誤字であろう。()めたり、動かしたりする所の霊能(れいのう)体能(たいのう)を持つてをるのであります。即ち此の血液は赤い血と、白い血と(あひ)(まぢ)つて、動静(どうせい)解凝(かいぎよう)引弛(いんち)分合(ぶんがふ)の働きをしてをるのであります。()しも霊魂が赤い血の中から出て(しま)つて、死人となつた時には、此の血は霊魂が全部出るが最後、一時間も立たぬ(うち)に凝結して了つて、真黒(まつくろ)い血となつて了つて動かなくなる、それに(したが)つて四肢五官底本では「官」ではなく「管」だが誤字であろう。共に動かなくなります。(つま)り霊と(たい)、即ち善悪(あひ)混じ、美醜(たがひ)(まぢ)つて、総ての活動が出来て来るのであります。
 五六七(みろく)の世となれば、至善、至美、至真の世となつて、天は飽迄(あくまで)青く、本当に(あきら)かな、鏡のやうな、水晶のやうに透き通つた世になると、思ふ人があるかも知れませぬけれども、決してさうではありませぬ。矢張(やはり)()の半面─影には暗黒面があります。どうしても(はたらき)を生じ(その)(ちから)を出さうと思へば、善悪(あひ)伴つて行かなければならぬのであります。(しか)して悪が勝つた時には、体主霊従となり、霊が勝つた時には所謂(いはゆる)霊主体従となる。併し霊(ばか)りが勝つ気遣(きづかひ)はない、何故(なぜ)かと言ふのに、(れい)(たい)と一致したものだからであります。(たと)へば霊が五分(ごぶ)(たい)五分(ごぶ)であつたならば、(これ)(もと)より霊が上であるから、霊主体従といふのである。霊が四分で体が六分、(あるひ)は一厘でも(たい)の方が多かつたならば、是は体主霊従の方に傾いて居るのであります。
 大本の三ケ条の学則の第一に、
天地(てんち)真象(しんしやう)を観察して、真神(しんしん)(たい)を思考すべし。
とあります。此の天地間の真象─姿をば見ましたならば─総ての活動を見ましたならば、神さまの御実体の顕現といふことが(わか)ります。山川(さんせん)草木(さうもく)()な神であると言ひましたならば、汎神教(はんしんけう)の如く思ふ人々が沢山()りますけれ(ども)、実際は(みな)真神(しんしん)(うち)に包まれたものであります。第二条に
活物(くわつぶつ)心性(しんせい)覚悟(かくご)して、真神(しんしん)霊魂(れいこん)を思考すべし。
とあります。凡て世の中の物は()活物(くわつぶつ)であります。宇宙が運行する、(あるひ)は太陽、月、地球、其他(そのた)一切の物、或は人間なり、総ての物は()()きてをる、活物(くわつぶつ)であります。(これ)には()心性(しんせい)(こころ)があるのであります。心がなかつたならば大きくなることはない、草木(さうもく)にも矢張(やはり)草木(さうもく)(たましひ)があるのであります。高天原(たかあまはら)(かみ)(つまり)()すて、()至大天球(たかあまはら)─宇宙内には、神霊の元子(げんし)が充満してをるといふことが(わか)るのであります。次に
万有の運化(うんくわ)毫差(ごうさ)無きを以て、真神(しんしん)(りよく)を思考すべし。
とあります。万有の運化─即ち春になると花が咲く、桜の花は八、九月の頃には咲きはせぬ。梅は二月頃()く、秋は稲が(みの)り、冬が(きた)れば雪が降る、総て()ういふ工合(ぐあひ)に、万有の運化は数億万年の昔から、(すこし)(かは)つてをらぬのであります。(これ)に反して吾々が仕事をする、(あるひ)は道を歩きましても、今日は十里(あるい)たが、翌日は八里しか歩くことが出来ぬ。又()の翌日は身体(からだ)が痛くて、動くことが出来ぬといふやうなことが出来て参ります。又(あさ)は御飯が三杯食べられたのに、昼は二杯しか食べられぬ、或は四杯食ふこともあるといふ工合に、中々(そろ)はぬのであります。(しか)し神さまの御活動は、幾億万年の昔から、少しも変つたことが無い。一厘一毛も間違ふたことはないのでありまして、実に規律正しいものであります。()しも此の神さまが一分間でも、或は二分間でも休まれましたならば、世界は死滅─滅亡するよりしやうがないのであります。此の宇宙間に遍満する所の空気と(いへど)も、矢張り神の息であります。若し神さまが御活動を御休みになつて、一切の物を()められたならば、此の宇宙は瓦斯(ぐわす)(ばか)りになつて(しま)つて、人間は一分間も生きることが出来ない。人間(ばか)りでない、世界一切の物は死滅する(ばか)りであります。(かく)の如く神さまの(ちから)は偉大なものであります。之を学者は天然力とか、自然力とか()つてをるけれども、世の中に偶然といふものは一つも無い、それには()()つて(きた)る所の原因あり、訳があるのであります。此事(このこと)を十分研究しやうと思へば、言霊学(ことたまがく)()つて、古事記を詳解すれば()(わか)りますが、(これ)は中々長くなつて、一時間や二時間で御話(おはなし)することは出来ませぬから、是は省いて置きます。
 (あるひ)は之をばモウ一つ(くだ)つて、人間が()る一つの(はたらき)をする、(あるひ)()ういふ五六七殿(みろくでん)を建てると致すならば、山に()へてをる木を伐採しなければならぬ。木は惟神に山に()へてをるのである。日光、風雨(ふうう)御土(おつち)(めぐみ)─神さまの御恵(おめぐ)みに(よつ)()へた、生々(いきいき)としたる大木(だいぼく)を、(まさかり)(のこぎり)打倒(うちたを)さなければならぬのであります。(これ)は一方から見れば悪である。或る意味に(おい)ての破壊であります。けれども之をせんければ、利用厚生の道は立たぬ。必要に迫られてをるのであるから、決して之をば悪いといふことは出来ませぬ。斯ういふ工合に、世の中一切のものは、総て善悪混交し、美醜(たがひ)(まじは)つて行かなければならぬのであります。それを誤解して、何もかも(ぜん)一筋(ひとすぢ)の世になると、斯ういふ考へを(おこ)す人は、(だい)なる誤りであります。是は言ふ()くして行ふことは出来ぬのであります。又吾々(われわれ)(いのち)を保つて行く以上は、矢張り食物(しよくもつ)を食はなければならぬ、雨露(うろ)(しの)()めには、家も造らなければならず。又着物も(まと)はなければならぬのであります。さう致しますには、矢張り或る一つの破壊をせんければならぬ。併し之を破壊ぢや、それは悪ぢやと言つてをつたならば、一日も此の世の中に生き(ながら)へることは出来ない。又世の中の用をすることも出来ないのであります。
 皇道大本は至善、至美、至真の道、即ち敬神、尊皇、愛国の大道(だいだう)を説いてをるのである。さうして現代、未来を救はうと、大活動をしてをるのであります。此儘(このまま)(なげう)つて置いたならば、日本国は(おろ)かなこと、世界の人民が塗炭(とたん)(くるし)みに(おちい)ることは、火を()るよりも(あきら)かなことである。今足下(あしもと)に火が燃へてをるのであります。(これ)眼前(めのさき)に見て、()んで座視することが出来ませう。(すくな)くも活きた血の(かよ)つた、日本(やまと)(だましひ)()つた者ならば、ヂツトして傍観してをることは出来ないのであります。今日は()ういふ危急の場合になつてをる、それを救はんとして、皇道大本は活動してをるのであります。それをば、一方からは不敬の団体であるとか、或は邪教であるとか、妖教(えうけう)であるとか、種々(しゆじゆ)雑多(ざつた)な攻撃をやつてをる。丁度(てうど)犬が一本橋を渡る時、自分の姿が水に(さか)さまに映ると同じことであつて、あの犬は逆様に歩いてをる、足を上にして、背中を下にして歩いてをると、笑つてをるのと同様であります。此の大本は水晶の鏡であるから、世間の人々の善悪(とも)に、其の姿が映つて来るのである。()(かく)悪い精神を()つて見ると、総てのことが悪く見えます。鏡の出る大本であると御筆先(おふでさき)にもありまして、悪人が来て見たならば悪く映る、おたふくが来て見たならば、おたふく(つら)に映るし、坊主が(むか)へば矢張(やはり)(その)通りに映る。水晶の鏡であるから、大本が悪く見える其の人間こそ、実に怪しい人間であります。又御筆先(おふでさき)に大本は世界の鏡であるから、大本に()ることは世界に()るといふことが書いてあります。皇道大本が、現在一般世間から悪く見られてをるのは、丁度(てうど)今日(こんにち)日本国が世界各国から、排日運動を受けてをるのと同じことであります。日本は軍国主義であるとか、(あるひ)は侵略主義の国であるとか、日本の人間は油断のならぬ人間であるとか、()ういふやうなことを言うて、到る処で排斥を受けてをる、それと対照して見ると、丁度(てうど)同じことになつてをるのであります。(これ)は御筆先に出てをるのであつて、仕様(しやう)がないのであります。(また)国常立尊さま─艮の金神さまは、(ぜん)一方(いつぱう)(ちから)の神さまであります。その神さまを、神代(かみよ)の昔に、八百万(やほよろづの)(かみ)悪神(あくがみ)(たた)(がみ)だと言つて、(うしとら)押込(おしこ)めて(しま)はれた。丁度(てうど)大本が善一筋をやつてをつて、()の道の為めに身命(しんめい)(なげう)つて奮闘してをるのを、淫祠(いんし)であるか邪教(じやけう)であるとか、或は国賊であるとか言つてをるのと同じことである。艮の金神が悪神(あくがみ)ぢや祟神(たたりがみ)ぢやと言はれてをられるのと、同じ立場になつてをるのであります。三月の節句に(ひし)(もち)を飾るのは、艮の金神を菱縄(ひしなわ)にかけて調伏(てうふく)するとか、五月の節句にちまきを(こしら)へるのは、是は艮の金神の(もとどり)「髻(もとどり)」とは、髪の毛を頭の頂上で束ねた部分。を斬るのであるとか、或は正月には雑煮餅を(こしら)へて食べるが、是は金神の臓腑(ざうふ)を煮て食ふのであるとか、或は九月には菊の酒を飲む、是は金神の血液であるとか謂つて、調伏するといふのであります。(かく)の如くして、今に至る迄()つてをります。さうして艮の金神を叩き潰して食うて了つた。是で封ぜられて了つたものと思つてをつた所が、(あに)(はか)らんや叩き潰して了つたと思つた艮の金神は、三千年(らい)世界を遍歴して、さうして世界の状態をスツカリ調べて、愈々(いよいよ)五六七(みろく)神政(しんせい)先駆(さきばしり)御働(おはたらき)をなさるのであります。皇道大本に対して、今日(こんにち)世の中で大本撲滅演説を()るとか、或は叩き潰して(しま)はうとか、(あるひ)は禁止するとかせぬとか、()やかやと種々(いろいろ)雑多なことを、彼方(あつち)からも此方(こつち)からも言つて、攻めて来るけれども、是は其実(そのじつ)艮の金神さまが、叩き潰して食はれて了つたものと思はれた()の神さまが、(かへつ)益々(ますます)(いきほひ)()く、世の中の為めに御尽(おつく)しになつた如く、皇道大本も、そんな攻撃は少しも痛痒(つうやう)を感ぜずに、益々(ますます)勇気を出して、さうして四面(しめん)楚歌(そか)の中に()つて、敢然として(たけ)り狂ふ荒波を乗り切つておるのであります。是は神さまの御加護があるから出来るのであつて、()神力(しんりき)がなかつたならば─人間だけでやつてをつたならば、到底出来るものではありませぬ。(つま)り政治家にまれ、宗教家にまれ、銀行会社にまれ、四方八方から攻め立てられ、新聞雑誌に書かれたならば、(たちま)破潰(はくわい)して、バタバタと倒れて了ひます。けれども大本は、所在(あらゆる)新聞雑誌に今年で三年間も悪く()はれ、四方八方から攻め掛けられて居るけれども、ビクともせず、益々(ますます)発展するのであります。さうして自然淘汰になつて、新聞雑誌に迷信してをるやうな厄雑者(やくざもの)は、出て来ぬやうになります。そこで(やや)智識があり諒解ある人、(また)因縁のある人は、新聞が何と言はうと、誰が何と言はうと、是は本当のことではない、大本には何か良い事実があるに違ひないといふ、腹底(はらのそこ)(たましひ)の輝きがあります。さういふ人(ばか)りが此の大本に来ることになつてをります。御筆先に
此の大本は、因縁のある身魂を寄せる所であるぞよ。世界の鏡を出す所であるぞよ。百舌(もづ)(すずめ)(たか)も一緒には寄せぬぞよ。
とありまして、所謂(いはゆる)鷹が寄りて来る時で、雀は寄りて来ない、千羽の雀よりも、一羽の鷹の方が余程尊いのであります。是が神さまの御経綸(おしぐみ)であらうと思ひます。
 ()彼等(かれら)非似(にてひなる)学者(がくしや)や、新聞雑誌の言ふが如く、皇道大本が淫祠邪教であり、不敬の団体であつたならば、法律の権力もあれば、一切の権力のある政府は、之をヂツトして見て黙つてをる筈がない。又(これ)を放任したならば、政府其者(そのもの)は、陛下に対して済まぬのであります。(しか)し当局は世の中の色々の新聞雑誌、或は坊主や、基督教徒や、さういふ連中の中傷、或は密告(とう)五月蠅(うるさ)く思はれてをるでせう。何が故かと言へば、当局は思想の大問題として、綿密に()く御調べになつてをるからであります。(わか)る所へは()く分つてをる。(また)霊界も、上の守護神は分つてをるけれども、下の守護神は中々分りませぬ。艮の金神さまが(さき)だつて現れて、次に竜神が現れて、改心を()てをられても、()の竜神、八百万の竜神の改心が中々出来ませぬ。神界に於てさえ下の守護神には誤解がある如くに、地方の判任官吏には、分つてをらぬのが随分多い()うです。()れだから忠義顔をして、盛んに邪魔をするのであります。神霊界を取つてをると、購読者を調べて回り、成可(なるべく)的神霊界を取らないが()かろうなぞと、脅迫的にメンドクサク言つて来て、さうして、大変に邪魔をするさうであります。大本は主義宣伝を目的として、神霊界を発行してをるから、黙つてをるやうなものの()し利益を目的とする本屋であつたならば、営業を妨害すると言つて、腹を立てて、此儘(このまま)では置かぬのであります。()(かく)人民を保護せなければならぬといふ警官が、営業妨害のやうなことをするといふ話はあつたものでない。()ういふことが、(くらが)りの世といふのであります。(かく)の如く政府当局─(うへ)(はう)には(わか)つてをりながら、(げす)の守護神は分つてをりませぬ。(また)大本にしてもさうであります。始終大本にをる幹部の人は、能く分つてをるけれども、(すゑ)取次(とりつぎ)になると、色々間違つたことを言ふ。是と同じことであります。是は大本の様子が政府に映り、政府の様子が大本に映つてをるやうなものであります。
 此頃(このごろ)青年信者の(かた)が、(わたくし)の所へ能く来まして()んなことを言ひます。此の大本は、敬神、尊皇、愛国を説く立派な団体であるのに、新聞雑誌は淫祠だ、邪教だと言つて口を揃へて悪くいふ。又当局は危険思想を(やかま)しく取締(とりしま)つてをりながら、此の大本をば─本当に国家を思つて活動する所の至誠の団体をば、世間が淫祠邪教であるとか、色々なことを言うてをるのに、之を放任して置くのは、(かへつ)て危険思想を助長せしむるものである、吾々は()うして誤解せられては、ヂツトしてをる訳には行かないと、非常に憤慨してをる人がありました。銘々(めいめい)一生懸命に誠を立てやうとしてをるのに、それを逆賊(ぎやくぞく)(あつかひ)にされては、誰しも心()いことはない。此儘(このまま)(ほを)つて置いたならば、どんなことになるか分らぬと、(わたくし)(うれ)へたのであります。それが為めに此の噴火口として、此の財界の不安定な(うち)から、大正日々(にちにち)新聞を経営することになつたのであります。実際のことをいへば、本宮山(ほんぐうやま)御宮(おみや)(こしら)へて、神さまに御鎮(おしづま)りを願つた其上(そのうへ)で、致したいといふ考へでありましたが、是は神様の御都合でもありませうけれども、(わたくし)一個(いつこ)(かんがへ)としては、()しも政府に対して迷惑を掛けては済まぬ。それよりも今の(うち)に防ぐ、爆発せぬ(うち)に噴火口を(こしら)へる、是が一番安全の策であらうと、大正日々を手に入れたのであります。(つま)り是が善悪(あひ)混じ、美醜(あひ)(まじ)はるといふのであります。一方で神聖なる神さまの(をしへ)をする。他方では新聞を経営して是で宣伝する。新聞の経営には営業といふことが加味されてをります。今日の新聞を見ますと、立派なものは一つもありませぬ。其中(そのなか)(まじは)つて神聖なる神さまの(をしへ)を宣伝して、以て世の中を指導することの出来る、新聞を拵へやうとするのでありますけれども、どうしても(しゆ)(まぢ)はれば赤くなるで、幾分か大本の(をしへ)とは、違うた点が出て来るかも知れないと思ひます。神さまのこと(ばか)り書いたならば、信者の(かた)は有難いと考へるでありませうが、一般の人は(わか)りませぬ。最初申上げた通り善悪(あひ)混じ、美醜(あひ)(まぢ)はつて、世の中の経綸(けいりん)が出来るのでありますから、此点の誤解を(おこ)さぬやうに、御諒解を願つて置きます。
万物の(ちう)は有形の(ちう)なり、其(ちう)(はか)()し、神界の(ちう)は無形の(ちう)なり、其(ちう)測る可からず。混じて語ること(なか)れ。
 総て一切万物の形の有る物の中心は、有形の(ちう)である。一円を二つに割つたならば五拾銭になる。是が本当の万物の(ちう)であります。十里の道があつて五里歩いたならば、丁度(てうど)真中(まんなか)であります。是が万物の(ちう)である、一石(いつこく)(もみ)()いたならば、一石だけの苗が取れる、又米が取れる、一斗(いつと)播いたなればそれだけしか取れぬ、是が万物の(ちう)であります。併し此の(ちう)は人が測ることが出来ます。神界の(ちう)(まこと)であります。無形の中心であります。吾々は之を見ることも出来ず、又之を測る事も出来ぬのであります。之を信仰に(たと)へて言ふならば、(あるひ)は五年中学(ちうがく)(はい)つたならば卒業する、三年をれば三年級になり、四年をれば四年級になる。大学に(はり)りても其通り。()ういふことが有形の(ちう)であります。信仰といふことは神さまに対する所の因縁であり、御神徳(ごしんとく)であります。(たと)へば(ここ)に二十年(まへ)から信仰する人と、一年前から信仰する人とがあります。()()が現界の通りであるならば、前者は二十倍も後者より了解してをらなければならぬ筈でありますが、併しさうではない。(ただ)一遍(いつぺん)聞いただけで、二十年信仰してをる人よりも強い信仰を()、より以上に了解会得(えとく)してをる人があります。是が即ち神様の因縁で、神界の(ちう)であります。(すべ)て神さまのなさることは、人間がいくら藻掻(もが)いても知ることは出来ませぬ。何程(なにほど)長い竿(さを)(いへど)も、空の星を(おと)すことは出来ませぬ。あの山の上の一間(いつけん)(ばか)りの所に月が(かか)つてをる、自分の()けでは少し足りないが、長い竿(さを)を持つて山へ登れば、(たしか)(おと)せる(やう)に思ふけれども、山へ登つて見ると遙か遠い所に懸つてをる。又飛行機が何程()く昇ると言つた所が、月の世界に到達する事は出来ぬ。(その)やうに人間が何程(かし)こいと言つても、神様の御経綸(おしぐみ)(わか)る道理がありませぬ。
 此の世の中の一切の事を三つに譬へて見るならば、神と人と動物であります。人間は神様の形に造られ、さうして神様の霊を分けて戴いてをるのであります。此の動物の(なか)で、人間に一番()く似てをる、一番賢いものは何であるかといへば(さる)であります。此の猿は芸をやる、芝居の真似(くらゐ)はするけれども、『(なげ)きつつデカイ()をむく猿芝居』と言うて、泣かねばならぬ場合の時でも、(わき)(うま)い物があつたならば、眼をむいて飛んで行くといふ工合で、何をしてをるのか猿には分らぬ。(ただ)(つな)で操られて居るだけのことであります。今日人間が、汽車、汽船、電信、電話、其他(そのた)色々文明の利器を発明してをりますが、いくら猿が(かしこ)うても人間と違う以上、何処迄(どこまで)説明しても分りませぬ。猿どころではない。人間でも所謂(いはゆる)智識階級以外の者に、一遍(いつぺん)(くらゐ)言うた所で、電信電話がどういふ仕掛(しかけ)になつてをるか、(あるひ)は蒸汽機関がどういふ工合になつてをるのか、更に分らない。田舎の爺さん婆さんは、切支丹(きりしたん)の魔法を使ふのだと怪しむ位である。それより(ほか)に理解の仕様がない。()のやうに人間界に(おい)ても、智識の程度に()つて懸隔があるのであります。分らなければ不思議の(やう)でありますが、何も不思議なことはない。(みん)な必然的の道理に(よつ)て出来てをるのであります。(つま)り猿の人間界に於けるそれの如く、人間は神様のことは少しも分らぬ、(また)分る道理は無いのであります。人間は素直な心を持つて、神の(めい)随々(まにまに)するより仕様がないのでありまして、到底神界の秘奥に達することは出来ませぬ。
 皇道大本は神界の(ちう)を知らして居るのであります。(ただ)現界の中から神界の(ちう)を知る為に過ぎないのであります。富士山は雲表に現れてをります。芙蓉(ふよう)(みね)白扇(はくせん)倒様(さかさま)中空(ちうくう)(かか)つてをるのであります。()れが皇道大本であります。(まなこ)(はな)つて中空(ちうくう)を見たならば、富士山は立派に見へるのであります。所が総ての人は(ゆびさ)したる所の指を見て、富士山だと思つてをるのであります。是では富士山が見える筈がない。それですから、ヤレあれは富士さんではない、コリヤ嘘だとか、苦情を(なら)べて来るのであります。是では仕様がない、肝腎の()の付けどころが違ふのであります。総ての人は取り違ひをしてをる。一段と大きく()を見張つて、指の先を見ず、中空(ちうくう)を仰いで見たならば、秀麗たる芙蓉の峯はハツキリ(まなこ)に映ります。大本の神の(をしへ)(その)如くであつて、一般の人は霊眼(れいがん)(はたらき)がない、活用することを知らないから、誤解するのであります。故に万物の(ちう)と神界の(ちう)とは、大変な懸隔があるのであります。

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