霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第三章

インフォメーション
題名:第三章 著者:
ページ:49
概要: 備考:2023/10/15校正。 タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-15 20:17:27 OBC :B115005c05
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正9年10月11日号(第129号) > 道の大原解説(二)
 (かしこ)くも明治聖天皇の(くだ)し玉へる教育大勅語の初まりに
(ちん)(おも)フニ、(わが)皇祖(くわうそ)皇宗(くわうそう)(くに)(はじ)ムルコト宏遠(こうゑん)ニ、(とく)()ツルコト深厚(しんかう)ナリ。』と
()()ふ御勅語があります。皇祖天照皇大神様が、更に天上の主宰と成られて、()の国を御開きになつた、所謂(いはゆる)()の国は国常立尊が修理固成なされて、始めて天地が(わか)れたのであります。さうして伊弉諾尊が天上の(きみ)を御拵へになつて、次に皇孫瓊々杵尊様が、斯の国へ御降臨遊ばされました。それから今日まで約一百七十九万五千○五十余歳になるのであります。明治の初年に誤りて、神武天皇様御即位の時を紀元として数へたものですから、紀元二千五百八十年と云ふ、(ごく)短かい世紀に成つて居りますが、実は日本はモツト古い古い国なのであります。(しか)し二千五百八十年と致しましても、外国の『モーゼ』よりは()がく、支那の歴史よりも()がく成つて居ります。(これ)(たしか)に日本書紀の名文に()るのであります。御勅語の『(くに)(はじ)ムルコト宏遠(こうゑん)ニ』とありますのは、非常に遠いと云ふ事であります。(こう)はひろい、(ゑん)は遠いと云ふ事で、非常に遠い昔の事、今年で一百七十九万五千○五十余年(ほど)になると云ふ古い国であります。外国を見ますと、米国でも、仏蘭西(ふらんす)でも、其他の諸強国、小国も、始終主権者が(かは)つて居るのであります。支那も二十回(ばか)(かは)つて居ります。独り我国(わがくに)は世界に冠絶して、(わが)皇祖皇宗が国を御肇(おはじ)めになつた事は、実に宏遠なるものであります。我が皇祖は宇宙一切を御創造なされた所の神様で、(ただ)地球上の事(ばか)りではない、太陽系の天体も御造りになられました。天体学から言ひますと、銀河の中だけでも、三億の天体があると言ひます。()う云ふ(やう)な大きな天体も、()な我が皇祖が御造りになられたのであります。一秒時に十九万英里(えいり)も走ると云ふ光線が、太陽系天体の属星(ぞくせい)である所の天王星、海王星から、我が地球に其の光線が達するのに、二年以上もかかるのであります。之を見ても、太陽系天体の如何(いか)(ひろ)くして大きいかが分ります。実に広大無辺にして、其の宏遠なる事は、到底人間の(くち)で言ふことは出来ぬ。無始、無終、無限、絶対の物であります。(だい)太陽系天体の(ほと)んど中心に、我が太陽系天体がある。其の太陽系天体の(ほと)んど中心に地球があり、地球の中心に()が日本国が在るのであります。地理学者は東洋、西洋に分けて居りますが、地質学から云へば、豊葦原(とよあしはら)瑞穂国(みづほのくに)中津国(なかつくに)が、地球の中心であります。其の中津国の中心に京都地方が在るのであります。其の中津国を御開きになり、安国(やすくに)(たいら)けく治め給ふ為に、皇孫が降臨されたのであります。
 国と云ふ事を、日本書紀には六合(りくがふ)と書いてあります。是は天地四方(しはう)天地間一切のものを指して、国と云ふのであります。人民があつて、土地があつて、主権者がある。之を国と言うて居るが、是は国ではない、国家と云ふだけであつて、国と云ふ事は、宇宙全体を指して国と言ふのであります。是は言霊学(げんれいがく)(じやう)の解釈であります。御勅語にも『(くに)(はじ)ムルコト宏遠(こうゑん)ニ』と仰せられて居りますが、国家と云ふ事は書いてありませぬ。次に『(とく)()ツルコト深厚(しんかう)ナリ』と仰せられて居ります。『()ツ』はつてもなければつでもない、所謂(いはゆる)下津(したつ)岩根(いはね)()を張つて、上に(むか)つて木が()つて行くが如く、日を追ひ月を重ねて、段々(しげ)つて行く所の(をしへ)と云ふ事であります。基督教にしましても、マホメツト教にしましても、仏教にしましても、或時(あるとき)は栄へますが、又或時は衰へて参ります。さうして教祖とか、教主とか、法皇(はふわう)とか、法主(はふす)とか、管長とか言ふ(かた)は、必ず一大教権は()つて居りますけれども、是は(ただ)信者間に於ける権力である。信者以外には何の権力もありませぬ。併し(しゆ)()(しん)の三徳を惟神に具有し給へる我が天津日嗣(ひつぎ)天皇様は、宗教の如何(いかん)を問はず、()な等しく赤子(せきし)として愛撫され玉ふのであります。外国の(をしへ)を信ずる所の耶蘇(やそ)教徒も、印度の(をしへ)を信ずる所の仏教徒も、(また)デモクラシイとか、何とか色々の説を唱へて()る所の国民も、(あるひ)()が皇祖皇宗を(あが)(たてまつ)つて、御祭(おまつ)りになつて、祭政一致の国体を守らせ給ふ天皇陛下の大御心(おほみこころ)を拝して、皇祖皇宗の神様を祭り、忠良なる(おこなひ)をして居る所の皇道大本も、()な等しく陛下の赤子(せきし)であります。さうして同じ(やう)に愛撫して下さるのであります。外国では宗教が違ふたならば、()ぐに血を見る(あらそひ)(おこ)る、宗教戦争と云ふものが起つて参ります。併し我が日本国は(いにしへ)より宗教戦争と云ふ事は起らぬのである。天草(あまくさ)(らん)(ぐらゐ)が関の山であつた。さうして我が皇道は、日月(じつげつ)と共に万世不朽(ふきう)に栄へて行くのであります。(しか)して其の時代々々に順応して(ますます)国体の精華を発揮されるのであります。国の乱れた時には、志士(しし)仁人(じんじん)が現れて来る。日本の歴史を見ましても、国家の危機に瀕する時は、志士義人(ぎじん)は四方八方に、雲の如く起つて皇室を守り、国家を泰山(たいざん)(やす)きに置いて居るのであります。是は他処(よそ)の国に見る事の出来ない所謂(いはゆる)(とく)()ツルコト深厚(しんかう)ナリ』で、実に深く、厚く、万国に(その)(たぐひ)を見ざる所の尊い国体であります。
 (とく)と云ふ字は、『彳』に(なほ)「徳」(旧字体「德」)は昔は「悳」という文字で、それに「彳」(行人偏。行いを表す)が付いて「徳」になった。「すなおな本性(良心)に基づく行い」を示した漢字〔漢字源〕。『トク』とは(とく)と云ふ事で、即ち(すぐ)なる人─(すぐ)なる人の(おこなひ)と云ふことであります。それで日本の国には、(めい)()寿(じゆ)()天賦(てんぷ)的に(そなは)つて居るのであります。天津日嗣(ひつぎ)天皇様は世界に(たぐひ)の無い、本当に生きた所の神様であります。即ちそれが『()』であります。又()の位置は()にない。此の位置を動かすことは何人(なにびと)(いへど)も出来ないのであります。天津日嗣の御位(みくらゐ)は、何者と(いへど)も動かすことが出来ない、さうして日本の国は天壌(てんじやう)(とも)(きはま)り無く、万世一系で何時(いつ)(まで)も続いて行くと云ふ、即ち是が『寿(じゆ)』であります。さうして(とく)()つること深厚なりとの御神諭が、実行されて居るのであります。次に『()』と云ふ事でありますが、是は金銭(かね)(ばか)りの(とみ)ではありませぬ。日本人は忠孝、或は敬神、尊皇、愛国心に富んで居ります。又風景に富んで居り、山紫(さんし)水明(すゐめい)の土地であります。さうして五穀豊穣、山青く、水清く、(うを)美味にして、凡ての(とみ)、天恵が日本の国には(そなは)つて居るのであります。()の国もさうでありますが、併し日本のやうな特別な恩寵(おんてう)(かうむ)つて居る所は無いのであります。人間個人としても、此の(めい)()寿(じゆ)()は必要であります。神様を信仰する時には、()(くらゐ)も欲しくない、寿(じゆ)(とみ)もいらぬ、(ただ)御国(みくに)に尽すのみと云ふ人が、往々(わうわう)在るやうですが、実際に於て、是は言ふべくして行ふことは出来ないのであります。(めい)()寿(じゆ)()は、人間生活上是非必要なものであります。
身に(たふと)き所のものは(めい)()寿(じゆ)()にして、之を与奪する者は大霊魂なり。(これ)即ち神賦(しんぷ)正欲(せいよく)俗学(ぞくがく)悟らず、自暴自棄し、(まさ)(たふと)きを(そと)に求めんとす。(なん)()()べけむや。
とありますが、大霊魂と云ふとは、天照大神様の事であります。(これ)即ち神賦(しんぷ)正欲(せいよく)俗学(ぞくがく)悟らず、『自暴自棄し、(まさ)(たふと)きを(そと)に求めんとす。(なん)()()べけむや』と申す事は、此の世の中に於て、(めい)()寿(じゆ)()を捨てたならば、国家に報ゆる、或は(きみ)に忠義を尽すと云ふことは出来ないのであります。仏教や基督教、或は腐れ儒者(じゆしや)の如き、或は誤りたる信仰をして居る人々は、(めい)()寿(じゆ)()を度外に置いて居ります。併し決してそんな訳のものでは有りませむ。
 次に天の平等愛に就いて一言(いちごん)したい。之を譬へて言ひますならば、今此処(ここ)に善人と悪人とがあります。さうして悪人が栄え善人が衰へると言つてからに、非常に(うたがひ)を起す人があります。もう一つ例を挙げますれば、鬼寅(おにとら)と云ふ人がある。此の男は非常に無慈悲な男で、利を高くして(かね)を貸して居つて、若し返さなければ(なべ)(かま)迄も持つて行つて了ふと云ふ様な男であります。又下女(げぢよ)などが、(わづ)か二銭か三銭の茶碗を割る、さうすると非常に(いか)つて罰金を出せ、四十五円の罰金を出せと、()う云ふ事を云ふ。何の為に四十五円出さなければならぬかと云ふと、是は私が四十五年(ばか)り前に買つたものであるから、其の利に利を盛つて勘定して行つたならば、四十五円になる。其の宝を割つたからには、()()けの金を出さなければ私の損害になる。斯う云ふ(やう)な男である。夫れで出す所のものは手を出すのも()や、貰ふものならば、牛の骨でも(かか)へ込むと云ふやうな男、其の鬼寅が段々(かね)が出来て立派な家に住む、さうして人に(うらや)まれて居ります。又一方(いつぱう)(ほとけ)善兵衛(ぜんべゑ)と言つて、仏様のやうな人があります。人の事を気の毒に思つて、人に逆らはぬやうにし、何でも()でも人の為めと思つて、慈悲(ばか)りを旨として居ります。併しさう云ふ人に限つて、明日(あした)(こめ)も無いと云ふやうな悲惨なる目に遭つて居ります。斯ふ云ふ有様では、此の世の中を()う考へて善いのか、悪人(さか)え善人(おとろ)へる。世の中には神も仏もないものか、天道(てんだう)()()か、斯う云ふ嘆声(たんせい)を漏らす者があります。此の問題に(つい)て、基督教の牧師に尋ねると此の世の中は(わづか)な仮の世の中ではないか、仮令(たとへ)長生きした所で、(たか)が五十年か百年(ぐらゐ)のものではないか、()んな短かい世の中に何があつた所が差支(さしつかへ)ないではないか、神様は慈悲深くて、数億万年不滅の霊魂を与へて下され、結構なる天国に、亡びず一々()()きに(むく)ゐはない。さうして善悪の別なく、(みな)天国に行けるのであると言つて、胡麻化(ごまくわ)して居ります。仏教の坊様(ばうさん)(これ)(ただ)すと、坊主(ばうず)言草(いひぐさ)に輪廻と云ふことを言つて居ります。此の鬼寅(おにとら)は前の世には非常に善い事をした、百の善い事をして来たので、其の(むく)ひが今(めぐ)つて来たのであります。であるから百の悪いことをしなければ神の懲罰は(きた)らぬのだ。それで現世では悪い事をしても栄えて居るのである。神様は公平であります。片一方の(ほとけ)の善兵衛は、此の世では善人であるけれ(ども)、非常に悪い事を前世に(おい)てした。(かつ)ては泥棒もし、人殺(ひとごろし)(など)もして、百の悪事を重ねて居るのであるから、現世では百の善い事をなさなければならぬ。それで現世に善い事をして居つても、其(つぐな)ひの付く迄は、善い(むくひ)が来ないのである。若しそれでも足らなければ、現代に於て罪の償却が出来なければ、来世に渡つてでも善行を積んで罪を償ふ。(つま)り二度(ぐらゐ)はしなければ、(つぐな)へないと云ふやうな事を謂つて逃げて了ふ。鬼寅は未だ善果が残つて居るかも知れないと言つて逃げて居ります。是は皆正鵠(せいかう)(しつ)して居る。神様は即賞(そくしやう)即罰(そくばつ)であります。今(ぜん)を思へば心持(こころもち)が直ぐ善くなり。善を為せば、()()()けの喜びが出て来ます。善の(たね)()けば、夫れ丈けのものが直ぐに現はれて来るのであります。(たと)へば草の種を蒔けば草が生える。(もみ)()けば(いね)が生えると同じやうに、直ぐ善悪の報ひは影の形に従ふ如く(たちま)ち顕はれて参ります。
 次に(とみ)と云ふことでありますが、是は衣食住を目標として居ります。(かね)が沢山出来ると、色々の贅沢な事をして居りますのを、世の人は富者(ふしや)(うらや)み、有力者と思つて居る。すべての人は斯う云ふ人を、非常な幸福者(かうふくしや)だと思つて居ります。さうして命を縮めても、人に悪魔と言はれても、何と言はれても、頓着なく蓄財ばかりに夢中になつて居ります。全く世の中の人は(しよく)(いろ)、是より(ほか)に何もない(やう)に思つてゐます。人間が()し食ふことと(いろ)ばかりであつたならば、実に無意味なるものであります。昨日死んだ三井(みつゐ)の主人よりも、今日生き(ながら)へて居る乞食さんの方が幸福ではありません()何程(なにほど)(たから)があつたとて死んで了つたならば、()んにもなりません。矢張(やはり)(いのち)あつての物種(ものだね)であります。若しも()りに大悪人が死罪を犯して、裁判所に引張(ひつぱ)られる、さうして、仮りにその財産が五百万円あるとしたならば、罰金として命よりも大事に貯めた所の(かね)を、四百九十九万九十円まで政府に提供したならば、汝の罪を赦して()ると宣告したとするならば、矢張り(かね)が欲しくても命の方が大事なのであるから、金を出すに(きま)つてゐる。又一百円だけ残して、四百九十九万九千九百円を出せと宣告されても、(また)全部出せと言はれても、彼は必ず出すに躊躇(ちうちよ)しないでありませう。いくら六十になつて、棺桶(くわんをけ)に片足を突込(つつこ)んで居つても、矢張り命が尊いのであります。(かく)の如く世の中の人は(めい)()をすてて、寿(じゆ)を捨てて、(ただ)無意義な(とみ)のみを()る事ばかりに狂奔(きやうほん)して居るのであります。(しか)して此の命よりも、今一つ尊いものは人格であります。命を捨てる場合は、所謂(いはゆる)意気地(いきぢ)が立たぬとか、(あるひ)家名(かめい)を損するとか、武士道が立たぬといふ場合であります。即ち位置と()を重んじて、命を棄てると云ふことであります。それで鬼寅は非常に富を得てをります。又仏の善兵衛は長寿(ながいき)をして、他人(ひと)から人格者として()められてをります。併し天の配剤は妙なもので、人間(ひと)を愛するといふ上に於ては、決して厚薄(かうはく)がないのであります。(ただ)甲を取つたか、乙を取つたかといふ(だけ)でありまして、決して仏の善兵衛でも、神から見れば完全なものではない。鬼寅も()た左様であります。何故かと云ひますれば、四魂(しこん)の働きが完全に出来てゐないからであります。
勇 智 (鬼寅)
愛 親 (仏の善兵衛)この二行は底本では四行だがテキストだけでは実現できないレイアウトなので二行に改めた。
 鬼寅には、忍耐即ち勇気と智慧がありますが、人を愛する(したし)むといふ事が欠乏してをります。仏の善兵衛には人を愛する、(した)しむ事は大慈大悲の神様の如きものがありますが、(ゆう)()が足らないのであります。要するに両方共不具(かたわ)であります。即ち(ゆう)()(あい)(しん)の全き働きを()なければならんのであります。()う云ふ事は(あきらか)なる道理である。又(めい)()寿(じゆ)()は自然に(そなは)つて居るのであります。(しか)るに基督教も仏教も、(ぜん)申しました(やう)(みな)遁辞(とんじ)を設けて逃げて居るのであります。
 皇道大本の(をしへ)は極めて(あきらか)なるものでありまして、少しも不可解な所はないのである。此の(ゆう)()(あい)(しん)を働かすと云ふのには、()うしても神様の御恵(おめぐみ)が加はらなければならぬのであります。それで此の鬼寅(おにとら)にも、何処(どこ)かに足らぬ所があり、又(ほとけ)の善兵衛にも、何処(どこ)かに(ともな)はぬ所があつて、共に神様から見離されて居るのであります。必ず天の(めぐみ)は平等なるものであります。決して人に依つて厚薄(かうはく)()せられぬのであります。故に人と云ふものは神を信仰して、大君(おほぎみ)の為に、国家の為に、世の為に(つく)さねばなりませぬが、()れを実行するに(つい)ては、()うしても(めい)()寿(じゆ)()と謂ふ四種の正欲(せいよく)が最も必要となるのであります。今迄の世の行者(ぎやうじや)とか、山伏(やまぶし)とか云ふものは、(めい)()寿(じゆ)()を棄てて了つて、山奥に隠遁(いんとん)し、白衣(びやくい)を着て、蕎麦粉(そばこ)を食べて、営養不良となるのも介意(かまは)ずに、世には之より(ほか)に尊いものがないと云うやうな(かんがへ)(おこ)して、()う云ふことを行ひつつあります。或は(やま)(めぐ)りをしたり、山奥の滝に打たれたりして、一生懸命にやつて居つて、何か神通力(じんつうりき)でも得らるるものの如く考へて居りますが、()んなことでは、(とて)も国の為に尽すことは出来ませぬ。仮令(たとへ)天眼通(てんがんつう)天耳通(てんじつう)を得られたとしましても、それは(みな)悪霊(あくれい)の作用であります。悪霊に()せられて居るのであります。(おそれ)(おほ)くも衣冠(いくわん)束帯(そくたい)装束(しやうぞく)()けて、御神殿に畏み畏み(まをし)上げる所の祝詞を、滝に打たれ乍ら(ふんどし)一つになつて、奏上(あげ)て居ると云ふことは(じつ)()しからぬ話であります。又裸体(はだか)詣り、跣足(はだし)詣り(など)を致して居る人などもありますが、実に是等(これら)は不敬の(はなは)だしいものであつて、真正の神に仕ふる大道(だいだう)(あやま)つて()ると()ふものであります。皇道大本の浅い信者の中には、往々にして()んな誤解をして居る方々(かたがた)が在るさうですから、是等(これら)陋習(ろうしふ)を一日も早く、速川(はやかは)()に流して頂きたいものであります。
 (たと)へば我々に致しましても、目上の人の所へ行くには相当の服装をして、威儀を正して行つてこそ、その人に対する礼儀であります。まして尊い神様に対して、裸体(はだか)跣足(はだし)で祝詞をあげる如きは、非常な間違(まちがひ)であります。又中には、()く山奥の神社などに行つて、滝に打たれて、祝詞を上げる人もあるさうであります。又その人に付いて、山(めぐ)りや滝巡りをして面白からぬ目に遭つた人もあります。(つま)是等(これら)は、(みな)昔の間違つた、所謂(いはゆる)旧来の陋習(ろうしふ)を踏襲して居るのであります。()の五ケ条の御誓文にも『旧来の陋習(ろうしふ)を破り、天地(てんち)公道(こうどう)(もとづ)くべし』とありまして、天地の公道底本では「公」だが「公道」の脱字であろう。といふものは、さういふ様な奇怪至極な、(かは)つたものではないのであります。すべて人間として、(あきら)かに分る所のもの、これが即ち天地の公道であります。さうして、神様の事は深遠霊妙にして、我々人智小智の(うかが)ひ知る事が出来がたいのであります。けれども人間は神様の分身、分霊でありまして、量に(おい)ては(すくな)いが、質に於ては同じ事であります。(ただ)働きが小さいのでありまして、洋々たる大海(たいかい)の水が神様のみたまならば、我々は此のコツプに盛つた海水の如きものでありまして、全く其の働きが違ふのであります。併し其の海水の透明なると、其の味の塩辛(しほから)いのとは同一であります。即ち質は同じでありますが、量に於て違ふ所があります。同質同味(どうみ)でも、海水は巨船を(うか)べる、コツプの中の海水は、小さい木の葉を浮べる(ちから)より無い。其の働きが全然違ふのであります。又人間の身体(からだ)には(つみ)(けがれ)があります。我々の身体(からだ)には異分子、異物が沢山這入(はい)つて居つて、非常に(けが)れて居ります。それでありますから、霊魂(みたま)も、身体(からだ)も清めなければなりませぬ。又我々には天から受けた(たましひ)がありますが、(その)霊魂(れいこん)にも(また)異分子が一杯(いつぱい)這入(はい)つて居りまして、(よこ)さまに(ゆが)んで居るのであります。之を大本の鎮魂(ちんこん)帰神(きしん)の神法に依つて真直(まつすぐ)にする、さう致しますと、始めて天帝に感応致します。宇宙の太霊(たいれい)に感応した時に、始めて神心(かみごころ)となるのであります。その時に背筋が真直(まつすぐ)になつて臍下(さいか)丹田(たんでん)に魂を収め、全く無我無心になります。さう致しますと、すぐさま影の形に従ふ如く、神様から霊を与へられます。それで頭がフラフラしたり、身体(からだ)(おさ)へつけられる(やう)になつたり、色々感ずるのであります。
 (たと)へば、兵士が背嚢(はいのう)を背負つて五六時間歩いて、或る地点(まで)行つて休んで、再び背嚢(はいのう)をかつぐと、(にはか)に重いやうに感じます。それと同じ()うに鎮魂を致しますと、(にはか)に神様から霊を(かへ)して頂きますから、頭がフラフラしたり、身体(からだ)が重くなつたやうに感ずるのであります。()くの如く神様は即賞(そくしやう)即罰(そくばつ)でありまして、影の形に従ふ如く即刻与へられるのであります。併し前生(ぜんしやう)がどうのとか、未来を如何様(どうの)とかと云ふことはない。けれ(ども)霊魂(みたま)因縁(いんねん)性来(せうらい)といふ事はあるのでありますが、(これ)()れとは意味が違ひます。即ち()れは()の枝の如きもので、(あるひ)は一の枝もあれば、二の枝もあります。()の幹と枝とは、(みな)各々(おのおの)()の働きが(ちが)ふのであります。お筆先に(もと)の神と、(えだ)の神といふ事がありますが、此の事であります。
(せう)精神(せいしん)動静(どうせい)(つね)なく、出没(きはま)りなし。その声音(せいおん)(あらは)れ、(その)皮膚に(あら)はる、聖賢(その)意を(かく)(あた)はず、小人(せうじん)(その)(さう)を隠す(あた)はず、(すなは)神憲(しんけん)()ふべからざるもの(けだ)()くの如し。
 人の心を霊学上から申しますと、小精神と云ふのであります。神様の御心(みこころ)を大精神と申します。大海(たいかい)の水とコツプの水との働きが違ふ如く、矢張り是も同様に違ふのであります。神様は(うつは)相応のものを与へて下さいます。それで大きなものを(もら)はふとするならば、()るべく大きな容器(いれもの)をもつて来ねばなりませぬ。それでありますから、この小精神を大きくせねばなりませぬ。(たと)へば一斗(いつと)のものならば一斗()けのもの、一石(いつこく)のものならば一石相応のものを与へて下さいます。人心(じんしん)と云ふものは動静(つね)なく安定して居らぬものであります。大海の水は中々(なみ)(おこ)りませんけれども、その水をコツプへ汲んで来て、チツト振ると水は飛上(とびあが)ります。之を海にしましたならば舟も転覆(ひつくりかへ)(ばか)りか、山も呑んで了ふ大海嘯(おほつなみ)になります。そのコツプの水のやうに、人間の心は()ぐにひつくり(かへ)るのであります。(たと)へば曇つた闇の()には、人心が陰鬱(いんうつ)になり、皎々(かうかう)たる月夜には、晴れやかになります。曇つた日には気が鬱陶(うつたう)しくなり、晴天にはのんびりとした心地になる。()くの如く動静(つね)(きはま)りないのが小精神であります。
 嬉しい時には、直ちに嬉しい心が、その声音に現はれ、又皮膚(ひふ)や顔に(あら)はれ、悲しい時には、悲しい声が出て悲しい顔をする。(おこ)つた時には声が(とが)り、()が釣り(あが)つて、面相が(かは)つて来る。之が人間の心であります。又本居(もとをり)宣長(のりなが)(おう)の歌に
動くこそ人のまごころ動かずと いうて誇らう人は岩木(いはき)
 即ち世間普通の偽善者、()聖人などは、()けん()を出して、何事が到来しても、吾人の心は動かぬというて誇つてゐるが、()んな人は血の通うた人間では無い、岩か木かと()つて、(あざ)けられた歌であります。
 ()千代(せんだい)(はぎ)の芝居を見ますと、男(まさ)りの政岡(まさをか)が、実の子供が目の前に(なぶ)り殺しにされて、苦しんで居るのを見せつけられて、それでも平気で見て居ります。(きみ)(ため)でありますけれ(ども)、心の奥には涙一滴出ぬ筈はない。(あるひ)顔色(がんしよく)(あらは)れて居つたに違ひないのであります。それでなければ人間ではないのであります。之が惟神でありまして、喜怒哀楽ある時には、其の声音に(あらは)れ、皮膚に現れて来るのであります。聖人賢人と(いへど)も、それを()す事は出来ない。嬉しい時に(いか)り、悲しい時に笑ふと云ふ事は、決してない。若し其の悲しき場合に笑つたならば、それは空笑(そらわら)ひ、(いつは)りであつて、佞人(ねいじん)であります。(いか)る時には怒り、笑ふ時には笑ふ、又泣く時には泣く、之が惟神の大道(だいだう)、天地自然の真理であります。『聖賢(せいけん)(その)()(かく)(あた)はず、小人(せうじん)(その)(おもひ)を隠す(あた)はず』聖賢(すで)(しか)り、小人尚更(なほさら)隠す事は出来ないのであります。『(すなは)神憲(しんけん)()ふべからざるもの、(けだ)()くの如し』とあつて、一点の掛値(かけね)のないのが、即ち之が神界の憲法であります。
 如何(どう)しても心の色を隠すことは出来ぬ。嬉しい時には嬉しい声が出て、嬉しい顔をする。()くの如く、人間の声音又は皮膚に現れて参ります。神様も其通りでありまして、即賞即罰であります。善い事をすれば、直ぐにお歓びになり、()御賞(おほ)めになり、悪い事をすれば、直ちにお(いかり)になり、お(なげ)きになるのでありまして、人間と全く同じ事であります。
 ()う致しますれば、人間は造次(ざうじ)にも顛沛(てんぱい)にも、些少(すこし)も悪を思ふことは出来ない。常に善い事を思ひ、善ひ事を行ひ、善い事を言はねばならんのであります。思ふ、言ふ、行ふ、之れが(みな)善でなければならんのであります。よく神人(しんじん)合一(がふいつ)とか、又は霊肉一致とかいふ事を言ひますが、此の神人合一、(もし)くは宇宙の太霊(たいれい)と感応するといふ事は、別に難しい事ではない。併し山の奥に行つて、神人合一の修養をしやうとか、又は巌窟に(こも)つて身体(からだ)(あか)()つて、それから神人合一しやうとかいふものがありますけれ(ども)(みな)間違ひであります。
 ()の神様の(をしへ)─日本の皇道─は清潔主義、即ち『払ひ給へ清め給へ』といふのである。今日の衛生掃除なども(その)一分(いちぶん)である。(また)楽天主義であります。()の天地の間に(せい)()けたといふことは、非常なる楽しい事である、天のお恵みを心から楽しむといふ楽天主義であります。それから進取主義、即ち『()や進みに進み、()や迫りに迫り、(やま)()(ごと)に追ひ伏せ、河の瀬(ごと)に追ひ払ひてまつろへ(やわ)し』又『五十壇(いかし)八桑枝(やくはえ)の如く、茂木(もく)(さか)えに(さか)えしめ給へ』なぞと云ふのでありまして、(さき)に進んでも(あと)には退(しりぞ)かんといふのであります。それから統一主義即ち家内(かない)を和合するのも、一国を和合するのも統一する事である。又自分の霊体(れいたい)を一致するのも統一さすことである。()べて()う云ふ統一主義であります。
 この清潔主義、楽天主義、進取(しんしゆ)主義、統一主義との四つが皇道の四大(しだい)主義であります。それで神人(しんじん)合一すると云ふ事も、余り難しいことではない。過去を思はず悔やまず、未来を案ぜず取り越し苦労をすることがない。明日(あす)の事は人間では解ることが出来ないのでありまして、今と云ふ瞬間、即ちこの刹那が大切であります。(つま)り刹那主義でありまして、この瞬間に神とも成れば、鬼ともなり、善ともなれば、悪ともなるのであります。所謂(いはゆる)善悪正邪の分水嶺なのであります。善い事をすれば、その瞬間から善い事があります。宇宙の神様が御喜びになるのでありまして、すぐその場に効果が現はれて来るのであります。実に今といふ刹那が大切であります。もう一秒時間前に過ぎ去つた事は、(あと)に戻らんのでありまして、昔(たひらの)清盛(きよもり)(あふぎ)日輪(にちりん)を招きもどしたと伝へられ、(あと)に熱病を(おこ)して死んだといふ事を、小説に言つて居りますが、なんぼ清盛が偉いと云うても光陰をかへす事は出来ないのであります。
 又(これ)から先の事を幾等(いくら)考へた所で、到底人力(じんりよく)如何(いかん)ともする事は出来ないのであります。(とき)時節(じせつ)と云ふものは、全く神様の自由であります。此の今と云ふ刹那が、即ち自分の最も(だい)なる働きをする。即ち自由自在に活動する時であります。此の瞬間を重ね重ねて、一時間となり、一日となり、一年となり、(あるひ)は百年、千年、万億兆年となるのであります。()う云ふ工合に、時はドンドン進んで行くのであります。(たと)へば是から東京に行かふと思ひますれば、京都から逢阪山(あふさかやま)江州(がうしう)や名古屋を越えて行かなければならぬが、途中に若しや病気でも起りはせぬかとなぞと、さう云ふ事は別に心配する必要はない、自分の足は一歩々々進んで行くのである。(ただ)大切なのは、左から右にかやす瞬間で、此の瞬間に無事息災(そくさい)に、真直(まつすぐ)なる道を歩いて行つたならば、遂には思ふた目的地に達する事が出来るのであります。それで人間は人間の天職を自覚して、其の天職に向つて、一つの針路を(さだ)めて進んで行つたならば─左から右にかやす刹那を守つて行つたならば、何時(いつ)も善であります。善悪正邪の分水嶺は、此の刹那に在るのであります。此の刹那を守つて善に進んで行き、天地を楽んで─楽天主義で、精神を統一して、過ぎ去つた事を思はず、悔まず、取越苦労をせずに、一路目的地に向ひましたならば、遂には目的の地に安着し、何事も成らずと云ふものはありませぬ。之が即ち皇道の本義であります。
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